訃報
小西良太郎さん逝去
本誌連載コラム「小西良太郎のカラオケ談義~殻を打ち破れ!~」や日本アマチュア歌謡祭審査委員長でNAK会員にお馴染みの小西良太郎さんが、さる5月13日、膵癌でお亡くなりになりました。
小西さんは東京都生まれ、疎開先の茨城県水海道高校卒業後1958年にスポーツニッポン新聞社に“坊や”(見習い)として入社、その後音楽担当記者の第一人者として活躍し、文化部長、運動部長、編集局長、常務取締役を歴任後2000年に退社。その後は音楽評論家、音楽プロデューサー、晩年は若い頃の夢だった俳優として東宝現代劇75人の会に所属し活躍されました。
この間、音楽プロデューサーとして八代亜紀の『舟唄』、坂本冬美の『夜桜お七』、五木ひろしの『傘ん中』等数多くの歌手曲制作に携わり、1993年から7年間日本レコード大賞の審査委員長も務められました。また、美空ひばり、船村徹、星野哲郎、阿久悠を筆頭に多くの歌手や作詞作曲家と親交を深め、その幅広い人脈と人望により“演歌歌謡界のドン”、後輩の業界人からは“統領”と慕われる演歌歌謡界史上稀有な存在でした。主な著書に「美空ひばり-ヒューマンドキュメント」、「海鳴りの詩-星野哲郎歌書き一代」、「美空ひばり・涙の河を越えて」、「ロマンの鬼 船村徹」等があります。
NAKとは、1982年創立時の相談役、1983年第1回日本アマチュア歌謡祭の発起人、創立20周年記念曲『望郷新相馬/お父う』(花京院しのぶ)の音楽プロデューサー、本誌本年5月号で257回(21年5ヶ月)に亘った連載コラムの著者として、とりわけNAK事務局の精神的支柱として大恩のある方でした。編集部に寄せられた最後のお言葉は「雑文屋として生き、雑文屋として幕を閉じる」。
「おぅおぅ〇〇か!」という電話が今にも事務局にかかってくるようで、ご逝去が信じられません。享年87。長きに亘る大恩に感謝し、深甚なる哀悼の意を捧げ、ご冥福をお祈りいたします。
NAK(日本アマチュア歌謡連盟)本部事務局
殻を打ち破れ255回
坂本龍一が亡くなった。71歳とまだ早過ぎる年齢と闘病の厳しさが、訃報に接した人々の胸を詰まらせた。理知的で「教授」をニックネームとした彼の音楽的業績は、世界中のファンに愛され、尊敬された。YMOの成功、「ラストエンペラー」の米アカデミー賞作曲賞受賞、「戦場のメリークリスマス」の成功などは、誰でもすぐに思い出せる戦果だろう。
一方の闘病は2014年に中咽頭がんを発症、一度は寛解したもの、2020年直腸がんが両肺に移転、ステージ4を公表、その後転移先を追って、一年に六回もの手術に耐えている。
僕は坂本の死を伝えた4月3日付のスポーツニッポン新聞の一面を凝視した。メインの見出しは「坂本龍一さん死去」とストレートだが、それより目立つ大きさの2行が、中央部分に「つらい。逝かせてくれ」とある。本人がピアノに向かう後ろ姿が、全体にボケけた黒一面の中の2行が、かえって浮き上がって、僕の眼を射る。死の一、二日前の言葉と聞く。
≪あれほどの人物が、そこまでの苦痛に追い込まれていたのか!≫
一般論だが、心身の苦痛は、耐えたり秘めるほどその度合いを増す。坂本の場合は世界的なスターである。人前で泣き言などもらさぬプライドも自負もあったろう。「秘す」「耐える」を前提にした闘病九年である。それを続けても一向に“完パケ”にならぬまま、次から次…だった。昔、作詞家の阿久悠ががんに倒れた時、アポナシの僕がたまたま医師の説明に立ち会う事があった。手術は成功したが転移の有無は「これから徹底的に」との見解である。医師の退室後に阿久がボソッと言ったのが「なかなか完パケにならない」だった。克己心強固で有名な人でも、音楽用語でいらだちを吐き出すのか、不謹慎だが僕はその時はニヤリとしたものだ。
それやこれやを思い返している時、妙な息苦しさを覚えた。“加齢による”ただし書きがつくが、体のあちこちに不具合が出ている身である。パルスオキシメーターで計ったら「92」と出た。
≪いかんな、これは。確か95以下は危険ってことだった…≫
コロナ禍大騒ぎのころ聞きかじった豆知識である。高齢者で既往症持ちはなおヤバイ。家人に近隣の葉山ハートセンターに相談してもらったら「すぐ来い!」の返事。「リアクション過剰だな。ヒマなのかしらん?」
と、また不謹慎に笑って出かけたら、即入院の運びになってしまった。
点滴と投薬で、ひどい“むくみ”を除去することと、節々の痛みに対応する措置を受けながら、自宅と同じ葉山の海を眺める日々である。
入院した翌日、僕は担当の看護師さんの発言に飛び上がった。「このベッドには昔、有名な人が寝たのよ」「ふ~ん誰だろ?」「船村徹という人よ、知ってるかなぁ」春の陽だまりの中の問答とも思えぬ衝撃だった。七年前の平成五月に確かに彼は、この葉山ハートセンターで七時間にわたる心臓手術を受けて一命をとり止めた。駆けつけた僕は、あわや心不全の危機を脱した彼の一部始終を目撃している。病状の違いがあるとはいえ人生の師匠と僕が、かつぎ込まれた集中治療室の同じベッドに身を委ねるとは! そんな偶然があってもいいものか、許されることなのか?
そう言えば60年代のあのころ、坂本の映画二本を撮った大島渚監督は新宿ゴールデン街の電柱にもたれかかっており、唐十郎はドブ板にすわり込んでいた。作詞家吉岡治とねんごろになったのは、作曲家むつひろしとの親交が端緒か。「八月の濡れた砂」の同名の主題歌だったが、監督は藤田敏八で、やはり新宿でトグロを巻いていた。浅川マキが歌い始めたのも新宿。あのころの新宿は異端の若者たちの情熱が毎晩爆発し、僕らはそれにそそのかされていた。
大島渚の「愛のコリーダ」が写真集になり三一書房が摘発された時、僕も警視庁に呼ばれた。露骨さ同じ写真が映倫を通さないままスポニチに載っていた。入手経路を聞かれたが「取材努力」とだけ答えた。驚いたのは隣りの席で尋問を受けていた若い女性が「そのあと、金は取ったんだろ、金は、ン?」と年輩の刑事から怒鳴られた一幕だけだった。
視界の中にボンヤリと猫が居る。眼をこらすと、愛猫の風(ふう)である。こちらは抗がん剤の苦痛と戦っているというのに、相変わらずの惰眠かと、もう一度眼をこらすと、前足を十文字に組み合わせている。これがコイツの粋なポーズなのだ。
風の向こうに海が見える。相模湾である。その向こうに富士山―そんな光景を眺めながら、一体何本このコラムを書いたことだろう。1000本を越えた時は相当に驚いた。それを「通過点かな」とうそぶきながら今ではなんと1148回である。長い年月、お世話になったものだ。感謝にたえない。見当ちがいのWBCの感激を書いたこともある。杉良太郎のボランティア話でお茶をにごしたこともある。他誌には坂本龍一の死をとっかかりに大島渚や阿久悠、吉岡治、なかにし礼らとの交遊のきっかけにふれたこともある。いずれにしろ、古い話だが、ネタに窮してのことだ。ベッドからひとりで起きられない身としては、なんともお恥ずかしい話だ。雑文屋がネタに困るようでは商いとして成立する訳がない。
まことに身勝手な話で申し訳ないが、このコラムを今回で終了とさせていただきたい。長い間、ご愛読いただいた向きには、心からお詫び申し上げます。
殻を打ち破れ254回
あれは二月だったか? 網走まつりはむちゃくちゃ寒かったな…≫
初夏みたいなぽかぽか陽気の湘南・葉山で、14年前の冬を思い出した。走裕介の新曲『篝火のひと』を聞きながら。デビュー15周年記念シングルという惹句にも、そこそこの感慨を覚える。出身地網走の「網」をはずして「走」を芸名にした作曲家船村徹の内弟子の一人。故郷でデビュー発表会をやるというので、勇んで出かけた。僕は50年を越す船村の“歌わない”弟子だから、走は弟分にあたる。
新曲はバラード。松井五郎が詞を書き、船村の子息・蔦将包が作曲と編曲をした。
♪たどり着く先が どこかさえも訊かず 花のない道で 迷う空を見たろう…
と、別れたひとの尽くし方をしのびながら、主人公の男は、感謝の思いを胸中でゆらす。少し長めの歌詞3行分を語り、次の3行をサビにして思いをたかぶらせる構成は、詞、曲ともに判りやすく、聴く側の心に届く。デビュー以後しばしば、声に頼り誇示する青っぽさが抜けぬ歌い手だったが、歌唱にほどほどの抑制が利いているのは、心がけたのか、身につけたのか。いずれにしろ15周年の転機を考えたのは確かだろう。
≪しかし、網走の酒はきびしかった…≫
そんなことも思い返す。氷の路地に並んだ屋台に首を突っ込んだが、足踏みをしながらのコップ酒、飲んでも飲んでも酔えなかった。酔狂なことに僕は、マレーシアのコタキナバルで仲間と遊んで帰国、その足で網走に入った。南国のゴルフ三昧が連日30度、北国はマイナス15度で、45度の温度差である。走が歌ったステージも、座ってなどいられぬ客席も氷仕立て。こんな所で生まれ育った青年は、そりゃあがまん強くなるだろうと合点したものだ。
船村徹七回忌の今年、走が新境地を目指せば、もう一人の内弟子村木弾は師匠の“哀歌”の世界を引き継ぐ気配が濃い。こちらの新曲は『お前に逢いたい』で
♪たった一人の 女さえ 守れずその手 振り切った…
という男の詫び歌。作詞した原文彦は、三番の歌詞で、
♪背中(せな)で聴いてる 船村演歌 かくした涙に 春が逝く…
なんて、すっかり“その気”だ。
カップリングの『ほろろん演歌』を書いた菅麻貴子も『昭和のギター』『路地づたい』『遠い汽笛』など、あのころおなじみの単語をちりばめている。作曲は2曲とも才人徳久広司で、船村メロディーには近寄らぬ、ギター演歌に工夫を見せる。デビュー7年目の村木は委細かまわずスタスタと歌い進めるタイプだったが、『お前に逢いたい』を二度繰り返す歌い収めでは、哀感少々うねらせてそれなりの色を作った。
走と村木はコロムビア所属で、たまたま新曲の足並みが揃った。こうなれば二人の兄弟子の静太郎と天草二郎の新曲も期待したくなる。こちらはともにクラウンの所属だが、さて、新曲はいつごろ出す準備がすすんでいることやら。制作陣は顔見知りだがら「その辺、どうなのよ」と、お節介を焼きたくなるのは、こちらの二人も僕には弟分に当たるせいだ。
鳥羽一郎を長兄に、静太郎、天草二郎、走裕介、村木弾の5人が船村の“内弟子5人会”を名乗る。師匠の没後は「演歌巡礼」と師匠のイベント名を引き継いで、船村作品を歌い継いでいる。6月12日、船村の誕生日で、会場は栃木・日光の記念館に隣接するホールだが、このところコロナ禍で延期や見合わせの憂きめを見ていた。
「今年はやります。準備中です!」
の知らせが、同門会事務局から届いている。連中の顔を見に日光へ、僕も気合十分である。
ふっとなぜか、涙が出そうになる〝いい歌〟と出っくわすことがある。理由を考えてみる。①時代背景がはっきりしている②いつまで経っても忘れられない体験そのものが詩に生きる③その光景と向き合う主人公の視線が一途だ④歌表現も率直で、余分な感情移入がない⑤そういう歌唱を可能にする、すずやかな玉のような声の持ち主である―。
ざっと数え上げれば、このような特性を持つ主である。牛来美佳(ごらい・みか)というシンガーソングライターの歌で「いつかまた浪江の空を」という曲。僕が歌詞の一行目から、ウルッと来たのは、東日本大震災を舞台にすることを、あらかじめ知ってもいたからだろう。震災以前からこの人は福島県浪江で育ち、被災時は第一原発内で働いていた。当時5才の女児と母子家庭として避難した先は、群馬県太田市。そこを拠点に音楽活動を始める。東方神起、JUJU、西野カナらに作品を提供、ボランティア活動にも活発な山本加津彦との共作。影響は大きく広がり、ももいろクローバーZの佐々木彩夏がプロデュースする地元アイドルグループ「浪江女子発組合」が、この曲をメインにアルバムを作っているという。
〽遠く遠く 窓の外を眺めて、元の未来 探すけれど どこにあるの(中略)伝えたくて、諦めたくなくて、想い歌に叫ぶけれど どこに届くの(中略)いつかまた 浪江の空を またみんなで 眺めたいから 歩くよ どこまでも歩くよ 涙がいつか 笑顔に変わる日が来る(中略)浪江で会おう!
中略をはさみながら、歌詞全体の要旨をまとめるとこうなる。世界的な惨事のあれこれをあげつらうことなく、復活への渇望を一途に語り、訴え、祈りつづける。
「歌は伝えるためのものであり、一人ひとりの心に届ける歌手でありたい。それが私が歌うことの使命です」
牛来はそう決意して歌いはじめたという。
山本と組んだプロジェクトは、YouTubeから若者の支持を集め、牛来のチャリティコンサートは1000人規模に育ち、地方メディアが注目、それは中央メディアの目にも届いた。エフエム太郎(群馬・太田)エフエム桐生(群馬・桐生)などのラジオパーソナリティーの仕事もふえる。また、2022年10月、東京ドキュメンタリー映画祭で上映された「福島からのメッセージ」のエンディング・テーマになり、この映画はカザフスタン、キルギス、ウズベキスタンでも上映されるという。
実にきちんと計画された作業の戦果とも言えそうだが、東京に居て入手できる情報ではなかった。音を聞き、資料に目を通して、まさにあれよあれよである、外国にまで歩を伸ばすということは、歌詞と遜色のない、美しく親しみやすく、みんなが賛同しやすい、見事なメロディーがついているせいだろう…と、もはやベタ褒めになってしまう。冒頭に書いた〝いい歌〟の要件のうち①②③④⑤はヒット曲づくりの要諦のはずだ。あとは作品に似合う声そのものだろう。
横道にそれるが、ボランティア・キングとでも呼ぶべきは杉良太郎と考えている。当初「売名行為」とさんざんたたかれたが、今や「継続こそ生命」のおもむきまで呈している。昔、ホテルの玄関で見慣れぬ旗を立てた高級車から降りる彼と出会った。
「どこの国旗だい?」
「ベトナムだよ。いろいろ忙しい。それより同名のよしみだ。一緒に芝居やろうよ」
「ああ、そのうちな…」
そんな立ち話になったが、あれから彼はベトナムに、一体いくつの学校を作ったことだろう。
「いつかまた浪江の空を」に戻る。震災前の浪江の小学校の生徒数は浪江558、幾世橋122、請戸93、大堀157、苅野174、津島58だったが、その多くが命を失った。全部休校となり、60キロ離れた二本松市の仮校舎に統合されたが、21年3月に閉校、最後の卒業生は一人だけだった。CD最後の1フレーズ、
「浪江で会おう!」
を歌っているのは、2015年に仮校舎に通っていた21人の生徒である。これがまた最後の最後に、僕の涙腺をゆるめた。生徒たちの声がみんな元気で、陰りもなく「明日の希望」を歌うのだ。その無邪気さは
「また明日な!」
と茨城・筑波の原っぱで手を振った僕の幼児体験に重なった。惨事をモロに体験した彼らにも、それを情報としてしか知らぬ僕らの今日にも、きっと夕焼けの空はまっ赤だろう。祈りをあっけらかんとリフレインする彼らと、絶対に風化させてはならないと念じる僕が、一本の熱線でつながった心地がした。
試合前に選手たちを集めて語るメッセージを、近ごろでは「声出し」というらしいが、WBC決勝戦直前の大谷翔平投手の発言は、そんな生易しいものではなかった。
「憧れるのをやめましょう。トラウトが居て、ベッツが居て、誰もが聞いている選手が居るが、僕らはトップになるために来た。今日一日だけは彼らへの憧れを捨てて、勝つことだけを考えていきましょう」
僕ら世代はこれを「檄を飛ばす」と表現する。声高な激しさこそなかったが、ものの見事に的を得て、選手たちの胸を打ったろう。米大リーグで活躍した先輩たちや、今、ここに居る大リーガーたちは、アメリカに憧れて彼の地へ入った。まだ国外へ出たことのない選手たち、ことに若い投手たちも同じ憧れを持っていたはずだ。
ごく率直に、大谷は胸の裡を語っていた。
「今日一日だけ、大リーグへのリスペクトを捨てよう」「リスペクトしているうちはとうてい勝てない!」
僕はテレビで〝大谷檄〟を全文聞き、テロップでも読んだ。淀みない口調と、それ自体が立派な文章になってる見事さに驚いた。
《もしかすると、スピーチ・ライターが居るのか?》
と疑ったが、苦笑してすぐそれを打ち消した。大谷自身のこれまでの発言が、程の良い本音と滑らかな口調で貫かれていることに気づいていたせいだ。その場を思いつきのフレーズでしのいでいく気配がまるでない。僕はその陰に、筋肉や技を鍛えるだけに止まらず、彼が生き方考え方まで鍛錬して来た日々を感じる。ここまでしっかりと自分を語れるスターを見たのは初めてだ。
まるで劇画みたいな、あるいは大方の想像を超越する場面を連続させたのが、今回のWBCの侍ジャパンだった。その名場面は後日何度繰り返して見ても、心躍る楽しさがあった。そして、それを語る栗山監督の発言もまた、実に見事だった。ことに日本プレスクラブで語った2時間近くを、僕はあきれ返る心地で見守った。
「全ての選手がみんな、本当に力があり、凄いメンバーが、頼むぞ、信じているぞと、力を合わせてくれた感じです」
「みんなが自分の役割をしっかり果たしてくれた素晴らしいチームだった。野球ファン全員の思いを込めて〝ありがとう〟を言いたい」
「野球の面白さ、凄さ、怖さを選手たちが見せてくれた。この選手たちのお陰で、多くの子供たちが野球をやってくれるようになると思う」
「これからも是非、野球のことをよろしくお願いします」
チーム作りから全試合の陰には、彼ならではの深謀遠慮があったはずだが、それについては多くを語らない。むしろ言葉を継いだのは、選手たちを信じる力、それを各人に十分に伝える力、そのために細心の準備をし、必ず正面を向き合って話した…ことなど。もしかすると栗山監督の勝利は、野球少年時代からの夢、それを今日の采配に生かせた研鑽、それを伝えた選手たちへの信頼だったのかも知れない。
僕は作家の井上ひさしが遺した言葉を思い出す。
「難しいことをやさしく、やさしいことを深く、深いことを愉快に、愉快なことを真面目に」
これは文章で伝えることの要諦として、僕がしばしば思い返している言葉だが、栗山監督、大谷翔平の二人の言動に共通していたように思えた。ことに強く感じたのは、伝えたい相手との目線の合わせ方で、二人にはポーズなどでは決してない、真摯さでそれを感じた。
これまで、各ジャンルの指導者に目立ったのは「上から目線」と、自分流の哲学!? の「押しつけ」だった。学ぶ側はそれを当然みたいに受け止め、相手の真意を汲み取ろうとし、かなり厳しい時間を過ごす。判ればいいが、判りそこなったらそれまでよ…の〝自己責任〟か。またスター級の人々には、とかく多くを語らないことを美徳と心得る向きが多い。質問にきちんと答えず、言葉少なに切り上げることを潔しとする姿勢はいかがなものか。
そういう意味では栗山監督と大谷翔平の〝謙虚な能弁〟は、得難いものである。ことに大谷はプレーの厳しさと実績がこれに加わっており、彼の二刀流を完成に近づけたのが栗山監督なのだからなおさらだ。
この二人の脚光の浴び方と、それに対応する(あるいは対応出来る!)姿勢に僕は、野球だけではない、〝新しい時代〟の到来を感じた。この欄には初めて珍しいネタを書いた。加齢により、体にあちこちに不具合いを生じた結果、WBC侍ジャパンの全試合をテレビ観戦、興奮したあまりのことである。
殻を打ち破れ253回
大通りから階段を降りた地下1階、右手にあった引き戸を開けた。居酒屋の賑いそこそこの雰囲気はいい。しかし、L字のカウンター席の内側で、包丁を使っていた親父が、こちらへちらっとあげた視線をそのまま、料理に戻した。無愛想な“大将”の反応に
≪いかんな、これは俺好みの店じゃない…≫
と帰りかけたら、
「いらっしゃい、どうぞ」
女将らしい老女の、暖かめの太い声がかかった。ふっくらと下ぶくれの顔が、仏さんみたいに柔和な笑みを浮かべている。ふっとそれに誘われてのれんをくぐる。大阪・新歌舞伎座近くの「久六」という店だが、そんな一見の客の僕は、その月のうちに常連の一人になった。
僕はよく一人で店探しをするが、この夜も予感は的中した。愛想のない大将も腕は確かで料理は美味。おっとりふんわりの女将の対応は春風駘蕩の趣き、客は地元の人ばかりで、それも好都合だった。レギュラーで出ている川中美幸一座の大阪公演は、せりふがいつも関西弁で、慣れない僕は公演の一ヵ月、店中の土地訛りに囲まれ、独特のイントネーションを肌で覚えようとしたのだ。
その「久六」が昨年暮れに閉店、今年2月中にやはり新歌舞伎座そばにまた店を開くという。10年以上通いつめた店だから、連絡は密である。川中公演の予定はまだないが、開店祝いには出かけたいものだと思う。それにしてもここ数年、あちこちで展開された「再開発、立ち退き」という奴は、なんとも癪にさわる。店をやめさせ、更地にしておきながらそのまま。コロナ禍に物価高騰のせいもあろうが、店は存亡の危機に直面するし、常連の僕らは路頭に迷うのだ。
行きつけの月島のもんじゃや「むかい」も今年1月いっぱいで店を閉めた。もともと銀座5丁目にあった小料理屋「いしかわ五右衛門」が、移転して商売替えをしたところ。前回も今回も理由は同じ「再開発」である。大将が体調を崩していて女将も年だから、3軒めはナシで廃業するという。銀座店から月島店にかけて40年余のつき合いだから、小西会の面々と店じまいパーティーを開いた。銀座の時もやったから、物好きな話だが、2度続けた納め会である。
僕の店選びのポイントは①大将の腕がいいこと②気のいい女将の応待がいいこと③カラオケその他音楽がないこと。取材や打合わせのあれこれ、親交の相手などと、おいしいものを少々食べ、じっくり話が出来る必要がある。その条件が揃うと僕は徹底的に通いつめる。
銀座の店には作詞家吉岡治夫妻がよく来た。月島には作曲家の弦哲也、四方章人、編曲の南郷達也らと組む仲町会の面々と宴会をやった。小西会には亡くなった作詞家の喜多條忠や、美空ひばりの息子加藤和也と有香夫人なども加わっている。
≪そう言えば…≫
で思い出すのだが「いしかわ五右衛門」以前は赤坂の「英家(はなや)」や「あずさ」を根域にした。英家には作詞家阿久悠や作曲家三木たかしらを伴い、あずさではロックの内田裕也、作詞家のちあき哲也らと飲み、歌人の林あまりと『夜桜お七』の下ごしらえをした。
居酒屋には恩があるのだ。その時期ごとに、有力な知人や親密な友人たちと、僕はそこで多くの仕事をした。僕の居酒屋遍歴はそのまま貴重な才能の持ち主たちとの縁を示している。条件が条件だから、みな少々値が張る店だったが、昨今、そんな好条件の店が少なくなっているのも、もうひとつの癪のタネである。
過日、秋元順子が東京・丸の内のコットンクラブで歌った。ジャズを中心にした曲ぞろえがお手のもの、長いキャリアで身につけた〝ゆとり〟が窺えるステージになる。トークの多くに付くのは駄ジャレのオチで、ベテランの風格と下町おばさんの庶民性が交錯する。ファンにとってはその落差が楽しいらしく、「さあ、笑うぞ!」とばかり、駄ジャレ連発を待ちかまえる気配…。
終盤にオリジナルを歌った。「愛のままで」「なぎさ橋から」「一杯のジュテーム」。彼女の出世曲の「愛のままで」は花岡優平の曲が、なんともなんとも…の魅力で「これはヒットするはずだわ」と合点がいく。「一杯のジュテーム」は、NHKの「ラジオ深夜便」がらみで、おかゆの作詞、作曲。秋元をしっかり勉強したらしく、今ふうのさらっとした作品で、あえて秋元に〝歌わせない〟狙いか、彼女が声を張る部分がほとんどない。近ごろのポップスの流れに浮かべた趣向なのだろう。
《さて、反響はどうかな?》
と、僕が身構えたのは「なぎさ橋から」だった。
喜多條忠の詞、杉本眞人の曲で、亡くなった喜多條の最後の作品。制作にかかわった僕は、このコンビでシングル「たそがれ坂の二日月」「帰れない夜のバラード」「いちばん素敵な港町」を作っている。「なぎさ橋から」は三枚めのカップリング曲で、
「3年やって、きっちり芯を食ったな…」
と、作家二人と笑い合った出来。それなのにあえて「いちばん素敵な港町」をメインにしたのは、この作品がアフター・コロナ、ウイズ・コロナの穏やかな日常を提示したせい。やはり新聞屋くずれの僕らしさが抜け切れていない。芯をくった「なぎさ橋から」は、後でメイン曲に仕立て直して世に出したが、これは当初からの作戦だった。
手前ミソと笑われるのも承知で書くが、コットンクラブでの客の反応は、なかなかに熱かった。ことに女主人公がバスで去る彼に手をふる最後が、ドラマチックに生きた。
〽何度も何度も手を振る…
というフレーズが、それこそ何度も繰り返したあげくに、
〽あなたに、手を振る…
が、悲痛なくらいにたかぶって、歌が終わる。秋元のレパートリーとしては、珍しい生々しさが、客の胸に届いたろうか?
せっかくの作品だったが、「ラジオ深夜便」での多めの露出もあって、メーカーはおかゆ作品に切り替えている。それはそれで今日びの商売だろうが「なぎさ橋から」は、秋元が歌い続けてさえいれば、すぐに陽の目を見直すだろう。
《しかし、歌手にとっていちばん大事なのはやっぱり声だな》
と、ごく当たり前のことを再確認する。秋元が60才を過ぎてからでもブレークしたのは、あの声の持ち主だったせい。そういう意味では彼女は、歌の神サマに選ばれた一人だろう。もともとプロの歌手は、そんな独特の声の持ち主に限られる職業。しかし、神サマに選ばれる稀有の才能はごく少ししか居ないから、はやり歌商売はカタログ揃えのために似て非なる歌手を量産する。本人の悲願を果たしてやろうとか、アイドルになれそうなキャラがいいとか、節回し歌唱力はこれでなかなか…とか理由はさまざまだろうが、不足分は作品の良し悪しで補う。
秋元が手中に収めたもう一つのよさは、客質に見える。男女ほぼ同数の熟年層。それが〝昔からのつき合い〟みたいな親密さで集まってくる。思慮分別のある年齢層だから、熱狂的にはならないが、コンサート会場にはいつも、彼女の世界を〝共有〟する気配が濃い。平たく言えば〝仲間内〟なのだ。この世代はCDを買わない…という共通認識が、メーカー内にあるが、それはJポップなど若者ものに比べてのこと。神サマに認められた声の持ち主に、応分の作品を揃えれば、歌をどんな容れ物に託しても、売り上げはそれなりに堅調を示すはずだ。
そんな考え方で、これまでも秋元作品を用意して来た。奇をてらった目立ち方よりも、彼女なりの本格派ぶりを手さぐりする。喜多條・杉本コンビは、十分に期待に応えてくれた。
《さて、この辺で少し手をかえようか…》
僕は次作の候補に作詞の田久保真見、作曲の田尾将実を考える。二人とも頼り甲斐のある才能の持ち主だし、僕とは長くごく親密なつき合いが続く。その手前、半端な詞、曲を届けて来る気づかいは全くないだろうと思っている。
「花魁」と書けるかな? と思い、やっぱり不安になって辞書をひいた。「おいらん」の表示だが、その思い切り派手な衣装を着た丘みどりが、視線をじっとこちらに投げている。「椿姫咲いた」のジャケット、タイトルもインパクトが強い。
《ふむ、勢いに乗っての異色作か…》
と合点しながら、歌詞カードを見て驚いた。作詞林あまり、長く親しいつきあいで、昨年も僕んちへ遊びに来たが、また歌を書いたなんて話は、おくびにも出さなかった。30年ぶりに見るこの人の歌詞。坂本冬美の「夜桜お七」は1994年の発売だから、彼女とプロデューサーの僕が、ばたばた試行錯誤していた日々から、そんな年月が間にはさまっている。
大がかりな作品である。オペラの「椿姫」を下地にしたせいか、杉山ユカリのアレンジも前奏からいかにもいかにもだ。そこへいきなり、
〽死にたいなんて思ってた、あの頃がいま、懐かしい…
と、歌詞が「死」から始まる。愛する男から、ホタルみたいに消えようとする女心が激しい。はやり歌っぽくない金子隆博の曲とともにひとくさりあって、
〽真っ赤な椿ぽろりん、ぽろりん、うまいさよならなんて、できるかしら…
のサビから聞き手を乗せて、歌いおさめは案の定、
〽椿姫、咲いた!
と、丘の歌が昂って余韻を残す。
《あまりらしい発想と表現で、やれやれだよ…》
そう言えば「夜桜お七」を作曲した三木たかしがあの歌の、
〽いつまで待っても来ぬ人と、死んだ人とは同じこと…
というフレーズを大いに珍重したものだ。
留守電に「折り返して!」と吹き込んでおいたら、あまりの返電は最初から笑い声だった。キングのディレクターから依頼があって、7編ほど届けたらしばらくはナシのツブテ。いつ僕に報告したもんか、もしかすると全部没かも…とモヤモヤしているうちに言いそびれ、ある日突然「やるよ」の連絡があって吹き込みになった…というのが経緯らしい。
「そうですか、聞いて貰えましたか…ふふふ…」
と、彼女はまだ笑っている。
「夜桜お七」は、冬美の師匠の猪俣公章が亡くなって、その後の旗ふりも含めた頼まれ仕事だった。まだスポーツニッポン新聞社に在籍中の〝ブンヤ気質〟も手伝って、ああいう企画になった。林あまりはもともと畑ちがいの歌人。それを赤坂の小料理屋「あずさ」あたりに呼び出して、作詞家デビューをそそのかした。企画にそぐわないか? と星野哲郎、阿久悠、なかにし礼、吉岡治ら親交のある作詞家を、消去法で消して、あまりを口説く。異色作には異色の人材が必要…の思い込みで、作曲ははじめから三木、アレンジは若草恵とこれは決め打ち。ところが仕上がりがあんなふうだから「冬美を潰す気か!」と関係筋総スカンの難産になった。
冬美の新境地に自信を持っていたのは「私、この曲好きよ」とぶれなかった冬美本人と僕ら制作陣。三木など「ヒットしなかったら坊主頭になる」と、記者陣相手に息まいたものだ。それやこれやの大騒ぎの中で僕はあまりに「これが当たれば、作詞依頼がドカドカ来るぞ、その覚悟をしておけよ」と助言した。ところがあの時期のあの作風は、メーカー各社の腕利きたちにも敬遠されてか、その後パッタリで、30年が過ぎてしまったことになる。
丘みどりは旬の歌手である。歌唱力も十分で歌手になる前の経験もいろいろみんな生きている。バラエティ番組に出ても、妙にやかましい芸人たち相手に五分で応対して、なお彼女らしさを崩さないあたり「利発な美女」の印象が強い。波に乗る勢いというのは凄いもので、それが「椿姫咲いた」の野心作につながったのだろう。
「歌い手がいいよ。いい時期の丘でよかった。あのころは冬美も旬だったけど、周囲の頭がまだ固過ぎたんだな」
と、あまり起用の嬉しさの念押しをしたが、それにしても時代は変わるものだとも思う。林あまりは実は歌人以外にも成蹊や武蔵野、多摩美の各大学で講座を持つ教授で、紀伊國屋演劇賞の審査を務める評論家。敬虔なクリスチャンで、教会の日曜教室も絶えず手伝ってかなり忙しい。
《夜桜お七から椿姫なあ。このドラマチックな展開が今回は引く手あまたにつながるかどうか…》
僕は〝あまり30年めの冒険〟の行く方をそう注視する。作曲の金子は元米米CLUBの人と聞いて思い出した。「お七」の編曲者若草恵に出した注文は「能を米米でやるイメージで」だった。
殻を打ち破れ252回
≪そうか、年齢が年齢だものな。長いこと得意にして来た“張り歌”から穏やかめの“語り歌”に移行する気配がある…≫
友人の新田晃也から届いた新曲を聴いてニヤニヤする。『旅の灯り』と『さすらい雲』の2曲。ここ何曲か作詞家石原信一のものが続いていたが、今作は本人の作詞、作曲。もともと演歌のシンガー・ソングライターだった往時へ戻っての、ひと勝負ということか。
昔々、春日八郎の楽屋で会った。バーブ佐竹のそばに居たこともある。紹介される都度「おう」とか「よろしくな」とか言って、だんだん親しくなった。阿久悠が作詞をはじめた初期、全国の港町を回って歌を作り、本人のナレーションでつないだアルバム『わが心の港町』を出したが、その全曲を歌ったのもこの男。演出家の久世光彦らが気に入って、本格的な歌手活動をすすめたが
「いまさら、一から苦労する気なんかありませんよ」
と、にべもなかった。そのころ彼は銀座で名うての弾き語りになっていて、大層なギャラを手にしていたようだ。
福島・伊達の出身。芸名と同じ地名が近所にあって“晃也”は“荒野”だったか? 集団就職列車で東京に出て、しばらくは真面目に働いたが、夢を捨て切れずにこの道に入った。
「ま、口べらしですよ。あのころはよくあった話で…」
上京の理由をボソッと言ったことがあるが、自作自演の作品には望郷ソングと母をしのぶ歌が目立つ。プロになることを嫌った男が、プロになれたのは時代の変化、フォーク勢と似た発想の演歌系で、誰の世話にもならず、気ままにマイ・ペースが保てる。そんな身分を選んだのはきっと、歌謡界の入り口で嫌な体験をしたせいだろう。昔々、この世界の底辺にはやくざも詐欺師もそれまがいも、大勢居たものだ。
ところで新田の新曲だが『旅の灯り』は失意の女性が主人公に聞える。それとははっきり歌っていないが、「添えぬ運命」だの宿の湯にうつる「涙の素顔」だのがそれらしい。声をおさえめに語る風情だが、よく響く声にふとフランク永井を連想する。『さすらい雲』は馬鹿を承知で裏町暮らしの男が主人公。彼や僕らの年代は哀愁ものの泣き歌が基本だ。昭和に入って間もなくから日本は戦争つづきで、庶民は苦しい生活を強いられた。そんな嘆きが流行歌に託されて来たせいか。
そういう意味ではレコード大賞も紅白歌合戦も脱演歌、年寄りにはなじみの薄い曲が並んだ。それが今日このごろの流行の波頭ならそれを中心にするのはもっともな話。しかし流行歌は年代別に分断し、若い層の支持は細分化して久しい。世代を縦断する大ヒットが生まれない時代、それはそれで戦後このかた世の中平和に過ごせた証だろう。
しかし、分断化、細分化が進んだ現状を反映するだけでは、大型番組の視聴率は稼げない。レコ大が過去の受賞者シーンを多用するのはそのせいだろうし、紅白にいたってはポップス系ナツメロの特集が目立った。「特別企画」としてはさみ込んだ加山雄三、松任谷由実、安全地帯、時代遅れのRock'n'Roll Bandの桑田佳祐、佐野元春、世良公則、Char、野口五郎などがそれで、視聴率が尻上がりになっている。
演歌系ナツメロは、彼らよりまたずっとさかのぼる年長組で、BSテレ東が歌手協会イベントを12時間ぶっ続けで放送した怪挙!? で明白になった。何十年ぶりかで白根一男を見たが、昭和40年代のはじめごろ、銀座で飲んでいて不埒な連中に「何か歌え」とからまれ、僕が代わりに『次男坊鴉』を歌って難を逃れた事を思い出した。僕ら二人は同い年だった。
作詞家もず唱平は沖縄に居る。当初は大阪が寒いうちだけと言っていたが、昨今はどっぷりあちらで、活動の拠点とした気配だ。昨年の秋「沖縄発ニューレーベル」を標榜する会社UTADAMAMUSICが生まれた。第一作がもずが作詞した「さっちゃんの聴診器」で、弟子の高橋樺子が歌って今年1月の発売。沖縄インディーズだが、徳間ジャパンと提携、全国で販売されている。
「さっちゃんの聴診器」は不思議な訴求力を持つ歌である。冒頭から何度も繰り返すフレーズが、
〽もっと生きたかった、この町に、もっと生きたかった、誰かの為に…。
の2行で、その間にいかにももずらしいオハナシの4行がはさまる。いずれもさっちゃんの聴診器が聞き取った形だが、例えば鳶職の権爺からは故郷の祭囃子、19才のフーテンの背中では、風邪をひいた入れ墨がべそをかく。昔、有名だった踊り子の乳房からは、かつての喝采とタップダンスの音が聞こえる…といった具合いだ。
もずがこの詞を書くきっかけになったのは、NHKテレビのドキュメント番組だった。驚いたことに彼のデビュー作「釜ヶ崎人情」がモチーフで、主人公は当地で献身的な医療に従事した女医矢島祥子さん。〝西成のマザー・テレサ〟と呼ばれ愛された人だが、30代で不審死をとげている。自殺他殺と双方の見方が今も残るが、もずはその若い死の無念を、繰り返しのフレーズにこめた。思いの強さは歌の終盤にあきらかで、高樺の歌声のその部分に男声コーラスが寄り添い、最後の「誰かの為に」は絶叫みたいなたかまり方を示す。気づいて欲しいのは社会貢献の貴さだろう。
沖縄に生まれた「株式会社UTADAMAMUSIC」の社長はもずの秘書の保田ゆうこ。ビクターを振り出しにメーカーを転々とした藤田武浩が役員で加わり、もずは「顧問」だが、彼の今後の活動の拠点になろうことは明白だ。もともと沖縄の文化や音楽に関心を持っていた彼は「大衆音楽の成功はハイブリッド」と思い定めており、沖縄と日本の音楽の融合の手伝いを始めた。本人に言わせれば、
「80代に入って、人生卒業のシーズンを迎えた。この際新しいハイブリッドの具体化を考え、およばずながら、若い世代のためのタネまきもしたいと思っている」
ということになる。
唯一の弟子高橋樺子のためのシングル・リリース計画というのがあって、矢島敏が作曲した「さっちゃん…」を皮切りに、4月に「ウートートー」(仲宗根健作詞、矢島作曲)7月に「うりずんの二人」(高林こうこ作詞、田中裕子作曲)10月に「人生は歌」(もず作詞、矢島作曲)と矢つぎ早やだ。矢島敏は矢島祥子さんの実兄でミュージシャン、仲宗根は沖縄のカラオケの先生、高林は大阪在住で、もずの長年の友人と人脈もハイブリッドふう。この4作品で、インディーズ活動を一気に全国区に育てる目論みと見てとれる。
歌手高橋樺子は明るく率直な歌唱が魅力の〝歌うお姉さん〟タイプ。東北大震災では仮設住宅に泊まり込みの支援活動を続け、地元の人々が無名の彼女を「仮設の星」「私たちが育てたハナちゃん」と応援するほどの親交を深めた。音楽健康指導師の活動も兼ね、今は「さっちゃん…」のプロモーションで全国を走っているが、東北支援も欠かすことがない。この歌の穏やかな訴え方は、聴診器を聞く人々に、
〽渡して聴かせる我が胸の、呼気は今宵も生き生きと…
と、もず本人の心境まで吐露して聴こえる。80代も中盤、お互いに加齢による体の不具合いも抱える仲だが、俄然〝その気〟のもず唱平が少々まぶしいくらいだ。
それにしても…と思い出すのは、彼の出世作「花街の母」の難産。民謡出身の金田たつえが歌謡曲に転じることに反対したメーカーや関係者が、レコード販売地域を関西に限る〝おしおき〟をした。以後金田は3年におよぶ行商・宣伝活動で、この歌をヒット曲に育てた経緯がある。あれは近ごろ歌手たちが展開する手売り・プロモーションのはしりかも知れないが、もずはその実態を身近に体験している。そういう意味では、最初からインディーズ活動で頭角を現わしたような作家で、それが高橋のための強気4連発に現れてもいようか?
《それにしても、ずいぶんせっかちになったもんだ…》
僕は近ごろ、もず唱平の長電話や、きかん気の顔つきを思い浮かべながら、那覇地方の天気予報をテレビで、まじまじと見据えたりしている。
《結局、俺は「酒」が好きだった訳じゃないんだ》
と、今さらながら気がついた。スポーツニッポン新聞社勤めからその後の雑文屋ぐらしは、月曜から金曜まで、仕事先の方々や仲間内と、毎晩酒を飲んでいた。それがここ3年ほどのコロナ自粛である。加齢による不具合があちこちに出て来て、外出、外食も控えたから、アルコール類とは縁遠くなっていた。それでは〝呑ん兵衛〟を自他ともに許していたあのころの暮らしは、一体何だったのか?
《つまり、俺が大好きなのは「酒」そのものではなくて「酒盛り」だったんだな…》
今ごろ何を言ってんのよ! と、顰蹙を買いそうだが、これが結論である。要するにグビリグビリと晩酌をやるタイプではない。仲間うちでよく言えば談論風発、ありていに言えば、ラチもないおしゃべりに興じる会合が大好き。つまり長年そんなふうに人の縁を泳ぎ回って、すっかり持病にした成人病が「人間中毒」「ネオン中毒」なのだと自分の正体がはっきりした。
きっかけになったのは1月30日に月島で開いた〝小西会〟の総会!? である。ここ3年、誰とも会っていない。去年の夏にはコロナ陽性の入院騒ぎ(無症状)をやり、その後人前に出ていないから、メンバー諸氏が心配してくれていた。音楽業界の面々に元スポニチの仲間だが、かかって来る電話は「安否確認」である。古いメンバーが亡くなった例もあるし、みんな年寄りだから、あちこち傷んでもいる。あんたは実のところどうなの? の問いに、一ぺんに答えようと全員集合! の声をかけた。案の定体調不良組もおり、集まったのは22人で、開宴は午後4時。
幹事長の徳永廣志ははたち過ぎから僕んちに出入りしていた。作詩家協会石原信一会長は、大学を卒業した時分からのつき合いだから、お互いにやたら若かった。美空ひばりの息子・加藤和也が「うるせえな、もう寝ろよ」と、深夜、ひばりさんと盛り上がっていた酒宴に文句をつけたのはまだ小学校低学年のころか。彼ももう50代なら、その隣りで一座を見回し、大いに面白がっている有香夫人と会ったのは、いつごろだろう? つかつかと僕の面前に現れて、
「高知から今、つきました!」
と口上に及んだのは、歌手の仲町浩二で、スポニチの後輩。歌手になりたい一心で僕に密着していたのが定年を迎えたので、一度くらい〝いい思い〟をさせようと、CDを一枚出した。本人はすっかり〝その気〟で、故郷の高知を拠点にがんばってもう10年余になる。
《3枚めのシングルは、これっきゃないな!》
と、「高知いの町仁淀川」とごくピンポイント狙いのご当地ソングを作ったら、地元が大騒ぎになった。作詞がご当地出身で、星野哲郎の弟子紺野あずさ、作曲が仲町を弟子みたいにかわいがってくれている岡千秋。プロデューサーの僕が手ばなしになるくらい、いい作品に仕上がって、本人は意気軒昂なのだ。
この日の会場は、月島のもんじゃ屋〝むかい〟で、実はこの店1月末日で閉店が決まっていた。
《それならこの際、さよならパーティーも一緒にやろうか!》
という趣向になった。もともと銀座5丁目で「いしかわ五右衛門」という小料理屋をやっていたのが、再開発立ち退きで月島に移り、商売替えをした。五右衛門からむかいまで、僕が通いつめた年月は40年を越える。
銀座には阿久悠、吉岡治夫妻、三木たかしら大勢を招いた。月島には仲町会の弦哲也、四方章人、南郷達也、若草恵、亡くなった前田俊明らもやって来た。その他メーカー各社の腕ききディレクター、プロダクションのお仲間など、みんな僕の人間中毒、ネオン中毒の基を作った人々で、酒宴はいつも笑い声が絶えなかった。
五右衛門の店じまいも小西会がさよならの会を開いた。今度はむかいのお別れパーティーである。宴の終盤には大将とお女将さんも加わる。もともと腕のいい板前の料理と、気っ風のいい女将のもてなし、音楽抜きの話しやすさが美点の店だった。今度もまた再開発、立ち退きと、同じ理由の閉店というのも珍しい。だが待てよ―。
これを機に二人は商いを卒業するという。年が年だから3軒はナシだ。とするとこの夫婦との40年余、親戚以上のつき合いはここで絶えることになる。生涯もう会えないのは寂し過ぎようと2人を小西会に招き入れることにした。思いつきだが、二人を大喜びさせて縁つなぎの名案になったと思っている。
殻を打ち破れ251回
高知の四万十川は有名だが、地元にはそれに対抗する清流・仁淀川がある。「によどがわ」と読むのだが、前者が全国区なら後者はまだ地方区の知名度に止まっていようか。神奈川に住み、東京を仕事場とする僕には、なじみのない名勝だが、ここを舞台にした歌づくりをした。友人の歌手仲町浩二が世話になっている地域のせいだ。ご当地の友人がもう一人居て作詞家の紺野あずさ。彼女に詞を頼み、作曲は長いつき合いの岡千秋に頼んだ。出来上がったのが『高知 いの町 仁淀川』で、編曲は石倉重信。
ピンポイントのご当地ソングである。レコーディングのあと、仲町が「いの町」へ持ち帰ったら、情報だけで町が大喜びした。仲町が仁淀川波川公園で開かれた土佐の豊穣祭「神楽と鮎と酒に酔う」に呼ばれて歌ったのが11月。この祭りは川沿いの仁淀川町、越知町、佐川町、日高村、土佐市に「いの町」を加えた6市町村が勢揃いする催し。吹き込み直後なのでまだCDは出来ていず、本人の歌だけのお披露めになったが、盛り上がりはなかなかで
「何でいの町だけなんだ。われわれの地名も入れば、もっとよかった…」
と、他町の町長さんたちがうらやんだ。
「いの町」は「いのちょう」と読み、原稿に書くときは、まぎらわしいので困る。あまり知られていない町だから、反響を心配してすべり止めにカップリング曲は『おまえの笑顔』にした。2曲とも「いの町」と恋人のもとへUターンした男が主人公。もしかするとこちらの方が、幅広い聞き手、支持者を獲得できるかも知れない欲目があった。
「どうしたもんだろうね?」
と相談したら、岡千秋は言下に「高知 いの町 仁淀川」と答えた。泣けるくらいのいいメロディーを書いてくれているから「やっぱりな」と、僕も合点した。
岡と仲町の縁も長い。仲町をデビューさせたのは2013年で、岡の作品『孫が来る!』を歌い、岡との競作を話題にした。以後ずっと仲町は弟子みたいに大事にしてもらっている。仲町はもともと、僕の勤め先だったスポーツニッポン新聞社の後輩社員。僕は編集、彼は広告と所属先は別々だが、仲町が僕に密着したのは熱心な歌手志望だったせいだ。聞いてみれば確かにいい声だし節回しも巧みだが、五木ひろしのそっくりさんだった。
諦めさせるために北島三郎や一節太郎の例を出した。“流し”出身の北島は、曲によってそれを歌った歌手の癖が出てしまう。それを師匠の船村徹が「声帯模写じゃないんだ」と歌唱法を改造させた。一節は三橋美智也似の美声だったが、師匠の遠藤実が「三橋は一人きりでいい。声を変えろ」と厳命して、あの声につぶさせたエピソードがあった。
その仲町がスポニチの定年を迎えたから、
「いっちょ行ってみるか!」
と声をかけた。僕自身がスポニチを卒業後、70才で舞台の役者を始めた物狂いの日々。長い間諦めさせていた歌手への夢を、一度くらいは見させなければ義理が悪いと思った。しかし、年が年で、後押ししてくれる事務所もない。重点的に故郷の高知で活動して地歩を固める作戦にした。だから5年後の第2作は『四万十川恋唄』で、その4年後の第3作が今作になったわけだ。
12月2日、いの町役場に隣接するホールで、仲町の新曲を発表する会が開かれた。町と観光協会の肝いりで、地元の善男善女がわんさか集まった。ゲストが豪華版で作詞の紺野と作曲の岡。乗りのいい岡はピアノの弾き語りで『長良川艶歌』や『黒あげは』など10曲近く歌っての大サービス。仲町は負けじとばかりに力の入った歌唱で面目を施した。
地元に居着いて、人柄と熱意を認めてもらえた仲町の故郷奮闘である。仲町といの町界わいの人々は、きっといい新年を迎えることだろう。
《いいじゃないか、おしゃれなポップス風味。このほどの良さなら、彼女の演歌ばなれも歓迎だな…》
出来たてほやほやの川中美幸の新曲「冬列車」を聴いての感想だ。作詞、作曲、編曲が田村武也。ほどの良さは、まず作品にあり、川中の歌唱がそれに寄り添っている。
〽もうどのくらい眠っていたかしら、カタカタ揺れる窓が冷たい…
歌い出し口語調の歌詞2行である。女主人公が乗っているのは、暗い海の底をゆく列車。海峡を越える失意の一人旅か? と聞き進むと、彼女は男の温もりを確かめるように顔を埋めたりする。
道行きソングなのだ。この種の古典的作品なら、石本美由起作詞、船村徹作曲、ちあきなおみ歌の「矢切の渡し」がある。あれは男の決意に女が命を預けた悲壮感が歌の芯にあった。田村の今作は、何も言わずに道づれになる男の優しさに、女が心を預ける。そしてサビが
〽離さないで、離さないで、行方しれずの冬の列車…
と昂揚する2ハーフ。そのサビを2回繰り返したあとの最後の一言「離さないで…」は、メロも歌唱も月並みな収まり方をせず、未完の気配を残す。万事不透明、生きづらさばかりが先立つ時代なら、二人のこの歌の先行きも、あてどないままだ―。 流行歌はここ数年、静かだがはっきり地殻変動を示している。ことに演歌勢は歌謡曲へ、歌謡曲勢はポップス系への傾斜が目立つ。歌詞のあまりの古色蒼然に飽きたらぬ歌手周辺が、求めた活路がポップス系のカバー。思い思いの選曲で独自の色あいを作る歌手が増えたが、オリジナルとなると書き手が見当たらない。シンガーソングライターに依頼しても、坂本冬美の「ブッダのように私は死んだ」では面白いが極端すぎよう。昔は歌手たちを半歩ないし一歩前進させる才能がいた。例えば「シクラメンのかほり」の小椋佳「襟裳岬」の吉田拓郎「飾りじゃないのよ涙は」の井上陽水「かもめはかもめ」の中島みゆき…。
田村武也はその点、はなからほどが良いのだ。作、演出を担当する劇団の名が「路地裏ナキムシ楽団」標榜する音楽が「青春ドラマチックフォーク」で、上演回数を「第○泣き」と数える。昭和テイストの情感を〝涙〟をスパイスに表現したうえで、感性やセンスの基本が今日的。新しい流行歌を書く資質がドンピシャリの感がある。
川中は「ふたり酒」のヒットで第一線に浮上した。〝しあわせ演歌の元祖〟と呼ばれた仲間は作詞のたかたかしと作曲した弦哲也。その後川中・弦は親密な交友と歌づくりを続け、お互いを〝戦友〟と呼ぶ。本人はあまりそれに触れたがらないが、田村はその弦の一人息子。独自の音楽、演劇活動が長いが、父の歌づくりもまた身近で知り尽くしていた。川中とは初仕事だが、彼女が狙うべき路線と彼が書きたい世界の接点は、はっきり見えていたろう。父は日本音楽著作権協会と日本作曲家協会の会長を兼ねている。最近彼の事務所弦音楽企画の代表取締役は息子に禅譲した。父子ともに新しい年への線路を敷いたばかりだ。
親交のある人たちの、新年の魅力的な挑戦に触れるのは、うれしいものである。親友の歌手新田晃也からは、昨年12月5日ファイナル・ミックスというメモつきの新曲が届いた。「旅の灯り」と「さすらい雲」の2曲で、本人の作詞、作曲。ここしばらく作詞を石原信一に任せた新機軸を歌って来たが、もともとの演歌系シンガーソングライターに戻って、ひと勝負の年にする気らしい。集団就職列車で福島を出て、夢を捨て切れずにこの道へ入って以後独立独歩、ひところは銀座で名うての弾き語りも体験したベテランで、新曲は古風な失意の女の夜汽車ものだ。
僕は新聞記者出身のせいか、まず新しいものに眼が行くが、演歌の古風も決して否定する気はない。そういう歌を支持するファンはいるのだし、極みの完成度を目指す意欲なら尊いと思っている。好きになれないのはその古さにどっぷりの安易な歌づくりだけだ。しかし面白いと思うのは、僕ら旧世代の流行歌が〝泣きたい一心〟が基本だったこと。だから新田も、同じ世代に並べては申し訳ない川中も、歌唱の軸が〝泣き節〟になっている。田村の作品から感じるのは、ご時勢ふうの泣き方の変化、泣き過ぎぬ抑え方がおしゃれだと思うがいかがなものだろう。
もう一人おまけみたいで悪いが、ブラジル出身の年下の友人エドアルドからは、
「2023年、新曲〝夢でもう一度〟をリリース、トップに立ちます。力をください」
という年賀状が来た。さて、どういうふうに手伝おうか?
殻を打ち破れ250回
「吉岡さん、来ました。おおきい人と一緒で、ボクサーだって。あの人もおおきいしね…」
いつだったか、行きつけの月島のもんじゃ屋“むかい”の女将から報告されたことがある。友人の吉岡天平のことで、亡くなった作詞家吉岡治の長男。巨漢2人連れに驚いたらしいが、そう言えば彼もボクシングジムに通っていると聞いていた。その天平から葉書が届いた。「想望するリングへ」と題した「吉岡天平写真展」のお知らせで11月1日から12日が東京・銀座、来年の2月7日から18日が大阪で、いずれも会場はキャノンギャラリーとある。
葉書いっぱい大写し写真は、ヘッドギアをつけたヒゲづらのボクサーのアップ。見知らぬ男だが、カメラ目線の眼がカメラを通り越して、妙に穏やかに遠めに投げられている。スパーリングの途中のワンショットだろうが、彼の眼は一体何に向けられて、何を見ているのか? 天平からのメッセージは「ここまで辿り着きました。お待ち申し上げております」と走り書きの一行。
≪そうか、スポーツ写真を撮ると言っていたが、ボクシングに特化してずっと頑張っていたんだ。あれからもう6年になるか…≫
天平は僕らの遊び仲間で作曲家の弦哲也、四方章人らと吉岡治もメンバーだった仲町会の面々と、よく呑んだ。年下だから呼び捨ての友人である。
天平が追っているのは、小原佳太というボクサー。アマチュアで70戦55勝(30KO)15敗、プロで31戦26勝(23KO)4敗1分の戦績を持ち、三迫ボクシングジム所属。現在日本ウエルター級チャンピオンで3度防衛中とある。天平は小原がIBF・IBO世界スーパーライト級王者エドゥアルド・トロヤノフスキーに挑戦した2016年9月、ロシア、モスクワ戦から密着取材をしているらしい。
他国で拠点とする「Boxingジム探しから始まり、減量による選手の身体と心の変化、それを支えるトレーナーとジムの同志、異様な雰囲気の漂うアウェーでの試合、惨敗からの再起と、凝縮されたBoxingを撮ることでドキュメンタリーの面白さに、僕は目覚めることが出来た」
と、天平は写真集に書いている。以後彼は小原が2017年8月WBOアジア太平洋ウエルター級タイトルマッチに勝利、翌18年4月2度めの防衛は失敗、そのまた翌年8月に王座を奪回、19年3月、アメリカ、フィラデルフィアでのIBF同級王座挑戦者決定戦で判定負けを喫するなど、あわただしい浮沈の日々を追跡した。天平がカメラを向けるのは戦う男の生きざま。モスクワでのジムでのトレーニングや、現地の人々との交友、地下鉄でのワンショット、筋肉そのものの見事さや、オン、オフの境めで見せるハッとするような笑顔など、小原の喜怒哀楽の瞬間を凝縮して切り取っている。そんなドラマの緩急が、冷静な視線と叙情の感触で捉えらえ、肉と肉、拳と拳、意志と意志、本能と本能が激突するクライマックスへ行き着くようだ。
「ボクシングには、いつごろから興味を持ってたのよ?」
と聞いたら
「おやじが岡林信康さんの息子がボクサーになったから、応援しろと言った時ですかね」
と笑った。天下の女ごころ艶歌の書き手とフォークの神様の交友が、次の世代にこんな影を落としているのが愉快だった。
天平は写真を水谷章人氏に師事、4年で水谷塾を卒業した。父親の作品の権利全般を維持、展開する仕事も含めた会社Zeusと深川のM16Galleryを経営する51才。東京と大阪のキャノンギャラリーは、出展者が厳重な審査を受ける難関で、出展できるのは「100人のうち7人」とも。吉岡天平は今回の催事をもってあっぱれプロカメラマンの第一歩を踏み出したことになろうか。小原佳太は現在世界ランク10位、36才。なお世界王者への夢を生き続け、天平はそれに同伴する気だ。
《そうか、これが今年最後の大仕事の証か…》
12月、眼の前に積まれた本に、感慨がひとしおである。栃木の下野新聞社が出してくれた「ロマンの鬼船村徹~私淑五十年小西良太郎」だが、船村の故郷のこの新聞に、2年ほど連載したものに加筆。内容とにらみ合わせて、船村語録を50近く添えた。昭和38年夏、スポーツニッポン新聞の駆け出し記者として初めて会い、私淑して54年「物書きの操と志」を学んだ師とのあれこれだ。この本が何と、年末までに300冊余も音楽関連の人々のもとに出回った。これまでに何冊か本を出したが、こんな僥倖に恵まれたケースはない。
《結局のところ、最後までお世話になっちまったことになる…》
船村家のお陰なのだ。来年2月16日が、船村の七回忌にあたる。ところがまた尻上がりのコロナ禍。法要の会を催すかわりに、船村のCD6枚組ボックスと、僕の本を関係者に届けようということになった。船村夫人佳子さんと娘の渚子さん、息子の蔦将包の夫人さゆりさんの心尽くしだ。船村もにぎやかなことは好きだったが、ウイルス蔓延の心配事を抱えたまま、人を集めることなど望まないだろう。船村家の発案に、僕は一も二もなかった。
「生誕90年記念、七回忌に向けて」がサブタイトルのアルバム「愛惜の譜」が何ともいいのだ。おなじみの名曲のほかに、グッと来る佳作が揃った自作自演盤。本でも触れたが「泣き虫人生」「ハンドル人生」「三味線マドロス」「男の友情」など、高野公男との初期のものから「希望(のぞみ)」「東京は船着場」「愛恋岬」「新宿情話」など、どれを聞いても船村身上の〝哀歌〟だからしみじみ沁みるのだ。
振り返れば僕は、新聞記者の昔から今日まで、密着取材に没頭して来た。相手さんがそれを許してくれる場合に限るが、𠮷田正、船村徹、星野哲郎、阿久悠、吉岡治、三木たかし、美空ひばりなどがその例。取材対象に一定の距離を保ち、第三者的立場を取るのが公平無私の記者だと言われれば、公私ともにドップリの僕流は邪道だろうが、心中期したのは「癒着と密着は違う」の一言だった。茨城の田舎の怠惰な高校卒の僕は、一流の人々から生き方ぐるみで多くのことを学んだ。船村や星野を師と仰ぐのはそのせいだ。
今回の出版で、僕は二人の師を書くことが出来た。「海鳴りの詩・星野哲郎歌書き一代」と今作で「ロマンの鬼」は星野が書いた船村への献辞から引いた。これまた幸せなことに、船村を学ぶことは星野に通じ、星野を追跡すれば船村を知悉することで表裏一体。おまけに二人は、美空ひばりをはさんで知り合い、昭和最後のヒット曲「みだれ髪」を書くまで、親交を深めている。僕はそのひばりの晩年にほぼ15年間密着「美空ひばり・ヒューマンドキュメント」「美空ひばり・涙の河を越えて」の2作を出版する光栄に浴した。いずれにしろ、先に挙げた作曲家3人、作詞家3人、歌手1人については、一番長く一番そばに居た取材者だった。
6年ほど前になるが「昭和の歌100・君たちが居て僕が居た」を出版した。戦後のヒット曲100曲についてのエピソードを縦糸に、僕の歌まみれの半生を横糸にからめた内容。歌謡少年が流行歌記者になり〝はやり歌評判屋〟の今日までがちらついている。読後感として「面白かった」の声を頂いたが、一部に
「俺が俺が…の自慢話ばかりで、鼻についてやりきれない」
というお叱りも頂いた。何ごとによらず自慢話は避けるべきだが、僕が書くものはすべて、私的部分が色濃い「体験記」である。演歌・歌謡曲を作り、歌う人々に伴走して、その実態を伝えている。個人的なかかわり方が、ヒット曲の場合、どうしても自慢話に受け取られがちになるが、では、それをどうするべきか? おまけにプロデュースにまで手を伸ばしている。新聞社づとめのまま、レコード大賞を取ったり、その他の賞で、作家や歌い手とハイタッチをした例も少なくない。その間の経緯を書けば、これはもう自慢話そのものになってしまう。
馬齢を重ねてとうとう、師匠2人の没年を越えてしまった。86才、さて来年はどういうタッチで物を書いたものか? と、反省もまじえながら、これが今年最後の回である。ご愛読を深謝しながら、しかし「性分って奴は変わらねえだろうな」などとも考えている。
山形の天童市に出向く。例年の「天童はな駒歌謡祭」の審査で、歌どころ東北のノド自慢70余名を聞く。このところ体調不良をかこって出歩かないが、わがままを言ってはいられない。佐藤千夜子杯全国大会から引き続き10数年の審査委員長役。地元の高僧矢吹海慶師も待っている。その滋味と諧謔に触れる方が、歌を聞くより楽しみな逆転現象まで起こっている。旅って奴の妙趣は、会いたい人に逢うことじゃないか!
山と海と田畑に恵まれた地方である。自然相手のせいか、東北の人々の歌は大音声でやたらのびのび、いい気分が極まるタイプが多い。別にプロを目指す訳ではないから、それはそれで結構。そんな大向こう狙いの「うまい歌」から、酔い心地がほどほどに客席に届く「いい歌」を見出すことを、審査のメドにする。「沁みる歌」探しだ。
コロナ禍でここ二、三年、あちこちのカラオケ大会は揃って自粛している。ところが天童は実行委員長として「口も出すが金も出す」と評判の矢吹高僧の号令一下、
「感染防止に万全を尽くして、やるものはやる!」
という張り切り方。考えられる手は全部打って、審査員のマスクさえ会の前後半で取り替えるくらい入念だ。そのせいか地域主体のこの催しに、遠来の挑戦者が加わる。大阪、京都、滋賀、千葉あたりから、歌えるならどこへでも行く人々の気合が入る。結局グランプリには、山形・寒河江市の佐藤信幸という人を選んだ。曲はちあきなおみの「冬隣」で、よく響く美声と抑制の利いた語り口の「めりはり」が魅力的だった。めりはりは「減り張り」「乙張」と書くと辞書にあるが、表現者の感性に負うところ大。「冬隣」という選曲もよかった。いい作品の酔い心地がプラスアルファになる利点がある。福田豊志郎さんの「男宿」にもそれが言えた。カラオケ巧者たちが鳥羽一郎のカップリング曲から掘り起こした作品だが、サビ以降の詞曲が、誰が歌っても沁みるタイプだ。
「ところで和尚、実はねえ…」
と、僕は久闊を叙したうえで、矢吹海慶師に詫びを入れた。音楽祭が11月13日、それから一週間後の20日には、彼のお祝いの会がある。日蓮宗の「権大僧正」に任じられた名誉をたたえ、同時に妙法寺住職の座を副住職で息子の矢吹栄修氏にバトンタッチ、それに「卒寿」90才のおめでたが重なっていた。ところが軟弱に過ぎる僕の体調は、週に2度の天童詣では無理と、主治医の助言に出っくわした。新幹線で片道3時間、一泊二日を繰り返すだけだが、行けば名物の「芋煮」と「青菜漬け」酒は出羽桜の「雪漫々」に「枯れ山水」と銘酒揃いで、甘露カンロ…の夜になることを、見抜かれての宣告だ。
「権大僧正」というのは、
「山形ではこの人一人、東北でも二、三人という偉い位だ」
と、歌謡祭のスタッフがわが事のように自慢する。天童、ひいては山形、東北にまたがるだろう社会貢献が長く、数々の要職をこなして来た実績が、高僧の行跡に加わっていようか。それが初対面の時から、僕に「和尚!」と呼ばせる分けへだてのなさ、人懐っこさと人望を見せて来た。
息子の栄修氏は48才、山形県会議員としてもう11年働いて、社会貢献も和尚ゆずり。サッカーのモンテディオ山形の新スタジアムを天童に建設、それに農業テーマパークとスマート農業を合わせる構想や、里山整備から子育て福祉支援、観光専門職大学の創設などの提案を「天童、躍動! の十策」とかかげて活動している。
《そうか、和尚を祝う会は、世の中ふうに言えば彼の〝終活〟を見届ける催しになるのか…》
と、僕は合点しかける。しかし待てよ、ここ十数年のつき合いで、和尚から〝過去〟の話を聞いたことも、その匂いを嗅いだ記憶もほとんどない。他愛のないジョークを連発する以外は、いつも「あれをこうする」「これはこうすべきか」と、現在進行中の話ばかりだ。出会ったころは舌がんをカラオケで制圧し、今度会ったら二月ごろに大腸がんの手術に成功したと笑った。
心身ともに驚くべきタフさと行動力を示す90才である。どうやら僕が欠席した祝賀会を起点に、この人はまだ〝これから〟を見据える算段と気概を示したようだ。酔えば酔うほどチャーミングなこの高僧には〝過去〟は不要で、昨日までが〝現在〟なら今日からが〝未来〟というタイムスケジュールが用意されているのか。栄修氏も「何をやったか」よりも「何をやるか」が大切と説いていた。僕は和尚の今回の節目イベントを「終活」などと言う生半可なものではなく、毅然とした老後を生きる「毅活」とでも称すべきものかと考えている。
殻を打ち破れ249回
或る日突然、赤トンボの群れが現われる。まるで湧いて来た勢いで、マンション5階に住む僕の、眼の前まで舞い上がる。海辺の町への秋の知らせだ。10月2日、対岸の箱根や伊豆半島の稜線を染めて、陽が沈む。中央に影絵の富士山がクッキリ、上手の江の島燈台の光りが回りはじめ、下手の伊豆大島方向には、淡い黄色の月が出た。五日月くらいの太り方で、富士の左上あたりに出来た飛行機雲が、夕陽色に変わる――。
そんな風景を眺めながら、僕は≪さて、電話を一本かけなければ…≫と、自分のお尻を叩く。ベランダでぼんやりしていると、思い立った事と体の動きの間に少しだが時間差が生まれる。さっさと行動に移らないのは、景観のせいか、年齢のせいか。
「それがさ、レコーディングのスタジオで、実は…と打ち明けられてさ…」
歌手中条きよしが7月の参議院選に出馬することを、作詞家星川裕二は突然そう知ったと電話口で話した。彼が詞を書き、杉本眞人が曲を書いた『カサブランカ浪漫』がかなりいい仕上がりなのだが、しかし代議士先生になった中条が、この作品をどう歌っていけるのかが気になる。CDは9月7日に出た。
♪雨に濡れてる 白いカサブランカ 気高く清らな 君と重なる…
と、歌の主人公は別れた人をしのぶ。幸せな日々を夢見て相思相愛だったから、
♪冬の木枯らし 吹き荒れた夜でも 肌寄せ合って 夜明けに溶けた…
という。僕はこの「溶けた」を珍重する。歌謡曲によく出てくるシーンだが、おおむね表現は下世話で、ここまできれいに婉曲なケースは初めてだ。相手が「気高く清らな君」であることとの対比だろうが、なかなかの美意識と言っていい。星川は杉本と組んで『吾亦紅』などいい歌を沢山作った松下章一プロデューサーのペンネーム。もともと星野哲郎門下の作詞家が、制作者になって一時代を作った。無類の酒好きで好人物。仕事に品があるのは師匠譲りか?
中条の歌がまたいいのだ。杉本が書くメロディーには、本人の“口調”に似た強い個性がある。ぶっきらぼうに聞える表現だが、陰に繊細な思いがあり、情が濃い。彼の曲を貰った歌手の多くは、デモテープの杉本節の影響からどう離れ、どう自分流を作り出せるかに苦心する。これがなかなかの大仕事で、だから僕は杉本に、
「お前さんが書いた曲を、一番うまく歌えるのはお前さん本人だな」
と、笑ったりする。その厄介なハードルを、中条はうまい具合いにクリアした。おなじみの細めの声をしならせて、独自のフレージングを作り、思いのたけに熱がこもるのは、年の功か、作品がよほど気に入ってのことか?
中条と僕は昨年の4月21日「武田鉄矢の昭和は輝いていた」のビデオ撮りで、テレビ東京のスタジオで久々に会っていた。彼が『うそ』をヒットさせたのは昭和49年だから47年前。そのころ少したっぷりめの話をしたが、以後そんな機会はほとんどなかった。第一僕はスポーツニッポン新聞社を卒業してもう22年にもなる。≪覚えちゃいないだろうな≫とたたらを踏んでいたら、先方が
「どうも、お久しぶりです」
とにこやかに現われた。お互い年を取ったと世間話をしたが、その人ざわりの良さにその後の彼の仕事ぶりと自信を感じ、そこから生まれたろう好感度に感じ入ったものだ。
新米政治家のスケジュールと人気者の芸能活動どう折り合いをつけられるのかは、僕には判らない。しかし、せっかくのいい歌である。『カサブランカ浪漫』がその間に埋没して“幻の秀作”にならぬよう、祈るような気持ちになっている。
10月27日、中野サンプラザホールで日本クラウンの60周年記念コンサートがあった。知らせてくれた人は「ウスイ」と名乗った。きっと亡くなった作曲家三島大輔の息子だと思う。三島には星野哲郎作詞の隠れた名曲「帰れないんだよ」がある。当時彼は伝説のプロデューサー馬渕玄三氏に命じられて、新潟のキャバレーでピアノを弾いていた。まだペンネームの三島を名乗る以前で、作曲者名は臼井孝次だった。昭和44年ごろのそんな話を後に本人から聞いたが、息子と会ったのはそのころと三島の葬儀の後何回か。
《創業60周年か。ということは俺のこの世界お出入りも、60周年という勘定になる…》
伊藤正憲専務を旗頭に、コロムビア脱退組がクラウンを興したのは昭和38年。僕は同じ年の夏にスポーツニッポン新聞の内勤記者から取材部門に異動、39年元旦のクラウン第一回新譜から密着した。前回の東京オリンピックの年だから、ずいぶん昔の話だ。
いつの時代も似たようなものだが、情報はその業界の大手に集まり、そこを起点に応分の信憑性を持って拡散する。コロムビアはレコード業界の老舗で、脱退したクラウン勢とは敵対する。北島三郎、五月みどりらが移籍するのを止めようと裁判ざたにおよんでおり、
「新興勢力? ふん、あんな会社すぐ潰れるよ」 と息まいたのが、業界世論ふうに行き交った。そのせいか七社めの新会社を取材する他社の先輩は少ない。
《潰れるなら、その実態を見てみようか》
僕がクラウンに日参したのは、そんな向こう見ずの野次馬根性からだったが、相手さんは社をあげて意気軒昂。誰でもいらっしゃいと開放的で、それが新米記者には居心地がよかった。伊藤専務以下幹部の皆さんにもよくして貰えたし、作曲家米山正夫、作詞家星野哲郎を知り、編曲の小杉仁三とは飲み友だちになる。当初クラウンと親しかったプロダクションは新栄プロだけで、西川幸男社長には、
「僕は新聞記者は嫌いだ」
とすげなくされたが、やがて、めげずになつけば気持ちは通じる記者の心得通りになった。
それやこれやで僕は、メーカーは「クラウン育ち」プロダクションは「新栄育ち」を自称する縁に恵まれる。それぞれのビジネスの深い部分や、それを支える独特の美意識や信義、即断即決の潔さ、出る釘を打たずに育てるチームワークの妙などを学んだのだ。
だからこそ、クラウン歌手総出のイベントには、喜び勇んで出かける返事をした。発足当時の侍たちは、もう誰一人残ってはいまいが、枯れ木も枝のにぎわい、顔を出さねば義理がすたる―と、勢い込んだがしかし、思うに任せなかった。このところ体調いまいちで、足腰の衰えを痛感している。歩幅短めのチョコチョコ歩きは、人に見られたくないし、第一、神奈川の葉山から東京の中野まで、往復出来る自信がない。北島三郎や水前寺清子に、ごぶさたのあいさつもしたい、ひと時代ずつクラウンを支えた中堅、ベテランたちの〝その後〟も知りたい…と、最近はとんと消息も聞かぬ親しかった歌手たちの顔を思い浮かべるに止まった。
そう言えばこの秋は、節目の周年記念コンサートをやった歌手たちが多かった。中にはわざわざ電話で誘ってくれたスターさんもいたが、残念ながらほとんど不義理をした。コロナ自粛の巣ごもりがまだ続いていて、顔を見ない相手や日々が不思議ではないことに、免じてもらってもいたろうか。
「昨夜もテレビで見たよ。よく出てるなあ。ま、元気そうで何よりだよ」
なんて電話をよく貰う。BSテレビの「昭和歌謡曲特番」があちこちにあり、知ったかぶりおじさんの僕の出番は多い。これが例外なくしばしば再放送をしていて、だから相手の二の句は
「近々一ぱいやろうよ。つもる話もいろいろあるし。大体、年寄りは暇だよな。アハハハ…」
と、屈託のない誘いになる。
「そうだな、早めの忘年会もいいし、年が明けてでもいい。そのうちスケジュール合わせをしよう」
とこちらもそれまでに足腰を鍛え直す算段をする。それにしてもしばらく、酒を飲んでいない。一人酒では浮いた気分にもならず
《結局俺は酒が好きな訳ではなく、わんさか集まっての酒盛りそのものが好きなんだ》
と、今さら気がついたりしている。
来月には下野新聞社から師の七回忌を前に「ロマンの鬼船村徹~私淑五十年~小西良太郎」という本が出る。この夏から秋は結構よく働いたんだ…と自分に言ってみる。僕が長くかかえている成人病の「人間中毒」と「ネオン中毒」は、年明けの復活を目指している。
突然「司馬江漢〝東海道五十三次〟の真実」という書物(祥伝社刊)に出っくわした。對中如雲(たいなかじょうん)という人が筆者で、帯には「はたして広重はこの絵を見たのか?」「元絵論争に最終決着」というフレーズが躍る。美術関係には全く門外漢の僕にも、広重はあの浮世絵の歌川広重と判り、彼が東海道五十三次を絵にしていることも知っていた。とすると司馬江漢の五十三次との関係は一体どうなる? 広重のオマージュとするのか、それともパクリとするのか?
《えらいこっちゃ、これはにわかに迂闊なもの言いは出来ないぞ!》
面白そうなら何でも飛びついたスポーツニッポン新聞の、カワラ版記者のころの血が騒いだが、
《それにしても、何でまた彼が、こんなことに首を突っ込んでるんだ?》
接触して来たのは、古い友人の奥田義行氏である。「司馬江漢研究会」というのの副代表になっている。電話をかけたら、
「あんたなら乗る話じゃないかと思ってさ、ははは…」
と、昔と変わらない声で笑った。知り合ったのは彼がザ・スパイダースのマネジャーだったころと思う。グループサウンズ・ブームの主導者スパイダースのリーダー田邊昭知と親しくなった僕は、「ウエスタンカーニバル」の日劇の楽屋に入りびたりだった。リーダーの客分として扱われた僕は、彼を「奥田!」と呼び捨てにしたように思う。その後奥田は井上陽水がデビュー当初アンドレ・カンドレを名乗っていたころを担当したり、RCサクセションの忌野清志郎を手がけたりした。
「いつまで西洋乞食のお先棒をかついでいるんだ、うん?」
と、私淑していた作曲家船村徹に言われたころだ。スポニチにGSがらみの記事をでかでかと連発する僕がシャクにさわったのだろう。
「あれはな、停電したら成立しない音楽だぞ」
酔っての放言だが、若者の音楽とエネルギーを認めながらの八つ当たりだった。
奥田氏の活動はやがて、音楽制作者連盟のボスになり、テレビ、ラジオなどでどの楽曲が使われたかを、即刻克明にチェックできるシステム作りにかかわったりしたが、その後はすっかり疎遠になっていた。聞けば4年ほど前に、この業界を卒業して転居した伊豆高原で、冒頭の對中氏と出会ったらしい。對中氏は伊豆高原美術館(現在閉館)の館長などを務めた人で、30年前に江漢(1747~1818)の五十三次の肉筆画に魅入られ、以後その研究に没頭して来た。同時代の広重(1797~1858)が実は東海道五十三次を歩いた事実がないことが、江漢を〝元絵〟とする根拠らしい。
それにしても芸能の仕事とはまるで畑違いの分野になぜ? と聞いてびっくりした。奥田氏の趣味は古美術や中国骨董。もう20年も続けている中国の書道で、賞も取っているという。聞いてみなければ判らないものだし、人は見かけによらぬもの(失礼!)で、長いつき合いを重ねても、人の素顔や正体まではなかなかにうかがい知れないものと、つくづく思い当たる。奥田氏は昔ながらの才覚で、この研究のための資金集めまで手伝っているらしい。
《趣味が老後に生きて、第二の人生というのもうらやましい。そこへ行くと俺は…》
なんて、当方は肩をすくめる。僕の〝はやり歌狂い〟は、中学、高校時代からの〝趣味〟だった。上京してスポニチのボーヤ時代は、ラジオののど自慢に出たり、流しのまねごとをしたりと結構楽しんでいた。それが音楽担当記者に取り立てられて以後は〝仕事〟になってしまった。好きこそ物の…のたとえもあるし、歌社会にどっぷりつかって今日まで、多くの人々との縁にも恵まれて、望外の幸せな日々を送って来た。この年になってその上に、何を望むか、何をうらやましがるか…と自分を叱咤するのだが、しかし、少し残念なことに僕には〝趣味〟そのものがなくなってしまっている。
冒頭の部分で僕は広重の仕事をオマージュかパクリかと書いた。「パクリ」は芸能界チックな表現で、この際、不穏当で下衆っぽいかも知れない。資料をもとに仕事をするという作業はどこの世界にもあることだ。對中氏の著書には巻頭110ページにわたって、江漢と広重の絵が、宿場ごとにカラーで並べられ、対比の妙を示している。「そう言われればそうか」「しかしなあ…」と、ド素人の僕がそれを見比べたところで答えなど出しようもない。長い年月、洋の東西の専門家が研究を続けている一件である。これもご縁だからせめて、友人の奥田義行氏のこの件の今後を、面白がって追っかけてみることにした。
懐かしい名前に出っくわした。作曲家榊薫人、売れっ子にはいまひとつだったが、カラオケのスタンダードになった「お父う」を遺していった友人だ。
《もう3回忌になるかな?》
ごく親しいつき合いをした相手だが、彼の死は日本作曲家協会会報の消息欄で知った。正確を期した方がいいから協会へ電話をした。
「亡くなったのは令和2年8月6日です」
ちょっと間があって、知り合いの事務局嬢の返事の声が明るい。長くレコード大賞の審査委員長をやり、今は制定委員ほかで、いろいろ世話になっている間柄が、声の色に出るのが嬉しい。〝ちょっとの間〟はきっと、いろいろある書類で確認してくれてのものだろう。
昔、スポーツニッポン新聞社に勤めていたころ、榊はせっせと訪ねて来た。彼の作品を聞けと言い、気に入ったものがあれば、レコード会社の誰かに推薦してくれと言い分は一途だ。アポなしで飛び込んで来て、こちらが会議などで席をはずしていると、いつまででも待った。当時僕は社屋3階のとっかかりに一部屋持っていて、夕刻前後に歌謡界の客が多く出入りしていた。厄介な問題を持ち込んで来る彼らの相談に乗るのも仕事のうち。作品の売り込みの手伝いも、確かにいくつかはしている。
花京院しのぶの「お父う」と「望郷新相馬」のカップリングは、そういう榊の押しの強さから生まれた。たまたま僕が世田谷の経堂に転居したら、彼はすぐ近所に住んでいたからたまらない。今度は僕のマンションに日参で、室内の植木〝しあわせの樹〟の世話までしはじめる。宮城の出身、集団就職列車で上京、クリーニング屋だか板金屋だかで働いたが、歌手志願の夢が捨て切れず、新宿の流しのボス阿部徳二郎を頼り、流しが下火になったらクラブの弾き語りに転じた―と、僕は彼の半生にくわしくなった。
閉口したのは彼のメロディーの突拍子もない昂揚で、高音をとめどなく多用するのは、彼の情熱そのものにありそう。「それが余分だ」「何とかこのままで」のやりとりが続いて何年か、たまたま花京院の歌づくりをプロデュースすることになった。元岡晴夫の前座歌手がマネージャーになり、その後キングのマネージメント部門に籍を置いて、初期の大月みやこを担当した島津氏が持ち込んで来た話。島津氏は花京院を〝女三橋美智也〟に育てることを夢とした。榊は三橋命…の信奉者で、高音多用はその影響もある。
《もし三橋さんがまだ存命で、彼のための曲を書くことになったら、俺ならこういうものを書く…って奴を50曲くらい書いてみちゃどうだ》
榊と花京院の活路を考えた僕の難題だが、榊は懸命に応えた。「出来た!」「聞いて!」の連日になる。メロ先で確かに50曲近く書いたものから2曲を選んで、例の高音癖を整理する。そこそこの姿形になった曲に、はめ込みの詞を里村龍一に頼み、ビクターの当時制作部長だった朝倉隆を口説いてレコード化にこぎつけた。「望郷新相馬」は新相馬のさわりを曲に入れて、タイトルは決め打ち。渋谷の居酒屋で打ち合わせをしたら、酔った里村が隅田川岸の青テントの話を持ち出し、妙に熱っぽくなった。
「うん、ホームレスの歌を書くのか。里村龍一が社会派になるということか」
僕が冗談めかして、里村案の「お父う」が生まれた。
よくしたもので榊の突拍子もない高音が「お父う」の歌い出しに生きた。花京院も仙台に居すわり、長く地盤づくりの修行をしたから、歌にしっかり背骨が出来ていた。僕の狙いは「カラオケ上級者御用達」である。音域が広い難曲仕立てで、ガンガン歌いたがる歌巧者熟女たちを挑発する。目先のヒットは度外視、榊と花京院の持ち味を生かす。CDは2~3年に1枚と、はなから長期戦の構えだ。その計画通りに榊・花京院コンビは〝望郷シリーズ〟を連作、榊は数少ない民謡調作曲家として、一部に認められた。ホッと一息の僕らは、花岡優平、田尾将実、藤竜之介らと一緒に屋久島旅行で盛り上がったりもした。
昔話が長くなったが、榊の名前を見つけたのは歌手白雪未弥のシングル「どうだば津軽」で詞はいではくが書いていた。白雪の経歴は高2で「青少年みんよう全国大会」優勝、19才で「お父う」を歌いNHKのど自慢(結城市)チャンピオンになり、平成23年8月、榊に師事とある。そうか、彼女が榊の最期を看取った弟子かと合点が行く。
《師匠の3回忌に師匠の曲を世に出す。偉いもんだ。榊が元気なら、カップリングの「夢の花舞台」を一緒に踏みたかったろうに…》
僕は白雪の伸び伸び晴れやかな歌声に、榊の乱暴なピアノの音を思い返していた。
殻を打ち破れ248回
便りが来たのにリアクションを先延ばしにしたら、ひどく心配した友人がいる。音楽プロデューサー境弘邦。これがなぜか遠回しに、別の友人に質した。
「あんたはしょっ中彼と連絡を取ってんだろ? 音沙汰ないけど元気なのか? 年が年だからな。何事もなければいいが…」
そう言ってるよ…と、彼の気づかいが中継された。境と僕は同い年、基礎疾患アリの要注意高齢者同志である。自分のことはタナに上げて…と、苦笑しながら電話を入れた。
「ごめん、ごめん、人なみにコロナに感染してな、一週間、新橋の慈恵に入院してた。いや、症状は軽めだったから、もう心配ないよ」――。
彼から届いていたのは、演歌のテスト盤だった。
「古いヤツと言われるのを承知で、こんなものを作ってみました。酒のお供に聴いてみて下さい」
なんて手紙つき。『望郷歌』という4行詞もので、作詞荒木とよひさ、作曲船村徹、編曲伊戸のりお、歌唱髙瀬一郎とある。なに? 作曲が船村徹? もしかして旧作のカバーか? それとも貴重なストックものか? 船村は亡くなってもう、来年が七回忌だぞ!
境はこの作品を3人の知人に届けたと言う。そのうち2人からは即反応があったのに、残る1人の僕はナシのつぶて。感想を待つ身ならそりゃあ、イライラもしたろう。
聴いて驚いた。決定的な船村メロディーなのだ。今や古典的なくらいの4行詞ものの、どこを切り取っても彼のメロディー。独特のフレーズが見事な起承転結を作って、息づかいまで聞こえる。そのうえ展開がドラマチック。とかく4行詞ものは、小さめにまとまりがちだが、その短かさの中でこの作品は、剛胆なくらいにサビの高揚を決めた。繊細にして大胆、大を成したこの人の典型的な作品ではないか!
境がコロムビアの制作責任者だったころ、都はるみ用に依頼したもののストックだという。歌う髙瀬もそのころデビューさせた人で、鹿児島エンパイヤ―の出身。そう聞けば、そこそこの年だろうに、船村作品におもねることなく、率直に若めの声を張る。そのシンプルさがまた何とも言えない。
荒木の詞は、当時のままと言う。一番に「母恋い」二番に「心に鳴る汽笛」三番に「帰郷の思い」をテーマに据えて、過不足なく表現きりっとしている。そうだな、船村も荒木も人後に落ちぬマザコン。男は多くがそうで僕も同類だが「望郷」の発端はどうしても「母」になるか。
ふと胸を衝かれるのは三番である。
♪溜め息よ いつか帰ろう 人生の 旅の終わりに…
というフレーズに導かれて、行く先は瞳に浮かぶ「幼い日」になる。出発点が「星空が見えぬ街も」というあたりが荒木の若さだが、望郷のしみじみは作家の年齢差を超えるものか? 僕が54年間も密着取材を許された船村は、晩年にその思いを深くする気配があった。戦後の焼け跡で志を得ぬまま、不埒な青春を戦った歌書きが、異端からスタート、やがて歌謡曲の王道を極めて文化勲章である。それが最終的に書きたがったのは「水墨画みたいな作品」だった。功なり名遂げた後の「枯淡」ではなく、そういう静謐な世界に、彼なりの熱い息吹きや祈りを書き込みたかったらしい。
スポーツニッポン新聞の記者だったころ、雲の上の人だった船村は、亡くなった時は4歳年上でしかなかった。それが今では、僕はもう彼の享年を越えてしまった。遅ればせに聴いた境作品『望郷歌』に触発されて書いたあれこれである。
ン? 「ブレイン・フォッグ」だと? 『夜霧のブルース』はよく歌うが、コロナ後遺症で脳に霧がかかるのは勘弁だ。まさかこれが認知症の兆しなんかじゃあるまいな…。
殻を打ち破れ247回
突然、花火があがった。夕方の六時ごろ。
≪え~と、何だっけな、あの花火は…≫
僕は読みかけの本から目をあげ、ボーッと考える。あれは何かの合図か、そうだ、今夜、花火をやるぞ!というお知らせの一発だ! 7月28日、葉山の花火はそれから1時間半くらい後に始まった。コロナで中止が続いて、3年ぶりになるか――。
眼下の海、名島の鳥居と裕次郎灯台の向こう側に、台船が浮かぶ。そこからポンポンとあがる花火は、ごくシンプル。大輪の花のあれこれに、ハート型や宇宙船ふうな小型。シャーッと音を立てるしだれ柳などが続く。あげる足場に限定されるから、派手な仕掛けはなし。盛り上げ用の演出は連発して頼って、何種類かの花火が夜空に重なる。自然の演出も加わった。花火の背後の小田原や箱根あたりに束の間、稲妻が照明の妙を生むのだ。
今年の夏、逗子や鎌倉の花火は早々に中止を決めた。コロナ禍第7波、神奈川も感染者が万単位へ、誰もが無理もないと思った。ところが葉山は決行である。観光客を呼ぶよりは、住民やその縁者のお楽しみ、湘南の若者たちも少々…の小規模ならという目論みか?
僕の住むマンションは5階の角部屋。ゆるい形状の岬の突端に位置して、一方通行の細いT字路と防波堤を見おろす。その先は海だから、ベランダは花火の台船にほぼ正対する。ま、特等席ではあろうか。
「昔々、少年の日に見た花火の、ひどくひなびた趣きがある。それを肴に一杯やるからおいでよ」
友人に声をかけて、例年、小さな宴会をやったが、今回はそれはない。呼べば誰に迷惑をかけるか判らないし、それにこちらは連日“要注意”が声高かな高齢者で、体調いまいちである。カミサンが隣りに居て、時折り嘆声をあげるくらいで、アルコール類もなし。リビングでは老猫の風(ふう)がヘソ天でゴロリ。音に敏感な若猫パフは、驚きあわてて部屋中を駆け回ったが、どこへ隠れたか姿もない。
2日前に読んだ毎日新聞夕刊のコラム「憂楽帳」を思い出す。6月に横浜市磯子区民文化センターで開かれた美空ひばりをしのぶイベント「杉劇ひばりの日」の記事。ひばりの初舞台は1946年の旧杉田劇場。2005年開館のセンターの愛称はこの劇場に由来する「杉田劇場」。
ひばり追悼イベントは大がかりなものが多く、地元ではそれらしいものがなかった。センターの中村牧館長が「33回忌を逃がしたらもう出来ない」と企画して、昨年立ち上げた会。それが定例化して2回目のことし、ゲストのミッキー吉野が、磯子のひばり御殿の話をした。彼女の誕生パーティーには庭でバンドが演奏、出店がにぎわったそうな。聞いた長男のひばりプロ加藤和也社長が「20年早く生まれたかったなぁ」とうらやんだらしい。コラムを執筆した田中成之記者は、そんな素朴な地元イベントを、はじめひばりの「静かな凱旋」と思い、やがて凱旋より「帰郷」がふさわしいと思い直したと書いている。
≪和也社長にとっては、久しぶりに心穏やかないい会になったかも知れないな≫
以前、うちの花火飲み会で童心に返った彼と、最近一緒に飲んだのは6月29日、秋元順子のコンサートのあとだから、もうひと月も前だ。大がかりな追悼イベントも諸事大変だろうから33回忌でひとくぎりに…とねぎらったら
「そんな急に特急列車から飛び降りろなんて言われたって…」
と返された一言で彼の決意の重さをまた知らされた。
さてと、花火は終わった。僕は孤独な花火見物から腰をあげる。クラシックの第一人者鮫島有美子が、尊敬するあまり腰が重かったというアルバム『ひばりさんへのオマージュ』でも聞くことにするか…。
取材のアポを取ろうとしただけなのに、相手は、
「会いたくない」
と言う。北海道在住の人だが、こちらも粘って、
「そっちへ行くけど、いつごろがいいです?」
と聞くと言下に
「来ないでくれ。来ても会えないよ」
と答えた。声に不機嫌な気配もないことだし、とりあえず出かけた。千歳空港に着いて電話をしたら、
「来ちゃったの。困るなあ」
と言いながら、落ち着く先を教えてくれた。札幌の北海道放送そばの喫茶店。現れた作曲家彩木雅夫は、その期におよんでもまだ、迷惑そうな表情を隠さなかった。
50年以上も前のことなのに、そんなやりとりを今でもはっきりと覚えている。取材されることをこんなに嫌がる人も珍しかったし、彼が書いた「長崎は今日も雨だった」という曲も何だか不思議だった。愛した人を探してひとりさまよう長崎、なぜか雨ばかりだとボヤくばかりの永田貴子の詞に、彩木の曲が妙にダイナミック。それをまた内山田洋とクールファイブのボーカル前川清の歌がまるで吠えるようだ。
九州と北海道を結ぶと、こんなにパワフルなミスマッチが生まれるのか? 彩木に会いたかったのは、東京では見かけないこの種の流行歌の謎を解きたいからだった。会ってみれば彩木はテレビ局プロデューサーで、やたらに機嫌が悪いのは、ヒット曲を生んだあとの周辺の変化に、立ち場上困惑しているせいと判った。
「どういう狙いでああいう曲にしたのか?」
と言う問いにも、
「自然にそうなっただけだよ」
と、さしたる意気込みはない。僕は少々拍子抜けしながら、この先の作曲活動を尋ねた。東京へ出て一旗あげるのか? 彩木は滅相もないという顔つきで、否定した。
その時期僕は、小澤音楽事務所の小澤惇社長の相談に乗って、菅原洋一の「知りたくないの」「今日でお別れ」などのプロモーションに助言をし、作詞家石坂まさおの藤圭子売り出しの相談にも乗った。「新宿の女」をアピールする「新宿25時間キャンペーン」を提案、その現場にもつき合っている。スポニチが主催した「シャンソンコンクール」で優勝、友だちになった加藤登紀子は「ひとり寝の子守唄」を自作自演、フォーク勢の一角に食い込んでいく。
それやこれやでピリピリと刺激的な日々に「密着は癒着ではない」と芸能記者としては一線ぎりぎりの体験をしながら、僕は流行歌が生まれ、育っていくまでのルポをせっせと書いていた。そんな中での彩木の存在感は、おっとり善い人ふうで微温と感じたから、記事は前川の異才ぶりに的をしぼり直した。
しかし、彩木雅夫はやっぱり只者ではなかった。北海道放送のプロデューサーとして応分の活躍をし、事務所も興して東京の歌謡界と連絡を密にし、やがて札幌の名士になって行く。年に一度のフジ産経グループのボス羽佐間重彰さんの会では、必ず上京した彩木と顔を合わせた。テレビマンとしては相変わらず地味めな立ち居振舞いだが、よく見ればじっくりいい仕事をしている自信をにじませてもいた。
彼が書いた殿さまキングスの「なみだの操」は、コロムビアがぴんからトリオで大ヒットさせた「女のみち」のビクター版後追い企画。しかし彩木の仕事は、そんな意図を超越するオリジナリティを感じさせて軽快だった。驚いたのは森進一に書いた「花と蝶」の出来栄えである。川内康範ならではの妖しげで濃密な4行詞に、予想外のメロディーをつけて、森の呻吟する歌唱を引き出し、生かしている。特異な女心ソングで頭角を現した森のレパートリーに、この作品はやや文学的な深さまで加えてはいなかったろうか。
その彩木雅夫が9月16日肺炎のため死去した訃報に接した。89才、密葬が営まれ、11月3日には札幌パークホテルで音楽葬が開かれると言う。北海道に根をおろし、東京の歌謡界を望見しながら、いい仕事をしたいい人生だったろう。発表した楽曲が200曲余と寡作なことにも、彼らしく図に乗って浮かれない手堅さがうかがえる。
3つ年上の彩木の穏やかな笑顔を思い出す。
「うん、お互いに元気でな…」
と年に一度、羽佐間さんの会で会うごとに、彼が言った一言も思い出す。
《11月か、北海道はもうかなり寒いな、すすき野あたりでスポニチ北海道の連中と一杯やるのも悪くないか…》
僕は彩木の音楽葬に心ひかれる。「行くよ」と言えば彼は今度も
「来ないでくれ」
と、ボソっと言うのだろうか?
9月14日訃報が届いた。このミュージックリポートを発行するレコード特信出版社の元代表取締役会長齋藤幸雄さんが亡くなった。腎不全のためで92歳。3日のことで7日に家族葬が営まれたと言う。業界のパーティーなどでよく会った温顔を思い出す。ちょっとテレたような笑いを引っ込め、視線をはずして、
「うん、読んでるよ」
と、よそを向いたまままた笑顔をつくる。実力者だがシャイな人だった。
僕のこのコラム「新歩道橋」の連載を引き受けてくれた。もう1100回を超えて、28年以上前からのご縁である。「歩道橋」は、昔々、先輩記者だった岡野弁氏が産経新聞を退社して興した「ミュージック・ラボ」誌でスタートした。レコード業界の動きを数字で可視化するオリコンが創刊され、
「あちらがデータなら、こちらは理論でいく」
と岡野氏が対抗、踏ん張った情報誌だった。当時まだスポニチの駆け出し記者だった僕に、署名入りのコラムが任されたのは、
「理屈っぽい誌面に、多少の楽しさも、な!」
という岡野氏の狙いがあってのこと。
そのミュージック・ラボが業界の応援を受けながら、長い使命を終えて廃刊になったあと、
「あの欄がなくなるのは残念だ。後のことは俺に任せてよ」
と、齋藤会長との縁を結んでくれたのは、元東芝EMIの市川雅一制作本部長だった。曲がったことが大嫌いで、血の熱いやり手のこの人とは、彼が宣伝部員だったころからの家族ぐるみのつき合い。人柄の良さを「仏の市ちゃん」と呼びならわして、よく安酒を呑んだ。
市川氏の芸能界ぐらしの振り出しはテアトル系ストリップ劇場の文芸部。楽屋泊まりの新人踊り子が、
「お兄ちゃん、寒い!」
と訴えるのを、古毛布を探し出して来て励ましたエピソードを持つ人情家だった。昭和31年に上京、スポニチのアルバイトのボーヤに拾われたころの、僕のささやかな娯楽はストリップ劇場通い。
「坊や、また来たの、好きねえ」
などと、大姐御ストリッパーにからかわれながら、無名のころの渥美清や海野かつお、三波伸介、石田瑛二なんてコメディアンのコントに病みつきになっていた。そんなバカ話でも気が合った市ちゃんも、今年4月23日、87歳で逝って家族葬が営まれた。最後まで「新歩道橋」を楽しみにしてくれていたことは、この新聞をずっと届けたテナーオフィスの徳永廣志社長から聞いていた。
齋藤会長は栃木の人で作曲家船村徹の出身地船生村(当時)の近隣の育ち。
「あのよ、船さんがだよ…」
と、たまに会うと昵懇の間柄の話をひょいとした。僕が長く知遇を得て、弟子を自称することまで知っていてのこと。ありがたいことにそんなご縁が、梶浦秀博現社長にまでつながって、もうこちらの方が長くなったか。
訃報に接した14日は、夏に逆戻りしたような暑い日だった。体調いまいちの雑文屋としては散歩する気にもならず
「あの欄にこれでも書くかな」
と、福田こうへいの民謡アルバム「ふるさと便り」を聞いていた。これが「気仙坂」「沢内甚句」「一寸きま」などの岩手ものや「秋田港の唄」「長者の山」などの秋田もの「南部餅つき唄」「南部トンコ節」「黒石じょんから節」などの青森ものと、聞き覚えのまるでない歌ばかり。歌詞カードを見ながら聞いてもよく判らない東北弁で「どこの旦那様、今朝のしばれに何処さ行ぐ、娘子だましの帯買いに…」だの「月の夜でさえ送られました。一人帰さりょか、コリャこの闇に」だとか「山で切る木はいくらもあれどナー、思い切る気はサアサ更にないナー」なんて艶っぽいことを言っている。
福田はお国訛りそのままの東北民謡に特化。そこへ行くと三橋美智也は訛り抜きで全国の民謡をカバーした。あれはあれで凄いことだったのだ…と思い当たる。そんなところへ思いがけない齋藤会長の件と、ひきづられての市川氏の思い出である。家族葬という〝あいまいな別れ〟に、一瞬、時が止まる心地になる。置いてけぼりをくったようなこの突然の喪失感と、どうつき合い、どうおさまりをつけていけばいいものか?
そう言えば福田こうへいの担当プロデューサーの古川健仁が
「民謡は福田の方がプロであの地方のものだから、プロデュースを彼に任せたよ」
先週号に「コロナ感染」「即入院」のバタバタを書いた。8月中旬の出来事で、以後自宅謹慎、人に会わず酒も飲まない〝つもり〟だったのは、お騒がせの責任を感じての社交辞令。雑文屋の僕が家にこもっていては商売にならない。そこで舌の根もかわかぬうちに、東京・赤坂へ出かけた。友人の歌手仲町浩二のレコーディングで、僕はプロデューサーだ。
「何だい、やったんだって? 頭領もつき合いがいいねえ…」
出会い頭に作曲家岡千秋の一声である。新型コロナの危険が声高になったごく初期だから一昨年か、この人は早々と感染して話題の主になった。いわば〝コロナ先輩〟で、
「あんなものは風邪と一緒、問題ない、問題ない」
と口調が強め。たしか発症した当時は「相当にきつい」と嘆いていたはずだが、ノド元過ぎれば何とやらか。
ほとんど無名の仲町のために、いいメロディーを2曲書いてくれた。「高知いの町仁淀川」と「おまえの笑顔」で、僕としては大いに恩に着なければならない。ことにメインの「高知いの町仁淀川」が、情感濃いめの抒情歌で、どこかに船村メロディーの匂いもする。「いの町」は「いのちょう」と読み、高知の水の景勝地。「仁淀川」は「によどがわ」と読み、有名な「四万十川」をしのぐ清流と聞く。「仁淀ブルー」と呼ばれて水質日本一。手すきの「土佐和紙」の里として知られる。
仲町はもともとスポーツニッポン新聞社の広告セクションで働いていた後輩。若いころからの歌い手志願だったのが、定年を迎えるというので、記念にCDを作った。僕自身が70歳で舞台役者になった件もあり、「お前も、な!」の気分で、五木ひろしのアルバムから「孫が来る」(池田充男作詞、岡千秋作曲)をカバーした。仲町はすっかり〝その気〟になったが、業界の助っ人などないから孤立無援。全国区狙いは無理…と、縁のある高知へ通いつめる作戦をとった。2作めのオリジナルを「四万十川恋唄」にしたのも、ご当地人気を期待してのこと。
ここ10年近く、仲町は健闘したのである。高知ではそこそこの顔と名前になり、驚いたことに親身に応援してくれた女性と所帯を持ち、すっかり高知土着の歌手になってしまった。長く続くコロナ禍で全国相手の歌手たちの活動範囲は縮んだ。しかし仲町はご近所まわりの仕事から地域を攻められる。だから今度は「高知いの町仁淀川」である。仲町が事務所を持ち、有力な後援者やお仲間が大勢居る町だから心強い。前作の四万十川よりさらにピンポイントの、いい詞を書いたのは紺野あずさ。星野哲郎門下で長いつきあいがあり、高知の生まれと育ちで、四万十川も仁淀川周辺も熟知していた。それが故郷の町へUターン、恋人に「待たせたね」「ごめんね…」の男を主人公にしたから、仲町は作品を自分の老後の青春に重ね合わせて、泣いた―。
時おりあちこちに書くが、僕は全国的に顔と名前を知られ、ヒット曲を持つ人だけが歌手とは思っていない。地方に根を張って、土地の人々と歌で交流するタイプも立派な歌手なのだ。「地方区の巨匠」と呼んで親交を深めた浜松の佐伯一郎は亡くなったが、東北には「うまい酒」という乙な作品を歌う奥山えいじが居て、農業にも従事する。所沢から全国を睨む新田晃也は70歳を過ぎてもバリバリの本格派、近々中野でディナーショーをやる。福井には船村徹の弟子の越前二郎がいて、近隣に歌謡教室を開くなど活動は精力的…。僕はそんな彼らと友だちづきあいをしている。その路線につなげたいのが、仲町浩二なのだ。
今回も岡千秋がしっかり歌唱のレッスンをしてくれた。ヒットメーカーが、稼ぎにならぬ歌手にボランティア。「すまないね」と頭を下げたら、
「これでCD3枚めだもの、彼はもう弟子みたいなもんだからさ」
と笑った。旅が好きで、歌心を旅で揺すり育てるタイプの彼には「高知いの町」も心に沁みる旅先の一つらしい。
「秋にでも一緒に行こうよ、頭領…」
と誘う彼のそばで、紺野も
「私も行きたい!」
と賛成し、当の仲町は
「いの町のいいところ、端からご案内します」
と、ここばかりは力が入った。
ところで僕のコロナ騒ぎだが、先週のこの欄に書いて、見舞いの電話がかなり来ることをひそかに期待した。ところがたかだか三、四本で、最近沖縄に住む作詞家のもず唱平など
「俺もやったぞ!」
と電話の向こうで大声で笑った。見苦しいほど周章狼狽した手前、僕は、シュンとなった。
殻を打ち破れ246回
「立派になったな、うん。感激したよ、見事な座長ぶりだ。見に来てよかった、会えてよかった!」
ま、本当にそう思ってはいたが、口に出していい相手だったかどうか?「剣戟はる駒座」の座長・津川鵣汀。いくらこちらが年上としてもキャリアがまるで違った。13年ぶりに横浜の三吉演芸場に出演中の、関西の人気一座を統率する座長である。そうは判っていても懐かしさが先に立った。14年前に「鵣汀(らいちょう)!」と呼び捨てにしたころの彼は15才。僕はと言えば70才で初舞台を踏んで3年め、芝居も3本めの素人同然だった…。
そんな出会いは平成20年8月、東京・千住のシアター1010で上演した「耳かきお蝶」(脚本岡本蛍、演出岡本さとる)名取裕子・南原清隆主演の時代劇で、名取が客に膝枕をさせて耳の垢を取り、心を癒やす天使みたいな役どころ。そのお蝶に弟子入り、日夜、小間使いみたいに働く勝気な少女おつるが鵣汀で、僕はお蝶の常連客の代表格で、魚屋の隠居・大和屋五郎兵衛だった。
この鵣汀という少年のコメントが
「女の子の役は苦手だけど、お客さまに“あの子女の子?”と間違えられたらOKかな」
≪何を小癪な!≫
と内心では思ったが、座長・津川竜の長男で、生後10ヵ月には舞台に立ったという芝居ぶりに目をみはる。実にてきぱきと小気味よく、泥くささも嫌味もなく、かわい気すっきり素直なのに脱帽して、年齢差ぬきの友だちになった。大衆演劇の世界では、楽屋で生まれ、そのまま全国を転々…という話をよく聞くが、鵣汀には座長の父、女優の母・晃大洋(こうだい・はるか)弟の津川祀武憙(つがわ・しぶき)と一緒の環境があった。それが良かったのか、だから一層厳しかったのか、いずれにしろしっかりと、受け継いだ芸の血があったろう。
それが…それがである。今や29才、2児の父となった鵣汀は、祀武憙と兄弟2座長の2枚看板で、6月1日から28日まで、三吉演芸場で一ヵ月公演である。芝居とショーの2本立てで3時間を出ずっぱり。5人の子役を加えれば15人の一座を率先垂範、これでもか!これでもか!の熱演で客席を圧倒した。弟ともども青年の覇気と少々のユーモアで実によく動く。ショーになればおなじみの女装が小粋だったり、ポップス系の音楽にノリノリ、キレキレは、一座全員とまだ踊るのか!そこまでやるのか!の超たっぷり…。
「総裁」を名乗る勝龍治はおそらく祖父。嵐一郎が一時代を築いた嵐劇団を後継、パワフルな芸風を引き継いだ人と、橋本正樹氏の著書「晴れ姿!旅役者街道」で読んだ。ファンからの“お花”(金品などのプレゼント)に合掌するのもこの人の感謝の表わし方とか。鵣汀一座の面々は、舞台のパワフルさもお行儀もちゃんと受け継いでいた。
僕は根っからの大衆演劇ファンである。70才初舞台は明治座の川中美幸公演だったが、その後沢竜二の全国座長大会に呼んでもらい、門戸竜二公演もレギュラー。実は作詞家荒木とよひさに誘われて三吉演芸場の三代目大川竜之助一座に参加、ぶっつけ本番で4日間に4演目をやったのが、そもそもの舞台初体験だった。その後大物の若葉しげるに目をかけてもらい、大川良太郎や竜小太郎と芝居をし、ごく最近では梅田劇団総座長の梅田英太郎の教えにも接した。
14年前に鵣汀と知り合った時に「お前さんの結婚式には必ず出る」と約束したが仕事で果たせぬまま、彼の父津川竜の葬儀にも出席出来なかった。横浜でその二つの不義理を詫びたが
「気にしないで下さいよ、そんなに…」
と、鵣汀兄弟と母親の反応は芝居同様に温かかった。
《なんでやねん、蟄居3年とじこもり、我慢々々でなんで陽性?》
関西弁と愚痴がごっちゃで、われながら情ない。コロナ陽性を宣告された瞬間に、思い浮かんだフレーズ。後日、思慮分別ありげな短歌に書き直せばいいのだろうが、まるでその気にならない。何しろ8月5日のこの日、全国の感染者は23万3676人で、末尾「6」のうちの「1」が僕らしく、重篤化する可能性大の高齢者なのだ。
コロナウイルス感染症の治療薬はのみ薬である。「パキロビッド・パック」なる錠剤を3個ずつ1日2回、朝晩に服用する。内容はウイルスを増殖させる酵素の働きを抑える「ニルマトレルビル」と、その効力を助ける「リトナビル」との組み合わせ。朝と晩、内容が異なるやつを5日間、間違えずにのみ切る必要がある。ファイザー製でパッケージの注意書きは英文のまま。2022年2月に特例承認されているという。「特例」とは、外国ですでに投薬の実績があり、国内でも緊急の使用が必要なことから、厚生労働大臣が特別に承認したことを指す。つまり、承認のための通常の条件を満たさなくても背に腹はかえられず…というケースだ。
当然だろうが、投薬を受ける僕は「同意書」にサインをする。副作用があれこれ報告されていると言う。医師が詳しく説明してくれるのだが、専門用語は多めだし、こちらは動転のきわみにいて、言葉が素直に入って来ないから、
「わかりました。お任せします。何とかして下さい。お願いしますよ」
ともう泣かんばかり。この原稿で能書きを書けるまでになるのは、入院して二、三日後、渡された懇切ていねいな説明書を読んでのこと。多少落ち着きを取り戻してはいるがそれにしても、文章だと理解が早いあたり、根っからの活字人間だと、苦笑いした。昭和31年、スポーツニッポン新聞社にアルバイトの〝ボーヤ〟で転がり込んで以来、活字がらみの暮らしがもう66年にもなる…。
長いこと、新橋の慈恵医大病院の世話になっている。痛風や前立腺肥大を手はじめに、3年に一ぺんくらいの人間ドックもここ。年を取るごとに何か出てくると、その都度担当部署に紹介してもらう。今回もたまたま、そんな治療の続きで5日は気楽に出かけた。問診で2日ほど前に37度代の熱があったと告げたら、一応検査すると別室に案内され、小1時間あとに予想だにせぬ宣告である。無症状だが即入院を希望する。つれあいは勤め人で、感染は何としても避けたい。ン? もう濃厚接触者か!
発症して苦しんでいる人々の実情は知っていた。入院先が見つからず長時間救急車のまま行く先探し。自宅療養やむなしになって、往診も受けられず、病状が重篤化した例も少なくない。医療態勢が逼迫、従事者も感染、現場を離れざるを得ない惨状もある。それなのに僕は、発覚したその足で入院という恵まれ方である。主治医の好意もあろうが、僥倖としか言いようのない処遇だ。外来棟4階からコロナ専用のE棟4階へ、乗せられた車椅子ごとすっぽり防護用の袋に包み込まれて移動する。大きな病院というのは、凄い仕組みになっていた。壁の内側にもう一つの建造物があるのだ。縦横に走る通路がまるで巨大な迷路で、どこをどう通り、エレベーターをどう乗り換えたか見当もつかぬまま、E棟に着く。見回せばテレビでよく見たあの野戦病院ふうものものしさ。
看護師さんも完全防御スタイルである。昼当番と夜当番を名乗る2交替だが、実は何人の世話になるのか見当がつかない。眉と眼だけでは誰がどの人か識別出来ないのだ。若い彼女らは医療器具とパソコンつきの台車でやって来て、実にてきぱきと作業をこなす。倦怠感はないか、吐き気や食欲の変化はないか、ノドは痛くないか? 飲食に支障はないか、息苦しくはないか…そんな質問は、感染症のものか、例の治療薬の副作用についてか? 怖いのは一人きりの夜中だった。気のせいか熱が出て、少し息苦しくなる。年寄りは突然容態が悪化する情報を、ついつい我が身に思い重ねて眠れなくなる。
幸いなことにきつい症状も出ず、副作用もさしたることなしで、僕は12日、退院の許可を得た。入院1週間、発熱した日から数えて10日が、要治療の日数だったらしい。その間外部との接触は電話に限られていたが、僕はそれでいくつかの仕事をした。これは内証だが全英オープンの渋野が1打差で3位の残念も、映画「フィールド・オブ・ドリームス」のとうもろこし畑から現れた鈴木誠也が、いきなり先制の長打を放つのも目撃した。
その後は葉山の自宅で、また平穏な蟄居生活である。人にも会わず、当然酒を飲む機会もない。
笑うだろうなと思ったが、やっぱり笑っちまった。吉幾三の「と・も・子…」という歌。最初から長めの台詞が、いかにもいかにも…のお話なのだ。
「買いものに行って来ま~す」と出かけたとも子は、そのまま帰って来ない。おいてけぼりをくった主人公は、彼女のパンティに頬ずりしたり、かぶって歩いたり…。そんな前置きを、吉は東北弁まる出し、いきなりのハイテンションでスタートする。この瞬間湯わかし器ふうエネルギーの突出は、この人の得意技だ。
とも子は歯のきれいな人嫌い、髪の毛きちんと分けてる人嫌い、オーデコロンつけてる人も嫌いで、どんなに汚くても、心のきれいな人が好きだった。だから主人公は歯もみがかず髪はボサボサ、風呂なんか入ったこともねえ…と彼女に応じた。やむを得ず主人公はとも子探しの旅に出る、盛岡、仙台、福島、山形、秋田。噂で青森まで追ったら、人違いのすごい美人…。
秋の函館でやっと追いつくが、とも子はいきなり泣いて、子供が出来たと言う。「誰の子?」と聞いても「知らない」と答える。引用とは言え、書けばこうまで長くなるが、吉のセリフ回しはよどみなくスピーディーだから、こちらは、
「ムフフ…、ウフフ…」
と切れ間なしに笑うことになる。バカバカしいおハナシを、どうだ! どうだ! と、どんどん攻めて来るのも、この人の芸なのだ。
それがガラッと変わって、歌に入る。
〽この歌をあなたに聞かせたかった(中略)間に合わなかった花束のかわりに…
と、標準語で堂々のバラード、とも子へ届ける遅かったラブ・ソングを、いいメロディーと朗々の歌唱である。実は台詞の最後に仕掛けがあって、主人公の東北弁独白は、とも子の死から3回目の秋で終わっていた。こういうコメディーからシリアスものへの極端なギアチェンジも、この人独特の芸なのだ。
7月、彼は明治座公演中だった。久しぶりの実演(!)だから、早速見に行くつもりだった。以前、同じ楽屋で生活して、いろいろ教えてもらった先輩役者の安藤一人も出ていて、再会の楽しみもあった。ところが80才を過ぎての〝夏のカクラン〟で体調を崩し、折からコロナ感染数も天井知らず。「年が年なんだから…」と医者と家人からたしなめられると、自粛せざるを得なくなった。
7月27日、エンゼルスの大谷が21号を打ち、カブスの鈴木も8号を打ったことだし…と、気を取り直して聞いたCDが、50周年記念アルバムⅡ「ギターと吉と~吉幾三」だった。「酒よ」「泣くな男だろう」「別れて北へ」「あんた」「エレジー~哀酒歌~」などを、藤井弘文のギターで歌っていて「と・も・子…」は最後に収まっている。
歌詞集の表紙をめくると、いきなりモノクロの吉のクローズアップで、仔細ありげな視線を右上へあげている。この素顔ふうと闊達な芸人ふうが、行ったり来たりするのもこの人の芸のうち。だから当方も、
《そうか、そんな顔から始めるのか》
と、はなからお楽しみ気分になる。もともと舞台で、自分が書いた台本の芝居なのに、ギャグで突然ひっくり返して、共演の女優を笑いで身をよじらせる手口の持ち主である。どこまでがマジでどこからがギャグなのか、油断がならない。そう言えばあちこちで、出会う都度立ち話などしたが、どれが吉の真顔なのか、よく判っていないことに気づいたりする。
相変わらず、歌のネタは「酒」と「あんた」だ。男はいつも屋台の酒に過ぎた日々をしのび、思い浮かべる女は〝あんた〟である。この女性がまた思慮分別もなく男に惚れ込み、運の悪さや己の愚かさも引きずったまま生きていく。大てい降っているのは雨、積もっているのは雪でマンネリと言えばマンネリなのだが、そう思わせないところに吉の魅力がある。東北弁の重さが作る歌声の〝圧〟や訛りが作るアクセントの妙、吉の朴訥な作詞作曲法や表現力など、あれこれ思い浮かぶが、何よりもズンと来るのは、主人公たちの思いの一途さだ。男も辛いが女も辛い。そんな業(ごう)をかかえて、社会の隅で生きる人々へ、吉の視線が温い。
記念アルバム「ピアノと吉と」は3月に出た。「ギターと吉と」は5月発売。3枚めの「あなたの町へ吉と」を9月に出して、4枚め「語り歌」は11月、5枚目の「未来に残す歌」は来年2月に出す予定だと言う。50周年アルバムの5連発で、セット用収納ボックスをプレゼントする案もついている。
全編本人のプロデュースによる自作自演。これはまたずいぶん根気の要る仕事を始めたものだが、この人はそんな凝り性でもあったのか?
《マジかよ! 御身御大切に…だなこれは…》
少しあきれて僕は何かのはずみに見せる吉の、テレ方を思い出す。あの人間臭さが、このベテラン歌手の「かわい気」に通じる強味なのだ。
殻を打ち破れ245回
≪素人の歌巧者というのも度し難いもんだ。カメラ目線、挑む色でまっすぐに眼を据えて来るじゃないか…≫
スクリーンにクローズアップされた女性から目を落として、僕は審査表に点数を走り書きする。最高点から「2」点減らした数字。後からもっと凄い人が出て来た場合の予備だが、この日その心配はなかった。5月28日、メルパルクホールで開かれた「日本アマチュア歌謡祭」グランプリ部門の出場者は1名欠席したから99人。その難関を突破したのは三津谷有華さんで、歌ったのは『人形(おもちゃ)』――。
荒木とよひさ作詞、浜圭介作曲で、香西かおりのヒット曲になったこの作品を、覚えている向きも多かろう。「私はあんたのオモチャじゃないのよ!」と、不実な男に別れを告げる女心ソングだ。その場面の啖呵を軸に考えれば、女性の気強さばかりが浮いて出る。しかし二人にだって相思相愛の時期はあったはず。それがこんな別れになって、相手を責める思いの陰には、愛した男を失う傷心もひそんでいるだろう。愛憎あいなかばするドラマは複雑で、そのうえに浜圭介一流の、粘着力のある名曲である。
このイベント、参加する熟女たちの衣装は和洋さまざま、水商売ふう着物から金ピカゆらゆらドレスまで実に賑やかだ。その中でグランプリを得た三津谷さんは、タイトなドレスに野性的とも思える姿態と表情。楽曲を一気に歌い、2コーラスそれぞれの歌い収めで、挑むような眼をカメラに決めた。
この歌謡祭は今年が37回め。発足5年までは僕の勤務先だったスポーツニッポン新聞社が主催した。現存する全国レベルの大会では最古、参加者のレベルも最高の呼び声が高い。当初から立ち上げにかかわったのが縁で、僕はずっと審査委員長を仰せつかっている。会の自慢は腕利きの各社プロデューサーを審査に動員していることと、参加者を5人ずつに分け、その場で各人に講評を加えることだろうか。
そんな審査を束ねているから、表彰式も手伝うことになる。毎年面くらうのは熟女たちの変貌で、ステージ衣装を脱ぎ普段着になるから、ステージに全員勢揃いした彼女たちはただのおばさん(失礼!)に逆戻りしている。だから表彰状や賞品を渡す都度「何を歌った人?」と聞き、その答えに反応、作品のいわれなどを話して、受けたりするから、司会の夏木ゆたか・玉利かおる両氏に「長いよ!」と苦情を言われたりする。
『人形(おもちゃ)』の三津谷さんもその例にもれなかった。グランプリの名を呼ばれると、顔を両手でおさえ大声をあげて派手めの反応。喜びの声を聞き出そうとしたら、筋金入りの(また失礼!)東北弁で青森の人41才と判った。スクリーンで見たプロ顔負けの立居振舞いとは、まるで別人である。
最優秀歌唱賞が『恋は天下のまわりもの』を歌った内藤加菜さん(東京)で27才の歌手志願。60~70才が多数の参加者の中では2人は若い受賞者だ。歌われた楽曲の最多は杉本眞人が19曲で、若草恵と小田純平がそれぞれ5曲、浜圭介が4曲と、“歌い甲斐”や“歌い栄え”のあるむずかしめの作品が目立った。はやり歌の流れの変化が見える気がする。
コロナ禍で2年自粛、3年ぶりの催しだった。新聞やテレビでは連日連夜、ロシアとウクライナの戦争の惨状が報道され、「日本もそろそろ戦争の準備をしよう」などと、バカなことを言い出す政治家も出て来て、世論が誘導されそう。北朝鮮はやたらにミサイルを打ち上げるし、台湾有事も問題…と確かに空気は不穏だし、あおりを食らって物みな値上げで生活が圧迫されるなか、剣呑な事件も続発している。生きにくさ、暮らしにくさにじりじりしめつけられて、ロクなもんじゃない日々。しかしこれでも日本は平和なのだ。一昼夜、嘆き悲しむはやり歌ざんまいをどっぷり体験しながら、この平和こそ大切にしなけりゃなと思った。大会の審査委員長講評で、それを言やあよかったなと今ごろになって考えている。
明らかに〝米寿の歩み〟だった。今年のパリ祭2日めの7月7日、渋谷オーチャードホールのステージへ、舞台下手から菅原洋一が登場する。客席から温かめのくすくす笑いも起こった、歩幅狭めのおじさん歩きである。無理もない。昭和8年8月生まれだから88才、それがひとたび歌となれば音吐朗々の「マイ・ウェイ」である。国立音楽大学声楽専攻科卒業の基礎の確かさが、びっくりするほど生きている。
このところのパリ祭に菅原はレギュラーで出ているが、僕も観客としてほぼレギュラー。知遇を得たシャンソン歌手石井好子が、昭和38年に日比谷野外音楽堂で始めた第1回から、ずっと見ている。今年が第60回、石井の生誕100年を記念…という長寿イベント。客席にも〝ご長寿さん〟が目立った。杖が頼りの紳士淑女、車椅子の数も多く、母親の手を引く風情の娘さんも、立派に熟女だ。シャンソン愛好者たちは、高齢化が顕著な演歌ファンの年代をゆうに超えている。
《昭和38年なあ。パリ祭と菅原の人気歌手歴は、ほぼ同じということか!》
古きよき時代を生きた人々の中で、僕の回想もタイムスリップする。前の東京オリンピックの前年だが、小澤音楽事務所を興したばかりの青年社長小澤惇が、スポニチ記者の僕を訪ねて来た。オープンリールのテープレコーダーで聞かされたのが菅原の「恋心」と「知りたくないの」で、どちらをA面にするかという相談。彼はタンゴのオルケスタ・ティピカ東京専属からソロシンガーに転じたが全く売れず、この2曲が最後とポリドールから引導を渡されているという。
僕は即座に「恋心」を名指した。越後吹雪と岸洋子が吹き込んだ情報を持っていて、「競作」で菅原の名前を売る魂胆。しかし結果、大勝ちしたのは岸で、菅原は残るもう1曲の「知りたくないの」で再挑戦する以外に手はない。折から五輪対策でネオン街の深夜営業はご法度。ところが菅原がレギュラーだった泉岳寺のホテル高輪のトロピカルラウンジは、銀座、赤坂界わいのホステスさんたちの〝脱法隠れ穴場〟として賑わった。「知りたくないの」は彼女たちに支持され、その情報を週刊誌―ラジオ―有線放送…と拡散、ネオン街を攻める作戦は、成功までに実に3年の時間を要した。当時の僕はほやほやの音楽担当記者。しかしそれ以前に5年間、スポニチの芸能面を編集した体験から、まだ業界に認知されていなかった「プロモーション」のあれこれはお手のものだった。
今回のパリ祭で、一番「いいネ!」に思った歌手は川島豊だった。歌ったのは「行かないで」だが、哀願の囁きの前半からサビの大音声への切り替えが秀逸で、独特の情感をドラマチックに伝えた。昨今のシャンソン歌手の多くは大学の声学科出身の本格派で、美声と大振りな歌唱で客席を圧倒する。彼らと川島の違いは、ほどの良い声味と濃いめのフィーリング。本格派にありがちな歌の無表情な乾き方に対して、適度の情緒的湿度と酔い心地を保っていたこと。そう言えば菅原もかつての本格派だが、声に得も言われぬ憂いを秘めていた。
《えっ? そうか、やっぱりな…》
プログラムの川島のプロフィールを見て、驚きもし合点もした。友人のパリ祭プロデューサー窪田豊にも確認したが、川島は一時ザ・キングトーンズで歌っていた時期を持つ。「グッドナイト・ベイビー」が大ヒットしたこのグループも小澤音楽事務所の所属。「知りたくないの」の一件以後、この事務所の陰の相談役にされた僕が手がけた仕事のひとつだった。
持って生まれた〝いい声〟と、応分のキャリア、ジャンルを問わず歌い込んだ体験…と言えば、この日注目した秋元順子にも通じる。ここ3年ほど彼女のシングルやアルバムをプロデュースしての〝身びいき〟もある。長いパリ祭体験で石井好子、高英男、深緑夏代、芝野宏をはじめ、多くの知人、友人歌手を見て来たが、制作にかかわる例は初めて。しかし、彼女の「愛の讃歌」は安心し切って聴けた。一、二カ所小節が回ったのも彼女らしいとニヤニヤしながらだが。
実はこの人、杉本眞人が作曲、喜多條忠の遺作になった「なぎさ橋から」がヒットの軌道に乗っている。この曲を披露するにはパリ祭のスケールは、打ってつけだったが、
「石井さんの遺言で、オリジナルは取り上げません」
と窪田プロデューサーが言うので諦めた。歴史ある催しを宣伝の場にしたくないと石井は考えていたのだろう。しかし、プログラムの秋元の欄にはこの歌が「サビのリフレインが切なく印象的と好評を博している」と明記してあったから、ま、よしとするか。
観客に「え~ッ」とか「わあ~」とか「マジか!」とか思わせたい。そう驚かせたいのが作・演出の堤泰之の意図だとすれば、氷川きよしは〝待ってました〟とばかりに共鳴、すっかり〝その気〟の舞台を展開しているようだ。彼の特別公演「ケイト・シモンの舞踏会~時間旅行でボンジュール~」だが、6月が東京・明治座、7月が大阪・新歌舞伎座、8月が福岡・博多座、9月が名古屋・御園座と、この夏ぶっ通しの奮闘になる。
初めての現代劇、それも1700年代のフランス、パリへタイムスリップするアイディアもの。氷川が5役の美男・美女に扮するファッションの動くグラビア的魅力、共演者全員の役名が洋菓子というコミック仕立て、多彩な共演陣が右往左往するにぎやかさと、客をノセるネタが次から次だ。
「ありのままに生きる姿が美しい」
とする氷川の昨今は、変身とも孵化とも見えるビジュアルの変化から、デビュー以来の演歌・歌謡曲の世界へ、ポップス、ロック系レパートリーを積み増して拡大中。それも男女の性別を超えた美しさの追求が軸にあるから、何とも刺激的な存在感で、いわば〝氷川きよし第Ⅱ期〟だろう。今回の長期公演は、そんな氷川本体そのものをストレートに劇化していて妙だ。
彼の大劇場公演は2003年夏の名古屋・中日劇場が最初。「箱根八里の半次郎」や「大井追っかけ音次郎」のヒットをヒントに演目は「草笛の音次郎」で、演出は映画監督の沢島忠だった。沢島は美空ひばりの映画を数多く演出した人。氷川の歌手デビューに力を尽くした長良プロ先代の長良じゅん社長は彼を〝ひばり男版〟のスターに育てたい考えを持っていた。ひばり本人や沢島とも昵懇の間柄で、戦後の芸能界の実態をつぶさに体験、ビジネスとして来た人だ。
スター歌手の大劇場公演は、時代劇が主流で、氷川もその後、森の石松、一心太助、め組の辰五郎など、おなじみの主人公をコミカルに演じて来た。時に銭形平次の少年時代という苦肉の演しものも生まれたが、変化の兆しは最近2年続いた「お役者恋之介の珍道中」というオリジナルで、作・演出は池田政之。この辺までが歌手芝居の流れや常識の枠内だったとすれば、今回の演目はその限界を突破したことになろうか?作・演出の堤は大学在学中からミュージカルづくりを始め、多岐にわたる演劇集団と発表の場でオリジナルを上演し続けるベテランと聞いた。
ブルボン公爵家の執事バームクーヘンを演じるのは氷川が〝師匠〟と呼ぶ常連共演者の曽我廼家寛太郎。それに拾われて使用人の教育係にされる氷川は、大仰なたまねぎ頭に腰の曲がった老婆ふうで、青島幸男の「意地悪ばあさん」イメージの言動が客を湧かせた。ほかに彼が扮するのはマリー・アントワネット、ジャンヌ・ダルク、ルパン、騎士などだが、いずれも〝それぞれ風〟で、歴史上人物とは無関係。ショーの司会でおなじみの西寄ひがしは公爵ブルボン役を貰ったが、なぜか突然肉まんじゅうになって出て来たりする。芝居の幕切れは当然みたいに舞踏会の豪華けんらん―。
「等身大で演じる面白さ」
を体験中という氷川は、のびのび楽しげで、確かに自然体に見える。2000年に22才で歌手デビュー、今年23年め、45才になったキャリアと慣れ、それなりの分別もあろうが、何しろごく多彩に限界突破中のエネルギーが彼自身にあるのだから、舞台の熱量も相当に高めだ。従来の時代劇では、彼に〝あて書き〟をした台本でも、役になり切れなかった「やらされ感」が残っていたということだろうか。第二部の「コンサート2022」は新曲の「群青の弦」をはじめ「箱根八里の半次郎」「大井追っかけ音次郎」「白雲の城」などから「きよしのズンドコ節」まで、22年分の財産ソングを一気呵成。アンコールになると「限界突破×サバイバー」ほかのロック系ガンガンの締めである。客席のペンライトも一部、それに反応して細かめのリズムに変わった。
《なるほどな、客の方も変化、若返っているんだ》
と僕は納得する。以前は客席びっしりのライトが演歌ノリで一斉に揺れたが、最近はそんな組織立った感じがなく、ライトの数や位置も思い思い。ファン層の若返りがちゃんと垣間見えた。
僕が明治座公演を見たのは6月23日夜の部で席は正面17列28番を用意してもらった。亡くなった先代の長良社長とは長いつき合いだったが、最近の氷川の自由闊達をどう楽しんでいるだろう? 彼が目標とした〝ひばり男版〟は本人の自己開放や時流と相まって、こういう型に変化、成就している。現在の指揮官が実子の二代目神林義弘社長であることを思い合わせると、感慨深いものがあった。
殻を打ち破れ244回
『泣き虫人生』『ハンドル人生』あたりから鼻歌でなぞる。ああ船村徹作品だな…とうなずく人が居たら、相当なはやり歌通である。それが『ご機嫌さんよ達者かね』や『あの娘が泣いてる波止場』あたりになれば、そうそう! と合点する向きも増えようか。昭和30年に世に出た高野公男・船村徹作品。それを吸い取り紙みたいに覚えた僕は、当時高校を卒業する前後。ぼろ学生服に破れ帽子、腰に手拭いをぶら下げた高足駄ばき、今では“バンカラ”とか“硬派”とか言っても「それなあに?」と聞かれそうだが、質実剛健を気取った学生ファッション。当時でももはや時代おくれの、極く古いスタイルの高校生だった。そんな格好で流行歌狂いも「軟派」っぽくて少々矛盾しているが、意に介さない。作詞家高野は僕が育った茨城の人、作曲家船村は隣りの栃木の人で、同郷の先輩意識が強く、何よりも2人の作品はきわめて新鮮な魅力に満ちていた。
突然の昔話になったが、僕は今年のゴールデンウィークを、船村の足跡を追うことに集中した。来年2月が7回忌に当たるのを期して、船村本を作ることになっての孤軍奮戦である。令和元年ごろ、船村の故郷栃木で発行されている「下野新聞」に連載記事を書いた。週に1本水曜日付けで50週は頑張ったろうか。今回の本はその下野新聞社が出版元で、連載した記事プラス新企画という内容になる。昭和38年にスポーツニッポン新聞の駆け出し記者として初めて会い、知遇を得て密着取材した54年分の集大成! と意気込んで、資料と首っぴきの日々。コロナ禍で友人との酒盛りも不可だから、ちょうどいいか!
栃木県には海がない。幼少のころ船村は母親ハギさんと日光へ出かけて、大きな水面を見た。母に「あれが海け?」と尋ねたら、彼女は言下に「そうだ、あれが海だ」と答えたと言う。2人が見ていたのは、実は中禅寺湖だったと言う記述には笑った。笑いながら好奇心満々の船村少年を思い浮かべた。
後年船村が語ったハギさん像は、つぎはぎの着物にぼろもんぺ、寝ているところを見たことがないほど、働きづくめの人だった。何冊かの懐想本を読むと、船村がハギさんを語る筆致がしみじみ温かいことに気づく。本名福田博郎の船村が世に知られるようになっても、彼女は「デレスケ(馬鹿者くらいの意)が!」と信じなかった。弟子として成功させた北島三郎や鳥羽一郎を郷里に連れ帰ると、母は彼らにしきりに謝った。「こんなデレスケにつきあってくれて、親御さんはさぞ迷惑なことだろう」という気づかいで、弟子はいつもVIP待遇、彼はいつもバカ息子扱いだった。
船村がヒットメーカーに大成しても、ハギさんが「あれはいい歌だ」とほめたのは『東京だよおっ母さん』1曲だけ。東京見物をすすめても応じず、家を守って栃木を出たことがなかった母をモデルに、作詞家の野村俊夫に詞を依頼した歌である。息子の思いが母に通じたのかも知れない。
ハギさんは昭和55年2月、89才で亡くなった。船村はその棺に即席の短歌を書いてしのばせた。「ぼろもんぺ 好きかと問えば好きだよと 笑いし母の通夜に雪降る」――。
≪男は大なり小なりみんなそうだが、船村徹という人も、実はマザコンだったんだな…≫
僕は母親の女手ひとつに育てられ、いまだに飼っている猫まで雌という筋金入りのマザコンである。僕が知り合ったころの船村は、まだかなりの強面で、酒の席などで僕はいつもピリピリしていた。そんな大作曲家の素顔に合点しつつ、僕の船村再探検はしばしば横道にそれながら、まだ当分は続きそうだ。
見慣れない数字が並んだケイタイ番号だが、とりあえず受話器を取った。「もしもし…」と、相手は聞き覚えのありそうな声だが、誰かは判らない。それが神野美伽本人だったからうろたえた。前日の6月7日夜、中野サンプラザホールで、彼女のコンサートを見たばかりだ。
「まだボディブローが効いてるよ。パワフルなんてもんじゃないね。うん、あなたの近ごろの姿勢には敬服してますよ。ホント…」
大急ぎで前夜の感想を口走る。長い親交があるが、電話が来たのは初めて。終演後にスタッフから楽屋へ誘われたが、断って帰った後ろめたさもあった。
タイトルからして「さあ、歌いましょう!」ってコンサートだった。第一部がいつものバンド神野組に東京キューバンボーイズのホーンセクションを加えて、「ヘイヘイブギ」「ジャングルブギー」「ホットチャイナ」…である。幕開けから身もココロも全開放の大音声が、聴く僕のボディーへめり込んで来た。敗戦直後の笠置シヅ子の奇跡についてコメントしたかと思えば、お次は江利チエミの再評価で「テネシーワルツ」「旅立つ朝(あした)」を取り上げ、「マンボメドレー」ミュージカルナンバーから「あの鐘を鳴らすのはあなた」までぶっ続けで休憩になる。
《そうか、「江利」の日本語表記と、あちらイメージの「エリー」とでは、イントネーションが違うんだ…》
神野のトークで知った新事実を反芻しながら周囲を見回す。着席のままの多くは茫然自失。買い物や化粧室を目指す高齢者の足取りは、おぼつかなげで、みんな神野魔術に圧倒されている。
それはそうだろう。ふつうの演歌は歌手が切なげに身をよじり、歌声にシナを作り、吐息まじりの陰影を作るなど、差す手引く手で作品の哀愁ドラマを体現してみせる。ところが神野の場合は、伝えたい音楽的意志と自己主張が先にあり、作品はそのためのツールになる。いわばロックのノリで、歌たちは強烈なエネルギーで吐き出された。
第二部はおなじみ「酔歌ソーラン節バージョン」に「海の伝説(レジェンド)」「日本の男」「千年の恋歌」「無法松の一生」「男船」などが並ぶ。演歌的哀訴は「浮雲ふたり」で聞かせたが、これさえもやはりスケールが相当に大きめ。これまでの演歌表現、常識の枠組みをとっ払って演歌を変えたいボーカリストとして活路を開きたい野心が、ステージにあふれている。選曲と構成の準備に時間をかけたろうことは、曲ごとに意味あいや意義に触れるコメントがついたことで察しがついた。
貰った電話だが質問をニ、三する。ノドは大丈夫なの? には
「平気、平気、あしたからは四国、ずっと歌えるからそれがうれしい」
コロナ禍の2年余、その間に危機一髪の緊急手術をしているが、全快してるの、本当に? には
「それは、まだきついですよ。でもだましだましね。ゆうべだって、そんな気配は見せなかったでしょ?」
この人が近ごろあらわにしている正体は〝しなやかな野性〟みたいだ。
江利チエミつながりになるが、6月15日午後には渋谷の大和田さくらホールで永井裕子の「酒場にて」を聴いた。「22周年記念リサイタル2022夢道Road to 2030」という催しで、20周年行事が延び延びになっていた。
「同じキングの大先輩が亡くなって40年ということで、心して歌い継ぐことにしました」
と言うチエミのこのヒット曲は、記念曲「櫻紅」のカップリングに収まっている。永井もやっと歌える喜び山盛りで「菜の花情歌」「そして…女」「愛のさくら記念日」「華と咲け」「ねんごろ酒」「勝負坂」などを、これでもか、これでもか…だ。
《チエミ没後40年か、亡くなったあの日に大あわてで追悼文を書いた…》
僕はスポニチの記者時代にあと戻りした。高倉健と離婚、3人娘の美空ひばり、雪村いづみともども新しい活路を手探りしていた辛い時期に、酔っての孤独死である。原稿に「酒場にて」の歌詞を引用したいがキングの人々は出払っており、手許に資料はないし、当然だがネットなどない時代。
〽死ぬこともできず今でも、あなたを思い…
という二番が切なく符合するのを、この曲を愛唱していた新宿のクラブのママをつかまえて、電話の向こうで歌わせて何とか間に合わせた。あれは〝かずみ〟という名の別ぴんさんだったが、今はどうしていることやら。
《そうか、今度はその手で来たか、なかなかの生地で、こまやかな仕立て方…》
そんなことを思いながら、坂本冬美の「酔中花」を聴き直した。ひと晩あいだを置いて、もう3度めになるか。吉田旺の作詞、徳久広司の作曲、南郷達也の編曲と三拍子揃って、冬美の出番が整えられている。
〽後をひくよなくちづけを、残して帰って行ったひと…
歌い出しの2行分、結構なまなましいやつを、冬美はスッとさりげなく手渡して来る。メロディーも低めから出て中くらい、声のボリュームも小さめだから、こちらは自然に聞き耳を立てる。ストーリーはおおよそ見当がついた。帰る先を持つ男と置いてけぼりの女。よくあるお話だが吉田旺がひとひねり、「おとな同志の粋な関係(なか)」とわきまえさせておいて、それでいいはずなのにやっぱり気持ちが後を追うから
〽あたし、ヤダな、めめしくて、とまどい酔中花…
とおさめる。徳久のメロディーもそんな女主人公のココロのうずくまり方を、心地よい起伏と軽めのリズムでスタスタとこだわりがない。「はい、あとは冬美さんあなたなりに、どうぞ!」という気配だ。
委細承知…なのか、冬美は歌全体を七分目から八分目くらいの声の使い方で、言葉のニュアンスに歌唱の重点を置く。1コーラスに四、五個あるキイワードとサビのフレーズはきっちり立てて、後はそれぞれの語尾の息づかいで仕立てた。決定的なのは各コーラスの歌い収めの「酔中花」の「か」の伝え方。その前に一番から順に「とまどい」「ゆらゆら」「さみだれ」とある気持ちの揺れ方をそのままに、ふっと吐息まじりに〝置いて〟みせての「か」なのだ。不実な男にひかれながら、そんな自分をいとおしむ風情もあって、聴くこちらはその最後の最後の「か」で殺された。
「夜桜お七」と「また君に恋してる」を転機に、演歌からポップスまでオールマイティの世界を構築した人である。どんなタイプの楽曲を歌っても、一声で冬美と判る声味がオリジナリティの源。それは張った時の声の輝きと哀感に代表されていた。それがどうだ、今作くらいに抑えめに歌っても、きちんとその魅力は維持されている。おおらかに「広げる」寸法から、こづくりに「ちぢめる」歌い方に変化して、手に入れた構成力と訴求力が、この人のこのところの進化、稔り方かも知れない。カップリングは名作「紅とんぼ」だが、作曲者船村徹に聞かせたかったくらい〝語尾の情感〟が生きている。
「俺でいいのか」以来、もう3年になるのか。あれも吉田・徳久のコンビで、なかなかの出来栄えだった。「ブッダのように私は死んだ」には少々おどされたが、坂本冬美の歌手としての〝本籍〟はやっぱり演歌だと思っている。ドレスの冬美もいいが、時には着物でこのタイプを決めてくれれば溜飲が下がる。そんなファン心理を読み切るように前作は男唄、今作は女唄。
「なかなかの手並みと言わざるを得ないな」
ついこの間、日本アマチュア歌謡連盟の全国大会で一緒になった山口栄光プロデューサーに、そう言えばよかったなと思う。審査員紹介の舞台から、小さい即席階段を客席へ降りる足どりがおぼつかなくて「肩を貸してよ!」と頼んで介護!? されたばかりに、そっちに気を取られた。
さて、もう一度冬美だが、9月20日から一カ月、明治座公演をやるチラシが届いた。中村雅俊と共演で演目は「いくじなし」とある。平岩弓枝作、石井ふく子演出のこの作品は、浅草龍泉寺町の裏長屋が舞台。水売りの六助は気のいい男だが、下町気質のおはなの尻にしかれっぱなしというのが冬美と中村の役どころ。それが夏のまっ盛りに井戸の水が涸れたからさあ大変、井戸替えの人手集めに聖天町の世話役甚吉がやって来て―と、何でそんなことを知っているかと言えば、実はこの作品、3年前の2019年6月に、川中美幸・松平健の大阪新歌舞伎座公演でやっていて、僕はその甚吉をやらせてもらった経緯がある。
出番は一カ所だが、川中・松平両座長にからんだいい役。スポニチの記者時代に何度か会っている石井の演出だから大いに緊張した。その旨に加えて「こんな身分になってからは、初めてお目にかかります」とあいさつ。せっせとけいこに励んだが、演出家からのダメ出しがない。心細くなってお伺いを立てたら「いいんじゃない」と微笑を返されたものだ。さて9月冬美の「酔中花」も聞きに行くが、甚吉役はどなたが? というあたりも、興味津々である。
殻を打ち破れ243回
名手! と紹介された。尺八の素川欣也氏。吹き口に情熱そのものを注ぎ込むような演奏が、会場の空気を揺すり圧した。ひなびた味わいがドラマチックな起伏を示して、ふと『リンゴ追分』の1フレーズを聴いた心地もする。それが『与作』のイントロに収まって、弦哲也が歌に入る。何だか妙にリラックスして、いつになく歌が軽やかだ。4月2日夜、原宿のラドンナで催された彼の「LIVE2022旅のあとさき~ふたたびのうた」のスタート・シーン。素川氏はこの場面だけのスペシャル演者だった。
『与作』は弦が昔、NHKの「あなたのメロディー」の下請けで、発掘した作品。応募曲から目ぼしいものを選び出す、無名時代のアルバイトだったが、後に北島三郎がレコード化、彼の代表曲の一つにした。しかしこの曲がこの番組1977年の年間最優秀曲に選ばれるまでは、番組内で弦が歌い続けた。ギターの弾き語りで共演したのは尺八の村岡実氏と、そう思い出せば、今回のライブの冒頭に、同じ演出でこの曲を据えた弦の胸中も想像に難くない――。
節目を大事にする人で、音楽生活55周年が一昨年。記念コンサートをやるはずが、コロナ禍で昨年6月の北とぴあに延び、ライブが今年になったから57年めのステージになる。売れない歌手時代から全国を歌い歩き、歌手と作曲家兼業時代も旅暮らしだった。作曲した最初のヒットが内藤国雄の『おゆき』で1976年だから、それまで11年の苦吟の年月がある。振り返れば思いは深かろう。
人には出会いの数だけ別れがあると言う。弦には運命的と言ってもいい別れがあった。ハワイのスタジオで『北の旅人』をレコーディングした石原裕次郎。いずれ日本で…と握手して別れたが、裕次郎はこれの曲を歌うことはなく逝き、作品だけが一人歩きして弦の代表曲に育った。『裏窓』は亡くなる1年前に美空ひばりが吹き込んだ。作曲家として会わねばならぬ頂きの人に、何とか間に合っている。弦は“昭和の太陽”二人との縁を語りながら、その2曲を歌う。淡々と、作品を慈しむような味わいがあった。
心ならずも見送った友人の名も挙げた。作詞家の喜多條忠や坂口照幸…、中村一好プロデューサーの名も出て来た。この日が命日だと言うが、没後何年になるだろう? 彼とパートナーの仲だった都はるみは引退同然。「元気なんで、また歌ってくれないかな…とは思うけど」と、弦が心底惜しそうに言って歌ったのは『小樽運河』で、都が一度引退、再び歌謡界へ戻った時の再出発作だった。
彼は長く金沢へ通っている。歌づくりと石川県の各地を訪ねるテレビのレギュラー番組を持っていてのこと。その他に北海道にも福島にも九州にも、多くの知人、友人が居る。不遇の時代に鈍行列車で全国を回って出会った人々との、親交も続く。つらい時期に背を押してくれた数々の人情が、彼の作品の情の濃さと温かさを作ってはいまいか。この夜のライブで、そんな出会いを代表して舞台に上がったのは川中美幸で、お互いの代表作『二輪草』を笑顔でデュエットした。『ふたり酒』で第一線に浮上した二人は、作詞したたかたかしとともに“しあわせ演歌”の元祖と呼ばれる“戦友”である。
『飢餓海峡』と『天城越え』はビシッと決めて弦哲也74才、この日ステージで垣間見せたのは「酒脱」の小粋さとおおらかさに思えた。たまたま当日の朝刊全紙は、彼の日本音楽著作権協会会長執任を伝えていた。その件は笑顔で流し、アンコールで歌った『我、未だ旅の途中』で示したのは歌書きの気概だったか、会場周辺で忙しかったのは弦ママの愛称で知られる夫人と音楽家の息子田村武也、秘書の赤星尚也だった。
その日の夕方、渋谷のライブハウスPLEASURE PLEASUREの関係者受付には長い行列が出来た。知人を見つけて手を挙げる女性、グウタッチする男性4人組、仕事の続きみたいに小声の会話の男女…。いろんな業界の匂いを漂わせる人々が「山崎ハコ・バースデイライブ復活! 〝飛びます〟」開演前のにぎわいを 生々しくする。5月14日、開演は16・00。僕もその列の中の一人だ。
《どの劇場、コンサートやライブ会場に行っても、関係者がここまでの数になることはないな》
会場入り口でそう思ったし、1階K列10番の席についても同じことを思った。一般のファンと比べると年齢が少し上で、身なり、態度物腰が独特。ハコを〝捨ておけない気分〟が一様ににじむようだ。ハコの弾き語りの1曲目は「望郷」で、青い空白い雲と一緒に語られるのは、神社の石段、舞っていた蝶、かぶと虫やおばあちゃん。2曲目が阿久悠の遺作から彼女が選び出した「横浜から」で、港町をさすらう娘の独白である。以下「ヘルプミー」「SODASUI」「私が生まれた日」「新宿子守唄」などが続く。
要するに山崎ハコの世界はとても切ないのだ。一生懸命に生きても辛い。夢と現実の行き違いが辛い。男も辛いし女も辛い…。ハコはギターをかき鳴らして哀訴する。歌が高音部にかかると、声は艶と張りと粘着力を増し、悲痛な響きを濃くする。低音部へ落ちると、呟きくらいのボリュームになって、客は引き寄せられるように聴き耳を立てざるを得ない。
僕は1曲ごとに彼女の述懐を聞き届け、その胸中を探ろうとする。そんな作業はしばしば、僕に少年時代の満たされぬ思いや鬱屈を振り返らせ、共感を増しながら、彼女の世界に引き込まれていく。あんなに小柄でやせぎすな体をふるわせて、それでもあんなにひたむきに…と、キャラと歌唱から感じ取る情感は「いじらしさ」や「けなげさ」「いたいけな純真」で、それは僕らが世俗にまみれてとうに見失ったものを突きつけて来る。だから彼女を捨ておけなくなるのだ。
そんな僕の感興は初ヒットの「織江の唄」から始まっている。その後40数年の歌手活動と浮沈の中で、彼女は変化し成長したろうが、僕の方は第一印象を引きずったままだ。ハコの舞台は続いて、新宿花園神社の椿組公演の映像と主題歌を歌う彼女になり、「今年もやるからネ」の予告があって幕切れの「ごめん…」「縁(えにし)」アンコールの「BEETLE」「気分を変えて」につながる。このうち3曲は去年の7月4日に、原宿クエストホールで彼女が開いた「最初で最後の安田裕美の会」で歌われた。安田はハコの夫君で、尊敬する先輩であり、よき理解者で同志でもあったギタリストだが、2020年7月6日に亡くなっている。
そんな事情もハコを〝捨ておけない〟具体的な理由のひとつなのだが、ハコは
「この2年、5曲しか歌ってなかったし…」
「安田さんに、もう歌えなくなっちゃったの? 僕の責任かななんて言われたくないから、この会をやることにしたの」
「こんなに沢山の人がいてくれるんだもの、復活だ、大丈夫だヨと言いたい、皆さんありがとうございました」
と言葉を継いだ。5曲だけ歌ったというのは原宿の催しを指し、彼女が最後まで夫君を「安田さん」と呼んだことは、みんなが知っていた。
話はコロッと変わるが、その3日後の17日、僕は宇都宮の下野新聞社へ出かけた。以前連載した作曲家船村徹の追跡記事を、来年の7回忌を機に単行本にする打ち合わせ。応分の加筆をするほか、船村語録も加えたい希望と原稿を届けるトンボ帰りである。始発駅の逗子から終着駅の宇都宮へ片道3時間、湘南新宿ラインで往復した車窓は、東大宮あたりから田園風景が広がった。水田には植えられたばかりの早苗が青々と風になびき、黄色に色づいているのはおかぼ陸稲か。屋敷山にかこまれた農家は古めかしく、対照的に新しい文化住宅はカラフルだ。
レモン酎ハイをチビチビやりながら、ふとこれが僕の原風景か! と感じ入った。疎開して小学3年生から高校卒まで暮らした茨城・つくば市の隅の旧島名村は、知人を頼っただけの縁だから故郷ではないのだが…。
《しかし、昭和そのものだなあ! 船村徹先生も山崎ハコも。俺も人後に落ちないか…》
何だか突然、ここのところの感傷の意味が、妙に腑に落ちた。ちょこっとだけにしろ、旅って奴はいいものだと思った。
カラオケ雑誌で歌詞を先に読んだ。朝花美穂の「しゃくなげ峠」だが、もず唱平ならではの世界、ドラマ設定も情感表現の確かさも、久しぶりにいい仕事をしている。
《それにしてもおかしいな。なぜか出来たぞ! の報せがない―》
新曲が出るごとに、どや顔のCDが届く相手なのだ。長いつき合いだからこちらも、その都度どこかに感想を書く。それが今回は…。
会いたい! と、性急に月島の店「むかい」へ現れた。作曲した宮下健治、歌った朝花に担当ディレクター、所属プロダクション社長と5人連れ。浅草のレコード店でお披露目歌唱をやった後とかで、やたらに気合いが入っている。当方は当日朝、一応CDは聞いて出かけた。だから「ン?」になる。初対面の朝花は鳥取・米子出身の23才。歌の感触よりも少々若くて、この業界5年生とか。
実はこの人の、歌いだしの得も言われぬ〝けだるさ〟にゾクッと来ていた。主人公の遊女ははたちだが、
〽故郷はどこだと問う…男に、
〽無いのと一緒と答える女…なのだ。おそらくは世の辛酸をあらかたなめたろうタイプ。それを自分が居たところと語る
〽山裾の紅い燈、指差す憂い顔…
の歌い出しの1行分で、朝花は作品の色も中身も決めていた。
ベテラン歌手が持つ生活感…と勘違いしていたが、どうやらこれは宮下の演出。4小節に2ヤマ、やるせなげなメロディーをうねらせて、朝花の息づかいを決めた。演歌は歌い出し2行分の歌詞で決まると、古くから言われて来たが、メロディー4小節、歌詞1行分でもこんなに〝決まる〟ことを再発見する。
宮下は元歌手、シングルを15枚出した経験を持つ。そのころ身につけたろう昭和30年代から40年代の演歌のエッセンスに、昨今のはやりすたり、書きたいものへの熱意などが加わると、こういう曲になるのか。その〝けだるさ〟はほどが良い。古いタイプの演歌はシナを作るのが詠嘆の技だが、朝花にはそれがない。シナを作れば歌が嘘になるレッスンを、宮下はこの娘に重ねて来たのだろう。
ビールで多弁になるもず唱平の隣りで、一生分の酒はもう飲んだからと、素面の宮下は、
「詞に惚れ込みました」
と、ボソリと言った。
〽死出の旅路を厭わぬ男、心を任せて紅差す女…
道行を止めるのは声を限りに啼く蜩、二人が立ち尽くす峠に咲くしゃくなげは、白か淡い紅色、初夏の光景が絵に描いたようだ。師匠の惚れ方が愛弟子に伝染する。「遊女」「道行」は近ごろでは死語に近いが、そこまで思い詰める愛の形を、朝花は、
「古典文学みたいに感じた」
と言う。厚みのある声が表と裏の境目のない利点を持ち、こぶしも適度、歌う語尾にゆとりまでにじむ。大衆演劇が好きという芝居心が、芸の芯にありそうな歌唱だ。
もずは自称「未組織労働者の哀歓」の書き手である。理屈っぽさが癖の彼らしい言い回しだが、要は社会の底辺に生きる人々の、けなげさや一途さを描くのが長年のテーマ。デビュー作の「釜ヶ崎人情」や出世作の「花街の母」で一目瞭然だろう。前回会ったのは大阪で2年前くらいになるか、行きつけの居酒屋「久六」で、もずが
「マーケットリサーチをすれば…」
などとグズグズ言うのにいらだって、
「誰が何を欲しがるかなんて、ほっとけよ。もずはもずの書きたいものを書けばいいんだ!」
と、僕は酔いに任せて言い募った記憶がある。そんな思いが冒頭に書いた「良いじゃないか!」につながった。そのうえに、宮下の曲、朝花の才能に出っくわしている。めぐり合わせの妙で久々に三拍子揃った仕事である。今作はひょっとすると彼の代表作の一つに育つかも知れない。
そんな当方の思い込みをよそに、もずがその夜力説したのは、沖縄音楽と日本のそれの接点の新しい発見。古賀政男が出て来たり船村徹が出て来たりで、相変わらずの論客ぶりだが、ま、あの年になってまた、新しいテーマを見つけたのなら、ご同慶のいたりとしようか。それやこれやを抱えて、もず唱平は沖縄からやって来る。寒いうちだけ…という生活が、どうやらあちらに根がおりそうだ。
「大阪から来るんと、違いはないんですわ、2時間半ちょいで…」
新幹線と飛行機をそう計算して、事務所も那覇に構えたらしく、
「一度遊びにおいで下さい。5匹の猫がお出迎えします」
秘書の保田ゆうこや歌手の高橋樺子らが、癒され加減にそんなことを言っている。
殻を打ち破れ242回
≪ほほう、何とまあ、似合いの曲に出会ったもんだ…≫
テレビで歌う三沢あけみと新曲『与論島慕情』を見比べ、聞き比べてそう思った。『島のブルース』でいきなりブレーク、それを代表作と歌い続けて来た人である。あれはたしか奄美大島が舞台。それが今度は与論島である。長野出身なのに奄美の出と、よく思われた彼女には、似合いの作品じゃないか!
4行詞4コーラス、素朴な歌である。はじめの2行で島の風物を淡々と歌い、次の2行が与論島讃美。それも「夢にまで見た」「離れ小島の」「あつい情けの」「帰りともない」に「与論島」をつないだ4パターンに、例の鼻にかかった声で艶を加える。作詞、作曲家の名に耳なじみはない。聞くところによれば、島の人が作り、島唄として歌い継いで来た“地産地消”ソングらしい。
そう言えば…と思い出す。奄美あたりは世界自然遺産に登録されたばかり、三沢は今年が歌手生活60年で、このシングルはダブルの記念盤になった。それにしても――。
収録された2曲目には相当に驚く。三沢の恩師渡久地政信の作曲だから是非!となったのだろうが、詞は川内康範による漂泊・無頼の男唄。明日の行く方を雲に聞き、風に聞いてみたところで、答えはいつも自問自答した通りでしかない。それならば
♪どこで死のうと生きようと(中略)天上天下ただひとり 頼れる奴はおれひとり
と思い定める内容だ。
『流れの雲に』がタイトル。先ごろ高倉健の遺作アルバムが話題になったが、それに収められた1曲だった。川内の4行詞3コーラスが、彼ならではの簡潔な表現で相当な迫力。技を使わず淡々と、そのくせ言い切ってしまう技の凄味がある。その圧力を委細承知と引き取って、渡久地は穏やかなワルツに仕立てた。あとはたっぷりめに、歌い手の器量に任せる趣向だ。三沢は天を仰いだろう。これを女の私に歌えというの? 自分の胸を叩いて、何をひき出し、何をきっかけに歌えというの? 僕も聞く前にはミスキャストだと呆れた。ところが三沢は捨て身の“やる気”と年の功で、力まず飾らず率直に語りこのハードルをクリアした。男の中の男が歌う男唄と真逆の柔らかさで“異種交配”の面白さを生み出した。
♪どうせ死ぬなら死ぬ気で生きて 生きてみせると、自分に言った…
昔、川内康範が小林旭に書いた『落日』の衝撃を思い出したくらいだ。
3曲めは彼女のための新曲である。さわだすずこが作詞、徳久広司が作曲した『幸せの足音』で、軽快な今日ふう歌謡曲にホッとする。冬の厳しさに耐えて咲く福寿草、梅雨の合い間に色を変える紫陽花、やがて雨上がりの虹を見上げて、幸せの足音を聞く女心ソングだ。
『与論島慕情』は、昨年思いがけなく業界の実力者からプレゼンされた。「いい歌だし、どうせなら私、来年が60周年なので…」と、甘えて記念曲にしてもらった。恩師の情にも報いたいと言ったら『流れの雲に』を提案された。渡久地作品の旧作なら数多くあるのにどうして…とは思ったが、挑戦する若さはまだ残っていた。『幸せの足音』は今日現在の気持で歌えた。節目の年だから記念盤を何とか…と思いながら、でも無理かと言い出しかねていたところへ、降って湧いたようにいい話のあれこれである。
「神様が最後のチャンスを下さったの、きっと…」
と、三沢は声をはずませる。「よかったよな」と応じる僕は、彼女とこの世界では年上の同期生。東映のお姫様女優から歌手に転じたばかりの彼女を、ホヤホヤ記者として取材したのが昭和38年だ。とすると「俺もこの道60年か」と思い当たるがすでに足腰衰えていてヤレヤレ…である。
《「カップリングソング・ライター」って呼べる作曲家も居るんだ…》
4月8日夜、赤坂のMZES TOKYOで田尾将実のライブを見てそう思った。メインの曲は歌い手のキャラや制作者の狙いなど、いろんな条件と制約がある。曲づくりはそれに添って万全を期す。しかしカップリング曲は、書き手の裁量に任されることが多いから、田尾はその自由さを存分にして来たらしいのだ。
「夜のピアス」「彼岸花の咲く頃」「泣かせたいひと」「再会」「冬椿」「あなたのとなりには」など、どれがそのケースかは判らないが、なじみの薄い曲が並んだ。
〽男なんてまるでピアス、いつの間にか失うだけ、男なんて夜のピアス、心の穴に飾るだけ…
冒頭の曲の聞かせどころ。字づらだけでは醒めた女心がシャープなだけで、かわい気がまるでない。しかし、田久保真見のこの詞が、田尾の曲の哀調に乗ると、主人公の喪失感や孤独が切なげに、表に出て来て沁みる。このコンビの美点かも知れない。
「いい歌になるかどうかは、歌詞次第ですよね」
田尾は真顔でそう言う。いい曲を書く力量が前提だろうが、彼なりの自信が口調ににじむ。
「彼岸花の咲く頃」は、
〽赤い彼岸花逆さに吊るして、線香花火みたいねと無邪気に笑った君…
に、突然別れを告げられた少年の歌。喫茶店、ルノアールの絵、映画や本の話に明け暮れた少女との日々がみずみずしく、彼岸花の赤までが目に浮かぶ。作詞家のいではくが「ずいぶん昔に書いたものだけど」と、そっと差し出したというのもいい話だ。
いい詞に出会うと田尾は動く。円香乃の「別れの朝に」の時は、お台場を歩き回ったらしい。女主人公は男のYシャツをいつもの引き出しに収め、念のため目覚まし時計もかけておく。彼の留守の夜は、灯りをつけたままで帰る。窓の灯りにほっと一息つけるだろう。部屋にはカトレヤの花を飾った。いつかこの部屋に、穏やかな幸せが訪れることを祈って。そんな別れの日を彼女は、
〽あなたのために出来ることは、私にはもう何もない…
と結ぶ。田尾はこの主人公の優しすぎるほどの心根に、作者円のそれを重ねて感じ入るのだ。この日ゲストで歌ったチェウニの「駅」は高畠じゅん子の詞だが、これを持って田尾は、なぜかシンガポールまで出かけている。
今回のライブは昨年やるはずがコロナ禍で延びた。たまたま毎日新聞の川崎浩氏が、歌う作曲家のライブのシリーズを企画、田尾にも声を掛けた。発端は遊び心だが、受けた田尾は一大決心をする。ヤマハのポプコン入賞を機に音楽生活が50年、年も70才で、節目の年。初めてのライブだから音楽関係者に見てもらおうと、その席決めまでする念の入れ方。キャパ40の会場なのに腕利きのミュージシャン5人をバックに、本格的なスケールの舞台にして、熱い血のおもむくままだ。
田尾と僕の親交は25年ほど。作曲家協会が主催したソングコンテストの審査の座長を僕が手伝い、彼は平成10年に石川さゆり用の「キリキリしゃん」翌年に五木ひろし用の「京都恋歌」でグランプリを連覇した。しかし業界の待遇は依然変わらないと言うので、その前後の受賞者花岡優平、藤竜之介、山田ゆうすけに作詞の峰崎林二郎らを加えて「グウの会」を作った。酒盛りもやるが、同じ詞にみんなで曲をつける腕比べなどをやって、彼らの背中を押す算段。「愚直に行こう!」の意の「グウ」である。このコンテストは作曲家三木たかしが主導した。田尾が彼に、
「ヒット曲が沢山あっていいですね」
と言ったら、三木は
「それよりも、捨てた曲の数では誰にも負けないよ」
と答えたという。田尾は以後その言葉を自分の指針として来た。
下関・豊浦町の漁師の網元の息子である。激しい気性を裡に秘めた直情径行型でストイック、作る曲も一途で妙に粘りけが強かった。しかし最近の作風はそんな粘着力を削ぎ落とし、いい哀愁メロディーにいい詞、ポップス系フィーリングと心地よいリズム感で、ライブの成果は「22年型正調歌謡曲」と呼んでもいい充実ぶりを示した。
張り切りすぎて後半、声が嗄れた。本人は大いに反省したが、その弱さを補おうとする懸命の歌唱がこれまた一途で、かえって人間味を濃くした。やはり田久保との「東京タワー」をアンコールに据えた。東京へ出て来た当時の夢や失ったもののあれこれを、2人がこの曲に託した気配があった。昭和31年はたち前に上京してしばらく、似た思いで東京タワーを見上げた僕も、往時を思い返して鼻先がツンとなったりした。
〝旅役者見習い〟を自称している。縁あって大衆演劇界の雄・沢竜二の全国座長大会にレギュラー出演しての身分。〝旅役者〟〝ドサ役者〟を誇称する沢のひそみに習ってのことだ。
3月27日午後の池袋、シアターKASSAIの舞台で、
「親分大変だ! 親分…、じゃなかった、大変だよ沢さん!」
やくざの代貸姿の僕が、下手そでから飛び込む。中央には国定忠治の赤城山の場の沢が居て、
「何だ? 何だ? どうした」
になる。その耳許へ、
「川中さんがさ、川中美幸さんが見に来てるんですよ! おしのびで…」
と報告するから、場内の客までが一斉に「えっ?」になった。
催しは沢竜二プロデュース「春の若手時代劇まつり」の千秋楽。会場もこじんまりした実験劇場タイプで、パイプ椅子を並べてふだんは50から70席と言う。それをコロナ禍対応で飛び飛びにしたから、30人前後の客相手に膝づめ芝居だ。その一隅からつば広帽子の川中が立ち上がり、笑顔で手を振る。少人数でもちゃんとどよめく客席へ、
「握手を求めたりしちゃダメだよ。こんな時期だからね…」
と、沢が大喜びのファンに注意をする。
実はその前日の26日夜、渋谷の川中のお好み焼きの店で、亡くなった放送作家あかぎてるやを偲ぶ会が開かれていた。沢は芝居づくりや歌づくりでごく親しくつき合った仲だから、公演を中抜けして参加、池袋―渋谷をとんぼ帰りした。舞台化粧のままだったのを見て、川中は「よし、見に行こう!」と決めたらしい。もともと「あれが原点」と言うくらいの大衆演劇好きの人なのだ。僕は彼女から声をかけて貰って、70才で明治座が初舞台。以後一座のレギュラー出演者だから、この日は2人の大座長との縁にはさまれる光栄に浴したかっこうになった。
公演初日には、友人の歌手新田晃也が弟子の春奈かおりと現れた。差し入れは例によって心づくしの「空也」のもなか。新田は演歌系シンガーソングライターのベテランだが、呼び捨てのつき合いが長く、当然春奈もお前呼ばわり。ところが今公演メインの若手座長若奈鈴之助が、彼女に直立不動になったから驚いた。聞けば彼は春奈の母親の弟子だったそうな。そういえば春奈からは母が座長の〝若奈劇団〟で、3才で初舞台を踏んだ昔話を聞いたことがあった。鈴之助の現住所は茨城の守谷。僕はその隣町の水海道一高の出だと、奇縁に話が飛び、彼がそれ以前は長く会津若松に住んだことを聞き流した。彼の師匠率いる若奈劇団は千葉・白浜で旗揚げしたあと、会津で常打ち活動をした件に、思いいたらぬ迂闊さがあった。
今回一緒になった若手座長は鈴之助に愛望美、副座長が若奈葵、愛美萌恵らで、九州の名門梅田英太郎と沢一門の木内竜喜はベテラン座長。それに沢公演おなじみの岡本茉利が傍を固める5日間6公演。芝居が「上州悲恋地獄」「夫婦酒」「三日の娑婆」と日替わりの3本で、僕は大工の熊さんややくざの代貸などでチョロチョロした。
二部はおなじみの舞踊ショー。座長大会でベテランたちの出番もずいぶん見学したが、今回、初めて見て感じ入ったのは梅田英太郎の〝眼芝居〟だった。ワルの上州屋茂五郎役は恐いくらいの眼力に凄みを利かせたが、女形で舞う「細雪」はその眼が哀恋のきわみを漂わせ、まばたきまでがしっかり芝居する。それを生かすためか、眉は細く薄めの仕立て方に見えた。
この人、別の日には「さざんかの宿」も踊ったが、歌は五木ひろしバージョン。鈴之助は小林幸子の「おもいで酒」を踊ったが、よく聞けば歌は坂本冬美である。岡本茉利は懐かしい「東京アンナ」を踊ったが、歌っているのは大津美子ではなく美空ひばりと、それぞれのこだわりが見え隠れする。舞台でしきりに謝っていたのが鈴之助で、川中が来ているとは知らず「ちょうちんの花」を踊ってのひと場面。この曲、川中が公演ごとに必ず歌うお気に入りだから彼女は上きげんで、それほど恐縮するまではなかった。
沢は3本の芝居の潤色、演出のみで出番はなし。若手を育てたい一心のプロデュースのせいだが、第二部では「銀座のトンビ~あと何年・ワッショイ」「無法松の一生」新しくCDを出した「人生はうたかたの夢」を、まだ若々しい声で聞かせた。
それやこれやを舞台そでで取材!? もした僕は、若奈鈴々音、若奈鈴、空馬大倫ら美女や美青年に介護され加減の日々。何しろ令和2年2月の川中美幸明治座公演「フジヤマ〝夢の湯〟物語」以来2年1カ月ぶりの舞台である。
「好きなんだよな、あんたも」
と沢は笑うが、何はともあれ嬉しくてたまらない陽春になった。
殻を打ち破れ241回
「山田、40周年だってな。記念曲は出来てるのか?」
「はい。サンプル盤と資料、持って来てます!」
鳥羽一郎のマネージャーとのやり取りである。マネージャーで年下とは言え他社の社員。それを呼び捨てにするのは乱暴に過ぎようが、僕らの間にはそれでいいとする黙契がある。何しろ僕は、彼が仕える鳥羽そのものが呼び捨てなのだ。作曲家船村徹の弟子としては、僕の方がキャリアが長く、年長のせい。そんな鳥羽のそばで、山田に「君」や「さん」をつけるのは、いかにも収まりが悪い――。
「ほほう」
資料で読めば、歌詞が得も言われずに、よい。
♪泣きたくなるよな 長い一本道を 歩いて来ました まだ歩いています…
と、歌の主人公は歌い手の道のまだ旅なかば。村はずれの桜の花に、人気の春や不入りの冬を思いながら、舞台で演じる花に、芸する人の覚悟を託す。不器用だが、一途に生きて行きたい。果てる時は最後のひと息まで演歌に仕立てて…と、“来し方”と“今”を見据えたうえで、結びのフレーズが絶妙なのだ。
♪いつか必ず この来た道に かかとそろえて おじぎをします 過ぎた月日に おじぎをします
かかとをそろえるのは、直立不動の姿勢をとること。主人公は最後の日には、自分の歩いて来た道に敬礼したいと、そう念じる。タイトルが『一本道の唄』作詞者はあの武田鉄矢。男の気概がうかがえまいか!
「これは武田鉄矢の心情そのものだな。それがぴったり鳥羽一郎にはまっている。そうそうお手軽に書ける歌詞じゃないよ」
そう言ったら鳥羽は、こちらに向き直って
「そうです。俺もそう思います」
と、語気を強めた。武田に詞を依頼するのは、彼の発案。番組で一緒になったこともあり、よく彼の仕事を見ていて、相通じるものを感じたのだろう。九州出身の武田は坂本龍馬を信奉、バンド名も海援隊を名乗る。もともとは、本音を詞の芯に置くフォークのシンガーソングライター…。結果論になるが、鳥羽の眼のつけどころが生きた。
鳥羽は星野哲郎・船村徹コンビの連作で、海の歌の語り部になった。元船乗りの経歴もキャラクターもそれに似合いで、作品の軸は男の真情。昔ならそれは任侠路線の型でもてはやされた。しかし昨今の風潮からは、暴力団肯定のそしりを受けかねない。泥くささ承知で男の熱情を描こうとしても、草食男子横行の世相ではいかんともしがたい。そんな中で鳥羽と武田には、苦虫を噛む“硬派”の共通点があったろうか。
作曲したのは息子の木村竜蔵である。鳥羽の息子2人は「竜徹日記」のユニット名で音楽活動をしている。その若いセンスに期待したのは担当ディレクターで、度重なる打合せとダメ出しの末に作品を仕上げた。
「大物作曲家に頼んで、もしイメージが違うものになっちゃったらね、手直しもむずかしくなるじゃないですか」
鳥羽が肩をすくめた。息子の才能を信じると同時に、歌詞から得たイメージを、最大限大事にしたかったのだろう。
僕はそんな話の直後に、鳥羽のこの作品を生歌で聞く。40周年、歌詞みたいにまっすぐに生きた男の気概が、会場の人々に届くのを目撃した。僕ら2人が一緒に舞台を踏んだのは、昨年暮れの新宿文化センター「沢竜二若手座長大会」で、僕はおばかな飲み屋の女役のヘボ役者だった。
功成り名とげた鳥羽が、僕に呼び捨てを許すのは、彼流の洒落気分。山田もそれに倣っているのだろうが、その仕事ぶりはいつもながら、言動てきぱきスピーディーで小気味よかった。
ひと仕事が終わる。「お疲れさんでした」のあいさつのあと、相手の眼を見ると、
「軽く一杯いこうか!」
なんて言葉がすい…と出てくる。去年の夏、7月19日の日曜日も、そんな空気になった。神奈川県民ホールで福田こうへいのコンサートを見てのことで、相手は作詞家の坂口照幸。
横浜の「中華街でも…」と結構その気の坂口に、
「いっそのこと、逗子までおいでよ。行きつけの中華で〝せろりや〟という店がある。創作系で思いがけない料理が、やけにうまい」
と、強引にこちらの土俵へ誘うのは、支払いなどで余分な気を遣わせたくないせい。
この日、福田が歌った新曲は、彼の作詞の「男の残雪」である。男の気概やしあわせ演歌に通じるフレーズなど、欲ばった内容。おそらくは担当プロデューサーの要求が多かったのだろうと推測するタイプだ。もともとかっちりと、彼流の5行詞ものなどで、コツコツ推敲を重ねる仕事ぶり。歌い出しの2行を中心に〝決めるフレーズ〟捜しもする男だ。
例えば島津亜矢の「縁(えにし)」で書いた
〽なんで実がなる花よりさきに、浮世無情の裏表…
大泉逸郎の「路傍の花」で書いた、
〽人生晩年今わかる、めおと以上の縁はない…
小桜舞子の「しのぶ坂」で書いた
〽人の心は見えないけれど、心遣いはよく見える…
なんてあたりがその例。
長崎から集団就職列車に乗った。井沢八郎の「ああ上野駅」がヒットした昭和30年代も終わりごろ。坂口がたどり着いたのは東京ではなく、名古屋だった。ここで地元の作詞家の手ほどきを受け、詞を書き始めた歌好き。やがて上京、作詞家吉岡治の運転手を兼ねた弟子になる。当時彼は、うれしいことを言ってくれた。
「阿久悠さんの〝実戦的作詞講座〟をすみずみまで読んでます」
講座は僕の依頼で阿久が歌づくりのノウハウを全開陳したもの。スポーツニッポンに2年間、週に一度の連載で、大勢の応募者が腕を競った。上下巻の単行本にしたのが昭和52年。坂口はこれを座右の書にしたらしい。
何年か後、師の吉岡の逆鱗に触れる。芸事でも同じことだが、修行は「教わるより盗め」が基本。師の仕事や暮らしに密着、種々相を汲み取って己の知恵や財産に蓄える。ところが坂口はその盗み方を間違えたらしい。勘当された後、吉岡を通じて知り合った中村一好プロデューサーに眼をかけられて、その仲間と親しくなる。坂口の詞に多く曲をつけた弦哲也、徳久広司らがそうで、都はるみに「あなたの隣りを歩きたい」を書いているのが、いじらしい。
彼らは坂口を仇名の「キョショー」と呼んだ。それを「巨匠」と聞き取って、不審を口にしたのは大物作曲家の遠藤実。実は「虚匠」が正解で、坂口を発展途上の詩人…と親しみを込めていたのだろう。師の吉岡は平成22年5月17日、心筋梗塞のため76才で亡くなった。首を切られたままの坂口は通夜葬儀に顔を出していいか迷った。葬儀委員長を務めた僕に聞いて来たから、
「それはそれ、これはこれ、焼香においで。思い当たるふしはあるんだろうから、霊前に詫びて、これからのことを報告したらどうよ」
という段取りにした。
話は去年の夏に戻るが、飲みながら坂口といろんな話をした。前妻ががんの余命宣告を受けたショックを抱えて、懸命の看護をした。彼女が亡くなったあと、僕は、
「供養の思いは、いい詞を書いて果たすといい。早く立ち直れ!」
と激励したものだ。それから何年か、今は新しいつれ合いと暮らしていると彼は打ちあけた。それはめでたい。仲間うちのお披露目くらいはしよう! と、僕は提案した。彼は三門忠司の「百年坂」で、式もあげないままの男の負いめを書いていたし…。
そんな酒盛りからひと月ちょっと。坂口夫人の亜稀さんから葉書が来た。
「肝硬変で入院しましたが、退院しました。ご心配をおかけして…」
ガツン! と来た。そうとは知らなかった。坂口は病気のことなど一言も口にしなかったのだ。そして今年3月5日、彼の訃報が届く。アルコール性肝硬変脳出血のため死去、65才、告別式は近親者のみで行う―。
僕は慙愧の思いをかかえて立ちすくんだ。
心優しいが世渡り下手のあいつは、中堅作詞家として中堅歌手の詞を多く書いた。結果大ヒットで大成するのはこれから…という矢先の早世である。
《ハイボールを2杯も飲ませて、もう…》
訃報から2週間たっても、僕の心には後悔と無念のトゲが刺さったままになっている。
殻を打ち破れ240回
星野哲郎の著書「妻への詫び状」に「我が“神田川”時代」という一節がある。昭和32年の秋から東京・吉祥寺の「いずみ荘」というアパートの四畳半で、朱実夫人と同棲生活をはじめたころを述懐する章だ。
「僕らは貧しかったが、幸せだった。(中略)若いふたりの同棲生活を歌った『神田川』という曲がヒットするよりずっと前のことだが、当時のことを思い出すとき、あれはまさしく僕らの“神田川”時代であったなぁと思う」
とある。『神田川』の作詞者喜多條忠はこの一文を読んでいるに違いない。星野は日本クラウンを代表した作詞家。喜多條の『神田川』は同じクラウンから発売されたかぐや姫のアルバムの1曲で、シングルカットに指示したのが伝説のプロデューサー馬渕玄三氏。星野のヒット曲に数多くかかわった人で、喜多條は星野を密かにこの道の師とし、馬渕氏を生涯の恩人と呼んでいた。感銘は深いはずだ。
星野が長く伊豆の伊東あたりで清遊していたことは、よく知られている。喜多條が最近『なぎさ橋から』という詞を書いた時に、
「同じ名前の橋はあちこちにあるけど、伊東のやつがなつかしいな」
と話したのも、星野からの連想だろう。僕らのゴルフと酒盛りの遊びの会・小西会の有力メンバーの一人として、彼は何度も伊東のサザンクロスでプレーしている。このゴルフ場も星野が通い詰めたところで、彼の没後もちゃんと「星野先生の部屋」が維持されている。
「これも縁かな。せっかくだから“なぎさ橋から”を、伊東の皆さんに聴いてもらおう」
と僕は思いついた。昔々、星野が書いた『城ケ崎ブルース』の歌碑が、レコード発売と同時に完成したことがある。駆け出し記者の僕はびっくりして取材に出かけた。伊東の人々は歌好きで、時にこんな異例の出来事をしでかすのだ。
♪行かねばならぬ男がひとり 行かせたくない女がひとり…
と、僕は今でもちゃんとこの歌を歌える。その前後から星野の知遇を得て、弟子を名乗ることも許された。当然みたいにサザンクロスへお供もしたし、知り合った伊東の有力者も多い。
『なぎさ橋から』は一度、秋元順子の『いちばん素敵な港町』のカップリングとして世に出ている。制作当時、作詞した喜多條と作曲した杉本眞人が
「こっちこそ“推し”だよ。このタイプの歌は、僕らじゃないと書けない!」
と口を揃えて訴えたが、プロデューサーの僕が押し止めた。この作品の悲痛な訴求力は、コロナ禍が下火になってこそ生きる…としての温存である。新種のオミクロン株の動きが不穏だが、新しい年へ “コロナ以後”“ウィズ・コロナ”暮らしの気配は、社会に芽生えつつある。作品への反響も大きい。
「よし、年明けにひと勝負だ!」
作家ふたりの希望を入れて、秋元で再度レコーディング…の段取りを決めたところへ悲報が飛び込んで来た。11月22日、喜多條忠が肺がんのため死去した。働き盛りの74才だもの、僕らは声を失った。
「彼のためにも、何としてもヒットさせよう。そのためなら何でもするよ」
スタジオで杉本が決意を語り、秋元がうなずいた。「いい作品を新装再開店!」の試みが、身内では「喜多條の弔い合戦」に変わってしまった。
星野と喜多條、それに伊東の人びととの縁を辿って、1月に現地でPVを撮影、2月に新曲としてのお目みえに『なぎさ橋から』は大きく舵を切ることになった。
タイトルからして「やせっぽちのカラス」である。意表を衝かれるが、何だかふっとなつかしげな気分にもなる。で? そのカラスがどうしたのさと、こちらは、聞き耳を立てる。そのカラスは、泣いていると言う。「世知辛い時代になったね」と―。
歌っているのはおがさわらあいという歌手。隣りでギターを弾いているのは作詞作曲した田村武也。歌に戻れば、どこかの町の夕焼けを背に、カラスを見上げたのは若いカップルだ。くだらない話に笑い合い、ささいなことでも楽しくて、それだけで十分幸せな二人。
それがつまずいて転んで、すりむいた夢を抱きしめながら生きることになる。男は下北で時代遅れの歌ばかり歌って、女は、たった一人の客だったのだが…。
《そうか、そういうふうに話は展開するのか。判るなって気分で、歌がやけにしみてくる…》
僕は客席で自分の若いころの感傷へ舞い戻る。昭和のあのころ、若者たちの多くはそういうふうに暮らして、そういうふうに夢にはぐれた。それでも気を取り直して、何とか平穏に生きて来たから今日がある。平成を過ぎて、令和になって、でも時代そのものは変わっちゃいないのか? 2月12日夜、僕が居たのは、ラドンナ原宿というミュージックレストラン。「日曜日思い出堂」と名づけたおがさわらのライブで見回せば、Z世代と呼ばれる若者たちが、
〽どうにもならないことだらけで…
〽明日にしがみついて、笑って泣いて…
と行き止まりの青春の歌を、わがことのように聞いているではないか!
《泣かせやがって、この野郎!》
昔々、作詞家の星野哲郎が歌手小林幸子に書いたこのコトバを、同じように親愛の情をこめて作詞作曲者田村武也に伝えたくなる。彼は路地裏ナキムシ楽団を主宰、歌謡と芝居のコラボの新機軸の舞台で、作、演出、演奏、歌を担当する。僕は役者として数多く共演をし、長い親交がある。この仕事を「青春ドラマチックフォーク」と銘打つ彼は、ともかく一心に、客を泣かせ続け、その思いは、おがさわらの歌づくりにも徹底している。
「あんた」という歌が出て来る。歌詞にいきなり
〽自動販売機の安い缶チューハイで…
というフレーズが出て来て、それで若い二人は何かの記念日を祝った。しかし、喧嘩も弱いくせに正義感だけが強い甲斐性なしの男は、風に吹かれてどこかへ消える。孤独には慣れているつもりだった女は、男の名を呼びながら無理して笑って、ひとり空まわりしている―。
いつの時代も多くの若者たちには生きづらく、夢は途絶えがちだ。田村はその種々相を、市井の人々の姿から切り取って見せる。青臭い理屈は避け、メッセージ臭のフレーズも使わず、人肌の温かさとやさしさの説得力を示す。僕は彼の脚本で芝居をしながら、時折り涙を流した。どっぷりと役に漬かるのではなく、彼から手渡された登場人物とその悲哀を共有してのことだ。
田村がおがさわらのための作品で示すエピソードも悲哀に溺れることはない。よくある話のよくある悲しみを、見詰め視線が穏やかに、その陰に生きづいている。売れ線を狙うのではなく、率直に心情を吐露する手法が得難い。しかしメロディーは哀訴型そのもので、思いは昂って音域をどんどん広げていく。
それを「歌」にしおわすのが、おがさわらの役割である。決して有名ではないが、キャリアと力量はそれなりに持ち、民謡でも鍛える地声の強さが生きる。最高音部を地声で押すのか、裏声で抜くのか、その違いで歌は、圧力を増したり透明感を漂わせたりする。アンコールを含めた12曲は全曲田村の作詞作曲による。彼はおがさわらのための歌づくりに注力し、おがさわらは彼の作品だけを歌う仕事に特化する。作者と表現者の緊密な息づかいがあって、おがさわらのライブは、田村のライブでもあった。ライブだから「パズル」「願いの森」「心に咲く名もない花」など、ノリノリのメドレーもある。二人の世界に親しんで来た気配の客が、いい雰囲気を作る。年齢の差も感じずに、僕は生ビールでほろ酔い、その空気にとけ込んだ。
「新曲もよかったよな」
「うん、アルバムが6月に出るってか…」
ファンらしい青年二人連れの会話を小耳にはさみながら、終演後僕は表参道に出る。まん延防止等重点措置とやらで、この時間、行きつけの店ももう閉めるころだ。
《ま、いいか…》
僕は割と素直に帰路についた。
《そうか、彼も今年1月で古稀を迎えたか。それにしてはジャケットの横顔写真、けっこう若く見えるじゃないか…》
届いた花岡優平のシングル「恋ごころ」を眺めて、少し穏やかな気分になる。1月中ごろからずっと、東京や神奈川は好天続き。葉山のわがマンションの正面には、見本みたいな雪の富士山が鎮座していて、気温はとても低い。花岡はいつのころからか、故郷の大分・別府に戻って暮らしているらしい。
「恋ごころ」と言っても昔々、越路吹雪、岸洋子、菅原洋一が競作した、あのシャンソンではない。あの時は岸が一人勝ちをし、僕は一敗地にまみれた菅原が、その無念をバネに「知りたくないの」で蘇生するのにかかわったものだ。
花岡の「恋ごころ」は本人の作詞作曲。これも昔々彼が実弟の花岡茂らと組んだ〝音つばめ〟で歌っていたころの作品である。その後彼のソロアルバムに収められていたが、なぜか最近ユーチューブの動画再生で大モテ、それを機に吹き込み直しをして新装再発売となった。本人は
「まるで奇跡が起こったみたい」
と、驚いているそうな。
僕が花岡と初めて会ったのは、作曲家協会で三木たかしが主導、僕が選考の座長の「ソングコンテスト」をやっていたころだから、これもずいぶん昔。彼の名前で思い出したのだろうが、
「もしかしてお前さん〝音つばめ〟か?」
と聞いたら、嬉しそうに肯いたものだ。そのころ「ガッツ」と「ヤングフォーク」の雑誌2冊が覇を競い、僕はフォークの連中の仕事ぶりについて、双方に書きまくっていた。アルバムを聞いての原稿で、会わないままの相手も大勢居り、音つばめもその一例だった。
改めて新しい「恋ごころ」を聞く。思い届かぬ恋ごころを、一輪の可憐な花に託して歌う青春抒情ソング。かの人の心惑わす花になりたい、心安らぐ花になりたい、心惑わす花になりたい…と念じる優しげな詞に、フォークタッチのメロディーが甘い。後年、秋元順子の歌でヒットした「愛のままで…」に通じる、ロマンチックな歌謡曲性もあり、花岡の歌唱も熟して渋い。こんな時代だからこそこんなふうに、素直で心に染みる作品が、作者も知らぬ間に人々の心に浸透するのか。
そのころソングコンテストでは、田尾将実、藤竜之介、山田ゆうすけらの作曲勢に、作詞家の峰崎林二郎らがグランプリを受賞、彼らと「グウ(愚)の会」を作って盛り上がった。協会のイベントで認められても、変化は曲の売り込みに行くとお茶が出るようになっただけだという。そんな狭き門に向き合う彼らの背中を押したい気持ちが強かった。
あまり人と群れたがらない花岡を「孤立無縁」と書いたら、
「そんなことはない!」
と口をとがらせた彼の、生涯の相棒は弟の茂だった。それが大いに売れた秋元の所属事務所社長として奮闘する中で急死する。花岡の傷心は並みではなく、長い間交友も途絶えた。それがぶらりと僕が出演していた明治座に現れたのは、3年ほど前。
「この際、世話になった人たちの顔を見ておこうと思ってさ」
と、冗談とも思えぬ一言を真顔で言ったものだ。
親交の間、花岡は福生や茨城に住み、鎌倉に居るかと思えば月島のタワーマンションで暮らした。演歌歌手を育てることに熱中、それが昂じて再婚するが、さしたる年月を経ずに離婚する。この件にも僕はかかわっていて、相手の歌手は僕が疎開した茨城の中学時代の球友の娘。父親がサードで僕はセカンドだった。彼女は昨今ステージトラックを武器に走り回っている川神あいだ。
花岡は今月発売の北原ミレイにも作詞、作曲した「卒業」を書いている。田久保真見の詞がすっきりなかなかな「薔薇の雨」と両A面扱いだそうで、こちらは
〽私は大丈夫よ、身軽に生活(くらし)ていく…
と語る女主人公が
〽あなたは大丈夫よ、自分の思うように…
と相手をおもんぱかり、
〽何にも気にしないで、卒業、二人の愛は…
と、どうやらおとなのお別れソングだ。
それやこれやで音信が絶えたりつながったりの花岡は「恋ごころ」のカップリングの「ヨコハマ」には、こんなフレーズをまぎれ込ませている。
〽きっと人生は、愛する人を求めて漂流(さすら)う旅なのね…。
花岡の近作からのぞいたときめく恋から、結婚、おとなの別れ…。どうやら〝愛の詩人〟の彼は、歌づくりにも似た遍歴を経て今、故郷別府で、彼なりの平穏な日々を獲得したのだろうか?
殻を打ち破れ239回
美空ひばりが遺した歌が3曲も出て来た。『みだれ髪』『ひばりの佐渡情話』と『哀愁波止場』で、いずれも相当にむずかしい歌だ。
≪大丈夫か? 歌い切れるか、ひばり33回忌のあとだよ…≫
審査員席で、僕は他人事ではない心配をした。ひばりとは晩年の15年間を、唯一の密着取材者として親しいつき合いをさせてもらった。3曲とも作曲は船村徹で、この人にも長く身辺に居て、自称弟子を許されていた間柄。『みだれ髪』はひばりが奇跡的に復活したレコーディングに立ち合っている。
11月14日、山形の天童で開かれた「天童はな駒歌謡祭2021」での話。グランプリを取ったのは大野美江子さんで『みだれ髪』の歌唱がしみじみと情が濃いめ、他の出場者を静かに圧倒した。その歌唱からは美空ひばりという大歌手への、敬意と愛情の深さが聞こえた。歌詞をかみくだき、メロディーを自分のものにした努力、理解の向こう側に“ひばり愛”が息づいていたのだ。
残る斎藤まさ江さんと鈴木華さんも、楽曲を掌の中の珠のように大事に歌った。難曲をちゃんと自分のものにして、参加48人のうちベスト15に入っている。みんなが長いひばりファン歴を持つ人だと判る。おそらく3人とも、歌った作品にひばりと自分の青春や生き方を重ね合わせている。そのうえで、
「ひばりさんの作品を歌って、見苦しい真似は出来ない…」
と、かなりの緊張の中で自分を励ましたに違いない――。
≪それにしてもこの時期、よく踏み切ったものだ≫
と、感じ入ったもう一つは、この催しの実行委員会の決断である。開催した11月は確かにコロナ禍は下火になっていた。しかし、やると決めるのはその数ヵ月前のことで、肝心の出場者の募集をはじめ、さまざまな準備がある。その時期はコロナ禍がまっ盛りだったはずだ。それを、
「歌は生活の伴侶であり、文化だ。歌の流れを途絶えさせてはいけない!」
と、大号令をかけたのは実行委員長の矢吹海慶師だったと言う。日蓮宗妙法寺住職のこの人は、長く市の教育や文化、伝統の維持に力を尽くした有力者で、大のカラオケ好き。僕は19年続いた「佐藤千夜子杯歌謡祭」を通じて知遇を得、親交ははな駒歌謡祭に持ち越される光栄に浴している。ぶっちゃけた話、みんなの歌を聞くよりも、この年上の粋人に会いに行くのが、年に一度の楽しみなのだ。
催しは大胆な決断と細心の注意で行なわれた。出場者も観客もコロナ対策は徹底しており、出場者は歌う都度消毒したマイクを、ビニールの手袋をして受け渡しした。もともと感染者が少ない山形へ、大騒ぎの神奈川から東京を経由しての参加である。こちらがウィルスを持ち込んだら大変…と、内心ひどく落ち着かない気分だった。
ところで歌についてだが「聞かせる」よりは「伝える」気持ちが大事だと思っている。ことに上級者に多い「聞かせる」タイプは、声と節に自信を持つせいで、野心が強めに出てしまう。声も節も実は作品を表現するための道具に過ぎないことに、気づく人は少ないのだ。一方「伝える」タイプは、作品に託された思いを理解、それに自分の思いを重ねて、聞く側に心をこめて手渡そうとする。選曲から歌唱までの道のりで、どのくらい作品を突き詰め、自分自身を突き詰めたかで、その人の人間味がにじむ「いい歌」が生まれるのだ。
冒頭に書いたひばりソングの3人は、信仰に近い“ひばり愛”が、お人柄の歌の下地になっていた。このくらい歌い手そのものに没頭することも「いい歌」づくりの手がかりになるのかも知れない。
新年、群馬県の高崎から小さな箱が届いた。
《年賀状の変型かな? 近ごろたまに、アイディアものが来ることがある…》
差出人は吉岡あまな。そう言えばこの人は社会人になって5年め、高崎に赴任して2年になる。
少し心が躍って包装をほどく。黒い小箱に「小豆島産 手摘みオリーブオイル EXTRA VIRGIN」の銀文字。120mlの小びんが収められていた。
《ほほう、これはこれは…》
と同封された手紙を読む。年頭のあいさつの後に、
「さて、小豆島の〝波止場しぐれ〟の歌碑のお隣に植樹させていただいたオリーブの木になった実で、今年はオイルを作っていただきました」
と、見慣れた几帳面な文字。手紙の主は、亡くなった作詞家吉岡治の孫娘である。彼女が植えた木に、オイルが作れるくらい沢山の実がなったのかと驚きながら、大切に世話をしてくれている人がいることに、心からの感謝の思いも綴られている。
吉岡が作詞、岡千秋が作曲、石川さゆりが歌った「波止場しぐれ」が世に出たのは1985年である。島の青年会議所の代表が上京、吉岡にご当地ソングを作って欲しいと直訴した。瀬戸大橋が出来ることが話題になっているのだが、小豆島はエリア外でその恩恵のカヤの外。危機感から島の若者たちが、流行歌で「島おこし」を計画したのがヒット曲の背景だった。
安直な思いつきではあるが、吉岡は彼らの素朴な人柄、熱い郷土愛、一途な情熱、無類の人なつこさに感じ入った。うまい具合に作品はヒット、島人と詩人の交友は熱く深くなり、2年後には歌碑が土庄港に建つ。映画の「二十四の瞳」のモニュメントと並んで、島の観光資源の一つになった。それからまた2年後の1994年から、吉岡は島で新人歌手の登竜門イベント「演歌ルネッサンス」を興す。優勝者には奨学金名目の賞金と、吉岡のオリジナル作品を得るチャンスが贈られる。最初から5年限定の「演歌おこし」だったが、育った歌手たちの代表格は岩本公水だ。
《植樹かあ、さてな…》
僕は往時を振り返る。歌碑が出来た時は島へ行っていないが、「演歌ルネッサンス」は5年間皆勤。弦哲也、四方章人、もず唱平ら参加の作家勢や各メーカーのディレクターたちと大いに盛り上がった。総集編みたいな番外イベントにも出かけたし、2012年の吉岡の顕彰碑の除幕式にも参加した。何しろデザインした吉岡の長男天平氏の注文で書いた「詩人と島人の絆」の顛末が長文で、それがそのまま石に刻まれたから、光栄と恐縮がダブルになっている。
記念植樹はその都度やっている。今回オイルになったのは、そのうちどの回のものか? あまなに電話してみたら、
「私が高校生だったから、歌碑が出来た時だと思う」
と答えが出た。彼女はその後学習院大学に進み、卒業後は教育システムを開発、教材の普及も手がける会社で働いている。大学に入学する前の休みだった2014年の2月、明治座の川中美幸・松平健公演に出ていた僕らの楽屋で、志願して付き人をやってくれた仲。舞台裏でちょいとした人気者になったものだ。
吉岡が亡くなったのは2010年5月17日、76歳の初夏で、長くパーキンソン病と闘ったあとの心筋梗塞が原因だった。あれからもう12年が過ぎ、今年は13回忌にあたる。長男天平氏は映像制作の会社を経営、スポーツ関係のカメラマンとして修業をし、最近深川に自前のギャラリー「M16Gallery 」を開いた。彼の長男冬馬君は、吉岡が見ずじまいになった二人めの孫だが、今年7才になるか。
問題のオリーブオイルを送ってくれたのは、弥助さんだという。確か当時の青年会議所の有力なメンバーの一人で寿司屋の大将。
《そうか、吉岡のひとと仕事は今も、島でこういう形で生きているんだ…》
と懐かしい顔を思い浮かべる。小豆島とは縁がつながり、全国規模のカラオケ大会「吉岡治音楽祭」や僕も出演する「路地裏ナキムシ楽団」公演などが計画されたが、コロナ禍で延び延びになっている。何とか今年こそ…と関係者と話しているが、さて、オミクロン株なるウイルスの奴、この猖獗(腹が立つのでワザとむずかしい字を使う)はどこまではびこるのかどこで止まるのか。
樹木の果実が育つ小豆島の自然のすこやかさと、過ぎる年月のスピードの早さに驚きながら、非売品と言うオリーブオイルを心して賞味する新年、人の縁と想い出が沢山あるのは、何とも嬉しいことではある。
殻を打ち破れ238回
田川寿美が『ひばりの佐渡情話』をギターの弾き語りで歌う。それに“つれ弾き”の形でつき合ったゲストのギタリスト斉藤功が、
「古い知り合いだもんね。セーラー服でスタジオ入りしたころからだから…」
と笑顔で感慨を添えた。
「そうよね、そうだ、うん、ふっふっふっ…」
田川本人の相づちは、まるで仕事場の隅の世間話みたいに、早口で飾り気がない。彼女のデビュー30周年記念コンサートの舞台上なのだが――。
11月1日、渋谷区文化総合センター大和田さくらホールで、僕が案内してもらった席は1階14列21。中央右側やや後方で、客席が広く見降ろせる。開演17時に少々早めについて、所在なくあたりを見回して気がついた。この期におよんで何と、読書する紳士が2人、カラーのイラスト集をめくる御仁が1人。演歌歌手の客席では、まず見かけないケースだ。改めて視線をもうひとめぐり。帽子が目立つのは熟年男性の数の多さだ。
≪そうか、田川はこういうファン層の支持を受けているのだ!≫
と、僕は合点した。
『女…ひとり旅』でデビューした初期は『哀愁港』『北海岸』『女の舟唄』などの曲名が目立った。いわば“演歌の本道狙い”。しかし、コンサートには『一期一会』『心模様』『倖せさがし』『楓』『雨あがり』などが並ぶ。15才で和歌山から上京、16才でデビューした彼女の“その後の心模様”が見てとれる曲目。演歌の定番から、彼女なりの色あいの作品を求めた結果だろう。
そんな彼女の歌手生活の途中、所属する長良プロダクションの先代社長長良じゅん氏に聞かれたことがある。
「芸名が地味だからパッとしないのかな? 改名も考えてるんだ。相撲とりだって四股名を変えて出世するケースもあるし…」
当時から田川は、そこそこ売れていたのに、長良社長の夢はもっと大きかったのだろう。作品は良い、コロムビアも力を入れている。事務所だって大手で影響力に相応の自負もある…。
「成長するごとに名前が変わる魚はいるけど、どんなもんですかねぇ…」
と、僕は冗談で長良社長の迷いをはぐらかした。
その田川が突然変身した。作家五木寛之の作詞と肝入りで『女人高野』である。まるでロックの曲想とけばけば衣装で、エレキギターを小脇に抱えたイメチェン。
「いいねぇ、面白いじゃないか!」
と僕は悪ノリしたが
「長良社長が、本人をあんまりそそのかして欲しくないよな…って言ってましたよ」
と、コロムビアあたりから小声の電話が届いたものだ。
その『女人高野』もコンサートの中盤に、黒の打掛け姿で歌ったが、今になってみれば特段刺激的にも聞こえない。時代や流行歌の流れの変化があろうし、彼女自身も作品をすっかり体になじませていた気配…。
「いろんな人との出会いがあって、幸せでしたよ。ありがとうとごめんなさいを繰り返して来たけど、ハッハッハッ…」
「大先輩たちが活躍していて、後輩たちも元気、私は中間管理職みたいな立場、ふっふっふ…」
田川は理屈をこねて関係者を悩ませた20代と、それやこれやで手にした現状をそう話した。瓜ざね顔に秀でたおでこを丸出し、歌は声も節も誇らずに、トークは社交辞令ぬきの本音っぽさ。田川寿美は今そんなふうに“おとなの歌手”としての居場所を獲得し、ファンは彼女のたたずまいに、聡明な生き方を見ているのだろう。コンサートは長良プロ二代目の神林義弘社長が陣頭指揮した。残念なことに先代社長は、ハワイで客死したが田川のこのごろにすっかり安堵していることだろう。
「これは俺たちコンビだからこそ生まれた曲だと思うけど…」
作詞した喜多條忠が言いつのる。秋元順子のシングル用レコーディングが済んだスタジオ。
「そうだよ。ここまでのもんはそうちょくちょく出来るもんじゃねえよ」
作曲した杉本眞人も口をとがらせている。楽曲は「なぎさ橋から」で、今年3月25日の話。
「判っちゃいるけど、これはカップリング。メインは〝いちばん素敵な港町〟でいく。〝なぎさ橋〟はいずれまた、出番が来るよ」
プロデューサーの僕はあっさり彼等の主張を退けた。
コロナ禍は勢いを増すばかりの春先だった。東京五輪は「延期か中止」が声高で、秋には選挙がある。菅首相はコロナ対策が後手々々で批判の的だ。こんな厳しい時期に惚れたはれたソングは暑くるしく説得力に欠ける。むしろ
〽嘘も過ちもみんな人生(中略)生きてゆこうね許し許され…
と〝港町〟の方は、差別や分断を皆で改め、寛容のコロナ後へ、静かなメッセージを秘めていた。
結局東京五輪は強行、アスリートたちの活躍でメダル・ラッシュになったが、賛否両論は尾をひき、僕らは「それはそれ、これはこれ」の吹っ切れなさを抱えたまま。衆議院選は菅内閣が最後までバタついたが、ワクチンがきいてかコロナ感染が下火になり、劣勢のはずの自民党が思いがけなく大勝ちした。
5月26日にCDを発売した「いちばん素敵な港町」はセピア色の港の風景をバックに、おおらかで優しい喜多條の歌詞と、杉本らしい語り口のメロディーが世相になじみ、大方の支持を得た。喜多條は2年越しでがん闘病中だった。告知を受けた時からその報告を受けながら、僕は小康状態を見はからって歌づくりを進める。肺がんが脳に転移、一時視力を失う危機もあったが、喜多條の創作意欲は衰えることがなかった。「あと何編書けるか」などと思い詰めて居はせぬかと、僕はいつもの乱暴なダメ出しをしている夢を見る夜もあった。
何回めかの退院後電話があったのは10月9日。
「今回は少しきつかったけど、我が家は極楽だね。体調は一日々々良くなってる。うまい具合に峠は越した。もう大丈夫ですよ」
勢い込んだ口調で、声に張りがあったものだ。
《よし、ぼちぼちもう一勝負だな…》
僕は「なぎさ橋から」を作り直し、再発売する段取りをキングの湊尚子ディレクター相手に詰めに入る。案の定、こちらを支持するファンの動きが、あちこちで起きている。
〝なぎさ橋〟は実は全国各地にある。「伊東にもあったな」と言った喜多條は、20年ほど競艇評論に没頭して、歌謡界を離れ全国を旅している。その体験が作詞家へ復帰以後の仕事に生きてもいた。伊東は作詞家星野哲郎が生前通いつめた町で、僕はそのお供でよく出かけ、知り合いも多い。星野のお仲間は人後に落ちぬ歌好き揃い。
《伊東か、一度聞いてもらいに行くか》
〝新・なぎさ橋から〟は、年内に秋元で再ダビング、来年2月発売のレールに乗せ、喜多條の希望に沿う決定をした。それを伝えるために彼の携帯に電話を入れる。思いもかけず、出たのは輝美夫人だった。その瞬間、とっさに僕は喜多條の病状が重篤であることを察した。胸がつぶれる思いで〝なぎさ橋〟再制作を伝えてくれるよう、輝美夫人に頼むしかない―。
11月22日、喜多條は旅立ってしまった。信じるまま、あるがままに生きた「無頼の純真」競艇場を軸にした「放浪の旅の孤独」「ギャンブラーの大胆と哀愁」「詩人の繊細」「仕事師の辣腕」「闊達な人づき合い」…数えたらきりがない美点の持ち主だった親友と働き盛りの歌書きを、僕は同時に失った。無念の重さは仲間と「なぎさ橋から」の新装再開店を、弔い合戦として戦い抜くしかないか!
12月7日夕、TBSで開かれた第63回日本レコード大賞表彰式に出かけた。制定委員の一人である僕の役割は、賞のプレゼンターで「特別功労賞」の楯を手渡す係り。壇上で僕は、日本作詩家協会名誉会長の喜多條忠の分を息子由佑氏に、友人の作編曲家川口真の分も息子真太郎氏に託した。作曲家小林亜星の分は、彼が遺した会社の松井洋佑代表取締役が受け取る。それぞれ音楽界に貢献した大きな功績をたたえての表彰である。他の部門の贈賞は大きな拍手に包まれ喜びのコメントがついた。しかし喜多條も川口も、訃報に接して間もない僕は、拍手など出来ようはずもなかった。
曲名かな? と思ったら、店名だった。「晴れたら空に豆まいて」と来た。ライブハウスだろうと思ったら表記はレストランとある。代官山の大通りに面した一角、地下へ続く階段に行列が出来ていたのは午後6時前。「有近真澄グラムロックを歌う~いまどきのファントム」というライブが、その日11月17日の僕のおめあてだ。
様子が判らないので店へ入って聞くと、すでに全席売切れという。関係者に余分な気遣いをさせたくないと、アポなしで飛び込んだ配慮が裏目に出た。
「えっ? ソールドアウト? そんなあんた…」
戸惑った声が大き過ぎたか、関係者の一人が駆け寄って来た。有近夫人の由紀子さんで、当方の突然の出現にもあわてず騒がず「関係者席」のボードと席をてきぱきだから恐縮このうえない。ステージに登場した有近は眉と眼の周辺に隈を作ったメイクで、まがまがしさの気配を少々。ベース、ドラム、キイボード、ギターの4人の仲間と、いきなりテンション高めの歌。
「変光星」「セックスの虜のバラード」「T.V.DOLL」「あなたのいない世界で」など、自作を中心にガンガン行く。小ぶりな会場を圧する音楽は「聴く」のではなく「体感する」しかない。見回せば女性ファンがリズムに乗って、体を揺すり、うねらせ、手が舞い足が床を踏む。
グラムロックは1970年代、イギリスで生まれてデヴィッド・ボウイがその代表だと言う。
《70年代なあ、日本じゃその時期が〝歌謡曲の黄金時代〟だった…》
作詞家の阿久悠が「ざんげの値打ちもない」の暗さと「また逢う日まで」の明るさの両極を書いて、僕を驚かせた。鶴田浩二が
〽古い奴だとお思いでしょうが…
と、旧世代の苦渋をセリフに乗せ、新世代の加藤登紀子が「知床旅情」吉田拓郎が「旅の宿」を歌い、五木ひろしが「よこはま・たそがれ」で再浮上、若いファンはグループサウンズ・ブームやフォーク・ブームの余波を追い、そんな勢いが合流してニューミュージックが生まれる。小柳ルミ子ら清純派と山口百恵ら中3トリオが登場、流行歌の各ジャンルが花盛りで、老若男女がその多様性を楽しんだ―。
有近のライブのゲストはROLLY。異形の彼は、エレキギターをかき鳴らして「アナコンダ・ラヴ」や「気になるジーザス」をぶち上げる。ライブは3つのパートに分かれていて、有近とROLLYがデュエットしたのは2つめのパート。それが突然「世界は二人のために」だから、僕は少々驚く。山上路夫が作詞、いずみたくが作曲、相良直美が歌ったこのヒット曲は、制作したディレクターまで友人で、それなりに思い出深い。
この曲で気づくのだが、有近たちの歌唱は歌言葉をぶち切りに分解、それぞれの単語を爆発させ、客席に叩きつけながら、歌として再構築する。歌言葉の含蓄や余韻や情感をそぎ落として、メロディーをロックのエネルギーに乗せるのだが、時に繊細な手触りも感じさせて、荒々しさの中に一定の品性も感じさせるあたりが、魅惑的だ。
「ヒッチハイカー」「BORON」「死ぬわけじゃないんだし」などの有近ソングがあって、パート3にまたROLLYの登場。2人が愉快そうに声を合わせるのが「サ・セ・パリ」や「セ・シ・ボン」で、アンコールが有近の「愛の讃歌」で収まる。そう言えば僕は石井好子が主催した「パリ祭」を1回目から見ており、このところレギュラーのROLLYはすっかりおなじみ。有近がボーカリストであることに気づいたのは、やはり石井が主催したコンサートが最初だった。
《えっ? 有近が歌うの? あの作詞家星野哲郎の長男が? 本当?》
そう仰天したのはもう何10年前になるか!
有近のグラムロックは、現在の彼の音楽的主張に加えて、歌が元気だった70年代にさかのぼり、あのころに触れ合った作品を再発掘する試みにも思えた。いい作品はいつの時代もいい…という姿勢で、いいもの選び出すのは独特のセンスだろう。
「この人の音楽には、言葉が生きていて、そこがカッコいいと思うの」
隣席の女性の感想にうなづき、僕は居合わせた作詞家の真名杏樹と少し話をした。彼女は作曲家船村徹の長女で、有近と一緒に歌づくりもする。僕は双方と親子二代のつき合いということになる。
殻を打ち破れ237回
山口県周防大島の星野哲郎記念館が、面白い企画をやる。館内の写真パネルを大幅に入れ替えるのだが、その1枚ずつに追悼の俳句を一句ずつ添えることにした。詠み手は星野の後輩の作家勢で、長く「虎ノ門句会」で腕を競う面々。掲げられる写真は24枚で、ありし日の星野の姿が収められていて、温和な詩人の素顔がほほえましい。
「伸びてゆけ開導五人のつくしんぼ 高坂のぼる」
の句は、星野の母校・開導小学校の閉校式の写真とセット。紅白の幔幕を背に、星野と5人の生徒がちょこんと並んでいる。過疎の島の学校がなくなる時の子供の数はこんなものなのか。ふるさとの冠婚葬祭やさまざまな行事に、率先して参加した詩人の「島想い」がしのばれて胸キュンになる。
「缶拾う言葉も拾う春の朝 鈴木紀代」には
「あぁ、あのころの…」と合点される向きもあろう。昭和54年、心筋梗塞で倒れたあとに日課とした小金井公園での「夜明けの缶拾い」の1ショットと並ぶ。そんな或る日、出会った初老のホームレスに「あんたも仕事がないのか」と言われ、星野は「作詞の依頼が途絶えたら、同業サン(?)になるか!」と撫然としたらしい。
「日傘受け横綱作家揃い踏み 川英雄」
の写真では、星野と作曲家船村徹が、宮本隆治アナのインタビューを受けている。後ろにはNHKの下平源太郎プロデューサーが写り込んでいて、島でやった「全日本えん歌蚤の市」の一景と判る。当時日本クラウンの幹部だった広瀬哲哉と僕が、下ごしらえで働いた連続イベントの平成15年夏の分。主宰者星野に「ゲストはあの人でしょう?」と謎をかけたら「僕の口からはそんなこと、絶対に頼めないよ」と尻ごみするので、僕が船村に出演を依頼した。船村は星野が作詞生活に入るきっかけを作った人で、常々「神だ!」と語った相手。「恩人出馬」にその喜びようったらなかった。
「丹精を込め大輪のダリアかな 沖えいじ」
は、都はるみ、水前寺清子との3ショット用。
「合縁に寄せる夏波歌きずな 林利紀」
は島津亜矢との2ショット用。
「歌書きのうどん打つ夢麦は穂に 二瓶みち子」
は星野が講演で歌づくりを語るアップに添えられて、なかなかに意味深である。
全24枚のパネルのうち、島倉千代子、畠山みどり、北島三郎、鳥羽一郎らと写っている5枚については俳句を来館者から公募とファン参加分も残されて「虎ノ門句会」分は19枚19句となった。この句会は34年前にJASRAC(日本音楽著作権協会)にかかわる人々が作った歴史を持ち、以前協会が虎ノ門にあったことからこの名称が残る。作曲家飯田三郎、渡久地政信や作詞家横井弘ら大勢が加わり「鬼骨」の号で星野も参加していた。現在はJASRAC会長も務める作詞家いではくが会長。世話人の二瓶さんの話では、コロナ禍で例会はしばらくお休み。投句で毎月作品を集め、会報が最近400号を迎えたとか。
≪もろもろの情熱、大したもんだ…≫
と僕は感じ入る。日光の船村徹記念館づくりも手伝って思うのだが、主導する自治体にとって箱モノの記念館は「開館が即ゴール」になりがち。ところがそのソフト面も担当、集客対策を練るチームにとっては「開館こそスタート!」で以後絶え間ない企画立案が求められる。星野記念館は平成9年開館だから今年で14年。その間の知恵者は星野の長男有近真澄君と長女桜子さんのダンナ木下尊行君だろうか。
この企画展は星野が亡くなった11月を機に今年11月11日から来年の5月まで開催される。星野との親交47年、記念館づくりにもかかわった僕は、久しぶりにのぞいてみようかと思っている。
横並びにギターを抱えた作曲家の弦哲也、徳久広司、杉本眞人が居る。その向こうのピアノ前には岡千秋が居て、それぞれが弾き語りをやる。場所はこじゃれたナイトクラブの一隅で、彼らは1曲ごとにキイを確認、短めのジョークも交わす。4人が合奏、各人が1曲ずつ歌う趣向で、曲目は徳久が「雨の夜あなたは帰る」杉本が「真夜中のギター」岡が「黒あげは」で弦が「夫婦善哉」…。
めったに見られぬ情景を、女連れの僕は、グビリグビリとグラスを傾けながら堪能する。それぞれがお気に入りの楽曲を自在に歌うのが弾き語りの妙味。人柄や年の功までが歌声ににじむのだ。熱心な歌謡曲ファンなら気づかれようが、歌われた4曲はみな亡くなった作詞家吉岡治の作品。歌う4人の間にはアクリル板の衝立があって…と書けば、熱心なテレビ番組の視聴者なら、ああ、あれか…と気づかれよう。実はBSフジの人気特番「名歌復活」最新版の録画風景で、僕が飲んでいるのはウーロン茶。もっともナイショでスタッフが仕込んでくれたのか、アルコール分の匂いが心なしかかすかに…。
この番組、一発勝負の企画が「好評につき続編を…」となってもう5年、今回が9本めとなった。ヒットメーカーの4人が、それぞれの自信作や埋もれた佳作を歌い、敬愛する先輩作家たちが残した昭和のメロディーを歌い継ぐ。原則フルコーラスで、時に楽曲交換のお遊びもある。ちなみに僕の役柄は「聞き手」で、女連れと書いた相棒の松本明子は「進行」と、台本にある。
「あの妙に威張っているじいさんは何者なんだ?」
と、オンエア当初、杉本は知人に聞かれたそうな。それはそうだろう、番組中の僕は杉本を呼び捨て、弦を弦ちゃん、徳久を徳さん、岡を岡チンである。スポーツニッポン新聞の記者時代から〝はやり歌評判屋〟を自称する今日までの、彼らとの親交がそのままで、そのうえしばしば昭和歌謡の知ったかぶりじいさんの言動をはさみ込むせい。
「で、俺を何と説明したのよ」
と杉本に聞いたら、
「しょうがねえんだよ、行きがかりでな…と言うしかねえだろ」
と笑ったものだ。
吉岡作品のコーナーでは当然みたいにあけすけな話が出て来た。人呼んで「ごちそうおじさん」意中の女性に出会う都度、ごちそう攻めにするさまを、彼らは見ていた。
「それがね、なかなかフィニッシュまで行けないのよ」
「結局タネを蒔くばかりだけど〝その後〟を妄想して歌を書いてたんだな」
「自称〝孟宗竹〟の昇華が見事でさ、書き上げた世界は〝後ろ向きの美学〟」―。
売り出し前の若いころ、彼らは盛り場に蟠踞、歌を語り時代を語ってケンケンガクガク、さながら新宿梁山泊の連夜を過ごした。その中で演歌を書く意味や意義を自問していた吉岡は、時に逆上したような蛮声で歌った。
〽生まれ在所は長州江崎、腕は二流の艶歌書き、なにが不足で盛り場ぐらし、家にゃ女房子供が待つものを…
田端義夫の「大利根月夜」の替え歌である。
今回は番組で、岡と杉本がヒット曲を交換した。杉本が歌う「紅の舟唄」はブルース仕立てで、あの乱暴な口調がゆったりたっぷりめ。最上川のどこかを、風に吹かれて流れる風情があった。岡が歌った「吾亦紅」は主人公の雰囲気がなぜか漁村青年ふう。元歌の杉本の都会の青年ふうたたずまいと対比して、野趣に富んだのが愉快だった。
弦は石川さゆりでヒットした「飢餓海峡」の情念を女唄仕立てで。歌詞の、
〽連れてって―…
の部分の歌声が、かぼそくしなり、糸を引いてふるえるのを、杉本が、
「あそこがきっちり女になってたねえ」
と論評する。
徳久は22年ぶりに陽の目を見た高倉健の「対馬酒歌」を初披露。荒木とよひさの詞を健さん気分で読んだら、ひとりでにメロディーが生まれた実情を語って、歌唱も健さんになり切りの語り口だ。
岡の「黒あげは」は、作詞家星野哲郎のお供で20数年、一緒に出かけた北海道の漁師町・鹿部で、毎年夏に聞いてすっかりおなじみ。何度聞いてもグッと来るのは、吉岡の詞の哀切が岡のしわがれ声に生きるせいか。
杉本はこの秋、人知れず逝った作詞者松原史明をしのんで、万感の「紅い花」を歌った。それやこれやの今回の「名歌復活」は、何と放送予定が来年3月5日である。作曲家4人のスケジュール合わせのむずかしさと、年度内制作の台所裏があってのことだそうな。
友人の歌手新田晃也が新曲「雨の宿」を出した。歌手活動55周年と喜寿を記念した作品だ。長く巷で歌って来た男である。業界の思惑を離れた演歌系のシンガー・ソングライター。「夢さすらい」「吹き溜まり」「前略ふるさと様」「冬・そして春へ」「母を想えば」などの自作曲を並べれば、独立独歩で生きた年月の、その折り折りの心模様がしのばれよう。
長いつき合いである。彼を知ったのは「阿久悠の我が心の港町」というアルバムに接して。作詞家の阿久が全国の港町を旅取材。オリジナル曲を書き、合い間に本人が短いエッセーふうコメントを語った異色作で、全曲を無名の新田が歌っていた。アルバム発売が1976年だから、新田とは以後45年前後の親交が続いている。
胸を衝かれた新田作品がある。「友情」の歌い出しの、
〽こんな名もない三流歌手の、何がお前を熱くする…
という2行。15才で故郷を離れ、無名歌手のままの里帰り。それでも友だちは温かい握手で迎えてくれた。本人の実感が歌になったのだろうが、そんな自分を彼は「三流歌手」と断じてはばからない。僕はもともと、テレビで全国に名や顔と声も売り、一流と目される人たちだけが歌手とは思っていない。亡くなった浜松の佐伯一郎を筆頭に、地域で親しいファン相手に膝づめで歌う友人たちもまた、立派な歌手だ。しかしそんな地方区歌手の中でも「三流」に胸を張る歌手は新田だけである。
新田は1959年、福島・伊達から集団就職列車に乗った。中卒の15才で阿佐ヶ谷のパン屋が就職先。そこを2年で離れ、ジャズ喫茶のボーイ、純喫茶のバーテンを経て、バーブ佐竹の付き人兼運転手になるのが上京5年後。修行2年で新宿のサパークラブで弾き語りデビュー。阿久のアルバムに起用されたころはもう、銀座で名うての弾き語りとして知られていた。その出会いが歌謡界入りの好機だったが、「今さら新人歌手なんて…」と固辞している。人気弾き語りの収入は当時相当な額だったし、それ以外に業界周辺で、かなり痛い思いをしたらしいのだが、今日まで多くを語らないままだ。
集団就職列車に乗った理由を、新田は屈託のない口調で、
「口べらしですよ」
と言い切った。僕は疎開した先の茨城で、そういうケースをいくつも見聞していたので、これにも胸を衝かれた。農村の貧しい暮らしから、ひとり家族が減れば、その分だけ家計が助かる。新田が福島を離れた1959年は昭和34年である。敗戦から14年、復興成る! の取り沙汰の陰に、そんな苦難がまだ続いていた。巷の歌い手は昭和のギター流しから弾き語りに推移して、平成、令和へ、カラオケが我が物顔になる。そんな流れの三つの時代を生き、新田は巷で歌いつのって来たことになる。
10月11日、練馬文化センターつつじホールで開かれた彼の記念コンサートに出かけた。彼が歌い手を志した時代は大音声の〝張り歌〟が主流だった。新田もファンが必ずせがむ「イヨマンテの夜」や長尺の「俵屋玄蕃」を得意として来たが、喜寿の77才である。〝張り歌〟に〝語り歌〟の要素が加わり、中、低音の響きが心地よく、歌唱に年相応の滋味が生まれていた。隣りの席には作詞家の石原信一。10年前に僕が引き合わせたが、その間に2人は「振り向けばお前」「寒がり」「もの忘れ」「昭和生まれの俺らしく」など、熟年世代の歌を一緒に作り、石原は今や作詩家協会の会長だ。
新田がステージで見せたのは、「三流の意地」「三流を超える芸」「三流の矜持」だったろう。一流作家を動員、有力プロダクションの後押しで一流を目指し、それに成功するのはひと握りの才能である。しかしそれも10年後には二流、もう少し時が過ぎれば懐メロ歌手に落ち着く例はかなり多い。それに比べれば、新田が三流に徹して歩いた我が道は尻上がり、ついに「三流のてっぺん」に到達していてなお、コンサートタイトルを「喜寿に羽ばたけ!」と、当然みたいにまだ前を向いている。
以前、大作曲家船村徹の「喜寿」を、異端から出発、王道を極めた実績と人望から「毅寿」と置き換えて喜ばれたことがある。それと新田ではスケールも人物もまるで違うが、生きざまの潔さに感じ入って、ひそかにこの男にも「毅寿」を進呈してもいいかと思う。
ゲスト歌手は新田の弟子の春奈かおりだった。師匠作品の「会津望郷歌」と「里ごころ」を歌ったが、大衆演劇出身の芸で、セリフ入りの「一本刀土俵入り」がなかなかだった。
殻を打ち破れ236回
井上由美子はコロナ対応のワクチン「モデルナ」の2回目の接種を受けた。副反応が強いと聞いたので、OS-1や頭痛薬を用意したのが8月10日。12日にチクッとやったが、翌日ドカンと来た。体中が痛い、頭が割れそう、体温はみるみるうちに39.2度。しかし一夜あけた14日、眼をさましたら体温は36.7度に下がり、体も頭も前日とは大違いで軽い。業界屈指の小柄のせいか、頭痛薬は小児用
バファリンで間に合った。あとはもう「沢山の抗体が出来ること」を祈るばかり――。
井上はそんな顚末をファンクラブ会報で報告している。それも接種に向かう車中の緊張の面持ちから、薬の錠剤、飲料水の容器、ごていねいに発熱した時や平熱に戻った時の体温計などの写真つき。高熱は赤く、平熱は緑と、体温計の色までクッキリだ。
この人の会報は毎回、なかなかに面白い。仕事場のスケッチや共演歌手との記念写真を手始めに、たべた果物、スカイツリーにびっくりした1ショット、壊れて片方だけ耳にかけていた眼鏡、ここしばらく使っていなかったタブレットの解約金が5万円…と、身辺雑事のあれこれが写真つき。「うちのオバチャン」なる人物が、らくらくフォンからふつうのスマホに取り替えて難渋しているレポートもある。
好評発売中!の『オロロン海道』をPRして「歌えるってしあわせ」なんて、表向き商売用アピールは、ちゃんと表紙の1面にある。脱線まがいがほほえましいエピソードは2、3面の見開きで、これが彼女“らしさ”満載だ。魅力は本音っぽさ。
かなり前に見たコンサートで、
「お金がほしい、お金が要るんです、でないと事務所がつぶれそう!」
と、所属プロダクションの窮状まで、ネタにしたのに大笑いしたことがある。そのコンサートの幕開きが、近所の商店街から自転車で舞台へ飛び出す演出で、これも井上のアイデア。開演前にはファンのおじさんおばさんが、同じ舞台上でカラオケを楽しんでいた。何だかあの時出会ったおじさんやおばさんと、同じ気分で彼女の会報を眺めている。毎月送られて来るところを見ると、事務所も何とか持ち応えているのだろう。
作詞家の荒木とよひさが「俺より上」と、文章のユニークさをほめていたのが、離婚した神野美伽。彼女のファンクラブ会報も毎月届くが
≪そう言われれば、確かにそうだ…≫
と、別れたダンナの発言に僕は合点する。短めのエッセイが毎回、社会の動きに反応したり、人情の機微に触れたり、身辺の事柄への感慨を語ったりして、なかなかに「深い」筆致なのだ。もうベテランの域に達した神野の、芸事に対する熱いまなざしや、人としての熟し方が、平易な文章で率直に語られて、何とも得難いのだ。
熱い!と言えば、山内惠介の会報も相当に熱い。といっても山内本人の発信ぶりではなく、彼の所属事務所の三井健生会長の熱弁。会報そのものを飾るのは、山内の舞台写真が表紙から7ページ分もカラフルなグラビアふう。彼の美男ぶりの強調に、胸を熱くしるファン用だ。その後ろの1ページ分が三井会長の出番となる。
「演歌の王道」と名づけた連載で最新号が58回め。「コロナ禍で魅せた“名刀惠介”の斬れ味」のタイトルで、20周年記念曲第2弾『古傷』が上半期演歌歌謡曲部門で総合1位の報告から始めて、コロナ下でのそのプロモーションの実情、コンサートや大劇場公演との対応やその成果などをこまごまと語りながら、ついに山内の歌唱技術の「深究心と精神力」を力説する。
何と字数にして6000字超、400字詰め原稿用紙15枚分の大作!?をぶち上げる情熱、精神力、持続力には、雑文屋稼業の僕も、ただただシャッポを脱ぐばかりだ。
餌に鴎が食いついた。そのまま敵は海中へもぐり、漁師が竿を振っても離れない。仕方がないからつかまえて、船のストーブで焼いて食った。それはいかん、鴎は漁師の守り神である。若い漁師鈴木政市は同罪の仲間と2人、水夫長にボコボコにされた。作詞家里村龍一の昔話である。酔って興に乗ると話を面白くする癖があるが、この話は彼のいかついキャラとダミ声の釧路弁にやたら似合うから、僕は鵜呑みにした。
作曲家船村徹に勘当された話は一部によく知られている。師の作品「宗谷岬」の歌詞につけた難癖だが、「流氷とけて春風吹いて」に「流氷はとけるのではなく、流れて来て流れ去るのだ」といい「はるか沖ゆく外国船の煙もうれし宗谷の岬」には「はるかな船が外国船となぜ判る? 今どき、煙を吐いて走る船など居るか!」とやった。
「小賢しい! 出て行け!」
船村の一喝で里村は大作曲家の内弟子の座を失う。深夜のこと、辻堂の船村家を出ても東海道線はもうないうえに雨。やむを得ず里村は駅前の電話ボックスで、立てかかった形で眠ったそうな。
「他にもいろいろあったろ? それが積み重なって、お師匠さんが爆発したんだろ?」
と僕がやはり内弟子だった鳥羽一郎を問い詰めても彼は、
「そんなことはありません」
と断言してはばからない。もっとも彼には里村に借りがある。船村宅には弟子入り志願があとを絶たず、その電話を断る係りが里村だった。ところがなぜか、鳥羽の問い合わせにだけは、船村の居場所を教えている。その足で九段のホテル地下の寿司屋へかけつけた鳥羽は、船村との縁を結ぶ幸運に恵まれている。
作詞家里村龍一は無頼の詩人だった。歌謡界では「毀誉褒貶」のうち「毀」と「貶」ばかりが山盛りで、無骨と無遠慮、深酒で時に切れた。奇行、蛮行の噂が先行し、それが世論となる業界だから、つき合いの当初、僕は3人の有名作曲家とのトラブルの理由を問いただした。1人分ずつ聞いて行き、3人めの名を挙げたら、
「頭領(これ小生の仇名)何でそこまで知ってんだ? そりゃあ俺の3大悪事だァ」
と来たものだ。3件それぞれに彼なりの言い分はあるにはあったが、
「世の中通らねぇよな。盗っ人の三分の理だ」
と、僕は総括した。何人かの友人から、
「何であいつとなんかつき合うんだよ」
と忠告や苦情を言われていたから、僕も気合いが入っていた。
「望郷酒場」(千昌夫)「望郷じょんから」(細川たかし)「流恋草」(香西かおり)など、いい歌を沢山残して里村は逝った。「望郷」と「酒」と「詫び心」の3点が多くの作品に共通して、作家本人と作品の主人公は、いつも志得ぬまま酒場の隅で酔いどれており、戸外の夜汽車や船で動くのは彼の想念ばかり。故郷はいつも帰れない場所で、親身内には詫び切れぬ深い事情を背負っている。
北海道・釧路の出身である。この街は昔から炭坑の荒らくれと遠洋漁業の命知らずが火花を散らしていたそうな。一度、彼の凱旋イベントに同行したが、実際出迎え衆の中には剣呑な気配をにじませた男たちもいた。深夜、天井がガラス張りのホテルのラウンジで一緒に飲んだ。
「霧だ! 頭領、これが釧路の霧だ!」
天辺にまっ白な霧が一気に押し寄せた時、立ち上がり両手を広げて叫んだ里村の眼の光が忘れ難い。それが顔に似ぬ、
〽風にちぎれてヨー、のれんの裾を、汽車がひと泣き、北へ行く(望郷酒場)
なんてフレーズを書く。
タイトルもうろ覚えだが、
〽酒で心が旅する夜は、いつもはじめにお前を思う…
なんて泣かせ方もする。
〽いつになったらひとこと言える。かけた不幸の詫び言葉(望郷新相馬)
「不良の純真」を終生抱いたまま、里村の汽車の終着駅はどこだったのか? 酔うた心に思い出したのは誰の顔なのか? 詫びなければいけなかった相手は一体誰で、それはなぜだったのか?
里村と作曲家岡千秋と僕は、作詞家星野哲郎のお供で20年以上毎夏、北海道の鹿部へ通った。里村の訛りのきつさは、この漁師町のそれとほぼ同じで、彼は伸び伸びといつも、ここでもしたたかに酔った。親友の岡は里村の臨終に間に合ったと言う。二人めの師となった星野と、星野の盟友で鹿部の有力者道場登氏は彼岸で、揃って無頼の詩人里村龍一を出迎えるだろう。10月14日の今日、僕は築地本願寺へ彼の通夜に出かける。
大阪の町・枚方を「ひらかた」と読むことは、作詞家もず唱平とのつき合いで知った。彼はこの町に住んで45年、このたび思い立ってこの土地に縁のある歌を作った。北河内、淀川流域のこの町で知られるのは、京街道の主役だった三十石船で、伏見から天満まで半日の航程。それを舞台にもずが書いたのは「三十石船哀歌」で、歌では〝船〟が抜けて「さんじっこく」となる。土地の人々が呼びならわした通り名なのか。
売れ線ソングとして世に問うよりは、土地の風物、歴史の一端として遺したい歌なのだろう。「堀江の新地」「堀割」「八軒家」「造り酒屋」などのディテールが並ぶ。その造り酒屋の下働きに15才で出された娘が主人公。兄さんみたいに優しい船頭に惚れたのが初恋だったが、家の貧しさゆえに売られていく。哀れんで鳴くひばりに「忘れてくれ」がせめてもの伝言…というストーリー。
「小生の歌づくりの宗旨、恵まれぬ底辺庶民の応援歌、幸せへの哀訴です」
ともず本人が狙いを語る。
《〝宗旨〟と来たか、やはりそれが原点だ…》
と僕はニヤリとする。その昔「釜ヶ崎人情」で作詞家デビュー、金田たつえが歌った「花街の母」がブレークしたころは、
「終生、未組織労働者の歌を書く!」
と、胸を張ったものだ。前者がドヤ街の「たちんぼ」後者が「子持ちの芸者」が主人公で「よおしっ!」と、僕は共鳴、後押しをして以後親交が続いた。
「花街の母」は当初、
「コブつきの芸者の歌なんぞ、誰が喜んで聴くか、誰が歌うか!」
と総スカンだった。金田が「江差追分」の歌い手から歌謡曲に転じたのも問題視されて、レコードの販売は関西限定。それでもめげずに行商の長期戦、近ごろでは〝お仕事〟になった盛り場プロモーションの実と、金田の悪声のわびしさ辛さがリアリティに通じて、息の長いヒット作に育った。
「三十石船哀歌」を歌うのは、「はぐれコキリコ」など、もず作品を一番多く歌った成世昌平で、作曲も堀慈の名で彼。関西では名うての民謡歌手が、歌謡曲でもヒット曲を持つ成世らしく、高っ調子の民謡フレーズを盛り込んだ曲にして、のうのうと歌っている。なまじの感情移入よりは、その方が聴き手の胸に沁みる算術なのだろう。
それよりも《えっ?》《おいおい!》になったのはもずの手紙の中段の1行で、
「残余の人生を考えますと、この世の置き土産になるやも知れません」
と述懐していること。残余の…と言ったって、まだ80代のなかば。このところ、もっと若いヒットメーカーが次々と逝ってはいるが、もずにそんなふうに達観されちまったら、少々年上の僕は一体どうなるのだ? 人の縁を辿って成り行き任せ、出たとこ勝負で憂き世を泳いで来た僕は、いけしゃあしゃあの楽天家だから、まだ残余なんぞ数えちゃいない。
「花街の母」が世に出たのは昭和48年だからちょうど48年前。一極集中の東京へは出ず、関西で踏ん張る肚を決めるのがそれから3年前後とすれば、45年前に家でも建てて、以後ずっと枚方暮らしになったのか? 彼我比べるべくもないが当方は、親の代からの貧乏借家住まい。19才で茨城から上京、勤め先こそスポーツニッポン一筋だったが、北区滝の川を手始めに、現在の葉山海っぺりまで転居すること12回、10年住めば飽きが来て次! の流れ者生活で、定住型のもずとは、そこのところが違うのか…と一人合点する。
もず唱平から届いたもう1枚のCDは、三門忠司が歌う「峠の夕陽」という股旅もの。ところが
「一つ峠を越えるたび、いつもお天道様に叱られて、この身が真赤に染まるんだ」
なんてセリフ入りで、五十路のやもめ暮らしの母親を、助けることすら思うに任せぬ禄でなし…と主人公はボヤいてばかり。隣りのおみよとの二世の誓いを反古にした悔いも手伝い、なんとも颯爽としない流れ者なのだ。コロナ禍でまるで先が見えないモヤモヤ時代には、無職渡世の男もため息まじりになると言うことか。
カップリングの「望郷ヤンレー節」は3番の歌詞がもず流で、村の娘が紅灯の新地の女になった噂に、
〽まさかあの娘じゃあるまいな…
と、主人公がたたらを踏んだりする。2曲とも作曲は三山敏で「花街の母」で一緒にブレークしたお仲間。こちらも関西在住のまま〝東京望見〟の仕事を続けて来た人だ。もずの新曲はあれもこれも、いわば原点回帰の趣きだらけだが、後生だから〝人生、残余の置き土産〟なんぞと弱気を見せないでおくれよ! と僕は「哀訴」するしかない。
殻を打ち破れ235回
「そうか、来年でもう60回か。俺、日比谷野音の第1回から見てる。感慨深いなぁ」
「その第1回に出演した方、もう誰も居ません。主宰者の石井好子さんをはじめ、皆さん亡くなってしまって…」
7月14日夕、渋谷・オーチャードホールで開かれた「パリ祭」の開演前、窪田豊プロデューサーと僕の立ち話だ。年に一度のシャンソンの祭典。2日続きのイベントで、珍しくシャンソンを歌う藤あや子が13日、ボサノバの小野リサが14日のゲスト。鳳蘭、菅原洋一、前田美波里、美川憲一、山本リンダ、クミコあたりが日替わり出演、30人近くの歌手たちがノドを競うが、このジャンルはベテランが多い。構成演出の髙平哲郎の今回の趣向は、第一部が「偉大なる三大B」と名付けて、頭文字がBのジルベール・ベコー、バルバラ、ジャック・ブレルの世界、第二部はエンリコ・マシアス特集。
演歌全盛期育ちの僕が、シャンソン界に首を突っ込んだのは、石井好子の知遇を得てのこと。彼女の事務所と僕の勤め先のスポーツニッポン新聞社が日本シャンソンコンクールを共催、加藤登紀子をはじめ若い才能を多勢送り出した。お陰で高英男、深緑夏代、芦野宏、岸洋子らとの親交にも恵まれた。
しかし、石井音楽事務所のスタッフからは、危険分子呼ばわりを受ける。若い歌手たちがフランスの“本家”の歌に、「型」から入ることばかりに腐心する姿勢を批判したため。ピアフ風とかアズナブール風とかを競うより、作品のココロと自分のココロを考え合わせなきゃ、演歌・歌謡曲をご覧よ、それがちゃんと出来てるよ!
≪しかしパリ祭もいつのころからか、ひどく健全な大音声大会になったものだ…≫
今回の客席で僕はそんな感想を持つ。経歴を見れば多くの歌手たちが、大学の声楽科出身の本格派である。訓練された美声を快く響かせて、それはそれでひとつの魅力だろう。しかし、昔から「人生の機微を歌う文学性」を語った鬱屈や人肌の説得力が後退してはいないか?
ほほう…と、彼女らなりの色あいにじませて感じたのは『神の思いのままに』のやまこし藍子、『リヨン駅』のリリ・レイ、『ミモザの島』の花木さち子あたりで、大音声タイプの完成型と思えた『アムステルダム』の伊東はじめは、この道55年のキャリアだった。
それから4日後の同じオーチャードホールで、僕は「時には昔の話を・加藤登紀子コンサート2021」を聞いた。
「どんなに暗い時代にも、人は輝いて生きようとします。信じられないほど罪深く愚かだけれど、きっと本当は素晴らしく生きられるはずだと、信じて」
加藤はプログラムにそんなことを書く。コロナをめぐるその場しのぎの政策への不信、先行きが見えない焦燥感の中で、強行された東京オリンピックと見事なほどのメダル・ラッシュ。それはそれこれはこれ…と、相反する思いを別々に抱えながら、失速する日々…。
「でもね、長く遠い未来としても、その第一歩が“今日”だと考えたいのよね」
ふつうコンサートは歌の合い間にトークが入る、いわば“つなぎ”の役割。加藤の場合は逆で、語るべき思いが先にあって、合い間にそれに似合いの歌がはさまる。そんな人間味とエッセイを聴くような手応えが、彼女のファンをとりこにするのだろう。
『ひとり寝の子守唄』も『カチューシャの唄』も『愛の讃歌』もアンコールの『百万本のバラ』も、彼女が「混惑」の時代と決意を語る舞台で、ちゃんと役割を持っていた。
≪非常事態宣言の乱れ打ちと東京五輪なぁ≫
アクセルとブレーキを踏み間違えたのは、高齢ドライバーだけじゃないよな!
趣向を変えてきっちりと、ドラマを大きく展開するのは、芝居にしろショーにしろ、第2部の冒頭というケースが多い。9月14日夕、国立劇場大劇場で開かれた「大月みやこスペシャルコンサート〝歌ひとすじ~出逢いに感謝~〟」も、その例にもれない。大月は「雪国」の駒子と島村「婦系図」のお蔦・主税の愁嘆場を、一人芝居で熱演してみせた。コロナ下の公演、声援はご法度だからファンは盛大な拍手で応じた。
映像と陰ナレーション(これも本人)で、おおよその設定を説明しておいての、男女の別離シーン。「雪国」では駒子と島村のやりとりを演じ分け「婦系図」は綿々とお蔦のひとり語り。双方悲嘆のきわみから「夜の雪」「命の花」の歌に入る。歌手生活57年「今、女を歌う」をモットーにして来た大月が、自分の表現世界を絵にし歌にして、女の情念をあらわにしたシーンだ。
国立劇場で歌手がワンマンショーをやるのは、珍しい。劇場の格式がそうさせるのか、歌手たちがハードルを高めに考えるせいか。第1号は五木ひろしで、調べてもらったら2008年3月。ちょうど流行歌100年に当たったから、その流れと意味あいをショーに仕立てた。間に谷村新司をはさんで、今回の大月は演歌・歌謡曲勢では2人目。幼少時代の童謡から始めて今日にいたる、彼女の半生をテーマとした。劇場が劇場だけに、単なるヒットソングショーとは異なる構成・演出を必要としたのか?
昔々のある日、近県でやっている春日八郎ショーに出かけた。取材相手は春日ではなく司会者の北条竜美。岡晴夫、小畑実ら一流歌手だけを手がけた名調子の有名人だが、大いにテレて
「あたしなんかより、前途有望な娘がいます。あちらを取り上げてやって下さいよ」
と名指したのが大月だった。1964年にデビューして、春日や三橋美智也の前座で19年もの下積みを体験した彼女を、
「よく知ってます。あの人の第1作〝母恋三味線〟や次の〝潮来舟〟を歌えるくらいに」
と答えたら、北条は憮然としたものだ。
国立劇場の大月は大先輩二人の「あん時ゃどしゃ降り」「山の吊橋」と「哀愁列車」「おんな船頭唄」を歌って往時を語る。デビューが前の東京オリンピックの年だから覚え易いが、僕はその前年にスポーツニッポン新聞社の内勤から取材部門に異動したホヤホヤ記者。いわば〝同期〟のよしみで、その後長く彼女と親交を保った。
大きな転機は、結果代表作となる「女の港」を得た1983年。ところが当初、有線放送の反響ばかりが先行、歌手名が置いてけぼりになりそう…と本人があせった。「大丈夫、結果はあとからちゃんとついて来る」と、僕は慰め役になった。ショーはその曲のほか、レコード大賞最優秀歌唱賞受賞の「女の駅」同金賞ほかの「乱れ花」レコード大賞グランプリの「白い海峡」など6曲で、順調な歩みを示して大詰めを飾った。
1989年6月24日、大月はたまたま小林旭と食事をしていた。その日に美空ひばりが亡くなったから、彼女は色を失う。少し前からコマ劇場長期公演のオファーが届いていた。
「私、だめ。お芝居好きじゃないし、出来ると思えない。絶対やらない!」
食事の席で彼女はそう言いつのる。ダダをこねながら相手の反応を見て参考にするスターたちによくある手口。
「何を尻ごみしてるの。ひばりさんが亡くなって、歌手芝居の一カ月公演は、みんなで後を継がなきゃならない。あんたもその候補に選ばれたんだもの、光栄と考えなよ」
僕の激励の弁のうち〝ひばり以後〟の部分で、どうやら彼女は得心した。即刻その年7月に「浮草おんな旅」を新宿コマでやって、2年目の2月公演「婦系図~お蔦ものがたり」を見た僕は、不覚にも泣かされた。なかなかにやるじゃないか!
話は国立劇場に戻るが、能弁の彼女は、ショーのMCもほとんど自前。連発するのは「凛とした女の生き方を…」「歌えることのしあわせ」「素敵な人との出逢いがあってこそ」「私を支えて下さるのはファンの皆さま…」
自慢のノドも節回しも健在を誇示、歌は客席に攻め込む勢いを持った。イントロに合わせる司会者の美辞麗句も梃子に、彼女の歌の基本は大向こう受け狙い。時に過剰なほどの表現の核にあるのは、三橋、春日の昭和40年代に身につけたものと、同じ時代を生きた僕は思う。そんな古風と今様をうまく混在させる大月の芸を堪能したファンも、熟年熟女たちだった。
日本の四季を代表するような映像が次々と展開する。舞台いぱいのスケールと鮮やかな色彩に圧倒されそうだ。五重の塔に紅葉、桜吹雪もあったか? 一望の草原、密集するひまわりの花、雄大に波打つ海、満ちてゆく月の変化…。その光景の中に、男と女の影が白く浮き出て、すぐに溶けて散る。どうやら切ない恋の顛末を暗示、それを市川由紀乃の歌がつなぐ。「ひだまり」彼女が作詞した「満ちては欠ける月」「蝉しぐれ」…。
この辺までの市川の役割は〝歌う語り部〟で、若い男女のシルエットや彼女の衣装には〝いにしえ感〟が漂う。9月1日夜、渋谷のLINE CUBE SHIBUYA(つまり旧渋谷公会堂)で開かれた「市川由紀乃リサイタル2021~超克」後半の見せ場だ。
ロマンチックな恋の影絵物語が、突然、生々しい情念劇に転じて、ファンは息をのむ。大詰めの「秘桜」を歌い舞う市川が、ドラマの主人公に変身、
〽逢いたいよ、逢いたいよ、闇をすりぬけ、抱きに来て…
と、身を揉むのだ。夢幻の世界から、現し身への転換である。それも作詞家吉田旺がねっちりと書いた、
〽ついて行きます奈落まで、罪をはらんだ運命恋…
と、愛憎ただならぬ執念を形にする。客席に背を向けた市川が、振り向く顔には姥の面、もう一度振り向けば般若の面。
〽燃えて儚い秘桜の、花は煩悩、ああ百八色…
の結びでは、市川の姿が埋もれるくらいおびただしい花びらが降る―。
《そこまで作りこむか!》
と、僕は感じ入る。用意された席「1階6列28番」は、前から3列めほぼ中央で、〝その気〟の市川の表情の変化までが手にとるようだ。
《そう言えば〝リサイタル〟を名乗るイベントも久しぶりだ》
なんて感想も生まれる。昔は年に一度くらい、歌い手たちが趣向を凝らし根をつめた演し物を世に問う勢いで、リサイタルの舞台に乗せたものだ。近ごろは〝ライブ〟の方が一般的で、いわば自分ヒットパレード。さほど力み返ったりはしない。そこのところを「超克」の自筆の筆文字までタイトルに使って、市川とスタッフは気合を入れた。彼女はこれまでの自分を超えようとした。コロナ禍で思うに任せない日々を超えようとした。キャパ2000の会場に半分の1000以下の客を入れて、同時生配信の手も打ったが、さて、採算はどうなったことやら。
おなじみの曲も出るには出た。「雪恋華」「横笛物語」「なごり歌」がショーの導入部に。「心かさねて」と「命咲かせて」はアンコールの出番。何しろ新趣向は他にも二つあって、その一つが埼玉栄高校吹奏楽部とのコラボ。高校生のリクエストで「津軽海峡・冬景色」も歌ったが、密になることを避けて、吹奏楽部のVTRとの協演である。もう一つは、近作でつき合いの出来た吉田旺の作品集。「喝采」「晩夏」「雪」の3曲を、男声のナレーションでつなぐ。人気歌手の主人公が、公演の旅先で別れた彼の訃報を受け取るのが「喝采」のストーリーだが、ナレーションは生前の彼が、彼女に語りかける筋立てになった。
「こころ穏やかに…」
というのが、市川のブログの決め言葉だと言う。そういう「穏やかさ」や「ほどの良さ」が、彼女の魅力と思い当たった。いい歌声だがことさらに、それを誇らない。歌巧者ではあるが節のあやつり方に腐心する気配はない。デビュー当時のトラブルから今日まで、平坦ではない道のりを越えた葛藤や努力を示すコメントもない。長身でのびのびした姿態が、舞台を大きめに飾る。売り出し前には先輩たちに並ぶと遠慮して身をちぢめたエピソードも今は昔だ。その愛すべき「穏やか」で「ほどの良い」キャラと芸風が、この夜ばかりはめいっぱい激してみせた。この人の自信と野心の現れだろうか?
ロビーの一隅に人だかりがあった。「フラワーモニュメント」と言う花の壁で、市川の等身大のパネルも微笑している。そのかたわらに、合格発表みたいな個人名カードが飾られていて、その一部を指さして「あった」「あったぞ!」などという声が行き交う。実はこのモニュメントは、ファンの寄金、一口5000円で作られていて350人分。名札はそれぞれ出資者を示す。時節柄、握手会などの接触を自粛して久しいスターとファンの、新しい交流パターン。この業界の冠婚葬祭を一手に引き受けている花屋「マル源」(鈴木照義社長)の提案とか。なかなかに味なことをやるではないか!
殻を打ち破れ234回
ステージに上がる踏み台が3、4歩分。
≪ここでふらついたら、ヤバイよな…≫
と、腹筋に力をこめた。背後の客席には知った顔がそこそこ。年は年にしても彼らには「やっぱり年だな」と思われたくない。
ステージ正面にギタリスト安田裕美の遺影。形通りに献花する。不謹慎な雑念がよぎったのは、故人とは面識がなかったせい。いたわる思いが深い相手は歌手山崎ハコ。安田は彼女の夫君だった。7月4日午後、原宿クエストホール、この日熱海で土石流の惨事を引き起こした雨は、東京にも降っていた。
「最初で最後の安田裕美の会です」
いわば施主のハコが、きっぱりと言い切った。“送る会”でも“しのぶ会”でもない。いつも「裏方に徹したい」と言い「歌い手の後ろで、この人うまいなぁと思いながらギターを弾いていたい」とした安田を、没後1年後に一度だけ、ステージの主人公に据える。そのうえでハコは、みんなと彼について語り、彼が手がけた曲を歌いたかったのだろう。午後の回は音楽関係者やごく親しい人々が客、夜は熱心な安田、ハコファンを中心に一般の人が集まった。
安田は小室等や石川鷹彦のお付きを振り出しにギターを学び、井上陽水、小椋佳、大滝詠一らのレコーディングやツアーの常連になる。スタジオミュージシャンとしての仕事は歌手のジャンルを越え、多岐にわたった。年に一度は渡米、海外のミュージシャンと交流、ギター演奏の奥をきわめた腕利きだ。
そんな安田をハコは終始「安田さん」と呼んだ。慣れない東京で、一途に多難な道を歩き続けたハコからすれば、幅広い人脈と活動の場を持つ安田は、尊敬する先輩で、よき理解者で、やがて同志にもなったろう。大ヒットした『織江の唄』をはじめ、数多くの作品を共にした二人は、九州の娘と北海道の男の縁(えにし)を育て、2001年元旦に結婚、2020年7月6日、死別する。
この日ハコが歌ったのは、阿久悠の遺作の1曲『横浜から』に『SNOW』『BEETLE』『縁』『ごめん…』の5曲。安田が参加したカラオケとハコのギターの弾き語りが合流した。
ハコが詞、曲を苦心して1曲作りあげると、安田は「よく出来たねぇ」とねぎらったらしい。ハコのギターのイントロを「あれ、そのまま使おうよ。とてもいい…」と、安田が編曲に採用したこともある。ハコが興奮し、安田がうんざりしたのは雪。ハコの昔話は、ふるさとの空や雲、神社の石段、ちょうちょやかぶと虫やおばあちゃん…。
それらを安田は、いとおしげに見守った。ステージに山ほど写し出された安田写真は、長めの髪、サングラスの奥の優しげなまなざし、ふっくらした頬、似合いのあごひげ、丸っこい体つき…。その穏やかな包容力が、ハコの問わず語りを見ていた。
≪そうだよな。いつも捨て置けない人なんだよ彼女は…≫
いじらしさやけなげさが、彼女のキャラ。歌は哀訴型で、ひたひたと聴き手に迫る。幼さも含めた純粋さが一途で、それは僕らが世俗にまみれ、いつの間にか磨滅してしまった大切なものだろう。だから僕はハコがデビューしてすぐから40年くらい、断続的に彼女を追跡してきた。
♪伝えたいのはいつだって 抱きしめて言いたい 愛しているよ死ぬほど好きさ 死んでも好きさ ごめん…
アルバム『山崎ハコセレクション~ギタリスト安田裕美の軌跡』のラストソングである。ギリギリまでギターを弾きながら、安田ががんと戦った3年間と、それに寄り添ったハコの思いに、胸が痛い一日になった。
遠くから突然、坂本九の歌声が流れて来た。つけっぱなしのテレビが映していたのは東京オリンピックの閉会式。歌声はその会場からで、「ン?」あれは「上を向いて歩こう」か? 「見上げてごらん夜の星を」か? 確認しようと、あわててボリュームを上げたが、テレビの画面はもう次の光景に移っていた―。
日航ジャンボ機の墜落事故は1985年のことだから、8月12日で36年になった。坂本九の37回忌の年だ。そう言えば今年は、彼の生誕80年に当たるとか。僕の思いはさっさとオリンピックを離れて、あの事故で亡くなった働き盛りのポップスシンガーに移っていた。乗客乗員520人が犠牲になった事故の現場は、群馬県上野村の御巣鷹の尾根。日本中が震撼した出来事で、坂本九はその遭難者の一人だった。
機影がレーダーから消えた…という一報から、当時の勤め先スポーツニッポン新聞社の僕らのスペースは、名状しがたい空気に包まれた。ジャンボ機が一機、所在不明。それはどういう意味を持つのか? 以後事態がはっきりするまで、どういう経過を辿るのか? 芸能関係の取材を主とするチームには、想像も出来ないまま、記者たちは楽観的な見方から悲観的な考え方を口々に伝え合う。最悪の事態を想定し、事実関係をひとつずつ積み重ねて、最悪から抜け出す習慣と手順を持つ僕らは、にわかには身動きも出来ない。
全員で首っぴきになったのは、乗客名簿だった。片仮名表記、横書きのおびただしい名前の中から、気になる名前を選び出す。それぞれが、知っている限りの有名人の姓名を思い浮かべながらの作業。思い当たりがあればその人の現在位置を確認する。同姓同名の別人はよくあるケースだ。その間に日航機の動きが、少しずつ判って来るが、乗客の一人「オオシマヒサシ」が坂本九の本名とは結びつきにくく、それを当人だと鵜呑みに出来ようはずもない―。
手許に「星を見上げて歩き続けて」という書物がある。5月に光文社から出版されており、著者は坂本九夫人の柏木由紀子で、彼女から届けられた。「突然の別れから物語は始まる。再び幸せの星を見つけるまでの〝心の軌跡〟」が帯にある文章。彼女の友人の歌手竹内まりやの
「由紀子さんの笑顔の向こうには、底知れない悲しみを乗り越えた人だけが持つ、本当の強さと優しさがあった」
という言葉が添えられている。
事故から4日後の8月16日午後、藤岡市の旅館に詰めていた由紀子さんに、まず届いたのは坂本九のカバン。夕方には遺体安置所で、彼女は本人の確認をする。彼が身につけていた笠間稲荷のペンダントが手がかりだったが、翌朝の新聞の見出しがもう一つひどいショックを与えたと言う。
「柏木由紀子、未亡人」
その時彼女は38才、遺された女児2人は長女花子が11才、二女舞子が8才だった。
「その時のことは今でも思い出したくないです」
と告げながら、柏木はこの本で、彼女と坂本の別れから今日までの日々を、実に率直に書いている。年月が彼女をそんな境地に導いたのか、それとも生来、物事に激することのない穏やかな人柄なのか。29才と23才で結婚、幸せすぎて恐いくらいの毎日から、信じられない事故、気丈な日航との交渉や、墓のこと、娘たちの成長、女優業の再開などの事実が、ほとんど話し言葉の文章で進む。まるで笑顔の彼女が、目の前で語りかけてくるような心地になる本だ。
長女の花子はシンガー・ソングライターで、ラジオの番組を持ち、宝塚歌劇で活躍した二女舞子はドッグセラピストで、犬の洋服のブランドを立ち上げている。結婚した娘たちは、実家の近くで暮らし、母娘3人は2004年から年に一度「ママ エ セフィーユ」(フランス語でママと娘たち)をタイトルに、コンサートを開いている。一年かけてこらす趣向が少しおしゃれで楽しく、坂本九への愛にあふれていて、招かれる僕は出席する都度穏やかで温かい気分になれたものだ。
記者時代に僕は、彼を「坂本さん」と呼んだ。芸能人をなれなれしくニックネームで呼ぶことを避けるから、どうしても「九ちゃん」にはならない。しかし「坂本さん」ではいつも違和感がザラついたが、彼は何事もなげな笑顔で、親しげな応対に終始した。
墓は尊敬していた榎本健一との縁で、六本木通りを渋谷に向かって、右側の永平寺別院長谷寺にあると言う。あそこには友人の作詞家阿久悠も眠っている。一度2人を訪ねてみたいと思っている。
みなとみらい線・日本大通り駅から徒歩8分、神奈川県民ホールへ、熟年男女が行進した。7月19日月曜日の午後1時、相変わらずの暑さだが、人々の歩みは物見遊山ふうにゆっくりめで、軽い。行く先は福田こうへいコンサート。去年7月にやるはずだったものの振替公演。道々交わされる会話はコロナ禍の不満や、久々に再会した友人との近況報告など…。
待ち兼ねたのは観客だけではないとでも言いたげに、福田のステージはいきなりハイ・テンション。「南部蝉しぐれ」も「北の出世船」も「天竜流し」も「筑波の寛太郎」も、一気! 一気だ。客席もそれに呼応して…と行きたいところだが、反応は盛んな拍手とペンライトの波に限られる。マスク、検温、手指の消毒、声援ご法度は、このところどの公演でも当たり前になっている。
「それでも、熱気は感じるなあ。うん、会うのは久しぶりだしねえ」
なんて、福田のトークは如才がない。東北弁丸出しで、笑わせネタもちょこちょこ。メジャーデビューして10年、それなりの進化とそれなりの自信が見える。
新曲は「男の残雪」で、坂口照幸の詞、四方章人の曲、南郷達也の編曲。歌い出しが高音、サビも高音、歌い納めが高音のメロディーを、僕はW型と呼んで珍重する。そんなヤマの張り方は、言うは易く作るには難しい。メロディーのどこかに〝つなぎ〟の無駄が出るか、無理を押し通して破綻するかになるせいだ。しかし四方の今作は、ほとんど高音へ行きっ放し、福田の声と節を存分に生かす算段で、これならインパクトは強いし、売れ足も早いだろう。
坂口が書いた詞も欲張っている。タイトル、イントロ、歌い出しの2行…と、素直に聞けば「男の決意ソング」ふう。そこに以心伝心で生きて来て、明日の山も一緒に越える女性との〝しあわせ演歌〟要素が混ぜ込まれる。この狙いを成就するには、どうしても決まり文句の多用になる。愚直なくらいコツコツと、演歌の姿形を整えようとする坂口にしても、今回は苦労したろう。
それやこれやを福田は、委細構わず歌いまくる。ゆうゆうと言うか、のうのうと言うか、細部にこだわらないのが福田流。CDを聞けば多少の心情表現は確かにあるが、ステージとなると行け行け! でもはや野放しである。
《そうか、民謡は声と節が勝負だものな…》
僕はそういうふうに納得する。気分は微苦笑だ。男と女の色恋沙汰が流行歌の永遠のテーマ。その微妙さに踏み込めば、表現はどうしても多岐にわたり複雑になる。細分化する心情のあれこれを向こうに回して、民謡調の福田の歌唱は真一文字。発出するのは若さと熱度だ。民謡の持つ野卑なまでのエネルギーで、彼は野放図にコンサートの2時間を走り抜け、客を圧倒する。技の一端を見せたとすれば、マイクをはずし地声で聞かせた「江差追分」か。
隣りの席に居たプロデューサー古川健仁は、古いつき合いである。コンサートを見終わって顔見合わせた僕らは、
「見聞きしているだけでも疲れるよなあ」
と笑い合った。伴奏もフルバンドに津軽三味線や尺八を加えたナマ。それを圧し続ける福田の大音声である。僕は昼の部だけで十分堪能したが、福田は昼夜2回公演である。タフでなければスターじゃないのだ。
コンサート中盤、いきなり僕の名が呼ばれてびっくりした。ナナオという一風変わった名前の男性司会者が、来客の一人として念入りな紹介をしてくれた訳だが、
「さて、どこに居らっしゃいます?」
と彼が言う。客席の頭が一斉に右左に動くさまに恐れをなした僕は、手も上げず起立もせずに身をちぢめた。
「それにしても古川、どの作品も直球一点ばり。先々もずっとこのままで行けるのかねえ」
「それなりの幅は作ろうとは思うけど、今は売れてる流れに任せてということかと…」
突然僕らは音楽評判屋と制作プロデューサーに立ち戻った。そうかも知れない。人気稼業は時相場、ダッシュが加速している時期は、余分な小細工などその勢いを削ぐだけになるか。
「それにしても…」
と、僕はもう一方の隣席の作詞家の坂口に、
「東北訛りがきつすぎて、歌詞がほぼほぼ判らないのは困るよな」
と小声で言ったら、
「僕、最近耳が遠くなって来てまして…」
と、やんわり切り返された。
殻を打ち破れ233回
JR中野駅のホーム午後2時20分過ぎ、下りのエスカレーターの列に加わってふと思った。この行列はおそらく、その後右折して改札口へ向かうだろう。ニヤニヤしながらついて行くと、熟女集団の行動はその通りになった。目指すは中野サンプラザ。この日6月3日の午後3時から「三山ひろしリサイタル2021~歌の宝石箱~」が上演される。一行と僕は少し足早やになった。
本当は昨年9月に予定された催しだった。それがご他聞にもれずコロナ禍で延期。その分だけ三山本人も気合いが入っていた。『お岩木山』『男の流儀』『四万十川』など、おなじみの曲から、ガンガン行く。ひところよりは歌声に厚味が出て、中、低音がよく響き圧力が強い。デビューからしばらくをボクシングのバンタム級くらいに見立てれば、今ではライト級のパンチ力…。
会場は例によって感染対策の3密ご法度。客席は一席ずつ空けた市松スタイルで、声援もなし。一斉に揺れるペンライトと拍手が三山とファンを結ぶよすがだ。1階19列22番の僕の席の前に、お仲間風情の熟女トリオが並ぶ。左側の一人はオペラグラスで三山を熟視する。中央の一人はかなりいいノリでライトを振り、一曲終わるごとに拍手へ切り替えが忙しい。右側の一人は身じろぎもせずに三山の歌に聞き入り、忘我の境地――。
「趣向ヤマモリです。お楽しみ下さい」
と三山が幕あけに予告した内容は“星の歌づくし”がその1で『星降る街角』『星の流れに』『星影のワルツ』『星はなんでも知っている』『星のフラメンコ』など昭和歌謡のあれこれ。その2が長編歌謡浪曲で“忠臣蔵外伝”ふうに、吉良側から上杉綱憲と千坂兵部の物語。「声・節・淡呵」が浪曲の3要素だが、三山流のこなれ方がなかなかだ。その3は“歌で世界旅行”企画で『5番街のマリーへ』『翔んでイスタンブール』『時の流れに身をまかせ』『バナナボート』『サンタルチア』『慕情』などのごちゃまぜ。
休憩時間には「あんたテレビに出てる人でしょ」「バレた?」なんてやりとりをしながら、前列の熟女トリオと交歓する。この日のステージは、近々CSテレビで放送され、秋にはDVDで発売されるとか。選曲の賑わいと、三山の気合の入り方が、なるほどと合点が行く。トラブルがあった長尺浪曲は終演後に撮り直しだが、物の言いがついて取り直す大相撲の一番みたいなオマケになった。
左上腕部にしこりが残り、動かすと少し痛むことに気づく。前日夕、居住地の葉山町福祉文化会館でコロナ対策のワクチンを接種したせいと思い出す。つれあいや友人を督励、ネット対策までした予約騒ぎだったが、何のことはない、思いついて電話をしたらパッとつながって自分で取れた。クーポン券と、書き込んだ予診票、身分証明の保険証などを持ち、準備おこたりなく出かけた接種風景と、サンプラザの客席の景色が重なる。65才以上の接種が1000万人を越えたと官邸が大騒ぎした日、初対面の熟女トリオも注射仲間みたいで、とても他人とは思えない。
三山は25才で四国から上京、28才でデビューして13年になると話した。作曲家中村典正とその夫人の歌手松前ひろ子の薫陶を受け、結婚もし子も成した。公私ともに穏健にして堅実な“その後”である。41才の男ざかり、働きざかりのステージが、それなりの充実ぶりを示した。
三山の新曲は『谺-こだま』で、作詞者いではくと作曲者四方章人とばったり会った。四方は仲町会のお仲間で、顔を合わせれば酒…の仲。それが「ずっと自粛、家呑みを励行してます」とさっさと帰ろうとするから、まだ宵の口なのに「じゃあね!」と別れた。何だか忘れ物をしたような気分だった。
東北の〝職業歌手〟奥山えいじの新曲「うまい酒」が妙にしみじみしている。槙桜子の詞、伊藤雪彦の曲で、一番がちょいと一息の〝ひとり酒〟二番が友だちとの〝つるみ酒〟三番が夫婦の〝ふたり酒〟という歌詞。庶民の暮らしの中の、安らぎの場面を並べ、人生良いことばかりではないが、うつむかず明るめに暮らすことが肝要と訴える。こんな時期だけになおさら…ということか。
奥山とは山形・天童で開かれていた佐藤千夜子杯歌謡祭でよく会った。全国規模のカラオケ大会で、僕は審査委員長、彼はゲスト歌手。農業で生計を立てながら、プロの歌手を兼業するから、あえて〝職業歌手〟と呼んで仲良くしている。東北は米どころ、酒どころ、歌どころである。そんな空気をまとった奥山は、地元に蟠踞しながら、ごくふだん着の顔つきと物言いで、のびのび歌っているのがいい。
歌唱は一口で言えば〝くさい〟魅力。歌全体にほど良い訛りがあって演歌向きだ。声味と節のあやつり方は宮史郎や宮路オサム似で彼らより少し若め。言葉つなぎにゴツゴツ感を残し、大きめのビブラートでそれをつなぐ。前作の「只見線恋歌」よりは歌のゆすり方が強め。もしかするとベテラン作曲家伊藤雪彦の、独特の〝歌のさわり方〟を学んだのか。いずれにしろ〝押し〟が強めの仕上がりだが〝嫌味〟がないのは人柄のせいだろう。
僕はテレビ出演で顔が売れ、ヒット曲にも恵まれているスターたちだけが歌手とは思っていない。彼らを一流と考えれば、地方でコツコツと支持者を集め、いい仕事をしている歌手もプロ。全国区歌手と比べれば地方区の歌手で、一般には無名だから三流と目されようが、三流には三流の芸と意気地があろうし、僕はそれを得難いものと思っている。
地方区の巨匠と呼んだ静岡・浜松の佐伯一郎は亡くなったが、他にも各地に、親交を重ねる地方区さんは多い。そう言えば埼玉・所沢あたりの新田晃也に会ったら、近々レコーディング、秋には大きめのコンサートをやると言っていた。彼らは別に、全国制覇を諦めている訳ではない。地盤を持ってガツガツしないだけだ。東京に一極集中する歌謡界へ、彼らが逆転突入する夢を果たしたら、それは愉快なことではないか!
僕は今年も、山形の天童へ出かける。佐藤千夜子杯歌謡祭は19年続いて一昨年終了したが、昨年からはそれに代わって「はな駒歌謡祭」が開かれている。審査の縁がつながった訳で、米は「つや姫」酒は出羽桜の「雪漫々」や「枯山水」肴は「芋煮」と「青菜漬け」という美味との縁も継続中だ。イベントの主導者は名刹妙法寺の主矢吹海慶師、この人は日蓮宗の高僧、天童の有力者で、僕より年上だが、カラオケを通じて〝ためぐち〟の付き合い。ジョーク山ほどの酒をともにして、その粋人ぶりに甘えている。
今年は11月14日の日曜日が本番だが、前夜入りしてあたためる旧交に、今からワクワクする。その時分はもうかなり寒いだろう…とか、コロナ禍は大事にならずに過ぎていようか、顔なじみのスタッフはみな達者か…など、あれこれが思い浮かぶ。7月にはファイザー社のワクチン接種の2度めも終えている僕が、ウイルスを持ち込む心配はなさそうだ。
もともと僕は「人間中毒」と「ネオン中毒」の患者である。スポーツニッポン新聞社の記者から今日の雑文屋兼業の役者まで、人の流れに添い、大勢の知人友人を得て暮らして来た。縁を結び縁に感謝する人間中毒だ。その場、その流れの潤滑油が酒で、その勢いもかりての虚心坦懐、人を知り人に許された根城はネオン街だった。それが昨年以降、巣ごもり・自粛の日々である。人に会う機会が激減し、その分、酒を飲むケースもきわめて少なくなった。たまに仕事をしても、お仲間はそそくさと帰路に着き、僕はすごすごと帰宅する。これでは二つの中毒の症状は悪化する一途ではないか!
本を読み、テレビを見る日々は、日付けや曜日までが怪しくなり、体重だけが増え続ける。これはいかん…とウォーキングまがいに出かけても、
・弓なりに森戸海岸800歩、怠惰な僕は2往復ちょい…
がいいところ。これ一応は短歌の字脚になってはいる愚作である。
今日7月14日、木曜日は、浮き浮きと渋谷オーチャードホールの第59回パリ祭を見に出かける。シャンソンの祭典である。冒頭の奥山えいじは東北ふうに〝くさい〟が、これから出会う彼や彼女たちは、パリふうに〝くさい〟のが面白い。
「夜霧のブルース」と「別れのブルース」が、好きな古い歌の双璧である。それがここ数年は「別れのブルース」に、愛着が傾いている。
〽窓をあければ港が見える、メリケン波止場の灯が見える…
と、藤浦洸の詞が淡々と風景をスケッチ、
〽むせぶ心よ、はかない恋よ、踊るブルースの切なさよ…
と結ぶ。2コーラスめでどうやら船乗りと港のダンサーの恋と見当がつくだけで、事の顛末、それを取り巻く状況の説明などは全くない。2行ずつの詞の3段重ね、情感を揺らし積み上げるのは、服部良一メロディーだ。
《そうか、この作品のキモは、歌い手と聴き手の想像力に任せられる心地よさか…》
見回せば近ごろの流行歌は、説明過多にも思える。作詞家たちが、手を尽くそうと努力する結果ではあろうが…と合点して、作詞家の喜多條忠と作曲家の杉本眞人に話をもちかけた。男と女の仲に埋没しないで、もっとおおらかな恋唄を作ろう。喜多條、まず欲しいのは景色だ!
秋元順子の新曲「いちばん素敵な港町」のタネ明かしである。こんな時代のこんな閉塞感を見据えて、心を石にしないで、優しさを取り戻そう。みんなカモメ同志さ、差別なんて無しだよ…と、喜多條のメッセージが埋め込まれる。
あの歌は昭和12年に世に出た。84年も前の作品が、聴けばしっとり寄り添って来る。これは絶対今に通じる! と、秋元の新しいアルバムのメインに据えた。「昭和ロマネスク」がタイトルで「かもめはかもめ」「水色のワルツ」「公園の手品師」など、よく知られた曲の間に、埋もれたいい歌をはさみ込む。「暗い港のブルース」と「誰もいない」はなかにし礼「港町三文オペラ」は阿久悠「芽生えてそして」は永六輔「黒の舟唄」は能吉利人の詞…。
なかにしの頽廃の美学、阿久のドラマづくりの妙、永のセンチメンタリズム、能の達観…と、詞には彼らならではの味わいが深い。それを作曲家たちが見事に生かしている。それらをうまく組み合わせて構成すれば、単なるカバーの域を越す新しい物語性が構築できはしないか。ヒット曲は時代を記憶させ歴史を物語り、埋もれたいい歌は、それを発見し、愛した人の個人史のメモにあたる。いいね、いいね、昭和モダニズムだね…と、秋元も制作スタッフも、桑山哲也をはじめ編曲まで頑張った秋元バンドの諸氏も、大いに盛りあがったものだ。
悪ノリは6月30日昼、ティアラこうとうで開かれた秋元のバースデーコンサートにまで持ち越された。何と構成・演出の依頼が来てこの際だからヨッシャヨッシャ。本人と相談して2部構成の選曲配列を決め、秋元用コメントのメモを作り、港だの海だの街角だのの風景を短冊型のスクリーンにチラチラさせようぜと、その程度のお手伝いで、現場処理は舞台監督の伊藤昭年氏に丸投げした。合言葉は「シングル・イズ・ベスト」で、秋元の歌の巧さと魅力を強調できさえすれば、それだけでいい。話してみれば伊藤氏、舞台の仕事は三橋美智也が振り出しとかで、三橋と親交のあった僕らは、しばし懐旧談のあれこれになる。
コンサートの企画・制作はテナーオフィスの徳永廣志社長。小沢音楽事務所でこの世界に入り、僕とはもう50年を越えるつき合いで「徳!」と呼びならわしている男だ。それが秋元の所属先になったから、彼は当然みたいな顔で歌づくりを僕に丸投げした。
徳永社長にすれば今回のコンサートは秋元を引き受けて最初の手打ちイベントで、あちこちに熱心な動員をかける。彼が幹事長をやっている小西会の面々など、時節柄、事後の酒盛りはナシでやむを得ないと笑顔を並べた。音楽事業者協会の徳永のお仲間、業界のお歴々なども勢ぞろいで、
「あんたの構成・演出だと強力に売り込まれてねえ」
と冗談めかす。その分、ショーの出来不出来の責任は重大だった。終演後も笑顔は並んだままだったから、ま、秋元の力量がアピール出来たと言うことか。
帰宅後留守電を聞いて胸を衝かれた。元東芝EMIの幹部市川雅一氏からで、長く闘病中なのに、
「あんたが仕掛けているのに、行けなくて申し訳ない。知っての通りもう歩けないんでね…」
受信時間が何と、当日の午前6時過ぎである。僕は前夜から会場近くに泊まり込んでいての行き違い。あいつに電話をしようと、彼はまんじりともせずに朝を迎えたのかと思うと、涙が出そうだった。
殻を打ち破れ232回
≪「ドキュメンタリー青春」なぁ、当時田原総一朗が仕切ってたシリーズで、テレビ東京の人気番組だった。戦闘的な語り口が若者に受けていた…≫
友人の寺本幸司が上梓した「音楽プロデューサーとは何か~浅川マキ、桑名正博、りりィ、南正人に弔鐘は鳴る」(毎日新聞出版刊)を読んで、50年近く前の日々を思い出した。寺本が出演したのはこのシリーズの一本「新人狩り」で、彼が浅川マキを世に出すために奔走する姿を追った。一部分を三軒茶屋のわが家で撮影したのは、寺本が初代の有料同居人だったせいで、家主の僕にも出ろと言う。
「居候のテラが主役で俺が脇役? そんなもんに出られるか!」
と冗談めかして断った。僕らの同居は業界内極秘で、代わりに小西家を代表チョイ役を務めたのは愛猫のキキ。眼が金色と銀色の奇っ怪なかわいさから、その名があった。
寺本の本はサブタイトルにある4人のシンガーソングライターとの出会いから別れまでが中心。とりわけ彼がこの世界に入って一からを共にした浅川のことに、相当な紙数が削かれている。寺山修司と組んだ歌づくりや、新宿の映画館の地下にあった小劇場「蠍座」でのイベント「浅川マキを聴く会」の成功などのあれこれには、僕も首を突っ込んでいた。当時の僕はスポーツニッポン新聞の音楽担当記者から文化部長になる30代後半。面白いものには片っぱしから反応して、紙面に新風を!と気負い込んでいた。その眼の前で寺本が奮戦、黒づくめのマキが“アングラの女王”として若者たちの耳目を集めていくのだから、当然こちらもワイワイ・ドキドキになる。
ちょうど1960年代後半から70年代、学園闘争から安保闘争、ベ平連、成田三里塚闘争など、若い世代が闘争的だった時代である。僕は大学闘争で頑張った青年たちを書き手に、スポニチに特集「キャンバスNOW」を作った。若者たちによる若者たちのページで、寺本にはそちらのプロデュースも頼んだ。そのせいか、おんぼろ西洋館の2階大小5室のわが家は、若者たちのたまり場になる。寺本がフォークからロックへ手を広げていて、僕の方は演歌、歌謡曲系。それに放送作家、ルポライターとごちゃまぜの酒宴がひっきりなしだ。
売り出し前の作曲家三木たかしや中村泰士、作詞家の石坂まさをが居り、浅川マキのあとにはやがて藤圭子になる阿部純子が来たりする。寺本の仕事の拠点J&K企画室には喜多條忠がいて、マキのための詞を書いていたし、キャンバスNOWのメンバーには石原信一が居たから、近ごろの作詩家協会会長の二代続きが酒を飲んでいた勘定になる。
寺本の本には僕についての記述もある。『今は幸せかい』でカムバックをはかる佐川満男に“元スター”の態度を返上させるために、
「すすめられた椅子にドッシリ座るな、椅子の前の方三分の一に座れば背筋が伸びる」
と忠告したあたりだ。この行儀作法は『君こそわが命』で第一線復帰を目指した水原弘に指示したのが最初。僕は水原、佐川双方の作戦参謀だったが、それも水原の仕掛け人名和治良プロデューサーとの縁や、小沢音楽事務所小沢惇社長の独立と菅原洋一売り出しを陰で手伝ったのが縁になっていた。
寺本の会社は小沢事務所系だった。寺本と僕は同居を徹底的に内緒にした。「小西の家賃は小沢の負担らしい」などの根も葉もない噂を封じるためである。髙樹町の店“どらねこ”で一緒に飲んでも、僕らは別のタクシーで別方向から帰宅した。昨今もそうだがこの業界は、噂がそのまま事実になって払拭出来ないことが多過ぎるのだ。
旅の終わりはいつだってひとりに戻る。ふと思い返すのは訪ね歩いた先々の風物、触れ合った人々の営みや人情…。ずんと胸に来る孤独の中で、男は歌を書くのだろう―、と、まあ、そんな雰囲気を作って、弦哲也は「北の旅人」から歌い始めた。6月11日午後、東京・王子の北とぴあ・つつじホール。「音楽生活55周年記念ライブ」と銘打った自前のイベントで、タイトルは「旅のあとさき」。
同じ題名の記念アルバムを作った。それとギターを携えて、全国を回るつもりだった。55年の節目は実は去年、デビュー当時と同じ形で…と意気込んだが、コロナ禍で断念、1年遅れでこの日の催しになった。まだ非常事態宣言下、客の数を絞り、検温、手指の消毒、マスク着用などおこたりなく、楽屋へのあいさつは謝絶。受付けで友人の大木舜が顔を見るなり、
「終宴後は何もないからね、打ち上げもやらないよ」
と宣言した。やはりここも〝お疲れさん〟の酒は抜きか!
弦の歌は「五能線」「夏井川」「新宿の月」「渡月橋」「大阪セレナーデ」と続く。仲間のバンドをバックに、舞台中央、ほど良い高さで椅子に掛け、弦はおなじみの弾き語りだ。
《確か50年のテーマは「旅の途中」だった。それが5年後の今回は「あとさき」か…》
古稀を大分過ぎて、ゆっくり来し方を振り返り、これから先に思いを馳せる心境になったのか。思いなしか歌声にこもる〝情〟に〝滋味〟も加わって聴こえる。もともと弾き語りの良さは、息づかいが人肌で、歌い手の人柄やその道での成熟まで匂うところにある。
O―7の僕の席の右隣りがあいていて、通路側のその隣りに、川中美幸が滑り込んで来た。
「ごぶさたして、済みません」
と、僕があいさつするのは、川中一座の役者として14年も世話になっているせい。座長も人を反らさぬ対応で、飴玉が一個そっと手渡される。その後弦の歌に集中していて、ふと気づいたらその川中が消えていた。
《仕事の途中の顔出しだったのか…》
と、弦の歌に戻る。曲目が「長崎の雨」になって2コーラスめ、突然川中が歌いながら登場したから驚いた。そう言えば彼と彼女は「ふたり酒」で〝しあわせ演歌〟の元祖になった。これは〝戦友〟としての心尽くしか。
第2部は「おゆき」に始まり「ふたり酒」「鳥取砂丘」「裏窓」「天城越え」など、彼の作曲家の歩みをヒット曲で辿る。第1部の「北の旅人」は石原裕次郎、2部の「裏窓」は美空ひばりのために作った。〝昭和の太陽〟と弦が讃える2人である。胸中には、一緒に仕事をした誇りがありそうだ。
曲ごとにあれこれ、思いも語った弦のライブは「演歌(エレジー)」がラストソングになる。
〽俺のギターが錆びついて、指が切れても切れないこの意地で、生きたあの日の、演歌が聴こえるか!
「演歌」を「エレジー」と意味を広めに歌って、この曲は弦の〝これから〟の決意表明になる。作詞したのは息子の田村武也で作曲は弦本人。父の生きざまに息子が呼応しての歌づくりだったろう。無名のままの早めの結婚で生まれた息子は、一時弦の親元に預けられて育つ。祖父母を親と思い込んだ幼時、弦は父親の愛を実感させるための暮らしで息子に密着、朝型の歌書きになった。売れない歌手と作曲家から脱出できた「ふたり酒」を息子は「お風呂の歌」と呼んだ。この曲のヒットで、弦夫妻は初めて、風呂つきの家に住めたと言う。その息子も今は壮年、父のために詞を書き、記念アルバムのうち3曲「大阪セレナーデ」「夏井川」「新宿の月」の編曲もしている。
会場で僕はその武也とグータッチをした。首にタオルを巻いた彼は、どうやら父のライブの裏方のボスで演出者。もともとステージ・ネームを田村かかしと名乗る彼は、路地裏ナキムシ楽団を主宰する。作、演出から音楽、照明まで手がけボーカルも担当、フォークソングと芝居を混在させる新機軸公演を続けている。僕はその一座のレギュラー役者として、彼の優れた才能と統率力を目のあたりにして来た。ナキムシ公演もここ2年、やはりコロナ禍で休演中である。
「その見果てぬ夢を、親父のライブで使ってやしないかい?」
「ははは…。判りますか、やっぱり…」
僕らはそんなやりとりをした。スクリーンを駆使する舞台表現などに、彼のセンスが生かされていたせいだ。
5日後の6月16日、弦からていねいな礼状が届く。「ありがとう」を連発して、穏和で堅実、人望を集めるヒットメーカーの、律儀な一面である。
《おや、ずいぶん変わったな。うん、いい笑顔だ。いいことがあったみたいな気配まである…》
CDのジャケット写真というものは、歌い手の訴え方があらわで面白い。自分が作りあげた世界に鷹揚におさまるベテランから、精いっぱい存在をアピールする若手まで、人により作品によって実にさまざま。女性歌手の場合は、衣装やメーキャップも工夫して〝それらしさ〟を演出する。しかし、いかにもいかにも…の決め方よりも、ふっと心のうちを伝えるような、さりげないタイプの方が僕には好ましい。
そんなふうに今回、呼び寄せられたのは石原詢子の「ただそばにいてくれて」で、平仮名10文字のタイトル、洋装でほのぼの暖かめの色調がなかなか。何か新しい発見がありそうな予感がする。それはそうなのだ。いつもの彼女は着物演歌ひとかどの歌い手で、気性きっぱりめの自己主張がジャケットにも強かった。それにひきかえ今度は何を歌うのさ? と、歌詞カードをのぞくと、古内東子の作詞作曲とある。ほほう、そういう路線か―。
聴いてみたら、中身もなかなかにいい。ひところ〝恋愛の教祖〟なんてもてはやされたシンガーソングライターの、いかにも古内らしい詞と曲の起伏を、石原がすうっと一筆描きの絵みたいな率直さで歌っている。雨あがりにふと会いたくなる人を歌の主人公は持っている。生きづらい世の中だが、その人に出会えて彼女は自由になれた。ただそばにいてくれるだけでも、同じ時代を生きていると感じられる嬉しさ…。
一筆描きの絵にしても、激するパートはちゃんとある。サビに当たる詞の何行分かだが、石原はそこを、語り口は変えぬまま思いの強さを濃いめの色に染めてクリアする。もともと父親ゆずりの詩吟・揖水流から歌表現を身につけた人。それが父親が敷いたレールに反発、演歌に活路を求めた。声をはげまし節を誇る唱法が、この人の下地になっていた。デビュー以降しばらく、内心ではガンガン歌ってこれでどうだ! の時期があって、キャリア20年前後〝歌う〟ことと〝語る〟ことの意味合いに思い当たる。「三日月情話」や「夕霧海峡」を越え「港ひとり」に到達したあたりに、僕が「いいね!いいね!」を言ったのは平成27年ごろだから、歌手生活も27年あたり。
今回の「いいね!」は、それから6年ぶり2度めである。演歌で一皮も二皮もむけたあとに、唱法までがらりと変えたポップス展開だ。古内の作品は、揺れる女性の思いを生き生きと、揺れる言葉とメロディーにして独特。そこに石原は共鳴、古内の思いのたけに自分の思いのたけを重ね合わせることに成功している。
演歌の場合、声が先に聞こえがちだが、今作は声よりも思いが先に届いて来るやわらかな確かさがある。歌い手としてとてもいい時期に、似合いのいい作品と出会えたケースだろう。「ただそばにいてくれて」には、主人公の生き方、たたずまいまでが感じられる。カップリングの「ひと粒」は主人公の思いがひたむきに一途で、こちらの方が少し若めか。
そう言えば…と思い出した。趣味が旅行とカントリー・ウエスタンで、年に一度はアメリカへ旅していた話。その時は「ほほう!」と聞き流したが今になって思えば、そんな体質とポップス系の新曲である。これが石原なりの多様性なら、詩吟→演歌と彼女の可動域を決めつけていたのは、こちらの了見の狭さだったろう。もっともこのコロナ禍では、好きなカントリーを聞くアメリカ旅行など夢のまた夢になっていようが…。
6月2日、やっとこ予約が取れて、コロナのワクチンを打ちに行った。会場の葉山町福祉文化会館は、当然のことながら熟年男女で大わらわ。クーポン券と身分証明書を持ち、予診票を書き込み、医師の問診を受けて接種、その後2回目の予約を申し込む待ち時間が、事後の体調観察の時間に当たる。現場到着からほぼ1時間、見事にソーシャルディスタンスを保ちながら、僕は会場内をゆっくりと流されたものだ。
帰宅しても無為徒食の日々だから暇である。よし、もう一度聴いてみるか! と、石原の2曲を、今度はウォークマンで吟味する。聞きながらジャケット写真を見直すと、少しもの言いたげで穏やかな笑顔には、今作の達成感めいたものまでのぞける気がした。それにしても何年か前、都はるみのラストコンサートの楽屋で顔を合わせたきりだから、石原にもずいぶん長いこと会っていない。歌手生活は33年めに入っているだろうが。
殻を打ち破れ231回
3月15日、東京・関口台のキングレコード・スタジオへ出かけた。秋元順子の新曲『いちばん素敵な港町』と『なぎさ橋から』の編曲打合わせ。作曲した杉本眞人とアレンジャー宮崎慎二が話し合うあれこれをプロデューサーの僕はニコニコ聞いている。大病克服中の作詞者喜多條忠は所用で来ない。ま、無理をすることもない――。
その日、友人の古川健仁プロデューサーは別室で福田こうへいのレコーディングをしていたらしい。
「残念だったな。来てると判ってりゃ、のぞいてもらいたかった。福田とね、三橋(美智也)さんのデュエットをやってたの。古いカラオケと三橋さんの声を、資料から取り出してさ…」
後日彼からかかって来た電話に
「そりゃあ面白そうだな。CDに焼いて送ってちょうだいよ」
と僕は応じた。
そのまた後日、届いたCDを聴いてみる。『おさらば東京』『星屑の町』『赤い夕陽の故郷』の3曲。テンポが快いのが共通点で、当時のカラオケは音が薄めでシンプル。それに合わせて三橋と福田が、かわりばんこに歌ったりサビで合唱したりする。民謡調の先輩後輩がそれぞれ小ぶしコロコロで、のうのうと歌っている。発売は6月になると言う。
「ま、単なる思いつきですがね…」
と古川は言う。この人は平成19(2007)年にも妙な思いつきのアルバムで、レコード大賞の企画賞を取っている。『作詞家高野公男没後50周年記念・別れの一本杉は枯れず』という代物。高野の作詞、船村徹の作曲、春日八郎歌の『別れの一本杉』は、昭和30年代に大ヒットした望郷歌謡曲の名作だけに、カバーした歌手は山ほど居る。その中から目ぼしいのを集めて、スターの共演ものにしたアイデア商品だ。同じ楽曲だけ並べても歌手それぞれの味つけ、仕立て方が多彩だから、聞き手を飽きさせない妙があり、コロンブスの卵古川版だった。
届いたサンプルの表示は「福田こうへい&三橋美智也」と、福田が前に出ている。ナツメロものなら三橋が先になろうが、位置づけは今が旬の福田のサービス盤が狙い。コロナ禍が長く続いて、歌謡界もご他聞にもれず万事手づまり。その中で話題先行型の打開策に…の算術もありそうだ。
≪星屑の町かぁ…≫
久しぶりに三橋の声を聞いて、僕はふと、往時の体験へ引き戻された。あれは昭和38年の秋。向島の料亭で飲んだあげくに、大スター三橋と駆け出し記者の僕が、あわや大立回りの騒ぎを起こした件だ。前年の紅白歌合戦で『星屑の町』を歌った三橋は、声もボロボロの惨状、大舞台での大失態である。今年も出演するそうだけど、一時でも「引退」を考えたりはしなかったものか? どんなに角の立たない言い回しをしたところで、僕の質問は彼の痛い所を突いた。激怒した彼はテーブルをひっくり返して
「何が言いたいんだ! 表へ出ろ!」
芸者が悲鳴をあげて逃げる。立ち上がった三橋と僕の間に割って入ったのは、同席した国際劇場のプロデューサーと演出家。それをきっかけに僕は頭を抱えて遁走した。
仕事は万事本音…と思い込んでいた僕の若気の至りだが、そのころ三橋は、深刻な家庭問題の悩みが限界に達していたと後で知る。これを機に僕は彼との望外の親交に恵まれた。
60年近くもこの世界でネタ拾いをやれば、いろんな出来事に出っくわしている。舞台裏話、ヒット曲にまつわるあれこれも山ほど体験した。そして昨今、僕は昭和歌謡の「知ったかぶりじいさん」になっている。
「無名」というタイトルの歌詞は、ずいぶん前から僕の引き出しに入っていた。田久保真見が書いた5行詞で、持って来たのは歌手の日高正人。
「うん、お前さんにゃ似合いだな。いつ世に出すか、楽しみにしてるよ」
と、彼を励ました記憶がある。もう喜寿になるが、若いころたった一人で武道館をいっぱいにして〝無名のスーパースター〟を売りにして来た男だ。
その詞がこの4月、都志見隆の曲、日高の歌で発売になった。
桜の花ほどの派手さはないが、土手のつくしの真っ直ぐさ…を前置きに、
〽一生懸命、一生懸命生きたなら、無名のままでも主役だろ
と一番を結ぶ。僕は昔からよく彼を紹介する時
「イケメンでもない。いい声でもないし、歌が特別上手いわけでもない。しかし〝一生懸命〟がそのまんま背広を着て、汗水たらして走り回るのを見たら、後押ししたくなるじゃないか…」
とコメントして来た。
容貌魁偉、グローブみたいな手でテーブルを叩いてしゃべる感激家で、感きわまるとすぐに泣く。何十年か前から我が家に出入りし、小西会のメンバーにもなっている憎めない男。それがボソボソと「無名」を歌うのは、決して激情が胸につまってのせいではない。5月11日に電話をしたら、
「歩行器で、やっと歩けるようになった。もう大丈夫です!」
と、あまり大丈夫そうもない口調の近況報告がある。去年の8月21日に自宅前で転んで首の骨を折った。脳梗塞をやったことがあり、もろくなっていたか。意識不明のまま大病院にかつぎ込まれて手術、12月に退院するところまで奇跡的に回復して、以後ずっとリハビリ生活を余儀なくされて来た。ご難はもうひとつ重なっていた。日高の意識が戻らぬ時期に、母親スエミさんが97才で亡くなっている。彼女に何事かあった時は、僕に葬儀委員長を頼むと、母思いの日高の伝言を受けていた僕も、知らぬままの出来事だった。
しかし、もともとしぶとい男である。そんな心身ともに最悪の状況の中で、彼は「無名」のレコーディングをした。若いころは大仰なくらいの〝張り歌〟が得意。それが年の衰えとともに〝語り歌〟に転じた。ところがよくしたもので、武骨、世渡り下手のキャラそのままが、優しげな語り口に生きる。それに今回加わったのが、人生の奈落を見た男の、苦渋の息づかいか。
〽何もなくても温もり情け、そばにお前がいればいい…
と田久保の歌詞は三番で人生の相棒を登場させる。歌謡詞によくある手法だが、日高の場合はそれが現実に重なった。8年ほどのつき合いの酒場のママ恵子さんの存在で、彼女が日高を献身的に看病した。手術には親族の同意を必要とする。恵子さんは大阪から駆けつけた日高の実妹と相談、急遽日高の籍に入って医師に手術を懇請した。回復しても自失気味の日高の背を押して、
〽一生一度の人生だ、無名の主役を生きてゆく
と、この歌を結ばせている。
僕は昔から日高に、
「三流のてっぺんを目指せよ」
と言い続けて来た。一流のスターになるには、それなりの才能と人徳、有力な業界勢力との出会いや、作品に恵まれる地の利、時代の風をはらむための時の運を必要とする。デビュー以後10年前後までにそれを得ぬまま、それでもこの道で頑張るのなら、「三流」の立場を自認、ひそかに「三流」の矜持を胸に、居直る必要がある。そんな境遇の歌手は大勢居る。目指すべきはその軍勢のトップ、つまり〝てっぺん〟ではないのか!
作品と歌手の行きがかりは不思議である。冒頭に書いたように田久保の歌詞は、以前から僕の手許にあり、彼の生きざまを表現していた。それが日高の再起作として、この上なしのレアな説得力を持ってしまった。コロナ禍で、歌手たちはみな活動の場を失ったままだ。その分日高は、ステージに戻るためのリハビリの時間も与えられたことになる。
「これが最後です。頑張ります。三途の川からあにさんに呼び戻して貰ったんですから!」
日高は妙なことを口走った。〝あにさん〟は彼が使う僕の呼び方である。お前が三途の川を渡るのを、俺が止めたと言うのか? この期におよんで、日高は嘘のつける男ではないし、場あたりの冗談にするネタでもない。おそらくはうなされるままの夢にでも、いつもきついことを言う僕を思い出したのだろう。だとすればこちらもこの際、性根をすえて最後の後押しをせざるを得まい。
「こちらはもう、しょうけつを極めておりますわ、はははは…」
電話でいきなり、作詞家のもず唱平がむずかしい熟語を使う。長いつきあいで、そういう癖のある相手と判っているが、さて「しょうけつ」ねえ。大阪のコロナ禍激化を指して「悪いものがはびこる」の意だろうが、文字が思い浮かばない。突然出て来たとして、読めはしても書けはしないな、これは…。
「こっちももうすぐ、そっちに追いつくよ、困ったもんだ」
と、大阪―東京(居住地で言えば神奈川か)のやり取りをしたあと、急いで辞典をひく。歌手の上杉香織里が「風群(かぜ)」でデビューした時の記念品。奥行に1993年10月の改訂版で第8刷発行とある。21年もお世話になっているということか!
ところで「しょうけつ」だが「猖獗」と書く。凄い字面だこれは…と閉口しながら、近ごろは政治家も書けそうもない熟語をよく使うことを思い出す。例えば医療事情が「ひっぱく」しているケースだが、字にすれば「逼迫」である。必要となれば「ちゅうちょ」なく…と彼らはよく言うが「躊躇」なく発言はするが、一向に実行が伴わず、それやこれやで今や3回めの緊急事態宣言である。
4月26日、渋谷・神泉のUSEN本社へ出かけた。都知事は「東京へ来るな」と言うが、神奈川・葉山からその禁を犯す。「不要不急のことで動くな」と、神奈川の知事も言うが、こちらはUSEN昭和チャンネル「小西良太郎の歌謡曲だよ人生は」の録音で、7月放送分を早めに仕上げねばならない。今回のゲストは歌手の原田悠里だが、彼女のヒット曲27曲をはさんで4時間超のおしゃべり。レギュラーの相方チェウニともども、原田の歌手生活40年を総括、その生き方考え方に迫る。7月の毎週月曜日に1日6回放送する大作である。「不要」などと言っては欲しくない!
感染対策はきちんとやる。僕と原田はマスクしたまま、透明のボードをはさんで向き合う。原田の隣にいるチェウニは、透明のお面をかぶり、マスクをかけ老眼鏡までだから、一体どこのおばさん? 3人の話が盛り上がるのに水を差しかねないのは、何回かの中断と換気。力の入った仕事のあとは、お疲れさん! の一杯をやるのが習慣の僕も、スタジオを出ると、
「じゃあね!」
の一言で逗子行きの湘南新宿ラインに乗る。
ご他聞にもれず原田も、仕事は全部延期や中止で自粛生活の日々。そこで彼女が編み出したのが「一人合宿」だという。読書などの勉強は教師と生徒、体育の時間も生徒で、食事のためには料理人など、一人で何役かをこなすことにし、それぞれの行動を時間表に書き込み管理する。一日の時間をずるずる怠惰にしないためのアイデアか。
「初めて聞くけど、それいいかも!」
と、チェウニが共鳴した。
原田の血液型はAである。ものごとにこだわるし、徹底して学習したがる。著書に「ひばりとカラス」があって、美空ひばりの魅力とマリア・カラスの凄みを並べ合わせて追及した。二人の生い立ちや行動を時系列でチェックして、タイムスケジュール表まで作ったそうな。一人合宿もそうだが、規範、規律を大事にし、それを自分にもあてはめる。天草の生まれで育ちだから、土地言葉でいう「ぴら~っと」する時間も作りはするが、これは緊張と開放の間の小休止らしい。
子供のころからの歌手志願、鹿児島大学教育学部で音楽を学び、一時横浜の小学校で教師をしたのは、父親の希望に添ってみせながらの親離れで初志貫徹。北島三郎に直訴の型で弟子入りしたことはよく知られているが、それまでの5年ほどはスナックで弾き語りをやったり、業界人にだまされて金を要求されたり…の苦い経験もそこそこした。大学で学んだのはソプラノのオペラ。それが歌謡曲・演歌に転じるには「地声が使えない。小節が回らない。間(ま)が取れない」の3重苦も体験した。
この日録音中に原田が泣きだした。チェウニがティッシュペーパーを渡したのは、彼女が二葉百合子に師事、継承の役目も託された浪曲「特攻の母~ホタル」に触れた時。散華した若者たちの青春の思いが、CD化の仕事の域を超えていつまでも原田の脳裡や体内に深く根づいているらしいのだ。
「コロナからも学ぶことは沢山あるよね」
変異ウイルスの猛威が関西圏、関東圏に拡大しているところへ、もっと強力なインド種まで出現した。素顔がキッとなった原田悠里の対応は、さて、これからどう展開していくのか?僕もオチオチしていられなくなった。
殻を打ち破れ230回
2021年2月27日(土)午後4時30分、所は東京・明治座の1階席正面11列25番に、僕は居た。そこから左へ3席ほど空いて、林あまりが居る。歌人で演劇評論家、大学の先生で敬虔なクリスチャンという才媛。30年近いつきあいの僕らが、並んで向き合った舞台は「坂本冬美芸能生活35周年記念公演」で泉ピン子が友情出演する。
「しかし、お前さんと並んであれを聞くことになろうとはな…」
「そうですね。あれからもう27年も経ちますし…」
これ、芝居ではなく、客席での僕らのやりとりである。昔々の1994年、僕がプロデューサーで彼女が作詞家、三木たかしと一緒に作ったのが『夜桜お七』で、冬美は第二部のショーのおしまいに、これを歌うことになっている。ま、それは見てのお楽しみということにして…。
第一部は人情喜劇「かたき同志」(橋田壽賀子作、石井ふく子演出)である。幕が上がると舞台を橋が横切っていて、その上を人々が行き交う。問題提起するのは若いカップルの丹羽貞仁と京野ことみ。相思相愛なのだが、橋をはさんであちらとこちら、丹羽は大店の呉服屋の若旦那、京野は居酒屋の娘で身分が違って許されぬ仲。双方、今夜あたりに二人の決意を親に伝える約束をする。
そこへ息子や娘を探して登場するのが二人の母親で、呉服屋の女あるじ坂本冬美は、ひきずる着物の裾をさばいて、やたら上品な奥方ふう。他方の泉ピン子は酔いどれ客をさばく下町居酒屋の女将で、気っ風のよさ丸出しだ。
筋書きを知らぬまま見れば、時代劇版ロミオとジュリエットに勘違いしそう。ところが本題は母一人子一人2組の母が、意にそぐわぬ我が子にいらだって「かたき同志」になるお話。ピン子が冬美の大店へ乗り込んだり、冬美がピン子の店へ敵情視察に現われたりの、角突き合いが丁々発止。ついにはお互いに身の不運を嘆き、無念を共有するにいたる。
小気味いい演出に、泣き笑いの客席を沸かすのは、年増2人が泥酔する大詰め。わが子の祝言なんかより、女ひとりの老後に思い当たり、思いのたけをぶつけ合い、飲めや歌えの自棄っぱち大騒ぎ。そのあげくピン子は酔いつぶれ、冬美は仁王立ちで天を仰ぐ。2人の最後のセリフは、
「ひとりぼっちは、淋しいよねェ…」
でチョン! だ。
≪いいよなあ、恵まれてるよ。冬美は…≫
僕の感慨は個人的になる。2年前の6月、冬美・ピン子はこの劇場で「恋桜-いま花明かり-」をやった。同じ月、大阪・新歌舞伎座は松平健・川中美幸特別公演「いくじなし」で、双方石井ふく子演出。僕はこちらに、ご町内世話役の甚吉で出演した。大物演出家石井とは、記者時代に面識はあったが、役者に身分を変えてからは初対面。大いに緊張したが、それなりに一生懸命だった。
それが今回は、冬美が再び石井演出で生き生きとし、僕は音楽評論家に逆戻り「冬美の“進化”と“深化”」なんて能書きをパンフレットに書いたに止まる。石井演出でまた演りたい! 恥ずかしながら年甲斐もなく、役者のやっかみが先に立つのだ。
さて、ショーの大詰めの『夜桜お七』だが、歌う前に冬美は客席の僕ら2人の名前を連呼、4半世紀越えの謝辞とした。身にあまる光栄である。冬美は少し肉厚になった歌声、年輪なりの歌唱の深彫りで、お七を往時よりグッと艶っぽくしていた――。
「あら、いい月が出ている!」
一緒に劇場を出たら、林あまりが空を見上げて芝居のセリフみたいに一言。終演が午後7時35分である。非常事態宣言下では、行きつけの店はみな8時閉店する。やむなく僕らは冬美とまん丸の月に別れて、素面のままそれぞれのねぐらへ帰る電車に乗った。
頼まれて単行本の帯を書いた。推薦コピーである。
「タフな行動力に感動! 山陰を離れず音楽を糧に、辿った数奇な半生に脱帽。小説にしても面白すぎる!」
いささか長く歯切れが悪いが、何案か渡したものを本人がつなぎ合わせて、こうしたいと言うからOKした。石田光輝著「あの頃のままに~遠回りしたエレキ小僧」(小さな今井刊)。
届いた本を見てニヤリとした。帯に名を連ねる向きが他にも2人居て、作、編曲家の伊戸のりおと司会者、ラジオパーソナリティーの水谷ひろし。双方僕も旧知の間柄だが、そう言えばエレキギターだのグループサウンズだのの体験者として、著者石田と彼らには〝お仲間感〟がある。
石田光輝の名は、多くの作詞家、作曲家におなじみのはず。というのも、日本作曲家協会が主催する作曲コンテストの常連応募者で、入賞6回、石川さゆりの「長良の萬サ」鳥羽一郎の「秋津島」川中美幸の「ちゃんちき小町」などがCD化されている。鳥取・境港生まれ、米子市在住の有名人なのだ。
このコンテストの初期、僕は協会側の担当者三木たかしと組んで、選考の座長を務めていた。石田と知り合ったのは石川さゆり用に「長良の萬サ」を選んだ時。作詞者は峰崎林二郎だった。前後してこの催しで親しくなった歌書きには、田尾将実、花岡優平、藤竜之介、山田ゆうすけらが居るが、当時は皆無名。
「グランプリを取って、仕事に変化は生まれたか?」
と聞いてみると、
「作品の売り込みに行くと、お茶が出るようになったけど…」
と異口同音だった。登竜門を突破しても、仕事環境が劇的に好転することはない狭き門―。
それならば…と「グランプリ会」を作った。受賞者が集まり、用意した課題詞を競作、売り込み作品の完成度を上げようという企み。切磋琢磨しながら親睦も深め、作曲界の次代を担うグループになろう! とぶち上げたら、みんなが賛同した。最初のうちは狙い通りで、意欲作がいくつも生まれたが、そのうち厄介なことになる。グランプリ受賞者は年に2人ずつ出るから、会員がどんどん増える。ついには当時経堂の我が家のリビングにあふれんばかりになって、何のことはない盛大な酒盛りに終始する騒ぎに。
そんなところへ石田が登場した。米子からはるばる上京して、はなから突っ張り加減。メンバーは多くが東京在住。それぞれが一丁前の面魂でカンカンガクガク。石田とすれば地方からの新入りだが高校時代からGSバンドを組んで、地元ではちょいとした顔…。その負けん気が座の一部に渦を作った。呼応する連中も血気盛んで頼もしくはあるが、これでは全然勉強会にならない。別に当方負担の酒、肴代が惜しかった訳ではないが、会は間もなく解消した。
その後しばらく、石田は疎遠になるが、コンテストでの活躍ぶりは作曲家協会報でよく見ていた。後で知るのだがこの人、高校時代から独学で作詞、作曲も試み、エレキバンド、ザ・スカッシュメンを組んで勉強などそっちのけ。卒業後にサラリーマンやデザイナー見習いなどもちょっとやるが、おおむねキャバレーやクラブのバンドマンと歌手の生活。地元では一流どころにのし上がるが、夢は作曲家だから大阪、東京へひっきりなしに現れて作品の売り込み、一部形にはなったがヒットには恵まれず「賞獲り男になるぞ!」宣言。晩年に高校時代のザ・スカッシュメンを再結成するなど、音楽世界を休む暇なく右往左往した。
その晩年は悲痛でもあった。自分で興した音楽事務所が仲間の裏切りでつぶれて自己破産。膀胱がんを発症、それがこじれて4年間に11回も手術するが、その間にもコンテスト応募は続き島津悦子の「鹿児島の恋」を出すしぶとさ。全快すれば復活ライブ、知人の支援で自前のライブハウス「SHOWA66」を持つのが2016年4月1日、66才の誕生日という嘘みたいな話…。
単行本「あの頃のままに」は70才になった石田がそんな自分の蛮勇はちゃめちゃ音楽盛衰私史を、あけっぴろげに書きまくった197ページ。面白くておかしくて、時に切なく胸を衝かれる手記である。これがまた地域コミュニティ「小さな今井」のコンテストに応募、特別賞を受賞して書籍化にこぎつけたあたりが、いかにも石田流。自称〝生涯現役のエレキ小僧〟境港に快男児あり! と言わねばなるまい。
通販番組のうまいものにオーバーに反応したり、俳句をひねったり。笑顔のままの毒舌が人気のおっさん梅沢富美男が、絶世の美女になるのだから大衆演劇は愉快だ。1月にやる予定がコロナ禍で延期、3月にやっと幕が上がった「梅沢富美男劇団千住新春公演」を見に出かけた。東京・千住のシアター1010で、ゲスト出演は中堅どころの門戸竜二と竜小太郎。
感染予防万全の観客がドッと沸く。いきなり登場した梅沢は、いや味な年増芸者で、化粧はまるでおてもやん。それが後輩芸者の門戸に無理難題を押しつける。大金を落として途方に暮れる番頭の竜を、門戸が金を立て替えて救おうとすると、
「いい役を貰って、もう…、いい気分だろうよ、そりゃあ!」
梅沢が聞こえよがしに呟く。
門戸芸者が相思相愛の若侍との縁を断たれる愁嘆場では、
「いつまでやってんだよ、まったく。いい加減にしろよ…」
と半畳を入れる。芝居の登場人物のままの野次で、思いがけず毒舌おじさんの一面をひょいとのぞかせる。その間(ま)のよさと程のよさ、座長のいたずらに客は大喜びだ。
公演は3部構成。1部が芝居で2部が歌謡オンステージ、3部が劇団揃い踏み「華の舞踊絵巻」となる。1部でアクの強い三枚目をやった梅沢は、2部は黒のタキシードでちょいとした紳士だが、ここでまた、
「ヒット曲はこれっきゃねえんだから…」
と自虐ネタでニヤリとしながら「夢芝居」と新曲を2曲ほど。あとは司会者ふうに竜と門戸を呼び出す。竜の歌は時代劇扮装で「新宿旅鴉」門戸はスーツで「デラシネ~根無し草」
門戸は両親が離婚、捨てられて関西の施設で育った。旅興行で全国を回れば、生みの母親に会えるかも知れないと役者になったエピソードの持ち主。それを下敷きにして「デラシネ」は田久保真見の詞、田尾将実の曲、矢野立美の編曲で作った。僕は門戸の座長公演ではレギュラーのぺいぺい役者。それが歌となると、こちらがプロデューサー、彼が歌手と、立場が逆転するつきあい。
「それにしてもだよ、子供を何人もおっぽり出して居なくなるなんざ、ろくなもんじゃねえな。そんなおっ母さんなんか、探すことはねえよ」
梅沢のきつめのコメントで歌に入るから、門戸のさすらいソングが妙に沁みる。ありがたい曲紹介と言わねばなるまい。
《何度聞いても飽きが来ないってことは、いい歌だってことだな…》
と、客席の僕はひそかに自画自賛する。近々次作を出すつもりの2曲が出来ていて、門戸は作曲した田尾のレッスンに通っている。舞台で歌い慣れたせいか、腕があがって来ているのが楽しみだ。
お待たせ! の第3部は、豪華絢爛である。出演者全員の揃いの衣装や背景や小道具のあれこれが、投資!? のほどをしのばせる。それが舞台一ぱいに妍を競い、その中心で梅沢や門戸、竜が舞う。
「正直言って、金かけたよ、うん、これには自信がある、見ててくれよ!」
2部の歌謡ショーで予言した通り、ぜいたくでカラフルな見せ方だ。テレビでは素顔が多い梅沢が、こうまで変わるか! と感嘆するみずみずしい美女になる。踊りも派手めの緩急で、決まりのポーズでは、すいと視線を泳がせ、ふっと口角を上げる。拍手と嬌声、それにクスクス笑いもまじって、劇場の空気がとても親密だ。
僕は多くの大衆演劇を見て来た。年末恒例の沢竜二全国座長大会でも、たくさんの役者たちと一緒の舞台を踏む。見聞した舞踊の決まりシーンでは、大ていみんなが見得を切った。大なり小なりだが「ことさらに目立つ表情や所作」を示すのだ。俗に言う〝どや顔〟だが、ファンはそれを支持、歓迎する。ところが梅沢はそこが違う。「どうだ!」と決めるかわりに「ねえ、こんな感じ?」と客に同意を求めるやわらかさがある。
〝下町の玉三郎〟で人気を得て以後、古稀も越えた今日までの年月で、もしかするとこれがこの人が行き着いた境地なのか。そう言えば毒舌と呼ばれる語り口も、実は率直に本音を語る心地良さに通じるのだ。この人は積み上げて来た芸も、今また手にしている人気も、誇示することなく、上から目線にならない。芸の芯にあるのは人柄そのもの。それをよく知っているファンを目顔で誘って、一夜の娯楽を「共有」する気配が濃いのだ。
大詰めは「劇団後見人」の位置づけの兄梅沢武生との競艶。葛飾北斎か? と見まがう荒波の絵をバックに、演じるのは美男美女の道行きである。舞踊から一歩踏み込んだドラマ仕立てのあの手この手に、見物衆はヤンヤ! ヤンヤ! だった。
殻を打ち破れ229回
その娘とはしばし顔を合わせていた。笑顔がよくて物腰てきぱき。初対面からごく自然な愛嬌があり、長くつき合ってもなれなれしくはならない。人づき合いがいいバランスの彼女を、親友の歌手新田晃也は「俺の弟子です」と、事もなげに言った。
その人・春奈かおりが、久々の新曲を出した。『さとごころ』『初島哀歌』『愛でも恋でも』の3曲入り。全部新田の作曲で3曲めは師弟のデュエットである。新田は長く演歌のシンガーソングライターとして活動しているが、今回はプロデューサーも宣伝マンも兼ねる気配。CDは彼から届いたが、
「さっそくご挨拶かたがた資料を持参したかったのですが(コロナ禍で)思うに任せず…」
と、ていねいな手紙つきだ。
≪ほほう、可憐なくらいのいい声で、望郷ソングを素直に歌っている。技を使わないところが、作品の色に合っているか…≫
さっそく聞いてそう思った。新田は昔々、福島・伊達から集団就職列車で上京、歌への情熱やみがたく、70代の今日まで一途に孤軍奮闘して来た。それだけに望郷の思い切々…の作品が多く、今作は師匠のそんな心情に、春奈が巧まずに反応したことになろう。
10年ほど前、大衆演劇の名座長だった若葉しげるに、いきなり
「うちの子が世話になってるんですよね」
と言われて驚いたことがある。全国座長大会の主宰者沢竜二に役者として誘われ、浅草公会堂の楽屋に入った日のこと。こちらぺいぺいの老役者、あちら名うてのスター役者だから、緊張しっ放しの僕は咄嗟に誰のことか思いつかなかった。
それが春奈の件だった。彼女は母親に連れられて「若葉しげる劇団」に参加、3才で初舞台を踏んだらしい。10年後に母親が「若奈劇団」を旗揚げして6年間、房州白浜のホテルに専属、その後福島・会津若松でまた常打ちの日々を過ごす。その間、彼女はどうやら一座の看板スターだった。それがカラオケ大会で認められ『墨絵海峡』(坂口照幸作詞、弦哲也作曲)でデビューしたのが1996年。以後新田に師事してCDは今作が4作めだから、今どき珍しいのんびり派だ。
≪何だ、同業さんなんだ。年はずっと若いが、キャリアじゃ俺の先輩じゃないか!≫
僕は沢竜二の全国大会にその後もレギュラー出演、若葉には何くれとなく世話になり、教えられること多かった。人波にまぎれこみそうに、小柄でごくふつうのおじさんが、舞台上はまるで別人の芸、かわいいお尻ぷりぷりの町娘姿など、惚れ惚れとした。知人の橋本正樹の著書「あっぱれ!旅役者列伝」(現代書館)によれば1962年、関西の猛反対を押し切って上京、三軒茶屋の太宮館の専属になったが、高速道路の建設で劇場が廃業、手痛いショックを受けた…とある。
≪えっ! こちらはごく近所だった!≫
僕はまた驚く。東京五輪の直前、国道246のその工事で僕も難儀した記憶がある。当時、三軒茶屋の左手奥、上馬の西洋ぼろ屋敷に住み、若者たちが勝手に出入りして、議論と酒盛りに明け暮れた日々があった。売り出し前の作曲家三木たかし、中村泰士、作詞家の石坂まさお、歌手は浅川マキ、藤圭子らが顔を出し、最近新田とコンビの仕事をしている作詞家の石原信一も常連だった。
世間は狭いと思うし、縁は異なものではないか! 春奈かおりのおっとりお人柄の歌を聞きながら、いろんな顔が数珠つなぎである。
春奈の母親は3年前に引退、劇団旗揚当初に縁のあった房州白浜で、居酒屋良志久(らしく)庵を開いているとか。春奈はここでも看板娘なのだろう。コロナが下火になったら一度、海が間近のその店へ、新田ともども行ってみたいと思っている。
「この際だから、演歌の王道を行きましょう」 と、川中美幸とそのスタッフは、肚を決めたらしい。昨年その路線の「海峡雪しぐれ」を出し、今年は「恋情歌」で、姿勢を踏襲している。作詞がたかたかしから麻こよみに代わったが、作曲弦哲也、編曲南郷達也は変わっていない。
僕は去年の2月、明治座で「海峡雪しぐれ」をたっぷり聞いた。彼女はショーで毎回歌ったし、休憩時間にも繰り返し流されていた。共演者の僕は楽屋でそれを聞きながら、彼女らの言う「この際」の意味を考えていた。ここ数年、女性歌手たちの仕事はポップス系に傾倒している。アルバムやコンサートではカバー曲が目立つし、シングルもポップス系の味つけが増えている。
川中はきっとそんな流れを見据えて「演歌の王道」を極め、守る思いを強めるのだろう。ベテランの域に入って、内心「せめて私ぐらいは…」の自負も抱えていようか。
改めて2作品を聞き直す。前作「海峡…」は、
〽いまひとたびの春よ、春…
と、幸せを待つ女心が一途で優しいが、取り巻く気候はきびしい雪しぐれだ。それが今作「恋情歌」だと、
〽たとえ地の果て、逃れても、あきらめ切れない恋ひとつ…
と女心が激しくなり、情念がとても濃いめだ。弦が書いたメロディーも、前作はやや叙情的だったが、今作は冒頭からガツンと来て、起伏も幅が広く激しい。
川中の歌唱は2曲とも前のめり気味。思いのたけ切々で、主人公の女性の胸中を深く歌い込もうとする。演歌本来の「哀訴型」で、これが彼女の「王道」や「本道」の中身だと察しがつく。その実彼女は「ふたり酒」や「二輪草」の、歌い込まないさりげなさや暖かさの包容力でヒットに恵まれた。それはそれで身の果報だろうが、本人はもともと、身をもむくらいに切々と、やっぱり歌を泣きたいのだと合点がいく。
はやりものや文化は何事によらず、古い良いものの極みを求める努力と、古い殻を打ち破る新しいエネルギーが二本立てで、せめぎ合って前へ進むものだろう。そういう意味では、川中が「この際…」と思い込む世界は、古い側に属すことになる。しかし古い器に新しい酒…の例えもある。昔ながらの「哀訴型」に、今を生きる彼女の感性が投影され、極みを目指そうとするなら、それはそれで今日の産物になる。作家もスタッフも、呼吸しているのは現代だ。
僕は新聞屋くずれ。長く媒体特性を軸に見なれない面白いもの、時流の先端になりそうなものに強く反応して来た。下世話な新しいもの好きである。そのせいか、女性歌手たちのポップス傾倒に好意的だが、しかし、それにも得手不得手、似合う似合わないはある。それなのに、一つが当たると一斉になだれを打つこの国の付和雷同ぶりが、歌謡界も例外ではないのはいかがなものか。対極にあるものをないがしろにしない踏み止まり方も応援したいものだ。
話は変わるが、市川由紀乃の新曲「秘桜」を聞いて《ン?》と感じたことがある。彼女もまた「哀訴型」の歌手だが、その感情表現はやや醒め加減で、情緒的湿度はさほど高くない。そのほどの良さが〝今風〟なのだが、感じ入ったのは彼女の歌ではなく、作曲した幸耕平の筆致の変化だ。市川のヒットほかを書き続けて、
「この辺で俺も一発!」
とでも言いたげな「本格派」への試みが聞き取れる気がする。
もともと打楽器に蘊蓄が深い経験のせいか、リズムに関心の強い人と聞いていた。作品そのものも軽快でリズム感の強いものが多い。演歌を書いても多くの歌手に、リズム感の肝要さを説くエピソードをいくつも聞いた。大月みやこでさえそう言われたと話したものだ。
それが今作では、リズム感第一を棚にあげてメロディー本位、もう一つ先か上かの作品へ狙いがすけて見える。作品の色あいは演歌よりはむしろ歌謡曲だが、亡くなった三木たかしの世界を連想した。いずれにしろ演歌、歌謡曲を守ろうとする人や逆にそれを目指す人がともに頼もしい時期である。
僕は役者としては川中一座の人間だが、長く彼女とは会えぬままになっている。時節柄芝居の話がなかなかで、お呼びがないせいだが、彼女の側近の岩佐進悟からは、
「会えぬ日が続き寂しい限り。コロナが落ち着いたら是非とも一献」
なんてFAXは来る。もちろん委細承知! である。
中村美律子の「あんずの夕陽に染まる街」を思い返しながら、葉山・森戸海岸を歩いた。花岡優平の作詞作曲。迷いつつも同窓会で帰郷した女性が、泣きたくなるほど愛しい日々を振り返る。街は夕陽に染まって、それがどうやら淡紅のあんずの花の色。心に灯るのは、あの人が好きだった純情時代のあれこれ…。
ニューバージョンのただし書きがついていた。
「こういう時期に似合いだから…」
と、装いを改めての再登場か。ゆったりめの歌謡曲、どこか懐かしいメロディーに、花岡がよく書く〝愛しい日々への感慨〟が揺れる。確かにこの時期、演歌で力むよりは、こういう〝ほっこり系〟が、妙になじむ。
《あんずなあ、季語とすれば春か…》
昼さがりの海岸を、巣ごもり体重増対策で歩いていて、歌の季節感に行き当たった。というのも、ひょんなことからJASRACの虎ノ門句会の選者を頼まれてのこと。作詞家星野哲郎の没後10年の会で、門弟の二瓶みち子さんにやんわり持ちかけられたいきさつは、以前にこの欄に書いた。最近令和2年分から小西賞に、
「ママの手を離れて三歩日脚伸ぶ」関聖子さん
を選ばせてもらった。会長のいではく賞は、
「音重ね色重ねゆく冬落葉」これも関聖子さん。
弦哲也賞は、
「自然薯の突き鍬錆びて父は亡き」川英雄さん。
いわば歌書きたちの句会年間3賞で、関さんはダブル受賞、大病をされた後とかで、これで元気を取り戻されるかも…と後で聞いた。
森戸海岸は、葉山マリーナから森戸神社まで。逗子海岸や一色海岸と比べるとこぶりだが、正面に富士山が鎮座する。ヨットやウインドーサーフィン、シーカヤックなどに、近ごろ流行りの一寸法師ふうスタンドアップパドルボードに興じる人々が点在してにぎやかだ。海岸には老夫婦の仲むつましさや犬の散歩、走る若者、娘グループの笑い声などがほど良く行き交う。
《しかし、あれはやり過ぎだった。意あまって脱線したようなもんだったな》
中村美律子の笑顔を15年ほど昔にさかのぼる。彼女の歌手20周年記念アルバム「野郎(おとこ)たちの詩(うた)」を作ったが、シングルカットしたのが「夜もすがら踊る石松」で、阿久悠の詞に杉本眞人の曲。和製ラップふう面白さに悪乗りして、中村の衣装をジーンズのつなぎ、大きめのハンチングベレーで踊りながら歌うと意表を衝いた。ところがそれでテレビに出したら、あまりといえばあまりの変貌に、彼女のファンまでが、
「あんた、誰?」
になってしまった。
そのアルバムは阿久の石松をはじめ、吉岡治の吉良の仁吉、ちあき哲也の座頭市など、親交のある作詞家に無理難題の野郎詞を書いてもらった。中村の衣装は勢いあまっての失敗だったが、作品集自体はその年のレコード大賞の企画賞を取っている。もっともその直後に中村が東芝EMI(当時)からキングに移籍。販売期間がきわめて短く、〝幻のアルバム〟になったオマケもついた。
森戸海岸が好きな理由はもう一つ、神社手前の赤い橋そばに、古風でいいたたずまいの掲示板がある。これが葉山俳句会専用で、毎月の句会の優秀作が掲示されている。先日その前に立っていたら妙齢のご婦人に、
「皆さん、お上手ですよねえ」
と同意を求められた。
「そうですね、実にいい!」
と、僕は笑顔を返したのだが、短冊にきれいな筆文字の一月例会分では、
「小魚の跳ねる岬を恵方とす」矢島弥寿子さん
が、海のそばで暮らす人の実感いきいき。またしても書くが〝こんな時期〟だからこそ、小さな生き物のエネルギーに、先行きの望みを託す気持ちに同感する。
もう一句、胸を衝かれたのは、
「かの山もかの川も見ず年明くる」増田しげるさんで、コロナ禍自粛のままの越年なのか、もしかすると…と、まだ見も知らぬ詠み人の体調まで少し気になったのは句の静かさのせい。
神社から海岸通りへ戻り、御用邸方角へ少し歩くと真名瀬(しんなせ)という漁港がある。こちらもこぶりで遊漁船が四、五隻、未明から昼ごろまでに出たり戻ったり。小さな舟の二、三隻は漁師の仕事用か。僕が散歩する時刻には、みんな一仕事終え人影もない。それを見回して、
《ふつつかながら俺も一発いってみるか…》
とその気になって一句ひねった。
「漁港のどか、マストに鴉こざかしげ」
別に鴉にふくむところがあるわけではない。すいっと横切ったカモメを目で追うさまがそう見えただけのことだ。
殻を打ち破れ229回
『王将一代』と『王将残照』という歌を聞いている。正月の4日、コロナ禍の急激な拡大で、いつも自宅に人を集めた忘年会も新年会も今回はなし。つれあいは仕事で東京へ出ており、一人きり、猫二匹相手の自粛生活のひとときで、机の上のCDに手が伸びた。2003年10月22日発売とある。
作詞は友人の峰﨑林二郎、作曲と歌は50年来のつき合いの佐伯一郎だ。2曲とも将棋の坂田三吉が主人公、
♪浪速根性どろんこ将棋 暴れ飛車だぞ勇み駒…
♪苦節春秋十と六 平で指します南禅寺…
などと、勇ましいフレーズが並ぶ。それに哀愁ひと刷毛の曲をつけ、佐伯の歌は声を励まし節を動員して「ど」のつく演歌。めいっぱいに歌い切って“どや顔”まで見える。
≪彼の会もにぎやかだったな。昔なじみの顔が揃って、“地方区の巨匠”の面目躍如だった…≫
暮れの12月23日、浜松で開かれた佐伯のイベントを思い返す。畠山みどり、川中美幸、北原ミレイをはじめ沢山の花が会場を取り巻く。ロビーには芸能生活65年分の記念の品がズラリ。
「小西さんと一緒に出てるよ、ほら!」
と、和枝夫人の明るい声に呼ばれると、大型テレビに彼が歌い、僕が能書きを言っている場面が映っている。あれはスポーツニッポン新聞社を卒業 NHKBS「歌謡最前線」の司会を任された番組の1シーンだから、2003年ごろのものか。開演前のひととき、会場には佐伯の歌声が流れている。得意とした岡晴夫のヒット曲や船村徹作品のあれこれも。
そう言えば昔々「船村徹・佐伯一郎演歌ばかの出逢い」というアルバムのライナーノートを書いた。1960年代の中ごろ、飛ぶ鳥落とす勢いのヒットメーカー船村と無名の若手歌手佐伯が意気投合して、曲を書き歌い合った珍しいコラボ盤。それに書き物で加わった僕も、ご他聞にもれぬ“演歌ばか”で、取材部門に異動したばかり、28才の駆け出し記者だった。
その前後から佐伯との親交が始まる。やがて彼は故郷の浜松に戻り、作曲家・歌手・プロデューサーとして地道な活動に入った。熟年の歌手志願をレッスンし、成果が上がれば芸名と作品を与え、レコード化もして地域のプロ歌手へ道をひらいた。人気が出れば仕事の場も紹介、そのうちに佐伯一門が東海地区で活躍するにぎわいを作る。地元で盛大なディナーショーをやり、勢いに任せて弟子たちを引き連れ、浅草公会堂でコンサートを開くのが恒例になった。トリで歌いまくるのはもちろん佐伯で、僕はいつのころからか彼を“地方区の巨匠”と呼ぶようになった。テレビで顔と名前を売る全国区の人々だけが歌手ではない。地方に根をおろし、ファンと膝づめで歌う歌手たちも、立派なプロだし地方区のスターなのだ。
佐伯の娘に安奈ゆかりという女優が居る。彼女と僕は一昨年と昨年、川中美幸の明治座公演で一緒になった。その共演を一目見ようと、昨年春、佐伯は明治座に現れた。「無理をするな!」と止めたのだが、言い出したらきかぬ彼は車椅子で、それが彼と僕の最後の歓談になった。
タネ明かしをしよう。昨年12月23日のイベントは、実は83才で逝った彼の葬儀だった。コロナ禍で家族葬ばかりのこの時期なのに、演歌一筋に生きた彼のために「ラスト・ステージ」を演出したのは和枝夫人や長男の幸介、安奈ら遺族の一途な思いで、会場はイズモホール浜松の貴賓館。乞われて祭壇の前に立った僕は
「おい、ここはまるで浅草公会堂みたいだな」
と、少ばかり思い出話をした。冒頭のCDは、その日会葬御礼として配られたものだった。
「料理なんて、ちゃんとやるの?」
「うん、いろいろ考えながらね。おたくは?」
「あたし、やらない。だんながする(笑)」
熟女二人のやりとりである。ご近所づきあいの主婦の立ち話みたいな風情。そのうち子供は作らないのか、そこまでは望まない、もう年が年だしねえ…と、突っ込んだ話も妙にさりげない。
会話の主は、実は歌手のチェウニと島津悦子。場所が東京・神泉のUSENのスタジオで、僕ら3人は「昭和チャンネル、小西良太郎の歌謡曲だよ人生は」を録音していた。コロナ禍対策が徹底しているから換気のために話がしばしば中断する。だからそんな所帯じみた話は、マイクがオフになっている時に限られる。人気稼業の二人だもの、本番中はそんな〝素〟の部分は避けて通るに決まっている。
番組は月に一度の収録で毎週月曜日に放送中だ。僕が話し相手でチェウニがアシスタント。ゲストで呼んだ人の歌20数曲を聞きながらの四方山話だから5時間近い長尺ものである。長いこと作詞、作曲家やプロデューサーなどがゲストだったが、ほぼひと回りしたので近ごろは歌い手も来る。人選は元NHKの大物でこの番組のプロデューサー益弘泰男氏にお任せ。いずれにしろ気のおけない相手がほとんどだから、雑談めいたやりとりが、いつも賑やか、時に核心を突く。
近作「俺と生きような」がヒット中の島津は九州の出身。静岡でバスガイドをやった後に東京へ出て、歌手になったキャリア30年超のベテラン。ほだされたと言う相手と結婚して金沢に住み、仕事現場へは長距離出勤を続けている。気性も言動も、こざっぱりした〝男前〟で、飾らずべたつかずの人づき合いのほどの良さが好かれて、作家たちと親交がある。作品が一番多いのは弦哲也で岡千秋、徳久広司がそれに次ぐから、さしずめ3冠。石本美由起、松井田利夫、伊藤雪彦、市川昭介、吉岡治らとも縁があった。うるさ形も多いが、
「何だか、お酒のもうか、ハイ…なんて感じで、皆さん優しかったわよ、アッハッハ…」
と屈託がない。
不要不急の外出は自粛中を強いられる昨今だが、この番組だけはちゃんと神泉へ出かける。そのかわりスタジオでは、美女二人と僕が透明の間じきりで隔てられ、三人ともマスク着用のまま、相棒のチェウニはその上に老眼鏡をかけ、透明のお面までかぶっているから、
「どこのおばさんヨ」と僕に冷やかされる。
この人がまた、すたすたと率直な物言い。時に僕が使う熟語に、
「待って! それ、どう意味ヨ?」
と割って入るとにわかに日本語教室になる。来日して20年を越え、お祝い騒ぎなしの結婚をし、少し前に日本に帰化していて、
「あたし、ここに、骨をうずめるからネ…」
と言う時は、眼も笑わない。16才の時に一度日本へ来た。僕はレコードで彼女のあちら楽曲「どうしたらいいの」を聞いて惚れ込み、会おうと探したら帰国してあとの祭りだった。それが再来日しての「トーキョートワイライト」でやっと会えて、以後ずっと親しいつき合いだ。
「この人、あたしが初恋のひとだったのヨ」
と、僕を誰かに紹介する都度、彼女は自慢げな表情を作る。
そんな気の合い方で、あれこれ突っ込むから、ゲストに来た向きは大変だ。作詞家の池田充男は若い日に、小樽から駆け落ち同然に呼び出した夫人とのそもそもを、根堀り葉堀りしたら、
「そこまで言わせるか!」
と慨嘆して、結局全部しゃべった。
亡くなった作詞家仁井谷俊也は、出演分を2枚のCDに落として、車でいつも聞いていた。内容が彼の一代記になったせいか、
「あれはいい番組です」
と、顔を合わせるたびに言いつのった。
人前に全く出ず〝作詞家は陰の存在〟を通したちあき哲也が「来る」と言うので緊張したのは、がんとの闘病がもう深刻な時期だったせい。珍しく熱い口調で仕事と生き方を語り尽くしたのは、僕との親交へ、覚悟の上のお返しだったのか。
神泉へ、恵比寿駅からタクシーを使うことがある。逗子から湘南新宿ラインで出ての乗り継ぎ。旧山手通り途中の青葉台に、ひところ通いつめた美空ひばり邸がある。それをひばり家の嫁有香に話したら、
「収録が済んだ帰りに、是非一報を!」
ということになった。今は記念館と事務所になっているそこから、近所の〝いいお店〟へ案内してくれるそうな。久しぶりに〝二人呑み〟をやるかな―。
吉幾三の詞や曲にある独特の〝語り口〟と、走裕介の〝歌いたがり癖〟がどう合流できているか? そんなことをポイントに走の新曲「一期一会」を聞いた。結果としては案じることもなかった。その理由の1は、吉の詞が人との出会いはみんな意味がある。一期一会と思えばこそ…と、3コーラス&ハーフを一途に語り続けていること。その2は、メロディーが3連の快い起伏で、一気に歌い切れるタイプだったことだ。
それを走は、いい気分そうに歌い放っている。もともと声に応分の自信を持っている男が、すっかり解放された気配。しかし、少年時代からあこがれた吉の作品だけに、それなりの敬意を払ってもいようから、歌が野放図になる手前で収まっている。ワワワワーッで始まった男声コーラスが、終始伴走していて、
《クールファイブの令和版っぽいな》
と、僕はニヤニヤする。
作品ににじむ魅力は、若者の覇気だろうと答えを出して、さて、他の3人はどうしているか? が、気になった。走は鳥羽一郎を頭にする作曲家船村徹門下の〝内弟子五人の会〟の1人。先輩の静太郎、天草二郎と後輩の村木弾の間にはさまった四男だ。鳥羽は3年で卒業したが、残る4人の内弟子生活はみな10年前後。師の背中から生き方考え方も学んだ男たちだから、吉も走について、
「基本的な部分がちゃんと出来ている」
とコメントしたそうな。
はばかりながら僕は、彼らの兄弟子として、大きな顔をしている。昭和38年に28才の駆け出し記者として船村に初めて会い、知遇を得た54年のキャリアを、彼らも認めている。そう言えば10年以上前、吉、鳥羽と3人で北海道・鹿部で飲んだことがある。その時僕が鳥羽を呼び捨てで、あれこれこき使うことに、吉が「どうなってんだ!」と気色ばんだ。
「俺と彼じゃ船村歴が違うのよ、だから兄弟子。鳥羽も弟分でつき合う洒落っ気があるのよ」
と釈明したら、
「そんなのありかよ」
と、吉が納得した笑い話があった。その鳥羽と五人の会の面々は、亡くなった師・船村が遺した作品を歌い継ぐことを使命としている。日光にある船村徹記念館に隣接するホールで、毎年開く「歌い継ぐ会」も見に行っていたが、コロナ禍でこのところ中止が続いている。
「どうしてるよ、みんな…」
と声をかけて、酒盛りでもしたい気分だが、ご時世柄それもご法度。ウジウジしかけたら「いい加減にして下さい。一番危険なお年寄りなんですから」と、家人にたしなめられる始末だ。
《そう言や、彼ともずいぶん長いことごぶさたで、飲んでねえな…》
と思い出した作詞家里村龍一が、何と吉幾三のための詞を書いていた。新曲「港町挽歌」で、独航船で漁に出る男を、
〽行けば三月も尻切れトンボ、港のおんなは切ないね…
と見送る女が主人公。これが相当なツワモノで、船出の前は酒も五合じゃ眠れんし、一升飲んでもまだダメだ…なんてボヤいている。
各コーラス歌のなかに「どんぶら、どんぶら、どんぶらこ」なんてフレーズがはさまっていて、これが吉の歌の〝語り口〟に似合うあたりが、里村の算術か?
港の男と女、望郷の切なさ辛さ、それにからむ深酒、親への詫びなどを、男の孤独の小道具に使う詞は、里村のお得意。釧路育ちのやんちゃが漁師になり、カモメを食って先輩にボコボコにされたエピソードを持つ男は、お国なまり丸出しで、奇行蛮行が多い日々を送った。溺れるほどの酒飲みだが、近ごろは、肝臓をやられているらしい、ずいぶんやせたが大丈夫かね…などの、噂の主になっている。詞も曲も自作が常の吉が、唯一の例外として里村の詞を歌う。それも20年ぶりと聞くと、何だか胸がつまる心地がする。
また北海道・鹿部が出てくるが、里村や岡千秋とよく飲みよく遊んだのがここ。作詞家星野哲郎の毎夏の旅のお供をしてのことだった。宵っぱりの酒、定置網漁へ未明の出船、番屋の朝めし、漁師たちとのゴルフ・コンペ…。寝る暇もないくらい野趣に富んだ2泊3日だったが、呼んでくれた道場水産の社長で〝たらこの親父〟の道場登さんは、お先に逝った星野とあちらで盛り上がっていそうで、その3回忌が済んだところだ。戒名が凄くて「登鮮院殿尚覚真伝志禅大居士」何と尚子夫人、長男真一、次男登志男の名の一字ずつが入っている。家族仲よく令和3年を迎えたことだろう。
殻を打ち破れ228回
何しろ歌い出しから、主人公は「土の中」なのだ。死者をしのぶ歌は数多くあり、決して歌謡曲のタブーではないが、こうまでズバッと来ると、どうしてもドキッとする。タイトルがタイトルだから、多少身構えてはいるにしろだ。
坂本冬美の新曲『ブッダのように私は死んだ』についてなのだが、やはり冬美本人よりも桑田佳祐の詞、曲への関心が先に立つ。一体、女に何があったのだ?
悪い男と知りながら、尽くしに尽くして、あげくに殺された女性と判る。男は何食わぬ顔でテレビに出ていたりして、それもシャクのタネだが、優しい口づけに溺れた自分が悪かったのか?彼女は自問したあとに「私、女だもん」仕方がないか…と思い返したりしている。
桑田という人は、なかなかの曲者である。独特の感性と意表を衝く表現、軽やかな身のこなしの音楽性で、ポップスの雄。それはみんなが認めるところだが、泣かせどころを作る妙手でもある。今作も「所帯持つことを夢見た」なんて、まるで演歌の決まり文句が出てくるし、母親に「みたらし団子が食べたい」と訴えたりする。
そんな個所が妙に沁みたり、クスクスッとなったりしながら、聞き手の僕らはあっさり彼の術中にはまってしまう。そのうえこの作品は、聞けば聞くほど、意味あいが深く感じられる。その辺を冬美も、あれこれ思いあぐねながら、かなり深彫りして歌っていることに気づく。手紙で桑田に作品をねだって夢が叶い、有頂天の時期から、歌手としての己を取り戻すまでには時間がかかったろう。稀有の作品だが、冬美の歌の仕立て方も、これまでに類を見ない。
こっちも急に忙しくなってしまうのだ。「ブッダ」は「仏陀」で、悟りに達した人、覚者、智者だな、「お釈迦様」は「釈迦牟尼」の略で仏教の教祖、生老病死を逃れるために苦行、悟りを開いた人だな…と、広辞苑と首っぴきになる。気分は次第に抹香くさくなるが、歌は逆に、やたらに生臭い。
「骨までしゃぶってイカされて」危ない橋も渡った主人公は、魔が差したみたいに手にかけられた。しかし魂はやむを得ないと悟ってみても、体は到底悟れるはずもなく「やっぱり私は男を抱くわ」と、彼女は話を結ぶのだ。それが女の「性」なのだろう。この際「性」は「さが」と読んで「生まれつき」や「ならわし」などの意。そこで彼女は、そういうふうに居直るのか? 諦めるのか? ごく自然に自分を許すのか? 今や妙齢に達している冬美は、思い当たる節があるはずで、それを微妙に、この歌に託していまいか?
恩師の作曲家猪俣公章が作りあげた彼女の世界を、展開させたのは『夜桜お七』であり『また君に恋してる』だったろう。この2曲で冬美は演歌にポップス系の魅力も加えて、一流のボーカリストの地位を固めた。「もうここまでで十分だよ」ともらしていた彼女が「紅白歌合戦」で桑田に出会い、触発される機会を得る。おそらくは、彼女の中に漠然とあった「飢え」が、突然吹き出し、形を求めたのだろう。
「私はいつ歌手を辞めてもいい、本当にもう、これ以上何も望まない」
今作を得て本人はそう言い切るのだが、「さて、どんなもんかな?」と、僕はニヤニヤする。新しい何かを欲しがるのは、彼女の歌い手としての「性(さが)」で、果てることのない「煩悩」なのだから。
こういう作品が、大きな話題になり、大方の注視と支持を受けるくらいに、時代は変わった。流行歌はこの調子だと、どんどん面白くなりそうだと思う。しかし、カラオケ熟女には一言。この作品はなまじ「歌おう」などとはしないで、じっくり「聴く」に限ると思うのだがどうだろう?
ここのところ二、三年、気になっている歌がある。昔、淡谷のり子が歌った「別れのブルース」だが、聞いてよし、歌ってよしで、全く古さを感じさせない。作詞は藤浦洸、作曲は服部良一、調べたらレコード発売が昭和12年4月で、何と僕よりわずか一つ年下、84年前の作品なのだ!
まず、歌詞がすうっと胸に入って来る。「窓をあければ(中略)メリケン波止場の灯が見える」という2行で、情景のその1。次の2行で「恋風乗せて、今日の出船は何処へ行く」と情景のその2が動く。二つの景色を眺めているだろう主人公は気配だけで、説明は一切ない。
しかし、手渡された二つの情景は、歌謡曲特有の孤独感や寂寥感で色づいて、聞く僕や歌う僕をたっぷりめの哀愁へ誘う伏線になる。その上で、
〽むせぶ心よ、はかない恋よ、踊るブルースのせつなさよ…
の2行でビシリと決めるのだ。突然主人公の感慨が示されるのだが、唐突感はない。あらかじめ与えられた二つの情景で揺れた気持ちが、クライマックスに導かれただけだ。
歌詞もそうだが、メロディーもそんな感興を盛り上げていく。歌詞の最初の2行分はドラマの舞台を見せて客観的。次の2行が去る船影にドラマを予感させ、結びの2行分が歌を決定的にする。2行分1ブロックずつのメロディーが、高揚を積み上げて、最高潮の最後へ三段重ね。尻上がりに情感を色濃くし、フィニッシュあたりの音域は相当に広い。歌って得られるのは一種の陶酔感や達成感だろうか。
藤浦洸は当時、コロムビアの外国人重役の秘書を務めていたと聞く。歌謡曲お決まりの筋立てやフレーズが前面に出ていないのはそんな経歴の人の新感覚か。作曲の服部良一は関西のミュージシャン出身。戦時中は外国人ペンネームで曲を書いて軍部の検閲をかわし、戦後は笠置シヅ子のブギウギ・シリーズの大ヒットで〝和魂洋才〟の境地を開花させた。つまるところこのコンビの「別れのブルース」は、日本のポップスの草分けの1曲で、だからこそ84年後もさりげなく、僕らの胸を打つ今日性を持っているのではないか?
僕の令和3年の初仕事は、秋元順子の歌づくりの打ち合わせだった。そこで僕は「別れのブルース」を彼女の歌声で再び世に問う提案をした。昔は「リバイバル」昨今は「カバー」という作業だが「いい作品はいつの時代もいい」事実をまず立証したい。次にこの作業が「過去」を復元するのではなく、「現在」の歌手の表現と魅力で「将来」の宝として再生させることだと考えている。当然のことだが「たそがれ坂の二日月」「帰れない夜のバラード」に続くシングルの3作めも用意せねばなるまい。コロナ禍が拡大、2回目の「緊急事態宣言」が出たばかりだが、不要不急の外出とやらの隙間を縫って、やるべきことは全部やるつもり。ケイタイさえ持たぬ身に「テレワーク」などどこの世界の話だ!
昨年暮れの友人たちの年度総括は、みんな暗かった。自粛々々で歌手たちは仕事場を失い、彼や彼女たちの作品も歌声も、塩漬けになったまま。歌書きたちは鳴りをひそめ、制作者たちは人との接触を断たれて、創意や工夫があっても出口がない。政治の打つ手は後手後手で医療はもはや限界。年が明けても感染の拡大は勢いを増すばかりで、生きていくことさえ不安、先行きは全く不透明と来るから、多いのは嘆きの声ばかりだ。
「ヘボ役者、開店休業、保障ナシ…」
なんて戯れ言でそれをかわしながら、僕は古くから伝えられる「温故知新」や「ピンチはチャンス」という奴を生かそうと考える。不安は言い募れば増大するばかりだから言わない。お先まっ暗ならその中に、我流の光明、可能性の芽を探す方が面白いじゃないか。自分の胸に問い質しながら内向きに陥らず、獲物のあれこれを発信する。氷川きよしのここのところの動向や坂本冬美の「ブッダのように私は死んだ」は、こういう時代に「進化」を示す陽動作戦にも見える。小椋佳と林部智史が、小椋作品をお互いに歌うアルバム「もういいかい」「まあだだよ」は、44才差の二人の音楽を「深化」させているかも知れない。
ま、話題は明るい方がいいが、別にセンセーショナルである必要は全くない。創るにしろ歌うにしろ、これまでのそれぞれの境地を少しずつでも「進化」させ、「深化」を目指す。その結果は明らかに「コロナ以後」を示すはずで、発表する機会はいずれ、ちゃんと来るのだ。
殻を打ち破れ227回
≪オヤッ! そういうふうに歌に入るのかい。ちょっとしたお芝居仕立てに見えるけど…≫
岩本公水の生のステージで気がついたことがある。曲前のトークはほぼ素顔。それが自分で曲目を紹介して、イントロが始まった瞬間に、彼女は歌の主人公になっている。以後歌はヒロインの心情をまっすぐに吐露、濃密な感触で客に提示される。作品を「演じる」と言うよりは、もう少し没入気味の「なり切り型」なのだ。
演歌・歌謡曲の歌手たちの歌の伝え方を、おおよそ三つに分ける。「なり切り型」はいわば憑依の芸で、のり移ったように作品の主人公と本人が一体化する。「演じる系」は作品をシナリオに見立てて、主人公像を演じてみせるタイプ。もう一つは「本人本位」で、どんな作品でも、私が歌うとこうよ!とシンプルである。例をあげれば「なり切り型」の代表は都はるみ、「演じる系」は石川さゆりで、女性歌手の多くは「本人本位」だろう。
岩本公水のステージで、僕は彼女を「なり切り型」に見て取った。しかし、都はるみの憑依ぶりとは、少しタッチが違った。都の場合、作品にはまるとあとはもう一気々々。まるで傷心の主人公そのものが、身を揉み、ステージを走り、燃えるような熱気と迫力を示した。客席で僕はしばしば、手に汗をにぎったものだ。岩本の場合は、そこまでは没頭しない。なり切りながらどこかに、そういう自分を見守ってもう一人の彼女がいる醒め方があるのだ。言うなれば「天の目」「離見の見」の陶酔と抑制のほどの良さ。
『片時雨』も『能取岬』も『しぐれ舟』もそうなのだが、高音部のサビは、きれいな声を抒情的な響きで歌ってメロディー任せ。感情移入は大づかみだが、一転それが濃いめになるのは中、低音の一部。ここで彼女は歌を「決めにかかる」押しの強さを見せる。主催者のリクエストで歌った『風雪ながれ旅』に顕著だったが「アイヤー、アイヤー…」を哀調たっぷりに歌い放っておいて「津軽、八戸、大湊」をズシリと決めた。地名三つには情感の手がかりなどないが、それを漂泊の思いで熱くするのだ。
そう言えば…と気づいたことがもう一つ。歌の情感の起伏もそうだが、それに連れる身振り手振りも、イントロからエンディングまで、4分前後のドラマを物語っている。歌い終わってのお辞儀までが、歌の主人公のそれで、歌手本人のものではない。その徹底ぶりには、マネージャーも気が抜けまい。事務所社長の吉野功氏は舞台そでで身じろぎもせず、彼女の一挙手一投足を見守る視線が厳しかった。歌手と社長、一心同体の趣きまであるではないか!
≪歌手生活も25年になったか…≫
デビュー当初から親交があるから、僕にも多少の感慨はある。波乱に満ちた前半から「歌巧者」の潮が満ちて来た後半がある。ホームヘルパー2級、障害者(児)対応ヘルパー2級などの資格を取ったのは、歌手活動を中断していた時期。よこて発酵文化大使や埼玉伝統工業会館PR大使などは、陶芸に熱中、埼玉に自前の窯を持つその後の日々を示す。40代なかばの女盛り。「人」も「歌」も目下ゆったりと充実ということか。
岩本のナマ歌に久々に接したのは、10月18日、佐賀の東与賀文化ホール。実はこの日の催しは永井裕子の歌手生活20周年記念故郷コンサートで、岩本はそのゲストだった。永井もデビューから10年間、全作品をプロデュースした浅からぬ縁がある。ゲストが主で本末転倒の原稿になったが、本チャンの永井の分は他紙にたっぷり書いた。彼女の充実ぶりもなかなかで、両親の嬉しそうな顔もよかった。
「冬枯れの木にぶら下がる入陽かな」
「寒玉子割れば寄り添う黄身二つ」
亡くなった作曲家渡久地政信と作詞家横井弘による俳句で、古いJASRAC(日本音楽著作権協会)会報に載っていた。「上海帰りのリル」や「お富さん」などのヒット曲で知られる渡久地は奄美大島の出身。南国の体験がありありの句で、闊達な人柄もしのばれる。横井は「あざみの歌」や「哀愁列車」などに、僕の好きな「山の吊橋」も書いた叙情派。歌謡曲ふう愛情表現が、いかにもいかにもで、往時の穏やかな笑顔を思い出した。
この句が紹介されているのは、1988年のJASRAC会報。その年の1月21日に発足した「虎ノ門句会」の席で詠まれたものらしい。32年も前の古い資料を見せてくれたのは、二瓶みち子さん。その会が「ジャスラック句会」と名を変えて、今日も続いておりその世話人を務める。会の名が変わったのは、当時虎ノ門にあった協会が代々木上原に移っているせいだろう。
その二瓶さんからあろうことか、この句会の審査を頼まれてしまった。年間の優秀作の中から1句を選び賞を出す仕事。すでに「いではく賞」と「弦哲也賞」があって、三つめだそうな。作詞家星野哲郎の没後10年の11月15日、小金井の星野邸へ出かけて例によって酒宴。噂供養でほろ酔いのところへ、二瓶さんから、
「お手伝いして下さいましな…」
と、品よく持ちかけられて、ついずるっと引き受けてしまった。昔々、これも亡くなった作詞家吉岡治が主宰した句会へ、二、三度参加した程度の半可通だが、やむを得ない事情もあった。
星野の忌日「紙舟忌」がついに季語になった! と、二瓶さんから興奮気味の手紙を貰ったのは2017年だから3年前の暮れ。朝日新聞の歌壇に長谷川櫂氏の選で静岡の安藤勝志氏の
「紙舟忌や、酔ひて歌はむ〝なみだ船〟」
が選に入ったのを発見してのことだった。彼女は星野の事務所「紙の舟」に通い、薫陶よろしきを得ていた人だから、星野を師と仰ぐ僕にも大急ぎで知らせたかったのだろう。星野は〝鬼骨〟の号で例の虎ノ門句会に参加しており、二瓶さんも「大いにやりなさい」とすすめられた。
「俳句を何句か並べると演歌になり、演歌の一作を分解すると、何句かの俳句になること」
も実感したらしい。この手紙で僕は
「表現は簡潔さが命」
という師の教えを再認識したものだ。
コロナ禍は国内外ともに被害を拡大、人々の生活や社会の仕組みまでに厳しい影響を与えて「国難」という表現が妥当になって来た。
倒産する企業や、死を選ぶ人も増える苦難の中、僕は高齢ゆえにいたわられること多い身である。その鬱屈の日々の中で、たまたまJASRAC句会諸兄姉の作品に接する機会を得た。句のココロに眼や耳をこらすひとときは、巣ごもり無為の暮らしに、思いもかけぬ果報と感謝せねばなるまい。
歌社会は氷川きよしや坂本冬美の激しい「蜉化」「変化(へんげ)」が際立つ。アルバム「Papilion」でロックやラップ、バラードに転じた氷川は、その前後からの耽美的なビジュアル展開で、もはや性別を超えた。冬美は念願の桑田佳祐作詞、作曲による「ブッダのように私は死んだ」を得て、ほとんど憑依的とも思える世界へ傾倒。歌唱、ビジュアルともに、これまでの彼女の魅力を超えている。
ウイルス感染のとめどない拡大への不安、先行きのまるで見えない閉塞感に満ちた時代。このくらい激しい変化や、鋭い刺激が好まれ許容されるということなのか。いずれにしろ、ものみな変わる庶民生活の中で、演歌、歌謡曲だけではなく、Jポップもロックも、自分たちを見直し、新しい変化を目ざす時期、氷川と冬美はその先端を走っていることになりそうだ。
その反面、変化の激しさに抵抗する気分も生まれて来よう。新しい生活への変化を求められても、にわかにはついて行けないのもまた人情である。では流行歌は、どんな型とどんな息づかいで、そんな人々に寄り添って行けるのだろうか?
この稿は、のどかな俳句の話にはじまって、歌手2人の激変にいたった。僕は不要不急のものと言われたスポーツ新聞づくりに長くかかわり、育てられた。当然、流行歌も不要不急と言いだす向きには「断じてそういう産物ではない!」と訴えて、今年最後の稿としたい。
最近大病を体験した作詞家喜多條忠についての噂だが、
「毎日一万歩あるいて、ゴルフの練習場にせっせと通っているそうだ。12月4日、参加するあんたのコンペが伊豆であるんだって?」
このご時世で大丈夫か? の顔も含めて、教えてくれたのは、亡くなった作詞家星野哲郎の事務所「紙の舟」の広瀬哲哉である。もともとは日本クラウンのやり手宣伝部長で、定年退職後は番頭格でこの事務所を取り仕切っている。
彼もまた最近、大病をやって、その予後をせっせと歩いているらしい。浅草から隅田川沿いにとか、日本橋だの湯島あたりがどうとか、どうやらついでに東京の名所めぐりをしている気配。病後のやつれ方はなく、口調ものんびりしている。
「それにしても、あの手紙の文面は意味深だったな」
と、僕は彼をいたわりもせずに話を変える。11月15日の午後、場所は小金井・梶野町の星野宅。
実はこの日、星野の没後10年のしのぶ会を、ここでやることになっていた。半年も前から、僕もスケジュールを手帳に書き込んでいたのが、コロナ禍3密を避けるために、広瀬が「中止」を知らせて来た。その文面の後半で「宴はやめるが線香をあげに来るのはやぶさかではない」ことが、ごく控えめに、その分だけあいまいな表現でつけ加えられていたのだ。
「それなら俺は行くぞ、スポニチの記者時代から知遇を得て、師と仰ぐ人だったし、俺は哲の会の頭だものな」
そう勝手に合点して出かけたのである。哲の会というのは、レコード各社の星野番ディレクターの集まり。みな薫陶を得て親しい仲だが、立場はライバル同士だから、年嵩で第三者的な僕が座頭(がしら)をやった。没後何年経とうが、哲の会は続くのだし、年忌は「紙舟忌」に変わりはない。
星野家のいつもの部屋に、そこそこのメンバーが揃っていた。元クラウンの幹部牛尾氏に佐藤氏、現幹部の飯田氏、元コロムビアの大木。おしげとさっちゃんは星野のコロムビア時代からのお気に入りだし、作詞の紺野あずさは星野の弟子で近所に住む。宴は中止とは言っても、無遠慮に現れるやんちゃ用に、一応の酒肴は揃っている。それをゴチになりながら、故人の噂話をひとくさり。「噂供養」としゃれ込む部屋に流れていたのは、コロムビアとクラウンが没後10年を記念して作った星野の作品集。あれこれ聞き分けながら、表現簡潔で情が濃い星野流の作詞術に感じ入る。
「美辞麗句を用いず、彼の生活や体験に根ざした詞は、演歌の命そのものだった」
と評したのはゴールデンコンビを組んだ作曲家船村徹。この人も知遇に甘えて師と仰いだ縁がある。しかし、長く駄文を書き散らす不肖の弟子の僕には「推敲」の2文字がまぶしくも重い。
星野家をほどほどに辞して、東小金井の居酒屋に席を移す。そこまで追って来たのは、星野の長男有近真澄氏で、紙の舟を引き継ぎ、しばしばライブハウスで独特の歌世界を開陳するボーカリストが、
「統領(僕の仇名)たちが飲んでるのに、知らん顔など出来ないでしょう!」
どうやら病後の広瀬氏を帰らせての、こころ配りとおもてなしである。
それから1週間、21日からの3連休前後から、新型コロナは全国的に急激に増殖、案の定GoToトラベルがGoToトラブルに転じ、丸投げした首相と都知事のさや当てが取沙汰されるなど、物情騒然になった。ここで、喜多條が満を持し、練習ラウンドまでこなした意欲は空転する。12月3日~4日、伊東のサザンクロス・リゾートでの小西会コンペを延期したためだ。忘年会を兼ねた催し…と早くから告知した分だけ、プレーに10数人、酒宴のみ参加の4名などが名乗りを上げていた。しかし、小西会も今回が100回記念となるとメンバーはもはや皆老齢、そのくせ酔えばカンカンガクガクが習い性だから「3密」も「5小」も守れるはずなどありはしない。
それを「中止」ではなく「延期」にしたのは、ゲストに東伊豆町職員を定年退職した梅原裕一氏と、年内でサザンクロスの顧問の職を辞する粕谷武雄氏を招くせい。梅ちゃんは失礼にも「木っ端役人」と呼びならわし、本人もそれを名乗る名刺を作って悪ノリ。昔、熱川の海岸に星野哲郎作詞、船村徹作曲、鳥羽一郎歌の「愛恋岬」の歌碑を一緒に作った仲。粕谷氏は長く当リゾートの星野番として親身な仕え方をした大物。それゆえに小西会は、この2人を囲み、喜多條の全快を祝って、晴れて挙行出来る「春」を一途に待つのである。
殻を打ち破れ226回
≪ほほう、なかなかに...≫
と、神野美伽を聞いたあと、頬をゆるめた。新曲『泣き上手』のタイトルにひかれて、CDを回す。松井五郎の詞、都志見隆の曲、萩田光雄の編曲という顔ぶれにも興味がわいた。もちろんポップス系の歌謡曲、それを近ごろロック乗りもやる神野用に、どの程度の匙かげんの楽曲にしたのだろう?
甲斐性なしでのらりくらり、風に吹かれているような男に、ほだされた女が主人公。暮らし向きは思うに任せず、幸せは尻切れトンボだ。それだもの...と愚痴っぽくなったり、それでも...と耐えてみせたりすれば、おなじみの演歌になるところを、
♪泣くのは上手さ 泣くのは平気さ どうせ泣きながら 生まれてきたんだし...
と、松井のサビは、さらりと躱して独特の味を作った。
気性きっぱりの世話女房型。男の呑気そうな寝顔をぼんやり見ながら、毛布を掛けてやる夜もある。人生なんてそんなもんさとか、男女の間柄なんてそんなもんさなどと、達観している訳ではない。彼女には彼女流の"わきまえ方"がある気配。
お話4行サビ2行の詞を、都志見のメロディーは、シンプルに3回繰り返す。心地よいテンポ、起伏おさえめだがなかなかのムード派ぶり。萩田の編曲は間奏でエレキギターが小粋にメロディーを浮き上がらせる。そんなお膳立てが揃って、神野の歌は激することなく淡々と進む。ところがこの淡々...が曲者なのだ。歌全体をファルセットに近い発声で歌うことで、主人公のあてどない心情を匂わせる。もし地声の太めの響きで歌ったら、切ないはずのサビが、啖呵になってしまったろう。
言葉ひとつずつを丁寧にというよりは、大づかみに1フレーズに思いをこめる。よく聞けば語尾のあちこちで、ニュアンスを変え、情のこまやかさも作っている。CDを聞き直すごとに、芸事によく言う"細部に神宿る"の意味を思い返したりするのだ。
≪もしかすると彼女は、すうっとこの作品に入れたんじゃないかな...≫
と僕は神野の素の部分を推しはかる。下衆の勘ぐりになりたくないが、親しい間柄の分だけ、彼女と作詞家荒木とよひさの、暮らしと別れを連想してしまうのだ。気ままな文士ふうに、京都でひとり暮らしをした荒木を、神野はひところ「亭主の放し飼い」と笑ってみせた。しかし、別れてみればそれなりの葛藤は深く、彼女は"泣かない女"を装っていたことに僕は気づく。戦後満州(現中国)から引き揚げたせいもあってか、どこかに異邦人のかげりを宿した歌書きの、はぐれ加減の言動や生き方を許してはいたのだろうが...。
その一方では、歌書きの彼の才能を尊敬し、信じることに変わりはなかった。離婚後も神野は同志みたいに、彼の作品をいくつも歌っている。作曲したのは主に弦哲也だが、このコンビは神野の期待に応じ、あるいは挑発するように、いろいろな冒険作を提供した。昭和の演歌の再現から、思いがけないバラードまで、彼らは神野のボーカリストとしての魅力を大事にしていた。
荒木はレトリック派の女心ソングを得手とし、実績を作った。その世界から神野は、今作で松井五郎の世界に転じた。女心ソングにも味な手口を見せる松井も新しい歌謡曲の担い手だが、荒木とは文体や文脈が違って独自である。『泣き上手』の主人公は、そうは言っても実は"泣かない女"なのではないかと思う。実生活では"泣かない女"を装った神野が、陰では"泣いた"感慨を、この作品に歌いこめたとすれば、その微妙な匙かげんにも、神野の気性の"男前"に思い当たったりする。
山形の天童市へ出かけた。東北の歌自慢NO1を選ぶ「天童はな駒歌謡祭2020」の審査。ご多分にもれずコロナ禍で、歌うことまで自粛を強いられていた60余名が、のびのび大音声の歌を競った。11月8日、天童ホテルのホールが会場。地元の人々が手造りの、人情味たっぷりな催しだが、ウイルス予防の対策はこの上なしの厳重さ。県の感染者が累計89人とごく少ない地域だが、その分だけ郷土を守る意識と決意はきわめて強い。
僕は、酒なら出羽桜の「雪漫々」か10年ものの「枯山水」肴は芋煮と青菜漬け、飯は「つや姫」などご当地の美味を礼讃、人物なら地元の有力者で名僧の矢吹海慶師の猛烈な中毒者である。というのも、昨年まで19年続いた「佐藤千夜子杯歌謡祭」の審査に通い詰め、天童の人情と知遇にどっぷりつかっていたせいだ。
矢吹師は名刹妙法寺の住職で、日蓮宗の荒行を5回もやってのけた剛の者。その割に小柄で、興味津々の目の色をし、患った舌がんをカラオケで征圧した粋人。それが長く市の文化、教育関係の要職をこなし「千夜子杯」も今度の「はな駒歌謡祭」も、実行委員長として、町おこしの一端とする。長くポケットマネーを注ぎ込んで来たが、
「近ごろは家族葬がふえた。法事も内輪でやって、お布施の方まで自粛気味でねえ」
とボヤいて見せたりする。
《天童行は一年に一度という間合いが、何ともいえない...》
と、僕はずっと思っていた。ためぐちのつき合いだが、相手への敬意はちゃんと胸中にあり、出会いの新鮮さとなれなれしさが、ほどよく交錯する。物見遊山の旅もいいが、会いたい人に会いに行く旅こそ最高だろう。和尚を取り巻くスタッフも長いつき合いで、遠くの親戚みたいだ。ところがイベントが去年でなくなって、
《これじゃ年越しが出来そうもない...》
と、うつ向き加減でいたところへ、
「また今年もやるよ!」
の声がかかった。何と! 矢吹師チームは、日本アマチュア歌謡連盟の天童支部「名月会」を立ち上げ「はな駒歌謡祭」を創設、全国大会の東北地区予選会と位置づけて、僕の仕事を作ってくれてしまった! そう言えば昨年僕は、矢吹師の「米寿を祝う会」の発起人代表をやった。それを大いに多として師は、
「5年後にはあんたの米寿の会を、私が発起人で天童でやる!」
と確かに宣言するにはした。僕は酒の上のジョークと聞き流していたのだが、矢吹師はその約束を果たし、毎年初冬の僕の天童詣での道筋を作ってくれてしまったのだ!
事務局長の福田信子・司会係の福田豊志郎夫妻は、スタッフと出場者の両方で大わらわだが、催しのなり立ちには「当然!」の顔つき。「そんなのありなんだ!」と〝米寿同盟〟にゲスト歌手の奥山えいじは感じ入る。今年還暦というこのお仲間は、仙台を拠点に、稲作と歌手を兼業するいわば〝職業歌手〟で、目下「只見線恋歌」がヒット中。近々仙台のホテルで恒例のディナーショーをやるそうな。
ところで読者諸兄姉は「天童を救った男・吉田大八」をご存知だろうか? 明治維新前夜、東北平定のため進軍した鎮撫軍と、抵抗した奥羽列藩同盟の板ばさみになった天童藩を救うため、37才で自刃した藩の中老のこと。天童藩を治めていたのが織田信長の子孫というのも初めて知ったが、天童を将棋の駒の産地にしたのもこの人だと言う。藩は財政難で、貧困にあえぐ下級武士たちに駒づくりの内職を導入したが、反対意見も多かったはず。それを若くから要職にあった吉田が、
「将棋は兵法戦術に通じ、武士の面目を傷つけるものではない」
と押し切り、今日の繁栄の端緒を作ったとか。
その人の切腹の現場「観月庵」が、矢吹師の妙法寺の一角で、血染めの天井も残されている。矢吹師は彼を顕彰する銅像を桜の名所舞鶴山に建立。子息で副住職の矢吹栄修氏は、最近完成したドキュメント映像「大八伝・天童を救った男」の制作実行委員会を代表、脚本・解説も務めている。僕は11月7日夕、天童へ入ってすぐ妙法寺に案内され、その試写を見学した。
久々の天童一泊二日は、矢吹師父子の歴史観と郷土愛にも触れて、感興が山盛り。その帰路、山形新幹線が突然「落葉による車輪空転」という季節ネタ!? 事故で止まった。山形駅から在来線18駅を仙台へ出、別の新幹線で東京を目指す想定外の迂回になったが、別段苦にはならなかった。
佐賀へ出かけた。8月に信州・蓼科でゴルフをやって以来、2度めの遠出である。往復が飛行機、これは今年初だから、いい年をして少々浮き浮きする。永井裕子の20周年記念故郷コンサート、同行したのは作曲家四方章人とキングの古川ディレクターで、この二人と組んで僕は、永井のデビューから10年間、全曲をプロデュースした縁がある。永井の両親ともずいぶん久しぶりに会う。コロナ禍の最中だが、そんな身内ムードの旅だ。
10月18日、場所は東与賀文化ホール、午前の部と午後の部の、早め早めの2回公演。午前が佐賀県外の客、午後が県内の客に分けたのはコロナ対策で、検温、手指消毒、掛け声なしで応援はペンライトや拍手...の手はずは、今や全国共通だ。しかし僕は、感染者累計8300余の神奈川を出て、3万超の東京を経由、着いた先の佐賀はわずか250前後...という旅人である。うつる心配よりも持ち込む懸念の方が大だから、何だか後ろめたさが先に立つ。しかし公演前夜、唐人と言う町の〝むとう〟という洋風居酒屋でゴチになれば、そんな気苦労などどこかへ消し飛んだ。
永井のステージはご当地九州ものの「玄海恋太鼓」からズバッ! と始まる。喜多條忠の詞、岡千秋の曲で威勢がいい。作曲が岡ということは、10年以後の作品。それまでは四方が全曲書いた。育ての親でも10年間独占というのは珍しいケース。その代りに作詞家は2曲ずつ全部変えた。「菜の花情歌」が出てくれば、ああ、あれは阿久悠だ「哀愁桟橋」なら坂口照幸「愛のさくら記念日」ならうえだもみじ...と歌書きの顔が次々に浮かぶ。吉岡治、たかたかし、池田充男、ちあき哲也...とみんな親交つながりで、いい詞を沢山貰ったものだ。
四方がNHKのカラオケ指南番組でスカウト、連れて来たのは中学生時代。せめて高校くらい行かせようと提案したのは、哀しみ系声味が独特で、年に似ぬ節回しと、小柄だがパンチ十分の元気さを持ち、おまけに眼が滅法きれい...と、いいとこばかりが目についたせい。18才のデビュー曲に〝演歌のキャンディーズ〟を狙った「愛のさくら記念日」でお披露め、2作めに「みちのく雪列車」をはさみ、3作めの「哀愁桟橋」がヒットして軌道に乗ったが、いつどこで歌わせても、彼女の力量は何の心配もなかった。
それが後半の10年で「郡上八幡おんな町」「そして...雪の中」「ねんごろ酒」「そして...女」と、年齢相応の味しみじみと、歌に奥行きが出来ている。僕は彼女のステージを、午前の部は舞台そでに椅子を持ち出し、午後の部は4列めくらいの客席でたっぷり聞いた。曲の間のおしゃべりに、まだ可憐さが売りの時期の口ぶりが少し残るくらいで、全体はもう、
《いいぞ! いいぞ!》
のステージである。
ゲストは同郷の先輩西方裕之が「遠花火」「波止場」「赤とんぼ」に新曲「出世灘」を歌い、NHKのど自慢で歌詞を忘れて往生した自虐ネタで笑わせる。もう一人の先輩岩本公水は「片時雨」「能取岬」「対馬情歌」にヒット中の「しぐれ舟」を並べる。イントロからエンディングまで、1曲をドラマに見立てて、主人公を演じる歌唱と仕草の没入ぶりが、この人の歌のうまさを際立たせる。三人三様、やはり生歌はいいもんだ。
面白かったのは、午前の部、午後の部ともに、まず地元の歌巧者が8名ほど、自慢のノドを聞かせた趣向だ。佐賀や福岡の指折りのカラオケの先生とかで「熱祷」「人生の挽歌」「恋の酒」「恋雨港」「娘・長持唄」「アイヤ子守唄」など、めったに聞けぬ難曲が揃う。村田英雄や西方の師匠の作曲家徳久広司がこの地出身で、親しいつきあいの大衆演劇、三代目大川竜之助もたしかここ。そう言えば九州で結成、全国を旅する大衆演劇の劇団は相当数にのぼる。そういうタイプの芸どころなのか、地元の先生には、しわがれ声をふりしぼり、歌をセリフ仕立ての大芝居フィーリングで聞かせる芸達者が目立った。
「それにしてもなかなかの強者ぞろい。それが幕あけを飾るのがご当地の風習なの?」
と聞いたら、興行主の西日本音楽企画吉岡満雄社長は、
「ま、先生たちのお弟子さんも見に来てくれるということで、初の試みです。ハッハッハ...」
と屈託なげ。歌巧者たちは舞台で〝どうだ!〟の1曲、お陰で多少のチケットもはけて...と、ご当地いい気分企画は相乗効果があったようだ。
道中で立ち寄った店の〝とん骨ラーメン〟が、さっぱりしたいい味なのを褒めたら、
「この辺のは久留米系だからギトギトしないの」
と、打てば響いた古川ディレクターも佐賀の出身。車中の地元風物案内が、なかなかに嬉しそうだった。
殻を打ち破れ226回
「愚生、時勢に抗い新譜を出すことになりました」
作詞家もず唱平からの手紙の書き出しである。「時勢」とは「コロナ禍」と、歌手たちがみな開店休業、キャンペーン先一つない実情を指す。その中で「無策のリリース」をしたのだが、作品は『あーちゃんの唄』で、もずの作詞、宮下健治の作曲、三門忠司の歌。
≪そうか、こんな時期だと作家もプロモーションに乗り出すのか!≫
僕はニヤリとして手紙の意図をそう読み取る。ごく親しい相手だけに限ったものだろうが、彼にはやらねばならぬ思いが強く、それを伝えたいのだろう、令和2年の今年は戦後75年、歌のテーマは戦争未亡人だった三門の母親の生涯。いわば実話の個人史が戦後史に通じる素材で、折から敗戦の年と同じ夏から秋である。もずにすれば、今こそ書かねばならぬ歌であり、今こそ世に問い、一人でも多くの人に聞いてもらいたい歌なのだろう。
♪女手一つで このオレを 育ててくれたよ あーちゃんは…
と、歌は始まる。オレは三門自身、あーちゃんはその母で、大阪の下町の呼び方。それが、
♪ガチャマン時代 泉州の 紡績工場の女工さん…
と話が進む。泉州は大阪の紡績が盛んだった地帯で、その機械が「ガチャッ」と鳴るごとに一万円の利益が生まれた時代があったらしい。
三門は今年ちょうど75才。その父は昭和19年に戦死して、子供が生まれたことを知らず、子供の三門も父を写真でしか知らずに育った。母子の暮らしは歌詞の二番に出て来て「十軒長屋のすまんだ」で、働き者の母の女の証しは「マダムジュジュ」と、当時のごく一般的な化粧品が1点だけ。
「すまんだ」に「?」となったが、大阪の方言で「隅っこ」の意とか。これも「ガチャマン」も「あーちゃん」も、あえてなじみのない言葉を使い、化粧品名を出したりするのは、その時代の生活の貧しさにリアリティを持たせたいせいか? ま、歌の文句って奴、全部が全部判りきっていればいいというものでもないか!
作曲家宮下健治が書くメロディーには、時おり春日八郎の歌を連想する。昭和30年代から40年代ごろの匂いがあるせいで、今作には歌い出し2行分に、船村徹メロディーがにじむ気がした。いずれにしろこれらは戦後第一期生が歌や曲にした“のびやかな詠嘆”の魅力。それを今作は三門忠司が、ほどのいい哀愁ただよわせ、のうのうと歌っていい味を作った。南郷達也の編曲の暖かさも手伝っていようか。
≪相変わらずの“未組織労働者ソング”だな≫
ずいぶん昔のことだが、もずは自分の作品のテーマをそう語ったことがある。デビュー作の『釜ヶ崎人情』や出世作の『花街の母』に色濃いが、前者は日雇い労働者、後者は子連れの芸者が主人公。どちらも社会の底辺に生きる人々の哀歓を描いていた。もずは50年におよぶ作詞生活で、そういう庶民の生きづらさやしのぎ方たくましに思いを共有して来た。
師匠の詩人・喜志邦三が名付けたというペンネームからしてそうなのだ。「もず」は孤高の鳥の名前。「唱平」は「常に平和の貴重さを唱え続けよ」という師の願いがこめられたと聞いた。しかし、ものは流行歌である。声高に主義主張をぶち上げる種のものではない。主人公の置かれた状況や心境を、さりげなくしっかり語ることが大勢の共感につながる。
「もずの高鳴き」という言葉がある。梢に一羽、鋭く一声鳴くのがこの鳥の習性である。「もずの速贄(はやにえ)」というのもある。虫や蛙などの獲物を木の枝に刺して示す習性である。もず唱平の反骨は80才を過ぎても衰えることなく盛んなようだ。
《2月公演から214日ぶりの舞台だって。そりゃ拝見せねばなるまい...》
僕がいそいそ新宿の紀伊國屋サザンシアターへ出かけたのは9月30日のこと。24日が初日の劇団民芸公演「ワーニャ、ソーニャ、マーシャ、と、スパイク」(クリストファー・デュラング作、丹野郁弓訳・演出)で開演は午後1時30分である。
「へえ、あんたもそういうの見に行くんだ...」
と言われそうだが、この劇団は僕がスポーツニッポン新聞社づとめ時代のおつき合いで、それを忘れずに20年以上、毎公演お呼ばれをしている。社を卒業して以後、僕が70才で明治座初舞台と無謀な転進をしたのは、歌手川中美幸から声がかかってのこと。以後東宝現代劇75人の会に入り、あちこちの公演に出して貰っているが、それらはみんな「商業演劇」と呼ばれるジャンル。今回みたいに、片仮名だくさんの新劇との取り合わせを、奇妙に思う向きもあるのだろうが、そこはそれ、見るもの聞くものすべてが商売ネタのブンヤ気質、おまけに無手勝流老優の他流見学という殊勝な!? 心がけも手伝っている。
物語の舞台は米ペンシルベニア州のとある邸宅。そこで初老の男(千葉茂則)と養女(白石珠江)が暮らしている。平穏無事、何の不自由も刺激もない二人の退屈な日々へ、男の妹の女優(樫山文枝)が帰って来て、にわかに空気が波立ち、騒動が始まる―。
出演者は6人。それぞれが抱える屈託を一途に吐き出し合う。次第にあらわになるのは一見こともなげな暮らしの陰の、行き場のない不安やあせりや、達観しようとする無理。近ごろはやりの「生きづらさ」の種々相が、ユーモアをまじえて語りつがれていくのだが、自然、山盛りの長ぜりふ合戦である。半可通の僕に言わせれば、それはもう圧倒的な分量で、それを役者さんたちはよどみなく、それぞれの役の胸中のものとして滔滔また滔滔...。
《あれはすごいもんだったな...》
酷暑の夏がぴたっと終わり、急に赤トンボが舞う10月、葉山・森戸海岸を歩きながら、僕はそういうふうに思い返す。東宝現代劇75人の会公演では、作、演出の横澤祐一から、
「今回も辛抱役で済まんね」
と言われることもある。説明せりふが長く、見せ場に乏しいということらしいが、そう言えば友人の、
「よくまあ、あんなに長いセリフが覚えられる」
という感想に、
「お前は俺の記憶力を見に来てるのか? 肝心なのは演技力だろう」
と、まぜ返すこともあった。しかし今回の民芸を見れば、あんなもの長ゼリフの域になど全然入りはしない。
ご多分にもれず僕はも、2月の明治座・川中美幸公演「フジヤマ夢の湯物語」(柏田道夫作、池田政之演出)のあと、予定されていた仕事がみんな中止や延期で、民芸の方々と同じくらいのブランクに見舞われた。もう8カ月も舞台に立っていないのである。もともと発声も演技も、基礎的な訓練など全くないままの、見よう見真似の10年余だ。近々どこかから、さあやるぞ! と声がかかっても、さて、声は出るのか? 体は動くのか? 何とも情けないことだが、全く生理的な部分から、不安がひたひた押し寄せる。
長い巣ごもりのコロナ肥りも返上せねばなるまい。せめて足腰だけでも...と思っての、海岸歩きである。そのくせ砂浜の足許の悪さを避けて、波打ち際の平坦さを選んでしまう。こんなとこまで怠け癖が顔を出す仕儀に、右手にぶら下げた五木ひろしが重い。と言ってもそれは9月頭に彼が浅草公会堂でやったコンサートの、おみやげの買い物袋。黒地に金色で彼のシルエットや横文字の名前が入ったやつで、不要の時はごく小さめにたたみ込めて、トートバッグと言うのだそうな。それにおやつや日常品のあれこれを詰めて帰宅する。そんな買い物も7回目の年男になった今年、コロナ禍のお陰で身につけた習慣である。人間幾つになっても、新しい発見や体験があるのは、幸せなことと言わねばなるまい。
救いの声も突然降って来る。沢竜二からの電話で、
「今年もやるよ、11月30日、浅草公会堂だよ」
大衆演劇界の雄から、恒例の座長大会へのお誘いである。長いこと僕はチョイ役ながらレギュラー出演者。毎回おバカ丸出しのコミカルな出番で、座長たちの二枚目競演の中では、妙に目立って大受けするもうけ役に恵まれている。
《よおしっ!》
沢が歌う昭和おやじの最後っ屁ソング「銀座のトンビ~あと何年・ワッショイ」のプロデューサーでもある僕は、俄然気合いが入るのだ。
地方の友人から、よく電話がかかって来る。
「テレビ、見たよ、元気そうで何より。一度遊びに来ませんか。仲間を集めるから、一杯やろうよ」
北海道や山形、島根だの屋久島だのからのものである。久しぶりの連絡のきっかけは、BSテレビ各局の〝昭和の歌回顧番組〟で、僕はそれに呼ばれてしばしば、
『年寄りの知ったかぶり』
のおしゃべりをしている。主な話題の主は、作家なら船村徹、浜口庫之助、星野哲郎、歌手なら美空ひばり、三橋美智也、春日八郎、村田英雄…が中心。みんな密着取材を許された人々だから、手持ちのエピソードが多い。
「それにしても、よく出ているねえ」
と、友人たちは口を揃える。80才を過ぎて隠居していないのは、彼らの周辺では極めて稀。それなのに君は…と言われれば、
「見た目はともかく、近ごろ体の中身はガタガタでねえ」
と、妙な言い訳をせざるを得ない。出演本数が多く見えるのは、BSのその種の番組、やたらに再放送が多いせいなのだ。
番組制作はテレビ局から制作会社に発注されている。僕が世話になっているのはおおむね3社で、自然、プロデューサーと親しくなる。
「今度はあの人で行こうと思うが、どう?」
「あの歌手についてのネタは、ありますか?」
などの打診がある。しかし当方にも得手不得手はある。僕はもともと密着型の体験派だから、取材し損なっている人が対象だと辞退する。実感のないまま、また聞きや聞きかじりをしゃべる気にはならない。
「だからさ、誰か他の人に頼んでよ」
と言うと、電話の相手は即座に、
「それがねえ、皆さん亡くなってしまって、あのころの話を出来るのは、あんたしかいないのよ」
と来る。消去法による人選か! と、当方は憮然とする。
《しかし、戦後の昭和ってのは。凄い時代だったな》
そんな番組の軒づたいをしながら、僕は考える。戦前、戦中に活躍した作家や歌手たちが、戦後しばらくを支える。NHKの連続ドラマ「エール」で俄然脚光を浴びた作曲家古関裕而など、その代表の一人だろう。そして、先に列挙した僕の親密な取材対象は、いわば戦後の第一期生である。そんな新旧の才能がしのぎをけずって実現したのが昭和の歌謡曲だったろう。背景には、敗戦からの復興、高度経済成長、経済大国への成功、それを象徴する東京オリンピックや万国博、やがてバブルの時代が来て、それが弾ける―そんな激動の時代を、歌謡曲は歌い継いで来た。
紅白歌合戦やレコード大賞が派手な演出で茶の間を興奮させた。あのころ、一家団欒がまだあった。老若男女が同じ歌を一緒に支持し、似た思いを託した。生き方考え方に共通する部分があって、共有された生活感。しかし、その陰には次第に、あてどなさや不安、少しずつふくらむ不満が生まれはしなかったか? 敗戦からの驚異的な復興も、右肩上がりの経済も、庶民の犠牲の上に成り立っていた。やがて人々は、富と貧困を軸にした分断を感じ取る。そんな屈託を慰め、励ましたのも歌謡曲だったろうか?
「平成で終わりかと思ったら、令和になってもまだ昭和の歌ばやりは続くねえ」
「平成の枠組みじゃ、こういう番組は作れませんよ。サザンと安室とピコ太郎じゃねえ」
BS各番組のスタッフと僕は、冗談まじりにそんな話をする。音楽的な好みが世代別に細分化の一途を辿っている。流行歌以外の娯楽も圧倒的に増えた。結果の一つとして、ヒット曲の粒はきわめて小さくなった。
《しかし、ちょっと待てよ…》
と僕は踏みとどまる。戦前、戦中に大きなヒット曲が生まれた背景には、庶民が戦争に動員された苦難があった。太平洋戦争に敗れ、そこから復興する道のりにも、やはり庶民の多くが犠牲を強いられていた。つまり老若男女が好みを一つにしたのは、みんなが苦しさや辛さを共有した時代だったのではないか? だとすればおとなが若者の歌に持つ感想と、若者がおとなの歌に持つ感想とが、
「みんな同じに聞こえて、訳が判らない」
となっている昨今は、何はともあれ極く平和な時代なのではないだろうか?
コロナ禍で仕事も思考も停止状態の昨今、僕はそんな屁理屈を口走りながら、『知ったかぶりおじさん』の繁盛を、とても幸せなことだと思ってちょろちょろしている。
殻を打ち破れ225回
季節はずれだが、雛祭りの話である。面白いことに"五人囃子"の面々はロックにドップリ。白酒に飽きた"右大臣"はハイボールを試飲、"内裏様"と"お雛様"はトップの座から、一番下の段に降りてのんびりしてみた。結果気がついたのは、決められた役割が全員にあって、それを無にすると七段飾りが崩れてしまうことだ。
『七段飾り』という歌。歌と演奏は松原徹とザ・ブルーエレファントで、教訓ちらりの童謡ふうだが、これがロック仕立てだから面白い。岡山在住のグループで、地元のRSKラジオの「朝耳らじお5.5」という番組で「今月の歌」を作ってもう10年になると言う。
その中から好評の5曲を選んでCDを作った。『七段飾り』のほかはカエルやホタル、かたつむり、へびなどがそれぞれの生きざまをブルースで語る『6月の歌』、いじめや差別を見据えたフォーク調の『2がつがきらいなオニ』、みんなの応援歌の『勇気
やる気 元気』、未来を語るバラード『この川の向こうには』など。
大阪に僕が関係する「詞屋(うたや)」というグループがある。独自の歌謡コンテンツづくりで、関西から東京一極の歌状況に一矢報いようと、試作集のアルバムをもう2枚も作った。松原はそのメンバーで、詞・曲・編曲・歌もやる。会のボス大森青児の詞の『おやじの歌』や作詞作曲した『哀しみは突然に』などを聞いて、フォークや歌謡コーラス系の人と思っていた。
ところが、届いたアルバムがこれである。『6月の歌』だけ名畑俊子の詞だが、他は詞曲歌ともに松原。童謡と受け取られそうな題材だが、子供にもよく判るメッセージがちゃんと歌い込まれている。
≪それにしても、よくやるわ...≫
と感じ入るのは、松原の歌の伝え方。今年還暦の思慮も分別もある男が一心に率直に歌う。子供の目線と自分の目線が同じ気配で、子供受けを狙う技や媚びなど全くない。至極大真面目で、これが「オトナの男の初心」なのか?
若いころ東京へ出た歌手志願である。歌社会の片隅であれこれ見聞、志得ぬまま岡山へ戻った。当初は演歌、やがてグループサウンズやフォークを体験したろう年代だ。そんな色あいが、今度のアルバムの曲想に出ている。地元へ帰って歌いはじめるのは、よくあるケース。僕にも浜松で大を成した佐伯一郎、埼玉で再びメジャー挑戦の新田晃也、東北にいる奥山えいじ、四国で踏ん張る仲町浩二、北陸の越前二郎ら、友人が多い。僕はテレビで名と顔を売る全国区型だけが歌手とは思っていない。それぞれの地元で、ファンと膝づめで歌い暮らす地方区型も、無名だが立派な歌手ではないか!
ところが松原は、それだけに止まらなかった。平成12年、40才の時に立ち上げたのが、特定非営利活動法人「音楽の砦」で、音楽を通して青少年の健全育成、高齢者の生活環境の向上、地域文化の発展を目指す。拠点は彼の事務所トコトコオフィス。具体的には高齢者対象の音楽セッション、講演や講座、企業の職員研修のためのボイストレーニングなど山盛り。今年はコロナ禍で思うに任せないが、そんな活動があってこそあの歌たちも生まれたのか?
そんな松原を「そんな偉い人の...」とあわてさせた事がある。売れっ子アレンジャー前田俊明の作品の編曲を頼んだ時だ。詞屋のメンバーの杉本浩平作詞の『古き町にて』で、大病で療養中だった前田に気分転換用として曲づくりをすすめた作品。一つの詞に3パターンの曲が届いたが、そのうちのBタイプを採用した。詞屋は歌は作るが歌手難である。乞われればすぐその気になる僕が歌ってアルバム第2作『大阪亜熱帯』に収められた。
前田が亡くなったのは今年の4月17日。『古き町にて』がおそらく、彼が作曲した唯一の歌と思うと、不思議な縁と長い友交に今も胸が熱くなる。

