新歩道橋1099回

2021年3月20日更新



 「この際だから、演歌の王道を行きましょう」 と、川中美幸とそのスタッフは、肚を決めたらしい。昨年その路線の「海峡雪しぐれ」を出し、今年は「恋情歌」で、姿勢を踏襲している。作詞がたかたかしから麻こよみに代わったが、作曲弦哲也、編曲南郷達也は変わっていない。
 僕は去年の2月、明治座で「海峡雪しぐれ」をたっぷり聞いた。彼女はショーで毎回歌ったし、休憩時間にも繰り返し流されていた。共演者の僕は楽屋でそれを聞きながら、彼女らの言う「この際」の意味を考えていた。ここ数年、女性歌手たちの仕事はポップス系に傾倒している。アルバムやコンサートではカバー曲が目立つし、シングルもポップス系の味つけが増えている。
 川中はきっとそんな流れを見据えて「演歌の王道」を極め、守る思いを強めるのだろう。ベテランの域に入って、内心「せめて私ぐらいは…」の自負も抱えていようか。
 改めて2作品を聞き直す。前作「海峡…」は、
 〽いまひとたびの春よ、春…
 と、幸せを待つ女心が一途で優しいが、取り巻く気候はきびしい雪しぐれだ。それが今作「恋情歌」だと、
 〽たとえ地の果て、逃れても、あきらめ切れない恋ひとつ…
 と女心が激しくなり、情念がとても濃いめだ。弦が書いたメロディーも、前作はやや叙情的だったが、今作は冒頭からガツンと来て、起伏も幅が広く激しい。
 川中の歌唱は2曲とも前のめり気味。思いのたけ切々で、主人公の女性の胸中を深く歌い込もうとする。演歌本来の「哀訴型」で、これが彼女の「王道」や「本道」の中身だと察しがつく。その実彼女は「ふたり酒」や「二輪草」の、歌い込まないさりげなさや暖かさの包容力でヒットに恵まれた。それはそれで身の果報だろうが、本人はもともと、身をもむくらいに切々と、やっぱり歌を泣きたいのだと合点がいく。
 はやりものや文化は何事によらず、古い良いものの極みを求める努力と、古い殻を打ち破る新しいエネルギーが二本立てで、せめぎ合って前へ進むものだろう。そういう意味では、川中が「この際…」と思い込む世界は、古い側に属すことになる。しかし古い器に新しい酒…の例えもある。昔ながらの「哀訴型」に、今を生きる彼女の感性が投影され、極みを目指そうとするなら、それはそれで今日の産物になる。作家もスタッフも、呼吸しているのは現代だ。
 僕は新聞屋くずれ。長く媒体特性を軸に見なれない面白いもの、時流の先端になりそうなものに強く反応して来た。下世話な新しいもの好きである。そのせいか、女性歌手たちのポップス傾倒に好意的だが、しかし、それにも得手不得手、似合う似合わないはある。それなのに、一つが当たると一斉になだれを打つこの国の付和雷同ぶりが、歌謡界も例外ではないのはいかがなものか。対極にあるものをないがしろにしない踏み止まり方も応援したいものだ。
 話は変わるが、市川由紀乃の新曲「秘桜」を聞いて《ン?》と感じたことがある。彼女もまた「哀訴型」の歌手だが、その感情表現はやや醒め加減で、情緒的湿度はさほど高くない。そのほどの良さが〝今風〟なのだが、感じ入ったのは彼女の歌ではなく、作曲した幸耕平の筆致の変化だ。市川のヒットほかを書き続けて、
 「この辺で俺も一発!」
 とでも言いたげな「本格派」への試みが聞き取れる気がする。
 もともと打楽器に蘊蓄が深い経験のせいか、リズムに関心の強い人と聞いていた。作品そのものも軽快でリズム感の強いものが多い。演歌を書いても多くの歌手に、リズム感の肝要さを説くエピソードをいくつも聞いた。大月みやこでさえそう言われたと話したものだ。
 それが今作では、リズム感第一を棚にあげてメロディー本位、もう一つ先か上かの作品へ狙いがすけて見える。作品の色あいは演歌よりはむしろ歌謡曲だが、亡くなった三木たかしの世界を連想した。いずれにしろ演歌、歌謡曲を守ろうとする人や逆にそれを目指す人がともに頼もしい時期である。
 僕は役者としては川中一座の人間だが、長く彼女とは会えぬままになっている。時節柄芝居の話がなかなかで、お呼びがないせいだが、彼女の側近の岩佐進悟からは、
 「会えぬ日が続き寂しい限り。コロナが落ち着いたら是非とも一献」
 なんてFAXは来る。もちろん委細承知! である。