「地方区の巨匠」佐伯一郎ラスト・ステージ

2021年3月6日更新


殻を打ち破れ229回

 『王将一代』と『王将残照』という歌を聞いている。正月の4日、コロナ禍の急激な拡大で、いつも自宅に人を集めた忘年会も新年会も今回はなし。つれあいは仕事で東京へ出ており、一人きり、猫二匹相手の自粛生活のひとときで、机の上のCDに手が伸びた。2003年10月22日発売とある。

 作詞は友人の峰﨑林二郎、作曲と歌は50年来のつき合いの佐伯一郎だ。2曲とも将棋の坂田三吉が主人公、

 ♪浪速根性どろんこ将棋 暴れ飛車だぞ勇み駒…

 ♪苦節春秋十と六 平で指します南禅寺…

 などと、勇ましいフレーズが並ぶ。それに哀愁ひと刷毛の曲をつけ、佐伯の歌は声を励まし節を動員して「ど」のつく演歌。めいっぱいに歌い切って“どや顔”まで見える。

 ≪彼の会もにぎやかだったな。昔なじみの顔が揃って、“地方区の巨匠”の面目躍如だった…≫

 暮れの12月23日、浜松で開かれた佐伯のイベントを思い返す。畠山みどり、川中美幸、北原ミレイをはじめ沢山の花が会場を取り巻く。ロビーには芸能生活65年分の記念の品がズラリ。

 「小西さんと一緒に出てるよ、ほら!」

 と、和枝夫人の明るい声に呼ばれると、大型テレビに彼が歌い、僕が能書きを言っている場面が映っている。あれはスポーツニッポン新聞社を卒業 NHKBS「歌謡最前線」の司会を任された番組の1シーンだから、2003年ごろのものか。開演前のひととき、会場には佐伯の歌声が流れている。得意とした岡晴夫のヒット曲や船村徹作品のあれこれも。

 そう言えば昔々「船村徹・佐伯一郎演歌ばかの出逢い」というアルバムのライナーノートを書いた。1960年代の中ごろ、飛ぶ鳥落とす勢いのヒットメーカー船村と無名の若手歌手佐伯が意気投合して、曲を書き歌い合った珍しいコラボ盤。それに書き物で加わった僕も、ご他聞にもれぬ“演歌ばか”で、取材部門に異動したばかり、28才の駆け出し記者だった。

 その前後から佐伯との親交が始まる。やがて彼は故郷の浜松に戻り、作曲家・歌手・プロデューサーとして地道な活動に入った。熟年の歌手志願をレッスンし、成果が上がれば芸名と作品を与え、レコード化もして地域のプロ歌手へ道をひらいた。人気が出れば仕事の場も紹介、そのうちに佐伯一門が東海地区で活躍するにぎわいを作る。地元で盛大なディナーショーをやり、勢いに任せて弟子たちを引き連れ、浅草公会堂でコンサートを開くのが恒例になった。トリで歌いまくるのはもちろん佐伯で、僕はいつのころからか彼を“地方区の巨匠”と呼ぶようになった。テレビで顔と名前を売る全国区の人々だけが歌手ではない。地方に根をおろし、ファンと膝づめで歌う歌手たちも、立派なプロだし地方区のスターなのだ。

 佐伯の娘に安奈ゆかりという女優が居る。彼女と僕は一昨年と昨年、川中美幸の明治座公演で一緒になった。その共演を一目見ようと、昨年春、佐伯は明治座に現れた。「無理をするな!」と止めたのだが、言い出したらきかぬ彼は車椅子で、それが彼と僕の最後の歓談になった。

 タネ明かしをしよう。昨年12月23日のイベントは、実は83才で逝った彼の葬儀だった。コロナ禍で家族葬ばかりのこの時期なのに、演歌一筋に生きた彼のために「ラスト・ステージ」を演出したのは和枝夫人や長男の幸介、安奈ら遺族の一途な思いで、会場はイズモホール浜松の貴賓館。乞われて祭壇の前に立った僕は

 「おい、ここはまるで浅草公会堂みたいだな」

 と、少ばかり思い出話をした。冒頭のCDは、その日会葬御礼として配られたものだった。