「白雲の城」をガツンと決めた。9月、明治座の氷川きよしだが、気合いの入り方が半端ではない。音域も声のボリュームもめいっぱいの〝張り歌〟で、それが客席に刺さって来る。「気合い」かと思ったがそれを越えて、伝わったのは「気概」の圧力と訴求力だった。
《うむ、なかなかに...》
などと、客席を見回す。僕の1階正面13列5番の席から斜め前方へ、空席が規則正しい列を作る。コロナ禍の最中の苦肉の興行、観客の両脇を1席ずつ空けて「密」を避けた結果だ。平時なら満員になる氷川公演だから、やはり少々寂しいが、時期が時期でやむを得まい。
司会西寄ひがしのトークが、景が変わるごとにかなり長めになるのは、氷川の衣装替えの時間かせぎ。大分板についているのは、氷川と一緒に働いて20年余、彼は彼なりの進化を目指した成果か? お次の景はガンガン音楽のボリュームまで上がって、氷川ポップスである。作詞もしたという「Never give up」を中心に、発声も唱法もガラリと変わるロックで攻め込んで来るさまは、まるで別人。
しかし当方は別に驚かない。6月に出た彼のアルバム「Papillon」を聞いているせいで、呼びものの「ボヘミアン・ラプソディ」をはじめ「Love Song」だの「Going my way」だの、ロックにバラード、ラップなどが14曲、演歌の「エ」の字も歌謡曲の「カ」の字もなかった。その一部が明治座の舞台に乗った訳だが、さて、熟女ファンの反応は? と見回して、これには相当に驚いた。歌謡曲・演歌の時には横揺れに穏やかだったペンライトが、一転して縦乗り。要所では高く突き上げてWAUWAU...。こちらも見事に「進化」しているではないか!
「こちらも...」と書いたが、氷川の昨今は「進化」などより「孵化」「変化(げ)」の印象が強い。今公演の第一部、芝居の「恋之介旅日記」(作、演出池田政之)にも「限界突破の七変化」のサブタイトルがついている。動くグラビアみたいに、「美しい氷川」をあの手この手。おなじみ芸達者の曽我廼家寬太郞、二枚目の川野太郎に今回は、僕の友人真砂京之介が仇役で出ていて、おしまいには大仰に斬られた。山村紅葉の女親分も笑わせるが、そんな中の氷川は、前回のこの劇場公演のこの役よりはセリフも多め、ところどころで見得を切ってファンを喜ばせる。「役者が楽しくやらなきゃ、お客は楽しめない」いつもの池田演出だ。
音楽性も大いに変わったが、並行するビジュアル面も激変した。昔々、丸山明宏(現美輪明宏)の化粧姿は「シスターボーイ」と呼ばれ「異形」や「異能」のただし書きがついた。ところが昨今は、女装タレントも大にぎわいで、それが「異端」などとは誰も思わぬ時代。氷川はそんな時流の中で、ためらわずに彼自身の内面も外面も自由に解放している。最高の価値とする「美しさ」をひたすら求め、信じるままに装い、それを楽しむ自分を歌でメッセージしているように見える。
自分の心の「なりゆき」に任せ、美の世界に「なり切る」生き方を選ぶことは、人気者にとっては相当な覚悟を必要とする。ファンの期待と行き違い、違和感を生み、失望させ、最悪モトもコもなくす恐れがあるせいだ。氷川はそんなイメージの世界を、独特のイメージ展開で切り抜け、熱心な熟女ファンたちまで説得してしまった。
「もう演歌歌手じゃないし...」
と、氷川は舞台でひょいと言った。そう言いながら「箱根八里の半次郎」をはじめ股旅ソング5曲を歌ってみせる。デビュー当時の荒けずりさは残したまま、歌唱に軽やかな味が加わっているのは、彼がロック的現在位置から往時へ「さかのぼって」見せたせいだろう。
「自分を表現することを恐れない。そうすることで新しい発見や出会いがあり、前とは違う人間になれた」
こう語ったのは、人種差別に抗議しながらテニスの全米オープンを戦い、優勝してのけた大坂なおみである。僕は一瞬、彼女の顔に氷川の顔を重ね合わせた。何ごとにも臆することなく、耽美の世界を追求する氷川の勇気と重なったせいだ。
この公演、僕の右隣り、空席を一つ置いた13列3番に吉岡あまなを招いた。亡くなった作詞家吉岡治の孫娘で、ずいぶん昔、川中美幸・松平健公演の明治座で一カ月、僕と真砂の楽屋内を手伝ってもらった縁がある。当時高校生活最後の冬だった彼女は、大学を卒業、もう立派な社会人になっている。
《弾き語りっていいね!》
である。9月2日午後、浅草公会堂で五木ひろしを聴いたが、これがまず第一の実感だった。「ITSUKIモデル弾き語りライブ」「今できること、ソーシャルディスタンスコンサート」がキャッチコピーのイベント。コロナ禍まっ最中だから、観客はマスク、手指消毒、検温、氏名に席番と連絡先を提出、声援はご遠慮、応援は拍手とペンライトが条件。客席1082の会場半分の、529席で前のめりのファン相手に、ギター一本の「よこはまたそがれ」から文字通りの熱唱が圧倒的だ。
気合いの入り方が半端ではない。生ステージを演歌畑じゃまず、俺がやらなきゃ誰がやる式の気負いがあったろう。2月の大阪新歌舞伎座以来、半年ぶりの生歌でもある。前日に1回、この日は2回のステージで、声がやや太めに聞こえたが、それも代表作のあれこれに説得力を加える。途中からバックにキーボード、ギター、バイオリンが加わったが、弾き語りの手作り感はそのままだ。伴奏音が薄いと、自然に歌声が前に出る。歌詞が一言ずつ、生き生きと伝わる。作品への共感や愛着が歌声を熱くする。息づかいも生々しく、歌巧者ならではの声の操り方、ロングトーンが高揚、随所に生まれる情感の陰影...。
よくあることだが、歌が巧みな人の場合、聴く僕の目の前を歌が横切っていく。オーケストラと一緒だと、歌と音楽が寄り添うせいか。いい音楽といい歌のコラボは、それならではの魅力を作りはするが、作品にこめられた真情の色は薄めで流れがちになる。それに比べれば弾き語りは、歌う人の思いと作品の情念が、束になって攻めて来る。歌が聞く僕に向かって、縦に刺さって来る。「横」よりは「縦」の訴求力が、まさに流行歌の命だ。BSフジで7本ほど撮った「名歌復活」という番組で、僕は弦哲也、岡千秋、徳久広司、杉本眞人の4人の弾き語りから、僕はそんな確信を持った。彼らも巧みだが、五木はプロである。比べればそれなりの経験と自負と野心までが歌に乗る。
《演歌っていいね!》
彼の新しいアルバムのタイトルと同じ感想を僕も持った。後輩たちの最近のヒット曲をカバーした選曲で、言わばいいとこどり作品集。その中からステージに乗せたのは、坂本冬美の「俺でいいのか」鳥羽一郎の「男の庵」川野夏美の「満ち潮」山内惠介の「唇スカーレット」の4曲。
旬の歌手にはいい作品が集まるものだが、その鮮度と刺激性を汲み取った企画。そのうえに俺ならこう歌う! の〝お手品〟意識も秘めた歌唱だ。この企画のきっかけになったと言う「俺でいいのか」は吉田旺の作詞、以下前記の曲順に書けば、いではく、及川眠子、松井五郎とやり手の詞で、作曲は徳久、弦、弦と続いて「唇のスカーレット」は水森英夫である。作家同士のココロが動くから、いい詞にはいい曲がつくものだ。
今回のライブのゲストは坂本冬美。2月あたままで大阪で五木と「沓掛け時次郎」を共演した仲で、こちらも半年ぶりの舞台。その間に「俺でいいのか」がヒット曲に育っていた。「夜桜お七」と「また君に恋してる」で新境地を開いた冬美だが、やはり本籍地は演歌。それをこの作品で明確にできたからご同慶のいたりだ。五木の伴奏で歌ったが、冬美の味わいがいかにもいかにも。合わせて吉田旺作品の「赤とんぼ」も歌って、こちらもちあきなおみとはまた違う〝こまたの切れ上がり方〟が面白かった。
《演歌は、フル・コーラスがいいね!》
が、この日考えたことの三つめ。これも「名歌復活」でこだわり続けている点だが、歌詞には全部、起承転結、あるいは序破急の心の動きや物語性が書き込まれている。ところがいつのころからか「テレビサイズ」とカットが当たり前になっていて、3コーラスものなら一番と三番。2ハーフものなら1ハーフ。番組の限られた時間の中に、なるたけ多くの歌手と作品を...という算段だろうが、紅白歌合戦を筆頭に、作品が損なわれること甚だしい。近ごろはそれを前提に二番を手抜きする作詞家がいるが、これなど論外だ! プロの歌手が縮小2コーラスで、下手くそなカラオケ族がフルで歌ういやな現象をどう考えるべきか?
五木はこの日、作品本位を貫いて全曲フルコーラスを歌い、冬美もその通りにした。我が意を得たり! である。今回はベタぼめコラム。僕はひところ五木の歌づくりを手伝った経験があって、歌の巧さはよく判っているが、今回ほど胸に刺さるいい歌と人間味が濃かった舞台は初めてと思っている。

殻を打ち破れ224回
「歌詞の最後の1行でも、じっくり味わって下さい」
というメモ付きでCDが届いた。大泉逸郎の新曲『ありがてぇなあ』で、送り主は大泉が所属する事務所の社長木村尚武氏。コロナ禍、広範囲の水害惨状に心奪われる7月、さっそく聴いてみると――。
♪昇る朝日に
柏手うてば 胸の奥まで こだまする...
と、歌い出しから明るめで、何ともおおらか。そのうえ2番のおしまいでは
♪歳をとるって
ありがてぇ...
なんて言っている。山形あたりで半農半唱、気ままな歌手活動に恵まれている大泉の、老いの心境までにじむ詞は槙桜子。古風だがきっちり隙間がない味わいだ。それに大泉が曲をつけて、こちらは大ヒットした『孫』系のしみじみ泣かせるメロディーを歌う。
≪まぁな、確かにお互い、ありがてぇ日々を送っていることになるわな...≫
僕は「ダイジン」のニックネームで呼ぶ木村氏の笑顔を思い浮かべる。親父さんが山形の名士で、閣僚まで務めた政治家ゆえの愛称だが、昔は日本テレビの有力なプロデューサー、人気TV番組「歌まね合戦 スターに挑戦!!」で、若い才能を発掘「演歌を育てる会」も主導した。スポニチ時代に僕は、彼の番組によく呼ばれたが、ゲストが美空ひばりの場合限定。彼女と親交があり、僕が傍に居ると機嫌がいいのが狙いだったろう。
僕は平成12年にスポニチを退社したが、まっ先に
「俺んとこの顧問に来ない?
俺も日テレ辞めた時は苦労したし、今、大泉が当たってるから多少のゆとりがあるし...」
と誘ってくれたのが木村氏だった。その後、二、三の大手プロダクションからも声が掛かったが、完全にフリーでいたい痩せがまんから、全部ていねいにお断りした。しかし、さほど深いつき合いでもない木村氏からの好意は、第一号だったこともあり、嬉しさが今でも忘れられない。
彼と僕は昭和11年生まれの同い年で、今年は7巡めの年男である。この年でこんな時代に、元気でまだ歌世界の仕事をしているあたりがご同慶のいたり。「ありがてぇ」も異口同音になりそうだ。僕らは毎年秋に、山形の天童市で大いに飲みカラオケに興じた。同地出身の歌手・佐藤千夜子を顕彰する歌謡祭の審査に呼ばれていてのこと。僕の天童詣では、昨年でこのイベントが終了するまで16年連続を記録した。山形育ちの木村氏は、口は重いが歌は軽めに、この会の前夜祭などをリードしたものだ。
天童で忘れられないのは、歌謡祭の実行委員長でこの町の有力者矢吹海慶和尚と福田信子以下のスタッフ。「ホトケはほっとけ」だの「女と酒はニゴウまで」だのとジョークを連発、しかし言外に寓意や含蓄を秘める。和尚は、人生の粋人にして達人。その仁徳に魅かれる熟女たちがボランティアで支えたイベントだから、万事やたらに情が濃いめで、酒は出羽桜の枯山水、肴は芋煮と青菜漬け、めしはつや姫に止めをさす夜が続いた。
それやこれやで、酒どころ、歌どころ、人どころの天童にはまって、最大の催しになったのは昨年11月16日夜の「矢吹海慶上人の米寿を祝う会」何しろ市の名士・有力者100人余の着席の祝賀会を、はばかりながら発起人代表を仰せつかった僕が取り仕切った。天童の夜もこれが最後! の感慨も手伝ったのが記憶に新しいが、な、な、何と今年、和尚が代表でNAKの支部を作り、今秋も装いもあらたな歌謡祭をやるからおいで...の連絡。和尚との再会、酒も歌ものチャンスがまた貰えることになった。秋11月が待ち遠しいばかり、コロナそこ退け!である。

おや、五木ひろし、ずいぶん若造りだが、結構似合ってるじゃん。ジーンズにスニーカー、手首まくりの青シャツに薄手のセーター肩にかけ、袖を胸もとで結んで、あぐらの左膝を立ててニッコリである。アルバムのジャケットだが、タイトルが「演歌っていいね!」と来た。長いこときちんと〝よそ行き〟の見た目とコメントで通して来たベテランが、こんな〝ふだん着〟の言動に転じているのも、ご時世に添ってのことか?
タイトルの割にいきなり自作の「VIVA・LA・VIDA!~生きてるっていいね!」だから、威勢がいい。一転して2曲目は「俺でいいのか」で坂本冬美のカバー。吉田旺の作詞、徳久広司の作曲、伊戸のりおの編曲でアルバムの本題に入った。お次は「男の庵」で鳥羽一郎のカバー。そうか、その手を考えたのか! と、プロデューサー兼業の五木の胸中に合点する。このところ世に出た後輩たちの作品のいいとこどりを13曲。ラストにまた自作の「春夏秋冬・夢祭り」を据えたサンドイッチ構成だ。
3曲目以降の曲目とオリジナル歌手を並べてみる。「満ち潮」(川野夏美)「唇スカーレット」(山内惠介)「雪恋華」(市川由紀乃)「望郷山河」(三山ひろし)「水に咲く花・支笏湖へ」(水森かおり)「アイヤ子守唄」(福田こうへい)「紙の鶴」(丘みどり)「倖せの隠れ場所」(北川大介)「尾曳の渡し」(森山愛子)「純烈のハッピーバースデー」(純烈)「最上の船頭」(氷川きよし)となる。出版社のクレジットはほとんどが2019年、そうなんだ、去年1年のヒットソングと歌手の顔が、さらっと俯瞰できる妙がある。これを続けたら、年度別ヒット曲五木ひろし歌唱盤が出来あがる。こんなの誰も考えなかったなあ。
選曲は詞本位だったろうか? なかにし礼、吉田旺、いではく、荒木とよひさ、喜多條忠、石原信一、さいとう大三、松井五郎、田久保真見なんて腕利きが並んでいる。いい歌は、いい詞といい曲が力を尽くすものだが、こちらは弦哲也が4曲、水森英夫が3曲、それに杉本眞人、徳久広司、原譲二、幸耕平あたり。いずれにしろ五木好みだろうが、それにしても「演歌っていいね!」と束ねたわりには、定型の3コーラス型は15曲中7曲とほぼ半分。残りは2ハーフタイプの破調で、ドのつく演歌はナシ。この節は演歌も姿形ではくくれなくなっているのがまざまざ。そう言えば愛の表現も多少様変わりして「満ち潮」の及川眠子は「悲しむための愛が終わる」と語り「水に咲く花」の伊藤薫は「いっそ憎んで嫌われて、ひどい別れの方がいい」なんて水森に言わせている。
おや、頑張ってるね! の麻こよみの「尾曳の渡し」はおなじみの道行きものだが「あなたにすべてを捨てさせて、今さら詫びても遅すぎる」と、ひとひねりして女性が主人公。「最上の船頭」の松岡宏一は、お千16才箱入り娘、弥助ははたちの手代...と時代劇仕立てだが、どうやら女性上位の逃避行だ。
それやこれやを気ままに選曲して五木の歌唱も、気分よさそうに気ままに聞こえるが、そこがこの人のしぶといところ。よく聞けば曲ごとに彼ならではの技術が動員されている。女性が主人公の作品は、歌の口調が女性のものではじまりサビあたり、メロディーに乗って歌をあおって行く部分では、芯に男気がちらりとする。望郷ものなら歌がたっぷりめになるし、嘆き唄だと地声と裏表のさかい目あたり、自在の声のあやつり方で哀切感をにじませた。リズミカルに弾む作品は、無心に弾んでみせて、五木らしさは薄めにする。恐らくは、後輩たちの各曲を聞いて「俺ならこう歌う」と歌を組み立てなおした五木流、そのうえで〝どや顔〟を見せないところが、年の功か? いずれにしろこの人に「近ごろ丸くなったものだ」の側面を見る気がする。
おや! を、もうひとつ追加すれば、五木オリジナルの2曲を除く13曲中5曲が鳥羽一郎、川野夏美、三山ひろし、北川大介、純烈の順で日本クラウンの作品。それぞれキャラクターが立っていて「いい仕事してるねえ」と制作者の肩を叩きたくなる。新着アルバム1枚にも、いろんなことが見えて楽しいものだ。
夕刻、友人からざらざら声で、
「俺たちは年配者、テレビは命の危険な暑さを連呼するけど、さて、コロナで逝くのか、熱中症で逝くのか、どっちにしたもんだ?」
と酔ってもいない電話が冗談とも本音ともつかない夏の8月、そう言やお互い7回目の年男だ...と応じながら、五木の気持ちの若さがうらやましくなる。彼は確か6回目の年男のはずだ。

「マザコンだからねえ」
とほめたつもりなのに「吾亦紅」を歌った直後の歌手すぎもとまさとは、作曲家杉本眞人の顔になって肩をすくめた。この曲を彼はもう何万回歌ったことだろう。ほとんど無心で歌える境地だろうが、サビの、
〽あなたに、あなたに謝りたくて...
の個所だけはいつも意識すると言う。あの高音ぎりぎりの切迫感と、他の部分の無造作なくらいの語り口が、得も言われぬ味わいを作っている。
男という奴はみんな、大なり小なりマザコンである。そう書く僕も人後に落ちぬ一人で、杉本の歌を聴く都度、鼻の奥がツンとなる。ことに歌い納めのフレーズ、
〽来月で俺、離婚するんだよ、そう、はじめて自分を生きる...
でカクッと来て、
〽髪に白髪が混じり始めても、俺、死ぬまで、あなたの子供...
で必ず涙っぽくなる。それにしても作詞家ちあき哲也は、何という詞を書き、世のマザコンの男どもにとどめを刺して逝ったものか!
杉本のこの歌を、また生で聴いたのは7月21日、フジテレビのスタジオ。4年間で7本めという不定期番組「名歌復活!」のビデオ撮りの現場だ。弦哲也、岡千秋、徳久広司に杉本と、ヒットメーカー四天王が思い思いに弾き語りを聞かせる。岡がピアノ、他の3人はギターだが、弾き語りの良さは作品の情感があらわになるほか、歌手の人となり、心の暖かさや優しさがにじむことだろう。おまけに全曲フル・コーラスである。各曲、作詞家の思いのたけが、はしょられずに、高い完成度を示す。
今回は今年没後10年の作詞家星野哲郎を偲んで、その作品を4人が歌った。弦が「みだれ髪」岡が「兄弟仁義」杉本が「雪椿」徳久が「男はつらいよ」という選曲。小林旭ファンの徳久はさしずめ「自動車ショー歌」か「昔の名前で出ています」あたりか...と思わせておいて意表を衝いた。
〽わたくし、生まれも育ちも葛飾・柴又です...
のあの名調子をやりたかったらしい。岡の「兄弟仁義」はテンション高過ぎる気合いの入り方から「いかん、いかん」と頭をかいて歌い直しをした。作品との取り組み方、見た目、キャラとは違って極めて生真面目な人なのだ。
楽曲交歓という趣向もある。弦が杉本の「かもめの街」杉本が弦の「暗夜航路」というのが好取組。弦は歌い派だが、この曲の語りの部分と歌う部分を、いい按配の彼流に歌い分けた。「暗夜航路」はキム・ヨンジャが日本での活躍の糸口を作ったスロー・ワルツ。語り派の杉本はそれを、あのぶつ切り心情吐露型歌唱に引き着ける。
《そこまでやるか...》
と僕は笑っちまったが、星野コーナーの「雪椿」だって、遠藤実作曲の演歌を、何と8ビートのノリで歌って、
「俺が歌うと、どうしてもこうなっちゃう」
とニヤニヤするのだ。
《しかし、いい歌が揃うものだ...》
と感じ入ったのは、作詞家の仕事の確かさと豊かさ。岡が歌った自作曲「ふたりの夜明け」と徳久の自作曲「俺でいいのか」は、作詞家吉田旺の旧作と新作。杉本が歌った「青春のたまり場」は阿久悠だし、弦の「天城越え」と「暗夜航路」はともに吉岡治作品だ。これにちあき哲也の2曲と星野哲郎の4曲が加わる逸品オンパレード。
長く体調不良の吉田旺は以前にも増して寡作だが、星野、吉岡、阿久、ちあきはすでに亡い。それぞれと親交のあった僕は、曲ごとに生まれた時期のあれこれを体験しているから、感慨もひとしお。歴史を背負った名人技を回想する心地だ。
《俺はこのスタジオで、一体何をしてるんだ?》
と、我に返ったりする。好評につきもう一作...が4年間で7本も続いた番組で、僕は勝手な時に勝手なことをしゃべっている。それにつき合ってくれる松本明子の役割は台本に「進行」とあり、僕は「聞き手」とあった。そうかそういうことか...と合点、弦の新作「演歌(エレジー)」について知ったかぶりをする。
弦の音楽生活55周年記念曲だが、息子の田村武也が作詞している。彼は路地裏ナキムシ楽団の座長で、フォークソングと芝居をコラボする新機軸演劇の作、演出家で作曲も歌もやる。そういう一人息子が、父親の来し方行く末を見すえた詞に、父への敬意をにじませているのが好ましいと、ナキムシ一座のレギュラー役者の僕は目を細めているのだ。

友人の境弘邦にさっそく電話をした。
「届いたよ、読み返してるけど面白い。各章各節ごとに頭のツカミがしっかりしてエピソード仕立てだ。これじゃ俺の商売あがったりだよ」
と言ったら、声まで笑顔のリアクションは、
「あっちこちから電話がかかりっぱなしで、応対にいとまなしって感じでさ...」
その日、彼の知り合いに一斉に届いたのは、著書「昼行灯の恥っ書き」である。つまりこのコラムの反対側のページで、平成27年秋から2年間、彼が書き綴った「あの日あの頃」が本になった。この種回顧ものは、とかく自慢話の連続になりがちだが、彼は交友録的角度と裏話でそれをうまくかわしていて、好感度が大きい。
「昼行灯」とは子供のころに父親から言われた特徴らしく「ぼんやりしている」の意か? そんな子が長じて「転がる石に苔むさず」を念じ「陰日向なく、好き嫌いなく、無欲で、身を粉にして働いた」日々の記録だ。彼は昭和12年3月、僕は11年10月の生まれで、ほぼ同い年、同じように僕もよく働いた。日本が太平洋戦争に負けた20年は小学校(当時は国民学校)3年生の夏で、その混乱にもろに巻き込まれ、生きることに必死で何でもした。国中が極度に貧しかった時代を、彼と僕は共有していることになる。
本のサブタイトルは「美空ひばりの最後を支えたプロデューサーの手記」とある。
《彼女についても、似た体験をしたんだな。後で考えれば表裏一体の例も多い...》
平成元年6月24日に彼女は亡くなった。享年52、手記によれば境はその日、北陸加賀温泉郷の旅館に居た。音楽評論家対策で、急遽ひばり邸へ戻ったのは翌日の昼前である。僕はスポニチの傍系会社の旅行で箱根に居り、タクシーを飛ばしてひばり邸に入ったのは、当日の午前3時過ぎ。すでに黒山の取材陣がひしめいていた。境の顔を見るなり、コロムビアの宣伝担当大槻孝造は泣いたと言う。緊張が解けたのだろう、午前4時ごろ、ひばり邸に居た関係者は彼一人で、表の取材陣は亡くなった事実確認を急いでいた。息子の和也君を出す訳にはいかないし、僕は彼らと同業、無理を承知で大槻に対応を指示した。亡くなった時間、場所の確認、遺体は戻っているが、事後も含めた詳細は決まり次第発表する...。
境は遺体と対面後に赤坂のコロムビア本社へ戻る。事後の相談と記者会見の準備だ。僕はスポニチの号外をひばり邸の前でも配ることを指示、NHKテレビの午前7時からのニュースでそれが大きく報じられるのを見て、深川・越中島のスポニチ本社へ戻った。徹夜仕事になったスタッフをねぎらい、その足でコロムビア本社へ入る。
役員会議室。コロムビアの正坊地隆美会長をはじめ役員全員に順天堂大学病院の主治医ら3人の医師が揃う。境はその部屋の入り口付近に、社員ではない3人の顔を見つける。ひばりの付き人2人と僕だ。境は一瞬まずい! と思うが、ひばりと僕の親密な信頼関係を考えてそのままにした。記者会見では「医学的に正確な説明をお願いする」のが、役員の希望。それに境が異を唱えた。九州での入院時の記者会見で、ひばりの股関節のレントゲン写真を公表してしまった悔いがあった。だから彼は主治医に、
「必要最低限の報告にとどめ、安らかな最期だったとつけ加えて下さい」
と頼んだ。歌謡界の女王の死は美しいままにしたい。余分なリアリティは必要ない。そう思い定めた彼が、僕を見返す。手記によれば僕は何度も頷いたという。
境は制作責任者として、コロムビアの演歌路線を確立、ひばり作品のプロデュースから衛星放送による全国葬までを立案実現「ひばり部長」と呼ばれた。昭和53年からほぼ12年、僕がひばり密着取材に恵まれたのは50年からのほぼ15年。当初彼には僕が癪のたねだった。事あるごとにひばりが、
「小西さんに聴いて貰って、小西さんは何て言ってた」
と聞くせいだ。しかし彼らが「おまえに惚れた」などで、ひばり作品をカラオケ対応路線に転じ難渋していたころ、本人の質問に僕が、
「ひばりさんならではの大作も魅力的だけど、カラオケファンにあなたらしいお手本を示すことも大事ではないか」
と答えて、結果側面援護をしていた事実を彼は知るよしもない。
没後30年余、境と僕のひばり体験は、そういう表裏一体例を幾つも作っていた。コロナ禍がひと段落したら僕は、彼とそんなあれこれを突き合わせてみたいと考えている。

殻を打ち破れ223回
超深夜型だから、朝の起床は遅め。すぐにテレビのスイッチを入れる。社会の窓を開ける心地で、チャンネルを合わせるのはニュースや情報番組。それをたれ流しに聞き流しながら、朝食はもう昼間近かだ。新聞社勤めのころから変わらぬペースだが、その後がいけない、新型コロナウイルスの蔓延を阻止するための非常事態宣言下では、外出自粛で人に会えないし芸能イベントも全部中止。これでは商売あがったりで、18才でスポーツニッポン新聞社のアルバイトのボーヤに拾われて以後65年、こんなに働かない日々など無かった。
とは言え、秋元順子のシングルは一枚仕上げた。喜多條忠作詞、杉本眞人作曲、矢野立美編曲で、『帰れない夜のバラード』と『横濱(ハマ)のもへじ』のカップリング。3月中に詞曲があがり、アレンジの打合わせもすませて、4月初旬に音録り、中旬に歌ダビというスケジュール。一流の仕事師たちとのつき合いは嬉しいもので、作業はいい方向へ淀みなく進む。
♪鳴かないカラスが ネオンの上で フラれたあたしを 笑っているよ...
バラードの方の歌い出しの歌詞2行が、第1稿とガラッと変わって面白くなっているのを
「杉本ちゃんとやり取りしてたら、ふっと出て来たんだよね...」
と、喜多條が笑ったりする。
曲調は秋元の希望通りである。前作の『たそがれ坂の二日月』は詞曲同じコンビで、おとなの女の別れ歌を、軽く弾み加減にした。
≪この人には今、こんな感じのものを歌わせたい≫
と、僕のプロデュースはいつも、こちらの思い込みを形にする。過去に幾つかのヒット曲を持つが、みんなこのスタイル。ところが秋元の今回は打ち合わせの席で
「バラードがお望みでしょ?それでいいよね」
「ええ、ええ、是非それでお願いします」
と意見が一致。うまいことその流れの作品になったから、歌の仕上がりも上々の秋元流。サビあたりが少し強めの感情表現で「遊びの限りを尽くした男(やつ)」との別れを、あの含みのあるいい声に乗せた。
「今回も楽しいお仕事になりました」
と言う担当の湊尚子ディレクターのメモ付きで、5月末には完成盤が届いた。バーのカウンターにすわる秋元の目線が、ひょいと男を振り向き加減のジャケット写真で、これも「いいね、いいね」になる。
しかしまあ、4月5月は暇だった。たまにかかって来る電話は、僕の安否確認。年寄りで基礎疾患持ちが一番危いとされるから、
「まさか出歩いたりしてないだろうね。7回りめの年男でしょ。酒盛りも控えることです」
と相手の声音は優しげだ。「一歩も外へ出ない日だってあるよ」と答えると、先方は「えっ?」と聞き返す。僕はよほどの働き者か出好きと思われていたらしい。何のことはない、テレビの前でゴロゴロ、猫と添い寝をするか、本を読み、たまったCDを聴き、たまにはウォーキングも...と、ごく怠惰な日々。
「これで先々、元のペースに戻れるのかしらねぇ」
と案じたら、リモートとやらで珍しく家にずっと居るカミサンに
「80過ぎてんですから、もうそのままでいいんです」
と、軽くいなされた。てことはこれが僕の「新しい日常」とやらになるのかしら?
それにしても、アベノマスクはまだ来ないし、一人10万円も音沙汰なし。首相の「躊躇なく断行」の言葉の意味を疑う。自粛についての指示や張り紙の「当面」と「当分」の混用もいささか気になる。「当面」は「さしあたり」で「当分」は「しばらくの間」の意だから「当面の間自粛」はないよね。
会場の座席番号と姓名、連絡先を渡して来た。6月28日のことで、この原稿を書いているのが7月8日だから、あれから10日経つ。まだ何の連絡もないから、とりあえず無事か。同じような感想を持つ人々も多かろうが、いやいや...とまだ警戒心を維持するのは、歌手加藤登紀子とそのスタッフ、関係者だろう。東京・渋谷のオーチャードホールで、彼女が1000人の客を入れたコンサートをやっての後日―。
プロ野球、サッカー、大相撲などのスポーツや、歌手のコンサート、演劇公演などが、やるとすればすべて無観客、リモートのこの時期、加藤コンサートはちょっとした事件になった。マスコミが詰めかけ、会場入口には落ちつかぬ顔の長蛇の列、マスク着用、サーモグラフィーによる検温、手指の消毒、ソーシャルディスタンスの確保、スタッフはフェース・シールド...。当然と言えば当然だが、およそ娯楽とは縁が遠いものものしさ。だから加藤のステージでの第一声は、
「今日はありがとう。いい眺めよ。相当な覚悟をして来てくれたのよね」
になる。市松模様とはよくも言ったりだが、観客は前後左右を一席ずつ開けて1000人。僕は2階R1列15番の席、つまり舞台に向かって右側の2階バルコニーから、舞台と客席を等分に見下ろす位置についた。
「Rising」「Revolution」と2曲歌ってコメント「知床旅情」からは話しながらの歌になる。歌手生活55周年記念のコンサート。一部はどうやらその年月の自分を振り返る趣向と気づく。「知床旅情」はある男との交友からすくい上げた曲といい、1968年、
「ある夜、ある男と出会い、それから1年後に出来た歌」
とタネ明かしめいて「ひとり寝の子守歌」に入る。大方のファンも先刻承知だが「ある男」とは亡くなった加藤の夫君、全学連のリーダー藤本敏夫氏で、加藤は1972年6月、獄中の彼と結婚している。「誰も知らない」「赤い風船」などを歌い、レコード大賞の新人賞も受賞した歌謡曲系のデビューだが、藤本氏との共鳴を機に、シンガーソングライターに転身した。
中島みゆき作詞作曲の「この空を飛べたら」や河島英五の作品「生きてりゃいいさ」も出てくる。
〽人間は昔、鳥だったのかも知れないね、こんなにもこんなにも、空が恋しい...
という中島の歌詞に胸うたれ、河島との共演のエピソードで共感を語った。その時期の彼女の切迫した思いが、作品と重なったのだろう。「この手に抱きしめたい」から明日を見据える「未来への詩」で、彼女は一部をしめくくった。
加藤は1965年、日本アマチュアシャンソンコンクールで優勝して歌手になった。石井好子音楽事務所とスポーツニッポン新聞社が共催したイベントだから、スポニチの音楽担当記者の僕は、当然みたいに加藤番になる。以後55年、加藤の歌手活動と同じ年月を、僕は彼女に伴走したことになる。時代が時代だから、彼女と藤本氏の交友は、周囲を騒動とさせた。やがて二人は千葉に大地を守る会と有機野菜などの農場を立ちあげ、3人の娘に恵まれた。加藤は世界各国を旅行、先々から〝共感する作品〟を持ち帰り「百万本のバラ」など多彩なレパートリーを作る。いずれにしろ55年、彼女の生き方は挑戦と波乱に満ちており、精神的浮沈も激しかった。
「ある時、ある人から君はノンフィクションの人だね...と言われて」
と加藤はステージで笑った。彼女の歌手活動と自作自演する作品が、その時々の彼女の生き方やさまざまな出来事と表裏一体であることを指して妙だ。
加藤は当初、無観客で考えた。ところが国が「50%1000人までOK」と指針変更したから「天の声!」と受け止めて、有観客の決行を決めたと言う。1943年12月生まれだから76才のはずだが、この人の姿勢は相変わらず〝鉄の女〟なみだ。低音を街角の老婆の呪文みたいに響かせ、中、低音はひび割れ方そのままの声を限りなくたかぶらせて、思いを祈りに昇華させる。ふっくら堂々の体型を長い布、裾ひろがり三角形のドレスに包んで、笑顔のトークは下町おばさんみたいな包容力も示した。
二部のゲスト出演は次女のYaeで、これまた堂々の声量。千葉の農場は娘たち夫婦が守っていて、加藤家は安泰に見えた。6月28日のこの夜、僕はみんなと一緒に、舞台の加藤とエア・ハイタッチをし、誰にも会わず誰とも話さずに帰宅した。

テーブルの上を透明のアクリル板が横切っている。その向こう側にいる女性は、フェース・シールドにマスク、おまけに眼鏡までかけているから、誰なのか判然としない。と言っても、僕は居酒屋に居るわけではない。僕もマスクをつけたままだし、向き合う女性の右側に居る青年もマスクが大きめである。新型ウイルスの非常事態宣言は解除されたが、東京の感染者数は減る気配もない或る日の東京・神泉のUSENスタジオ。実は僕がレギュラーでしゃべっている昭和チャンネル「小西良太郎の歌謡曲だよ、人生は!」でのことで、完全武装!?の女性は歌手のチェウニ、隣りの青年はゲストの歌手エドアルドだ。
ふだんは鼻にかかりる僕のモゴモゴ声が、マスク越しなのが気になって、芝居用の張り声を使った。しかし、どうしても響きが少し派手めになるから、エドアルドの身の上話にはなじまないかな...と気になりながらの録音だ。エドアルドはブラジル・サンパウロ出身。ブラジル人のジョセッファさんという女性が母親だが、生まれて2日後には日系二世のナツエさんの養子に出された。何とまあ数奇な生い立ち...と驚くが、しかし、
「生んでも育てられない女性と、子宝に恵まれない女性の間で、事前に話し合いがすんでいて、こういうこと、あっちではよくある話なんです」
と、本人は屈託がなく声も明るい。結局彼はナツエさんの母になついたおばあちゃん子で、祖母は日本人だった。物心ついたころにしびれたのが日本の演歌で、これはナツエさんの兄の影響だと言う。僕がエドアルドに初めて会ったのは19年前の平成13年。NAK(日本アマチュア歌謡連盟)の全国大会に、ブラジル代表としてやって来た彼が、細川たかしの「桜の花の散るごとく」を歌ってグランプリを受賞した。この大会は100人前後の予選通過者がノドを競う、相当にレベルの高いイベントだが、エドアルドはすっきり率直な歌い方と、得難い声味が際立った。審査委員長を務める僕が、総評でそれをほめたら、本人は日本でプロになりたいと言い出す。僕は「相撲部屋にでも入る気か!」と、ジョークを返したが、当時18才の彼は、150キロを超える巨体だった。
それから8年後、26才のエドアルドは、驚くべきことに80キロ以上も減量して日本へやって来た。大の男一人分超を削っている。
「胃と腸を手術でちぢめてつなぎ直してですね、まあ、栄養失調になってですね、やせました」
これまたあっけらかんと話す彼に、僕のアシスタント役のチェウニは目が点になる。ダイエットなんて発想は吹っ飛ぶ捨て身の覚悟で、歌謡界にさしたる当てもないままの来日。もう一つ驚くべきことに、千葉の弁当屋で働きはじめた彼を、義母のナツエさんが追いかけて来日、息子の野望の後押しをするのだ。エドアルドはその後、テレビ埼玉のカラオケ大会でグランドチャンピオンになるなど、手がかり足がかりを捜し、作曲家あらい玉英に認められて師事、平成27年に32才でデビューした。たきのえいじ作詞、あらい玉英作曲の第1作は「母きずな」で、彼の生い立ちが作品に影を作っていた。
エドアルドの歌手生活は今年で5年になる。最新作は「しぐれ雪」(坂口照幸作詞、宮下健治作曲)で5枚めのシングル。僕が悪ノリしているのは3作めの「竜の海」で、石原信一の詞に岡千秋の曲。越中の漁師歌だが、エドアルドの歌唱は日本人歌手のそれとはフィーリングが一味違って、独得の覇気があった。「心凍らせて」「さざんかの宿」「愛燦燦」などのカバーアルバムが1枚あるが《ほほう...》と思わされるのは「岸壁の母」や「瞼の母」で、やっぱり母もの。プロになって2度、サンパウロで凱旋コンサートをしているが、その時に生みの母ジョセッファさんと育ての母ナツエさんが、手を取り合って嬉し泣きに泣いたと言う。
少年時代から、彼の歌手志願の背中を押したサンパウロでの歌の師匠・北川彰久氏が、今年1月に亡くなった。毎年5月にNAKのブラジル代表を連れて来日した彼とは僕も昵懇だったから、その葬儀には弔辞を届けた。ブラジルの音楽界と日系社会に功績が大きく、カラオケを通じて日本とブラジルの国際交流にも大きく貢献した人だった。
びっくるするような話ばかりにつき合ったチェウニは、異国の日本で頑張る先輩歌手だが、エドアルドの日本語の巧みさに、
「敬語までちゃんとしてる」
と、しきりに感心していた。

殻を打ち破れ222回
五木ひろしの『おしどり』、川中美幸の『二輪草』、キム・ヨンジャの『北の雪虫』、神野美伽の『浮雲ふたり』、田川寿美の『哀愁港』、成世昌平の『はぐれコキリコ』、水森かおりの『熊野古道』、福田こうへいの『南部蝉しぐれ』、香西かおりの『氷雪の海』、丘みどりの『鳰の湖』、藤あや子の『むらさき雨情』など、ざっと思いつくままにヒット曲を並べてみる。実はこれらに共通点がひとつあるのだが、お判りになるだろうか?
もしあなたが、才能に満ち溢れた一人の男の名を挙げられたら、あなたは日本一の歌謡曲通と言ってもいい。答えは「編曲家前田俊明」で、この作品群は全部彼のアレンジで世に出た。
前田の訃報は歌社会の仲間何人かから届いた。彼の息子安章さんが生前親交のあった人々へ、FAXで知らせたものの転送である。脳腫瘍が再発して闘病が長く、亡くなったのは4月17日午後4時44分、通夜と葬儀は23日と24日、桐ヶ谷斎場で家族葬として営む。弔問、供花、香典などは一切辞退とあった。享年70、若過ぎる死である。家族だけで静かに...という思いが即座に伝わる。折から世界に蔓延した新型コロナウイルス禍で、緊急事態宣言が発令され、不要不急の外出は自粛!が声高の時期だ。
≪不要なんてもんじゃないぞ。親友の弔いだ、何をおいても行こう!≫
一度はそう思った。しかし待てよ!とたたらを踏む。物情騒然の時だけに「心静かに」という遺族の思いは汲まねばなるまい。「密閉・密集・密接」の「3密」を避けたいおもんぱかりもあるだろう。こちらは80才を過ぎていて、感染していない確証もない。押しかけて行くと、かえって迷惑をかけることになりかねない。以前、家族葬へ出かけた経験は何度もある。家族同然のつき合いの仲間を見送った時だ。しかしあれは「平時」で、今は「戦時」だ。と、結局弔問は諦めた。
「そうか、あれが出世作だったんだ...」
僕の問いに前田は好人物そのものの笑顔で答えた。
「山川豊さんのデビュー曲で『函館本線』ですね。1981年だから、もうずいぶん昔です」
そんな取材で知り合って、長くお遊びのグループ"仲町会"の仲間にもなる。ゴルフ場からの帰りに、彼の車に便乗した回数は数え切れない。ギターを買ったのが小学校5年、中学でマンドリンと出会い、クラブ活動で編曲もやり、歌づくりにかかわる決心をする。明大マンドリン倶楽部で教えを受けたのは古賀政男...と、そんな彼の経歴を知ったのは、車中の雑談だった。
毎年夏ごろに、季節はずれの年賀状まがいが届いた。カラー写真の葉書きで、前年に夫人と海外旅行をした報告。毎年のことだから行く先が次第に中南米だのアフリカだの、ごく珍しい旅先になったが、その土地々々で民族楽器を買い求める楽しみもあったとか。歌謡界にも愛妻家はそこそこ居るが、まるで手放しで前田はその代表。
「俊ちゃん、今度はどこへ行くのよ」
と聞けば、
「だんだん行く先がなくなっちまって...」
と、しんから困ったような顔になった。
カラオケを楽しみに出かけたら、画面の編曲者名に気をつけてくれませんか。例えば水森かおりのご当地ソングは全曲彼の手になるし、角川博もそう、永井裕子もそうで、あなたが歌うヒット曲の半分くらいは彼がアレンジしていると気づくはずだ。
「シンプルで花やかで、歌いやすく明解なもの」
を心掛けたと言う前田俊明の編曲は、多岐多彩な作品群と歌手たちの個性を、華麗に染め上げ艶づかせて見事だった。僕は平成を代表する音楽家と心優しい親友を同時に失った無念を噛みしめている。
作詞家星野哲郎は今年、没後10年になる。あのしわしわ笑顔に会えなくなって、もうそんな年月が経ったのか! と、ふと立ち止まる感慨がある。その星野の未発表作品が出て来た。徳久広司が曲をつけ西方裕之が歌った「出世灘」と「有明の宿」のカップリング。2作とも温存されて、何と33年になると言う。
西方は1987年に「北海酔虎伝」でデビューした。佐賀県唐津市の出身。同郷の作曲家徳久に認められ、彼を頼ってこの世界に入った。いわば師弟の間柄だから当然、デビュー曲は徳久が書き、求められて星野が詞を書いた。この時星野がディレクターに渡した詞が数編あり、今作はその中の2編。徳久が改めて曲をつけて新装開店の運びになった。
「出世灘」は「小浜」や「牛深港」「天草灘」などを詠み込んだ漁師唄。「海の詩人」星野お手のものの世界で、主人公が大漁の獲物を贈るのは母親、やきもきさせる港の娘とはまだ他人で、墓所はその海と思い定めていたりする。表現簡潔、すっきりと5行詞3コーラス、ここがこの人の曲者らしいところなのだが、特段新しさを追わないかわりに、今日聞いても全く古さなど感じさせない。
「そこんところが凄いよな、33年も前のものだぜ...」
担当プロデューサーの古川健仁に言えば、
「そうでしょ、いいものはいつの時代もいいんですよね」
と、我が意を得たりの声になる。この件は星野の長男・有近真澄紙の舟社長に事前にあいさつもしたと言う。メーカー各社のディレクターで、星野の薫陶よろしきを得た面々が、生前から「哲の会」を作っていて、古川もその一人。ずいぶん昔の話だが、ある日スタジオから彼と星野が出て来るのに鉢合わせをした。「何の吹き込み?」と聞いたら、
「先生にいろいろ話して貰ったんです」
と、古川が涼しい顔をした。間もなく世に出たのが西方のアルバム「星野哲郎を唄う」で、西方が星野の代表作を歌う合い間に、星野がボソボソしゃべっている。どうやらスタジオで問わず語りを録音したものを、ナレーションとして組み込んでいるのだ。そのころから古川は、思いついたらすぐ...の臆面のない実行派で、星野も彼のそんな〝懐き方〟を許していたのだろう。
デビューの候補作だったから「出世灘」はやや若向きの詞だが、西方はその辺にこだわらずに、さらりとおとなの漁師唄に仕立てた。情緒的なのはカップリングの「有明の宿」の方。
〽どうせ二人は有明の、海に映した月と影...
と、許されぬ男女の道行きソングが、今の西方に似合いだったりする。
「有近さんも喜んでくれましたよ」
と言いながらもう一つ
「うえだもみじさんも喜んでくれましてねえ」
と、古川の声が明るいのは、永井裕子の20周年記念盤「そして...女」のカップリングに、彼女のデビュー曲「愛のさくら記念日」を新録音で加えたこと。実は永井をデビューから10年間、古川と組んで僕がプロデュースした縁があった。いい声味と力を持つ娘だから、デビュー曲はごあいさつがわりに明るく、キャンディーズの演歌版を狙った。面白がっていい詞を書いたのがうえだもみじで、大分前から僕と同じ葉山に住み、作詞はお休み、書道の先生をやっている。彼女にしてみれば、20年も前に手放した子が帰って来た心地かもしれない。
記念曲の「そして...女」は池田充男の詞。
〽この世が果てない海ならば、わたしは沖ゆくうたの舟...
と、女の生き方と歌い手の思いを重ね合わせて、星野同様にきれいだ。作曲は師匠四方章人で、僕らと組んだ10年間はずっと彼が曲を書いた。最近は荒木とよひさ・浜圭介がいい歌を連作しているが、記念曲となればやはり四方の出番で、彼ならではのいいメロディーに力が入った気配。
《知遇を得て星野は師匠、デビュー20周年の永井は孫みたいなものだ...》
浅からぬ縁につながる詩人と歌手の仕事の両方に、これまた親交の長い古川プロデューサーがかかわっている。厄介なウイルスによる〝コロナ・ブルー〟の日々も、ほっこりした気分になる。星野の長男有近や仏の四方ちゃんとは、ここ3カ月は会っていないが、そのブランクも消えてしまうよう。
永井裕子の20周年記念コンサートは、10月に延期して郷里の佐賀で凱旋イベントになる。西方裕之と岩本公水がゲストとやらで、
「四方先生も行くし、一緒にどうです?」
と古川に誘われて、僕はすっかりその気になっている。

「やっぱり中止か。俺はそのイベントを、コロナ明け、仕事再開のきっかけにしようと思ってたんだけどな...」
「ええ、状況が状況ですから、慎重が第一だろうということになって...」
作曲家弦哲也のマネジャー赤星尚也とのやりとりである。今年は弦の音楽生活が55周年の節目の年。4月に自作自演の記念アルバム「旅のあとさき」を出し、6月にはライブ・イベントを華々しく...の計画だった。国が5月25日に緊急事態宣言を解除しても、新型コロナウイルスの感染は、第2波、第3波の懸念が尾を引いていての断念だ。
アルバムは弦のセルフプロデュース、セルフカバーの作品集である。発売しっぱなしに出来るはずもないから、弦は自粛生活の中でも結構忙しいらしい。新聞雑誌やテレビ、ラジオなどのインタビュー。よくしたものでリモート取材なる新手法が当たり前になって、窮すれば通じている今日、時間と手間暇は多少かかるにしろ、弦の情熱や熱意はうまく伝わるらしいのだ。
当方は改めて、記念アルバムをゆっくり聴くことにする。「北の旅人」から始まって「五能線」「渡月橋」「長崎の雨」「天城越え」などの11曲に、リード曲「演歌(エレジー)」を最後に加えた。2500曲を超える作品群から、弦が選んだのは旅にまつわる作品。5年前の50周年には自伝「我、未だ旅の途中」を出版しているが、今度はLP「旅のあとさき」である。人の縁、歌の縁を辿って全国を旅する歌書きの、半生そのものもまた旅であれば、その間の感興を見つめ直し歌い直すのが、この節目の年のテーマになったのか。
「大阪セレナーデ」は都はるみが創唱したが、えっ、作詞も彼女だっけと再認識する。石原裕次郎、五木ひろし、川中美幸、石川さゆり、水森かおり、山本譲二らの歌で知られるヒット曲も全部新しいアレンジで、弦の歌唱用に仕立て直されている。全体が薄めのオケで、ギターがメインの趣向が目立つ。弦が歌を弾き語りの雰囲気でまとめているせいだ。
あの「天城越え」でさえ、弦が声を張ることはない。声を抑え、節を誇らず、言ってみれば情緒てんめん。あふれる思いを胸中であたため、声を殺して伝えようとするが、思いのほどが堰を切って溢れ出す聴き応えがある。ほとんどの歌詞が一人称の話し言葉。女や男が旅の途中で、離れ離れの相手に心情を訴える。背景にその土地々々の風景が歌い込まれるから、主人公の絵姿もくっきりとする按配。そんな作品を選んで今年72才の弦は、演歌、歌謡曲への見果てぬ夢を、僕らに手渡そうとするようだ。
結局作曲家弦哲也は、泣き虫や弱虫の味方なのだと合点が行く。つらいことも切ないことも耐えて忍んで、自分たちなりの明日を探す境地。だから彼の作品と歌は、嘆きや哀しみを芯に据えたうえで、温かく優しく、細やかな情で聴く側を包み込んでいくのだろう。
55周年を代表する新曲「演歌(エレジー)」は息子の田村武也が詞を書いた。ギターが錆びついて指が切れても、意地を貫いた日々...と前置きをして、
〽生きたあの日の、演歌が聴こえるか!
という2行を最後に繰り返す。息子は父の音楽的半生をそう見立て、共感するのだろう。「演歌」の2文字は歌の中ではそのまま発音され「エレジー」のただし書きがつくのはタイトルだけだ。
《ほほう...》
作品リストのクレジットを見て、僕はニヤリとする。「大阪セレナーデ」「新宿の月」やアルバム用新曲4曲のうち「夏井川」を武也がアレンジをしている。弦のこのアルバムは、心情あふれるフォーク系シンガーソングライターである息子との、協演の側面を持つのだ。
父親の弦との親交に恵まれる僕は、息子の武也とも親しい間柄である。「たむらかかし」をステージネームにする彼は、路地裏ナキムシ楽団の座長で、僕はその一座の役者である。ライブハウスからスタートしたこの楽団の公演は、青春ドラマチックフォークの生演奏と役者たちの芝居がコラボする新機軸。もともと〝ナキムシ〟を名乗るくらいに、人情の機微を描いて客を泣かせながら支持層を広げ、最近は中目黒のキンケロシアターを満員にしている。
作、演出から音響も照明も...と、多岐多彩な座長の才能に敬服して、弦とはまた一味違うつき合い方をする。父は父、子は子、それぞれ繊細な感性と独自の活動を目指す2人の芸能者相手に、僕なりの忖度を加えたココロのソーシャルディスタンスだ。弦ママも赤星もと弦一族との日々はなかなかに楽しい。

殻を打ち破れ221回
「謹告 開封後はすみやかに封筒を捨てて、ていねいに手洗いをお願いします」
と、いきなりの赤文字、それに続いて
「封筒は皆さんに届くまでに、いろいろな人が触れていますので、念のためです」
と説明文が黒文字である。新型コロナウイルス禍が世界中に蔓延、日本も危機感つのらせている最中の郵便物。差出し人は青森市の工藤隆さんで旧知の人の心遣い。内容は三橋美智也の後援会報で、工藤さんは「みちや会」本部のボスだ。昭和の大歌手・三橋の偉業を顕彰、各地にある支部を束ねて、精力的な活動が驚くほど長い。
今回で100号を数えるレポートは、A4版17ページの表裏に、後援会活動のあれこれが、写真入りでギッシリの労作。ページの多くを割いているのが、2月15日、上野で開かれた本部新年会の模様だ。この時期すでにウイルスの感染者が各地に出ており、苦渋の決断で決行したと言う。後援会活動は三橋ソングを継承、後々に伝えることを目的としていて、新年会もカラオケが中心。積年のノドと技を聞かせる熟年紳士淑女諸氏の写真が目白押しだ。
≪俺も参加したいくらいの雰囲気だ...≫
何となく、うらやましい気分になる。写真の中に作詞家たなかゆきおや作曲家榊薫人、元キングの制作部長満留紀弘さんらの顔を見つけるせい。ことに榊は僕が世田谷の経堂に住んでいたころ、近所づき合いになって、せっせと通って来た。新宿の阿部徳二郎一門で流しをやり、クラブの弾き語りも体験した東北人でやたらに粘り強い。芯からの三橋マニアだったから、
「もし三橋さんが元気だとしたら、彼に歌わせたい曲を50でも100でも書いてみようよ」
とそそのかして、花京院しのぶの"望郷シリーズ"をスタートさせた。そのうちの一曲『お父う』など、カラオケのスタンダードになっている。
三橋が亡くなったのは平成8年だから、もう24年になる。そんなに年月が過ぎたのか...と、月並みだが感傷的になる。歌謡少年だった僕は、彼のごく初期の作品『酒の苦さよ』や『角帽浪人』からのファン。高野公男・船村徹コンビの『ご機嫌さんよ達者かね』や『あの娘が泣いてる波止場』は、そのあとのヒット曲だ。スポニチのアルバイトのボーヤのころは、千葉・松戸の流しの友人を頼って遊びに行き酒場で歌ったことがある。エア・ギターで『哀愁列車』専門だった。
三橋との親交に恵まれたのはスポニチの音楽担当記者になってから。それも彼が絶不調のまま紅白歌合戦で『星屑の町』を歌ったあとに、酒席で「引退を考えたりしないのか?」と質問して大ゲンカになった。駆け出し記者の無遠慮を恥じる一幕だが、麻布―銀座―向島と飲んで、双方相当に酔ってもいた。「表へ出ろ!」といきりたつ三橋の前から、そっと逃がしてくれたマネージャーの池ちゃんも、もう亡くなってずいぶんになる。
一件のあと、出演中の国際劇場の楽屋で仲直りしたが、その後はお互い心許した関係。三橋が熱海にホテルを作れば「彼女と一緒においで。最高の部屋を用意する」宝石商をやれば「ダイヤはいらないか、安くするよ」の申し出がある。双方とも丁重に断った。熱海で遊べる身分ではなかったし、半値にしてもダイヤはダイヤ。スポーツ紙記者が手の届く品ではない。
そう言えば...と思い出す。志村けんがコロナ禍で亡くなり、また脚光を浴びた『東村山音頭』は、三橋と下谷二三子のデュエット盤が元祖だった。
それやこれやを思い返す僕は、コロナ禍のために自宅に巣ごもり中。年寄りほど重篤化、持病があればなお...と言われればやむを得ない。記者から雑文屋の60年近く、飛び歩くのが商いだった僕の気分は「コロナ・ブルー」である。
BSテレビで平成の流行歌がよく流れる。新型コロナウイルスの影響が激甚で、番組制作が出来ぬための再放送。当方は巣ごもりのながら視聴で、時に胸を衝かれる。川中美幸の「二輪草」成世昌平の「はぐれコキリコ」水森かおりの「東尋坊」以降ご当地シリーズの全曲、神野美伽の「浮雲ふたり」をはじめ、亡くなった編曲家前田俊明の作品がやたらに多い。彼が平成のこの世界の代表であることを再確認してズンと重いのだ。
訃報は子息前田安章さんのFAXが、友人から転送されて知る。亡くなったのは4月17日午後4時44分で、23日に通夜、24日に葬儀を桐ヶ谷斎場で営む。家族葬につき弔問、供花などは一切謝絶とあった。脳腫瘍を手術、全快して現場復帰後しばらくして再発、また仕事を離れた長い闘病があった。享年70、早すぎる死を家族だけで静かに...の思いがあろうし、コロナ感染の〝3密〟を避けたいおもんばかりもあったろう。意を汲んで僕は後々に無念の弔意を伝えることにした。
つき合いの始めは取材。前田の出世作は昭和56年、山川豊がレコード大賞の新人賞を受賞した「函館本線」で、僕はこれに肩入れをしたスポニチの音楽担当記者。もっともこの時期、親しくなったのは前田ではなく、当時の東芝EMIの宣伝マン市川雅一氏で、双方カラオケのレパートリーにした。
当時の編曲界は斉藤恒夫、池多孝春、川口真、丸山雅仁、桜庭伸幸らが独特の音楽性を競っていた。そこへ参入した前田は、鈴木淳、弦哲也、岡千秋、四方章人らの作曲家勢や各メーカーのディレクターたちと親交を深め、独自の世界を切り開く。曲により飾る色あいはさまざまだが、
「シンプルで華やかさがあり、歌いやすく、明解なもの」
を本人が狙って華麗さが独自でひっぱりだこ。平成4年には藤あや子の「こころ酒」10年には川中美幸の「二輪草」でレコード大賞の編曲賞を受賞。17年と21年にはオリコン・トータルセールスの編曲家部門で1位を占めるブレークぶりだ。
「これも俊ちゃんか! おめでとう!」
「おかげさまで...」
例えば平成10年のレコード大賞。グランプリ候補の優秀作品賞10曲のうち8曲はJポップ系、残る2曲が川中の「二輪草」と田川寿美の「哀愁港」で、双方前田編曲だった。その表彰式、トロフィーを手渡す制定委員の僕と受け取る前田に、
「私語が多過ぎないか?」
と笑ったのが制定委員長の船村徹だった。
そのころはもう、弦、四方に編曲の若草恵、南郷達也、石倉重信らとともに、ゴルフとうまいもの探索の〝仲町会〟に、前田も名を連ねる飲み友だち。四方の作曲で僕がプロデュース、古川健仁がディレクターの永井裕子は、10年間ほぼ全曲、前田にアレンジを託してもいた。
「俊ちゃん!」「統領!」
と呼び合って、ゴルフ場からの帰路、前田の車に便乗したことなど数え切れない。
台東区入谷の生まれ。3軒隣りが教会で、讃美歌を聞きながら育つ。小学校5年の時にお年玉でギターを買った。マンドリンを弾き編曲もしたのが中学時代、作・編曲で身を立てる気になったのが17才で、明大マンドリン倶楽部に入り古賀政男の教えを受ける。ざっとそんな音楽的生い立ちの前田は宝飾屋(かざりや)の男3人兄弟の三男坊。江戸っ子だが温和でシャイな人柄で、律儀で実直な仕事ぶりはもしかすると、父から受け継いだ〝職人の血〟が生きていたろうか?
病気が再発した昨年、
「当分仕事を離れて、リフレッシュした方がいい。ま、我慢も仕事のうちさ」
と伝えたら、
「しばし、外野から観戦させてもらうことにします」
という返事が来た。毎年夏ごろに届いた、愛妻との海外旅行のラブラブ写真つきポストカードはそこで途絶えた。
「退屈してないか? 遊びで曲でも書いてみちゃどうだろう...」
僕がジョークの見舞いで渡した歌詞1編に、嬉しそうに曲を3ポーズも書いた。大阪の作詞研究グループ詞屋(うたや)の杉本浩平が作詞した「古き町にて」という作品。著名な演出家や大学の教授、小説家、エッセイストなど顔ぶれが面白いから僕も長くかかわって来たが、その私家版アルバム第2集「大阪亜熱帯」の最後に前田作品を据えた。知り合いの歌手は山ほど居るが、皆契約先があって手伝って貰えず、結局歌ったのは僕。雑文屋、舞台の役者の2足のワラジの3足めだ。
「統領、歌手としてもなかなかです」
昨年秋ごろ届けたアルバムに、本人から来た電話のお世辞が、最後のやりとりになった。

殻を打ち破れ220回
大切な客が鉢合わせをしたら、どうする?
一人は大阪から来た映画監督の大森青児。もう一人は冬の間、沖縄で暮らしている作詞家のもず唱平だ。さて――。
2月、僕が明治座の川中美幸公演に出演中の話。早々と先に約束したのは大森監督で
「18日は昼の1回公演だけど、それを観た後、会えますか?」
の電話にOK!何かうまいものでも...と返事をした。川中公演で2作ほど出して貰った演出家で、ことに「天空の夢」(明治座、大阪新歌舞伎座など)では、川中相手に大芝居という望外の役に抜擢されている。川中はこの作品で芸術祭の大賞を受賞、陰で僕は「それなら俺はさしずめ助演男優賞だ」などとうそぶいたものだ。大森監督はNHK出身で大河ほか数多くのドラマを手がけ、一昨年、映画第1作の「家族の日」を撮り、僕もちょこっと出演させて貰った。
そんな行きがかりがあるところへ、もず唱平から葉書が来る。
「18日に観劇、そのあと是非懇談など...」
とある。こちらは昭和48年にブレークした『花街の母』以来だから、もう47年の並みではない親交があり、言下にOKを出さざるを得ない。それならば、どうしたか?
「ええい、面倒!」
とばかり、ごちゃまぜの食事会にした。昼の部終演後だから、午後4時には行きつけの月島のもんじゃ屋「むかい」に店を開けて貰って、どういう歓談になるかは出たとこ勝負である。無茶は承知、無茶!?が通れば道理はひっ込むだろう。
その夜、大森監督から手渡されたのは、映画の次回作「もういちど、恋(仮)」のシナリオである。長年のコンビ古田求の脚本で、もう制作実行委員会まで立ち上げている。この人の凄いところは、独特の人脈を辿って、制作費全額をかき集めてしまう有言実行ぶり。前作「家族の日」は故郷岡山をベースに撮影、上映はコンサートに似た自主公開が軸で、北京映画祭にまで呼ばれた。今回はどうやら姫路が舞台になるらしく、もちろん僕の出番もある。
もずが持ち込んで来たのは、久々に新人に肩入れをした作品と、その歌い手。3月にデビューする小川みすずに『何でやねん』と、関西弁の女心ソングだ。小川には伊藤マネージャーが同行していて、この人は以前、僕が山口のりという歌手のプロデュースをした時からの長いつき合い。気がねのない間柄だから、小川のデビューまでのいわく因縁までがあけすけに語られる。その間もずはニコニコと寡黙だがよくしたもので、大森監督は歌謡界の裏話に興味を示して好反応――。
そして3月になる。例のウイルスのせいで"巣ごもり"をしている僕は、しみじみと小川を聞いた。もずの詞が
♪恋が愛には育たずに
死んでしもたんか...
とか
♪美学と云う気か
何でやねん...
なんてこれまでの彼の仕事では見かけなかった言葉使いが新鮮だ。それに浜圭介がゆったりめのブルースの曲をつけている。
≪二人ろも"ほほう"の仕上げ方や...≫
と、僕はいい気分。伊戸のりおの編曲もなかなかで、淡谷のり子や二葉あき子、平野愛子なんて、昔々の歌手のヒット曲を連想するのどかさが懐かしい。
大森監督のシナリオは、ごく限られた関係者用の準備稿だから、ここで内容を書く訳にはいくまい。まだ配役も決まっていないままのものを、僕の役は恐らく...と当て推量しながら読んで、3度ほど胸を衝かれて涙ぐんだ。
しかし、関西人の会話は実に楽しいものだった。大森監督は雄弁の人だし、伊藤マネージャーはそれに輪をかけて多弁にして駄弁。話題もここかと思えばまたあちらで、ユーモラスで賑やか。根にある諧謔精神と軽やかさに、茨城育ちの僕など気おくれして、相づちを打つ間もなかった。
殻を打ち破れ219回
やたらに威勢のいいイントロで、第2幕の緞帳が上がる。中央に大衆演劇の松井誠、バックの男女は彼の劇団員に扮して、一斉に舞い扇の波を作る。ガツンと歌に入ると、
♪泣いてこの世を生きるより
笑って生きろと励ました...
晴れ晴れと、リズムに乗る歌声の主は作曲家弦哲也で、どうやら彼の作品『男の夜明け』と見当がつく。えっ?
それにしても何で? そう思うのは、舞台が明治座、川中美幸の特別公演のせいだ。弦と彼女は常々「戦友」と表現するくらいの親交を持つ。声はすれども姿は見えずで、弦は歌だけ録音の友情出演になった訳か。
≪それにしても、縁が濃いめだ≫
僕が明治座そばの常宿ホテルに入ったのは2月1日の夜。翌日からの劇場でのけいこに備えてのことだが、テレビをつけたら突然弦が出て来た。石原裕次郎のために書いた1曲についての思い出話。その横でうんうん...と、したり顔なのは僕ではないか!
カメラが引いて出演者のみんなが写る。徳久広司、杉本眞人、岡千秋と並んで、僕の右隣は松本明子。何のことはない、BSフジの「名歌復活」の再放送。4人の作曲家を「杉岡弦徳」の名のユニットにして、新曲を!
なんて今ごろ盛り上がっている。
その新曲は『恋猫~猫とあたいとあの人と~』で、史上初の歌謡組曲。昨年末には番組内で披露、CDもテイチクから発売されている。何しろ弦が作曲家協会、作詞した喜多條忠が作詩家協会のそれぞれ会長で、他の面々も要職につくヒットメーカー。
「そんなのアリですか?」
と、当初相当にビビった松本も、そこはベテラン、芸熱心。ひどく個性的な4人のメロディーを読み切り身につけて、なかなかの仕上がりにした。
ところで明治座の2月公演だが「フジヤマ"夢の湯"物語」と題した、下町の人情コメディー。川中が銭湯の女主になっているが、借金を作った父親は行方不明。内風呂が当たり前の昨今では、客足も減って経営不振。やむなく「よろず代行業」を兼業するのだが、何しろ"よろず"が曲者で、笑いのネタには事を欠かない。
そこへまた、滅法ノリのいい写真屋のおやじが現われて、川中の幼な友達役の井上順である。笑わせたい!
楽しませたい! のサービス精神が、けいこ場から全開、セリフと動きの両方にギャグをちりばめて、演出の池田政之を笑わせる。この演出家もやるなら徹底的にと、率先垂範するタイプで、芝居はどんどん長くなるが、本番ではいいとこ取りをしてバッサリ削ることになりそう。
よろず代行のひとつとして、川中は勉強中の落語まで演じる。演目は「時そば」ならぬ「時うどん」で、関西風味に仕立て直したから、麺の種類が変わった。日々の苦心は本題に入る前に並べる"マクラ"で、熱心なファンは何回も観るから、それなりの趣向を凝らす必要に迫られそうだ。
「笑売歌手」の異名をあげたいくらい、川中の笑いづくりは定評があるが、大泣きする場面があるのも毎度おなじみ。今回は15年前に失踪した父親の、苦衷の実情を知って父恋しさが再然、泣き崩れる。彼女にそのタネ明かしをするのが、ふつつかながら弁護士役の僕という段取りだ。
ザ・スパイダースの人気者だった井上とは取材記者時代からの知り合いだが、共演は初めて。もう一人の麻丘めぐみも"左きき"当時からの知り合い。
「70才からこの道に入れてもらってさ」
「そうですってね。お元気で何よりです」
と、ご両人にはいじられられ加減の日々。2月4日初日、25日までのお楽しみである。
「家を出たところで、コンサートも何もやってない。人には会うなというから、散歩してるよ。家からちょっと行くと海があってな...」
しばらく会っていない松枝忠信氏に電話をしたら、相変わらず元気な声だった。もう昔話だが、彼が大阪、僕が東京のスポーツニッポン新聞社で同じ釜のめし。音楽担当記者として、絶妙のコンビぶりを発揮した。両方とも歌社会を跳梁跋扈(少し言い過ぎかな?)するネタ集めで、それを突き合わせて記事にするのが楽しくてたまらなかったものだ。
共通点は「3密」である。今やそれは世界的にご法度だが「密閉」「密集」「密接」がネタの漁場でこちらは漁師。大きなパーティーなど、「密集」する人数分だけネタがあると踏んで、水割り片手に会場を右往左往した。料理に手を出すなど時間の無駄で愚の骨頂。会場に入る前にざる蕎麦をやるのが心得だった。ネタの当たりが来れば以後その人に「密接」し、パーティーのあと個人的に「密閉」の時間を貰ったりする。何しろ手に職がないから「人頼り」の仕事で、コツは「人たらし」だったろうか。
コロナ禍で、人との接触を8割減らせ! の大号令がかかっている。ウイルスを拡大させないためには、巣ごもりするのが最大の闘い方と理解はしている。だから80代の老スポニチOBは珍しく従順だ。松枝はあの大震災を体験しているから、事の重大さは僕よりも深く実感しているかも知れない。しかし、現役の記者たちはこの事態をどうしのいでいるのだろう? 取材活動が不要不急のもののはずなどないとしても...。
《「3密」なあ。俺の場合はもう一つ足して「4密」だったな...》
と思い返す。取材相手に対するとめどない「密着」である。もっともこればかりは、それを許してくれる人に限られるからそう大勢ではない。取材をし原稿を書き、先方の才能や実績、人柄などに感じ入れば、即密着する。事あるごとにその人の側に居ると、会話が生まれネタが増え、それを原稿にする繰り返しの中で、ありがたいことに信頼関係が育つ。そのうち先方から声がかかるようになればめっけもの。こちらは滅私対応になる。
そういう型で知遇を得た人に作曲家では吉田正、船村徹、三木たかし、作詞家では星野哲郎、阿久悠、吉岡治、もず唱平らが居り、歌手では美空ひばり、川中美幸...と続く。縁は弾んで川中は、僕を役者として彼女の一座にまで加えてくれている。相手に密着を許されたら、こちらは長期戦を覚悟する。ネタ集めを急ぐよりは、その人の過去、現在、未来に寄り添い、すべてを吸収しにかかるのだ。いずれにしろ相手は大物である。分をわきまえ、程を心得て接すれば、汲めども尽きぬ宝物に恵まれること必定となる。
取材も芸事も同じで、万事「教わるより盗め」である。常時身辺にいることを認め、盗み放題を許してくれた船村、星野はやがて僕の「師」になった。もっとも歌づくりと取材とでは畑が違うから、先方にその気はない。ところがこちらは自分の生き方考え方にまで影響を受けているのだから、ご両所をあちこちで「師」と言いまくる。長いことそれを続けた結果、船村は
「いつからそうなったんだい?」
と笑いながら聞いたし、星野は、
「それよりもな、ゴルフだけは君の師匠になりたかったんだぞ」
と言い切った。双方ともに見事に免許皆伝ということではないか?
70才で役者になってこの方、この道での師匠は東宝現代劇75人の会の重鎮横澤祐一である。川中一座の芝居で初めて会い、その後一、二度一緒になり、75人の会公演に誘って貰い、僕がその会員になる道筋をつけてくれた。彼が作・演出をする公演にレギュラー出演してもう10年余。けいこ場や舞台で見よう見真似、ずいぶん多くを盗み学んだ。
「踵で芝居をしないとねえ」
酔余ぼそりと、そんなことを言う。芝居をかかとでですか? 要領を得ないまま僕は、横澤の呪文を抱え続けることになる。その後ずっと、出を待つ舞台そでで、僕はその一言を思い返すことが習慣になっているのだ。
僕の他流試合もよく見てくれる。出来がいいと我がことのように喜ぶが、
「楽な芝居をしていて、どうする!」
と、烈火の如く怒って深酒になる夜もある。どこかに「受け」を狙った邪心が見えすいたのか? 真面目に真一文字に、信じたままに行えば、客は反応するもので、余分な技は要らない。
ああ、そういうことなんだ! と近ごろ僕は思い当たる。この国の首相が作ったアベノマスク騒ぎや星野源とネットでの共演というコメディー(!)の質についてだ。あれは自作自演なのか、相当に優秀な演出家が居ての技なのか?

「続いてます? ずっと」
「うん、もう3カ月になる、そっちは?」
「まだ1カ月、めしの後なんかが辛い...」
作詞家喜多條忠とのそんなやり取りは、禁煙についてだ。僕が始めたのは今年の元旦。その後一緒に飲んだ時に喜多條は、
「何でまた?」
などと冷やかし顔だった。それが3月に入って突然「応援禁煙」をFAXで宣言して来た。この際俺も...の便乗型なのに、同じ苦労をして、僕を支援する気らしい。ま、きっかけは何にしろ、やめるならやめるに越したことはない。
4月1日、僕らは東京・関口台のキングレコード・スタジオにいた。作曲家の杉本眞人、アレンジャーの矢野立美が一緒で、このトリオで作った「帰れない夜のバラード」の録音。歌う秋元順子は早めに入って、スタッフに〝おやつ〟を配るなど、こまめに働いている。
「それにしても、こうなるとレコーディングも命懸けだねえ」
集まったミュージシャンも、それがジョークになどならない真顔だ。
3月29日、コメディアンの志村けんが亡くなっている。新型コロナウイルスが世界中に蔓延している最中である。スポニチ一面の大見出しは、
「志村けんさん、力尽く」
だった。体調不調で自宅静養に入ったのが3月17日、重度の肺炎で入院したのが20日、3日後にコロナウイルス陽性が判明、24日に人工心臓装置を装着したものの5日後に亡くなる。その恐るべき進行の早さへの驚きや、稀有の才能を失った無念がにじんだ見出しだったろうか。
彼の死が〝眼に見えない敵〟の脅威を実感的にした。世界を震撼させるコロナ禍の実態をメディアが詳報し、国内の感染者数や死亡例が連日うなぎのぼりでも、どこか対岸の火事、他人事めいていた空気が一気に変わった。有名人の大病は、金の力で何とかなるものだ...とひがむ庶民の暗黙裡のうなずき方も、吹き飛んだ。「不要不急」という4文字熟語の意味が、より深く理解されはじめる。
「力尽く」は3月31日付、翌4月1日付スポニチ一面の大見出しは
「志村さんロス~寂しすぎるよ」
だった。志村が生み出した笑いの数々を思い返す。徹底したムチャクチャどたばたが幼児を含めて全世代を喜ばせた。PTAが「低俗! 下品!」といきりたってもどこ吹く風でコントを量産、彼はテレビが生んだ実に今日的なコメディアンだった。それが、最期を誰にもみとられず、骨も拾われぬまま、カメラの放列に囲まれたのは、実兄知之氏に抱かれた骨壺という異様さ...。
秋元順子の新曲に話を戻す。プロデューサーの僕が喜多條に「考えてちょうだい」と話したのは昨年の暮れ。年が変わった1月、新年会気分の宴会の合い間に雑談ふうな詰め。タイトルはその夜に決まった。禁煙話が出たのもその席。「今さら手遅れだろう」や「えらいこっちゃ」の冷淡な反応があり、試作の歌詞のFAXのやりとりの中で、喜多條が応援宣言をする。杉本が曲づくり、編曲を矢野が頑張った日々がはさまって、歌づくりは2人の男の禁煙騒ぎと並行していたことになる。その間に僕は2月のほぼ一カ月、明治座の川中美幸公演に参加していた。芝居と禁煙が両立できたのか...が冒頭の喜多條発言の真意だったか。
「またひとつ、新しい秋元順子の世界をふやしていただけまして...」
と、やたらに味のあるいい声で歌った秋元順子が言う。カップリング曲など「横浜(はま)のもへじ」で、「へのへのもへじ」の仇名を持つ謎めいた男のおはなし。
「これは秋元さんも歌いたがらないネタだと思ったよ」
と、作曲の杉本まで笑う怪作!? である。
スタジオの内外、マスク姿ばかり目につく光景の中で作業は進む。オケ録りが終わったあたりへ、飛び込んで来たのはコーラス担当の女性2人。
「黒人っぽいフィーリングでさ...」
「OK!」
なんてやり取りのあと、男性コーラスも加わって歌いはじめたから、スタジオ内に眼をこらすと、これが何と杉本と矢野が歌っている。他でもやったことがあるらしく手慣れた呼吸の合わせ方で、秋元の歌のお伴が出来上がる。こういう仕事は、みんなが楽しんでいる雰囲気の中で、その実、芯はまともに競い合うあたりが醍醐味なのだ。
ところで6月に世に出す予定の秋元の歌づくり。この大変な時期に、これが「不要不急」のものか! と問われれば言葉もないが、仕事終わり恒例の一杯はちゃんと自粛した。社会人としての自覚はきちんとあるうえに、コロナが本当に怖いのだが、新曲は歌手の命だろうし、ねえ。

「どんなジャンルを歌いたいの?」
とよく聞かれて、それが悩みのタネだったと言う。テイチクから「私の花」(紙中礼子作詞、花岡優平作曲)でデビューする「ゆあさみちる」という歌手のことだ。
《へえ、そんな枠決めの仕方をそっち側がするんだ、このごろは...》
と、僕はニヤニヤする。
昔々、スポーツニッポン新聞の音楽担当だったころ、僕は歌い手たちによくなじられた。
「俺たちの音楽を、勝手にジャンル分けして、レッテルを貼らないでくれ!」
と言うのが彼らの言い分で、決めつけられるのを嫌った。グループサウンズ、フォーク、ロック、ニューミュージック、Jポップ...と、ポップス系のレッテルは大まかに、そんな流れで、それぞれにまた細分化するレッテルが生まれた。
「短い原稿だからさ、頭に○○○歌手の...とつけなけりゃ、読み手のイメージを絞れない」
と僕は言い訳をし、
「だけどレコード店だって、配列のコーナーでジャンル分けしてるぜ。あれも買い手の便宜をはかってるんじゃないの?」
と、言い返したりした。
歌にしろ音楽にしろ、作る側はより自由な方がいい。それは当たり前のことだ。それなのにゆあさは、作る側の人々からジャンルを問われた。経歴書によれば、4才からピアノ、小学生でトランペット、中学でイタリア歌曲、日本のポップスも。高校でNHKのど自慢、作詞作曲を始める、高卒で上京、CMソングを歌ったり、GLAYのアルバムにコーラスで参加...とある。その間、夢はいろんな形にふくらんだろう。交友関係もそれなりに広がって、影響も受けたろう。そんな時期やりたいものを本人が絞るのはむずかしい。絞れば逆に自分をせばめる不安も生じたろう。
あれこれ思い悩んだ末に、彼女が選んだのが作曲家花岡優平だった。秋元順子を「愛のままで」でブレークさせたシンガー・ソングライター。ゆあさは彼に曲を書いて貰おうとする。新潟・新発田から東京に出て、音楽界の裾野を歩いて何年か、彼女は自分の思いのたけを伝え、花岡の音楽に身を委ねようとした。そうすることで彼女は、自分の世界を絞り込むトライを試みる。
メジャーデビュー曲「私の花」は、ゆあさみちるの柔らかなメッセージソングになった。
〽咲かせるの、私の花は、信じる力で咲かせるの...
というフレーズの繰り返しの中で〝信じる力〟は〝魂(こころ)の力〟や〝愛する力〟に入れ替わる。誰のために、何のために咲かせるのかの問いの答えは「きっと自分のために」と出て来る。
実はこの娘の歌を、僕は昨年、六本木のライブハウスで聴いている。親交のある花岡に誘われてのことだが、その夜僕は彼女の居ずまいと歌が、すっきり率直なことに好感を持った。ライブ慣れした慣れ慣れしさがない。ファンとのやり取りにそれが微妙に表れて、親しげだが媚びがないのだ。花岡作品と彼女のオリジナルらしい作品も、何だか粋にこざっぱりした歌唱に似合った。ライブのあと、近所で一ぱいやって、そんな感想を伝えたのだが、花岡は急いでライブハウスへ戻った。バンドにギャラを支払うためと聞いて、僕はそんな形の師弟関係もあるのかと面白がった。
ゆあさのデビュー盤カップリング曲は、彼女が作詞作曲した「花の名前」である。この春公開予定の映画「セイキマツブルー」(監督ハシテツヤ)のエンディングテーマに使われているという。吐き出せぬ思い、忘れてはならぬ思いを、心に咲く花として育てて行こうというのが歌詞の大意。若いシンガーソングライターらしい一途さが、詞、曲、歌に表れて、やはり長めだ。
《そうかい、妙に花にこだわりながら、この娘は自分の歌を自分のジャンルにすると思い定めたのかい...》
僕はこの新人歌手の、こだわり方をほほえましいものに受け止める。誰だってみんなそうなのだ。音楽や歌だけにとどまらず、文学も絵も書も芸能芸術にかかわる人はみんな、自分だけのジャンル、つまりは独自性、オリジナリティを追求するものだろう。自由に気ままに(ということはそれに見合う苦悩や試行錯誤とともに)物を作る幸せって奴を体験できることを、喜ばねばなるまい。これを書いている3月11日は、9年前に原発事故と東日本大震災が起こった日で、復旧復興はまだ道遠い。新型コロナウイルスの発症が生活や経済に激しく影響、世界中が不安と混乱を充満させて、翌々日にはとうとう「パンデミック」と呼ばれる事態にまで発展している。

「やあ、やあ...」
と、久しぶりのあいさつの響きには、気取りも嘘もなかった。しかし、握手に差し出した手に、一瞬の迷いがある。例の新型コロナウイルス感染を、相手はどう考えているか? ところが、
「僕、手がつめたいんですよ」
と人なつっこい笑顔で、夏木ゆたかはこちらの手を握った。2月27日午後、ラジオ日本のスタジオ。彼の番組に作曲家ユニット杉岡弦徳、松本明子と連れ立って、出演するひとコマ。この番組自体が、前日までは東京タワーのスタジオで、一般ファン相手に公開放送する予定だった。それが急遽、スタジオに変更される。安倍首相が大規模イベントなどの自粛を要請、大騒ぎになった余波の一つだ。まさに号令一下、スポーツも音楽も、一斉にイベントが消えた。引き続き、小中高校も休校せよの指示である。突然の決定に驚きはするが、そのこと自体に異論ははさみにくい。ウイルスの勢いは中国に端を発し日本、韓国へ侵攻、世界各国各地域に広がっている。それもどういう経路でどう伝播するのかがはっきりせず、発症数ばかりが取り上げられ、処置なしと聞けば増殖するのは不安ばかりだ。
「ま、さほどの事ではあるまい」
という根拠のない楽観は影をひそめ、
「なりふり構わず、やる事はやろう!」
などという蛮勇は出番を失う。ことがことだから、誰がどう責任を取るのか、国や政治への不信が募る。国中があきれ返る責任回避状態だ。
2月25日、僕は明治座の川中美幸特別公演の千秋楽を迎えた。観客が大いに笑い「こういう時期にぴったり」の好評を得た一カ月だが、主催者の配慮から貸し切り公演2回分が中止になっている。大勢のファンを招待して、もしもの事があっては...の気遣いがあってのことだろう。長期公演のあとはしばらく、大てい腑抜けになる僕は、27日ラジオ日本のあと、28日から淡路島へ出かけ「阿久悠杯音楽祭」に参加するはずだったが7月に延期、そのほか二、三の行事が中止になってヤレヤレだ。骨休めのつもりだった3月のハワイ旅行も取りやめにした。わざわざ出かけて、東洋人だからと胡散臭い視線にさらされるのもたまらないし、第一、あっちもコロナ騒ぎの最中、熱でも出そうものなら病院にカン詰めにされかねない。
何しろ発症しやすいのは70代80代の老人で、疲れ果てていたり、持病があったり...と言われれば、要素どんぴしゃりと僕は適合する。だから人混みに出るなどもってのほか、家でじっとしているのが一番と言われても困る。そういう種族ってついこの間までは「粗大ゴミ」と呼ばれていたよな...と、お仲間のTORYO Officeの臼井芳美女史に言ったら、
「巣籠りって言うらしいですよ、近ごろは、はははは...」
とリアクションは軽かった。ゴミが鳥や虫に変わったと言うことか!
ところで冒頭の夏木ゆたかの件だが、昔々、彼がクラウンから歌手デビューをした時、僕はスポニチに記事を書いたそうな。そんな話をしながら、毎年5月、全日本アマチュア歌謡祭という一大カラオケ大会に、彼は司会、僕は審査委員長で顔を合わせている。
25日にラジオ日本へ出かけたのは、杉本眞人、岡千秋、弦哲也とこの日欠席の徳久広司の苗字を一字ずつ取った杉岡弦徳作品の売り込み。四人のユニットが作曲、詞を喜多條忠、歌を松本明子が担当した歌謡組曲「恋猫~猫とあたいとあの人と」が、何しろ10分近い長さなのを「そのまんま流しましょう」と、奇特なことを言ってくれたのが夏木とこの番組制作者たちなのだ。僕はその作品で、おでん屋のおやじとして松本とやりとり、歌をつないで行く役割も果たす。
「ねえさん、屋台の酒だぜ、そんなに飲んじゃいけないよ」
なんてセリフで、歌が始まる段取りを、この日は生放送だ。作家3人を前にした生歌で、松本も相当に緊張気味だったが、なかなかの味。番組のおまけみたいに松本と岡が「浪花恋しぐれ」杉本が「吾亦紅」弦が「天城越え」を弾き語りで歌って、聞く僕らは昼間からいい気分になった。
「そう言や、2曲あがったかい?」
と、杉本に作曲依頼した秋元順子用の催促をすると、
「ああ、こんな感じでさ」
と、その場で杉本が歌って聞かせる。これがかなりいい感じのバラードで、一日も早く、秋元に歌わせたくなる。役者をやった後は雑文屋とプロデューサー業で、コロナ騒ぎとは言え、幸いなことに巣籠りしている暇などない。

殻を打ち破れ218回
峠は深い。荒れる雪風吹、宿の灯りなど見えるはずもない。そんな光景の中を、一組の男女が辿る。相合傘である。厳しい冬景色の「動」と、行き暮れる女が見せる一瞬の「静」が、いい芝居のクライマックス・シーンを見せるようだ。
作詞家池田充男は、伍代夏子のためにそんな絵姿を用意した。『雪中相合傘』だが、弦哲也の曲、南郷達也の編曲。情緒的な曲と音に包まれて、伍代の歌はひたひたと主人公の思いを語る。不しあわせから出発する道行きソング。男の情にほろほろ泣きながら
♪生きてみせます
死ぬ気になって...
と、女は決意のほどを訴えたりする。
「池田先生から、すごくいい詞を頂きました」
友人のプロデューサー角谷哲朗が、声をひそめたのは、昨年11月19日の夜。月島の行きつけの店"むかい"でやった、仲町会の早めの忘年会の席だ。僕らはその日鎌ヶ谷CCでゴルフをやっての反省会!? で、メンバーの弦哲也や四方章人、南郷達也も居て賑やかなのに、どうしても報告は小声になる。
「そうか、じゃあとでウチにFAXしといてくれ」
僕の返事もそっけない。仲町会は元ビクターの朝倉隆を永久幹事に、元テイチクの千賀泰洋、松下章一、同社現役の佐藤尚、キングの古川健仁、三井エージェンシーの三井健生らに、編曲の前田俊明、若草恵、石倉重信らも加えて歌謡界なかなかのやり手揃い。もう30年以上、ゴルフや酒盛りを繰り返しているが、唯一ご法度なのは「新作」の売り込み。歌づくりの談論風発の楽しみに宣伝要素を持ち込むことは、仲間うちで自制しているのだ。
それからしばらく、暮れに角谷から池田の歌詞と伍代のCDが届く。師走のバタバタの中で、
≪ソツのない奴だ。ま、元気で何よりということか≫
僕は相手の顔を思い浮かべてニヤつく。つき合いの長さが、年数では思い浮かばない。彼の仕事に感想を言い、レコード会社移籍の相談にも乗った、結婚式では主賓を務めている。
「そばで暮らそうと思って...」
とうやうやしく、同じマンションへ越して来たことがある。世田谷・弦巻に住んでいたころだが、僕ン家は5階、相手は10階だったので、
「毎日、俺を見下ろして暮らす気か!」
と、冗談めかしたものだ。そう言えば坂本冬美で『夜桜お七』を作った昔、プロデューサーが僕で、彼はディレクターだった――。
≪そうか、これも有りかな...≫
と、新年、伍代のCDを聞き直してほろりとする。世の中は東京オリンピック、パラリンピックであおり立てられ、陽気なこと手放しである。そんな世相と真逆に『雪中相合傘』の男女は、灯りも見えぬ闇の中を行く。人間、一寸先は判らない。宴のあとには虚脱感がつきものだ、前回の東京オリンピックは昭和39年、スポニチの音楽担当記者だった僕は、事後のスッポ抜け現象を、世の中のあちこちで体験した。もし今回も、そんなふうに憑き物が落ちるとしたら、この歌はぴったりのやるせなさで似合うかも知れない。
≪池田充男の歌は、やっぱり嘆くのだ≫
と思い当たり、それが演歌歌謡曲の根っ子だと再確認もする。カップリングは『拝啓
男どの』と風変りなタイトル。昔なじみらしい男相手に、盛り場の様変わりを伝えながら、
♪世の中どこへどう流れても 咲いていますよ義理人情...
と女が語りかける。背景は神楽坂だ。
"勝手書き"のそんな詞に、池田の元気と若さを感じる。もう90才に手が届くだろう詩人が、伍代に2曲分、そんな熱い思いを託している。ひところ『悠々と...』や『酒暦』などで、人生を総括し加減に見えたのが気がかりだったから、なおさらである。

第一景は公園、その群衆の中の一人に僕は居る。占い師としての装束は、お衣装さんの女性が着せてくれた。小道具もそれなりで板着き、音楽が始まり、緞帳が上がる。緊張の一瞬である。ところが―、
客席がまっ白なのだ。ン? と、一瞬こちらの気持ちがたたらを踏む。目を凝らせばそこに出現しているのは、マスクの大群である。2月、明治座の川中美幸公演、世の中は新型コロナウイルスの疑心暗鬼が蔓延している。中国の武漢に端を発したこの疫病は、正体は判っていても伝播の実態が多様でつかみにくく、国内で死者も出た。とりあえずマスクと手洗い...と対応の指針がシンプルなだけ、東京はマスク顔の氾濫になった。劇場も同様なのだが、面白いのは休憩時間の後の客席。マスクの数が半分以下に減っている。食事のあとはやはり鬱陶しいのだし、危機感もとりあえず棚あげというのが、庶民感情なのか?
大劇場の長期公演に入ると、月日や曜日、時刻などがひどくあやふやになる。ま、やっているのが非日常の世界のせいだろうが、楽屋と舞台の行き来ばかりは、実に正確に規則正しい。次の出番で劇場下手の階段を上がると、途中で必ず仕事が終わった役者に会う。「お疲れさま」「行ってらっしゃい」などと、小声のあいさつを交わし、スタッフの懐中電灯に導かれ、位置につけば、必ず主演の川中美幸の後ろ姿がそこにあるといった按配。彼女主演の芝居「フジヤマ〝夢の湯〟物語」の一場面だが、観客が見ている舞台上の役者の流れと相対する型で、舞台裏も人が流れているのだ。
ふと客席に眼を移す。舞台上の暗闇で揺れるちょうちんの灯りに合わせて、ペンライトが揺れている。灯りを手にする彼我の男女をいい気分にする一体感。川中のヒット曲の一つ「ちょうちんの花」が必ずこういう現象を起こす。
《阿久悠の詞だな、飲み屋の一隅で、〝人生ばなし〟をするという表現が、いかにも彼らしい...》
などと、楽屋の僕は老俳優から突然、はやり歌評判屋に立ち戻る。歌手とヒット曲の関係は微妙で、発表の新旧関係はなく、歌手が舞台に乗せる作品というものが必ずある。川中で言えば「ふたり酒」と「二輪草」は欠かせない。これは彼女の今日を作ったヒットだから当然。その他に必ず歌われるのが、前出の「ちょうちんの花」や「豊後水道」「遺らずの雨」「女の一生汗の花」などだ。
「女の一生...」は彼女と亡くなった母親久子さんの苦しかった一時期をテーマに、吉岡治が詞を書いた。川中がショーの中で、必ず触れるのが母親の話で、この曲が出て来るのは無理がない。面白いのは「豊後水道」が阿久悠「遺らずの雨」が山上路夫と、作詞家は分かれるが、ともに三木たかしの作曲。両作品に川中は特別な感興を持つようで、詞に魅かれるのか、曲に酔うのか、この2曲の川中の歌唱は、いつも情感が濃い目になる。
三木たかしに生前、その様子を伝えたら、彼はひどく驚き、喜んだものだ。歌書きにとっては、ヒット曲を作るのも嬉しい仕事に決まっているが、年月が経過してなお、自分の作品が歌われ続けている喜びはひとしおのものだろう。ところが作家たちは新しい歌づくりに追われるあまり、歌手たちそれぞれの活動の情報はあまり得ていない。作品が一人歩きをしていると言えば言えて、それはそれで心温まる出来事だが、さて、最近歌現場にあまり姿を見せぬ山上は、「遺らずの雨」がそんなに熱く、そんなに長く歌い継がれていることを、知っているだろうか? お節介な話だが、そのうち本人に伝えたいものだと思ったりする。
それにしても...と思うのは、阿久悠、吉岡治、三木たかしらの不在である。彼らは多くの歌手たちに、その財産となる作品を遺して逝った。川中の場合〝しあわせ演歌〟の元祖と呼ばれる、たかたかしと弦哲也が健在で、彼女のための歌づくりに力を注いでいる。それが歌手川中美幸の幸せだろうが、亡くなった歌書きたちの手腕の確かさにも、また改めて思いいたる。近ごろの演歌、歌謡曲は、ずいぶん長いこと作品が痩せ過ぎてはいまいか? 苦しさを増す商業状況があるにせよ、目先の成果を追うあまり、安易に慣れ過ぎてはいまいか?
川中の新曲は「海峡雪しぐれ」で、たかと弦のコンビ作。スタッフから「演歌の王道を!」と言われたと話しながら、川中は哀愁切々の歌唱。共演の松井誠がさっそく「僕も踊りのレパートリーに」と、如才のない発言をしている。

けいこ場に笑いが絶えない。場面ごとに芝居を固める時はもちろん、休憩時間もあちこちで、同時多発的に笑いのかたまりが生まれる。1月下旬の江東区明治座森下スタジオ。2月4日初日の川中美幸特別公演のけいこは、笑い合いながらその割にてきぱきと、事は進んでいる。
笑いの震源地!? は、演出家の池田政之と出演者の一人井上順。柏田道夫作、池田演出の芝居「フジヤマ〝夢の湯〟物語」(二幕)は下町の銭湯が舞台。近ごろは家庭に内風呂が当たり前だから、経営に行き詰まり、女主人の川中が〝よろず代行業〟を兼業することになる。当然、従業員がいろんな役割を果たすのを、ハラハラ見守るのが、川中の幼なじみの写真館の店主井上と、ビューティークリニックの社長麻丘めぐみ。銭湯を我が劇場に! と飛び込んで来るのが、大衆演劇の座長松井誠...。
お話がお話だから、笑いのネタには事欠かない。エピソードの一つずつを、役者が台本通りにやろうとすると、
「もっと面白く行けない?」
「一度下手そでへ走ったら、また戻っておいで。息が上がるまで、行ったり来たり...」
などと、演出の池田が若手役者たちをそそのかす。さっさと応じるのが由夏・芦田昌太郎姉弟だ。
「それならば、こう...」
と誰かが言えば、大笑いしながら即採用。
「こういうのはどうかしらねえ...」
と、割って入るのが井上で、自分の芝居もせりふ回しから動きまで、あの手この手の提案だらけ。
「笑わせる」「受ける」
を、四六時中考えている気配で、けいこ場へ入る前に秋葉原あたりの洋品店へ出かけて、色も柄もこれ以上なしという奇抜な代物を仕入れてくる。僕などセリフがまだ生覚えでへどもどするのを尻目に、衣装から小道具まで、着々とメドをつけて行く。
池田の率先垂範ぶりは、長い演劇生活の博覧強記に当意即妙がおまけ、芸の引き出しが山盛り状態だ。
劇中劇や舞踊はお手のものの松井も、劇団員に扮する男女が集まると即、踊りの手ほどき。
「生来せっかちなもんでねえ」
と笑いながら、休憩時間もあれこれ忙しい。
毎度のことながら、
「いい座組み、いい雰囲気」の中央にいるのは川中で、けいこ場の隅々にまでさりげない目配りとふれ合いづくり、関西の人特有のジョークもちょこちょこ飛び出す。その傍らで麻丘は、おっとりと出を待つ風情がなかなか。「わたしの彼は左きき」でブレークした当時のアイドル性も残しながら、60代の女性の生き方を探る気配だ。29年ぶりの新曲「フォーエバー・スマイル」を加えた自選ベストアルバム「麻丘めぐみPremium BEST」(CD2枚組40曲)が世に出たばかりだ。
《それにしてもお二人さん、ずいぶん久しぶりに出会ったもんだ》
というのが、けいこ場入りした僕の感慨。ザ・スパイダースのリーダー田邊昭知とはGSブーム初期から親交があり、井上や堺正章、亡くなったかまやつひろしや井上堯之らからは、〝リーダーの客〟として遇されていた。あのころ精かんな二枚目だった井上が、ギャグの虫状態でコメディを手探りしていることに頭が下がる。麻丘はレコード大賞の最優秀新人賞を獲得したころ、僕はそのスタッフの相談役だった。小澤音楽事務所の小澤惇社長、アルト企画高見和成社長らだが、その二人も今は亡い―。
そんなことに思いを巡らせていると、左手が自然にすっと、タバコの箱へ行く動作になる。
《あ、いかん、いかん、タバコはやめたんだ...》
と苦笑いするのだが、正月元旦から禁煙生活に入っていることを、すっかり忘れているから妙なもの。つまりそのくらい禁煙が苦痛でも何でもなく、食事のあとや酒場で乾杯! の時などに、ふっとタバコに向かう微妙な習慣だけがまだ残っている。
「何でまた?」
「年が年だ、今さら手遅れでしょう!」
「ま、カミサンは喜んでいるだろうがね」
など、ここ1カ月での周囲の反応は、どちらかと言えば冷ややかである。
ま、7巡めの年男としては、音楽業界各位に、妙に慣れ慣れしくなり、スポニチの後輩は全部呼び捨てになっている。役者としてはまだ13年めだが、舞台裏のあれこれも含めて、ともすれば判ったような顔をしはじめるころあい。この辺でそんな自分に、居ずまいを正させないとな...なんてあたりを、断煙の表向きの理由にしている。

殻を打ち破れ217回
信子さんが泣いた!
それも、登壇してマイクを持った瞬間、あいさつにならない。会場は静まり返る。主賓のテーブルに居た僕は、たまらずに声を挙げた。
「信子、泣いていい!泣いてもいいぞ!」
隣りの席の矢吹海慶和尚も、息を詰めている。万感胸にせまる気配で、それは同席した人々がみな、大なり小なり抱え込んだ感情でもあった。11月17日夜、山形県天童市の温泉ホテル「ほほえみの宿 滝の湯」の宴会場での出来事だ。
泣いたのは佐藤千夜子杯歌謡祭の実行委員会福田信子事務局長、見守った和尚は物心ともにこのイベントを支え、主宰した町の有力者で、僕はこのカラオケ大会の審査委員長。この席は大会の打ち上げで、例年なら"後夜祭"と名付けた陽気な宴会である。大会終了後に何も泣くほどのこともあるまいと思われよう。実はこの夜が年に一度で19回続いた大会の、最後の最後に当たっていた。
佐藤千夜子は、当地が生んだ日本のレコーディング歌手の第一号。大会はその実績を顕彰して彼女の名を冠していた。当初は地元本位の催しだったが、次第に全国規模にスケールアップ、最終回、今回のグランプリ受賞者は『人生の晩歌』を歌った千葉県市川市の和田健だったくらいだ。僕は16年連続で審査を務め、東北の歌好きたちの人情とおいしい物を満喫して来たから、感慨もひとしおの一幕だ。
大会は文字通りの"手づくり"で、事務局長といっても信子さんは単なる芸事好きのおばさん。それが準備段階から当日の運営まで、全員ボランティアのおばさんたち相手に率先奮闘の指揮を取った。19年やっても一向に進歩せず、舞台裏はいつも、ドタバタあわてふためくがかわいかったくらいで、信子さんが最後に泣いたのは、そんな大会を毎年支え切った達成感ゆえだったろう。
和尚はそんな彼女らの日々を見守り、事を任せて来た。この人がまた曲者で「酒と女は2ゴウまで」とか「仏はほっとけ」とか、冗談まじりでカラオケと酒をたしなむ。新聞記者時代から今日まで"人を観る"ことをなりわいとして来た僕には、彼が只者ではない見当くらいついてはいたが、その人柄に甘えて"ためぐち"のつき合いをさせて貰った。片言隻語に含蓄と慈味があって、僕の天童詣では、やがて和尚と会う楽しさに変わっていったものだ。
和尚と飲む出羽桜の「枯れ山水」は美味だった。癖になったのは「青菜漬け」や「いも煮」めしは「つや姫」に止めを刺し、酒どころ、歌どころ、人どころの東北の妙に、僕はすっかりはまった。旅という奴は、神社仏閣見聞に物見遊山、近ごろはご当地グルメばかりだが、何と言っても第一は、逢いたい人に逢える醍醐味だろう。
今大会の前夜祭は、和尚の「米寿を祝う会」になった。例年大会前夜は、和尚はじめ関係者と食事、二次会ふうにくり出すスナックで、カラオケに興じて来た。祝う会の発起人代表に指名された僕は、そのレベルのお遊びを兼ねての催しと早合点しいたが、案に相違のスケールだった。ホテル玄関の立て看板には「矢吹海慶上人の米寿を祝う会」とあり、何と"上人"である。参会者百余名が着席の宴席で、夫人同伴の和尚はカラフルな法衣をまとって壇上におさまる。僕は金屏風を背負ってのあいさつで、少々たたらを踏んだ。
改めて和尚の正体を知る。観月山妙法寺第十八世住職で、任ずること六十五年、日蓮宗大荒行寒中百日間を5回達成。市民文化会館と中央公民館の初代館長を兼務したほか、元、前、現を合わせ市の文化、教育全般で数々の役職を務める仁徳。山形いのちの電話理事、平成のかけ込み寺を営んで、舌がんの予後をカラオケでやってのけた八十八才、すこぶる元気と来る――。
――これではもう、今度会っても"ためぐち"をきける自信など無くなりそうだね!
舞台に巨大な将棋の駒が11個も並ぶ。それを背景に2人の男が対峙している。おなじみ、阪田三吉と関根金次郎の因縁の対局シーンだ。駒の間から男たちが現れる。舞台上手の数人が関根側、下手が阪田サイドで、彼らが、盤上の戦いを中継、解説、応援、言い争う。それぞれ口調が激しい。
《そうか、そういう手があったか!》
僕が合点したのは、勝負の内容ではなく、熱戦の様子を劇場の客に伝えるアイデアについてだ。映像なら棋士2人の表情の変化や駒を動かす手や指、取り囲む人々の動揺や感嘆などを、たたみ込んで熱気を表現できる。ところが芝居だと、そうはいかない。歌手三山ひろし扮する阪田三吉は、前かがみに盤上を見据えているだけで、客席からは遠い。
明治座の正月公演を見に行った。三山が初座長で「阪田三吉物語」をやる。映画や芝居でよく知られている演目。どんな按配か? とのぞいたのだが、これがなかなかの新趣向。立川志の春の同名の新作落語の舞台化で、志の春本人が冒頭から出語りで一席、劇中もちょくちょく現れて味な狂言回しをやる。三吉の生い立ちから最期、その記念碑のありかまでを時系列で説明し尽くすのだ。
無頼の賞金稼ぎ時代から関根との出会い、東西で反目する将棋界と双方を取り込んでの新聞社の暗闘、女房小春の献身とその死などのエピソードも次々に出て来るが、判りやすいことこの上ない。そのうえ三山三吉が要所で己の心境を語って客をうなずかせ、突飛なアクションで笑いを取る。破天荒な人物像を、熱演また熱演する従来の阪田ものに比べれば、淡白クールな仕上がりで、それが〝役者三山〟らしさの作り方か。
世の中、バラエティーばやりが長く続いている。テレビは芸人たちのおしゃべりが山盛り、ニュース番組のコメントにまで笑いの要素がちりばめられる。そんな風潮が蔓延してか、若者間で人気がある仲間はオモシロイ人、ヤサシイ人...。こうなれば、歌手の大劇場公演も笑いとは無縁ではいられまい。それもめいっぱい真面目にやって、結果オモシロければ最高だろう。三山の第二部オンステージは「FirstDream2020」のサブタイトルがついて、これでもかこれでもか。
三山が「雨に唄えば」などの映画音楽を「踊る」のだ。年配のファンはフレッド・アステアなんてあたりを思い浮かべそうなシーン。それを舞台いっぱいに展開して、そこそこ様になることで一生懸命さをアピールする。それに例の「俵星玄蕃」の長尺熱演を並べ、お次が昭和歌謡のミュージカル仕立て。「神田川」「青春時代」「結婚しようよ」「3年目の浮気」「うそ」「木綿のハンカチーフ」などの歌詞がクスグリのネタで、三山青年とその恋人の、同棲時代から破局までのドタバタ・コメディだ。
芝居とヒットパレードの二本立てという、従来のパターンでは近ごろのファンは納得しない。いつのころからか面白おかしさを期待する風習が行き渡ってしまった。カラオケのお仲間と一緒に好きな歌を聞き、あんな顔してあんな事する...と思いがけない寸劇で大いに笑い、ああ、よかったねと三々五々家路につく。ファンにそうあって欲しいと思えば、三山も奮闘せざるを得まい。大阪・新歌舞伎座は体験したが、東京明治座は初主演。
「デビュー11年めで、こういう大舞台に立たせていただけるのも、皆さまのご支援あってこそ...」
のあいさつを、社交辞令どまりにしてしまうわけにもいかない。
それやこれやの阪田ものと、ショーの品ぞろえ。おしまいには「望郷山河」「男の流儀」などのヒット曲に紅白歌合戦出場の感想などもチラッと話して、新曲「北のおんな町」は「買ってね」とタイトルを連呼、また笑いを誘う。酷使しているノドは大丈夫か? まだ若いんだから体調は維持できるだろうな。結局これは文字通り彼のワンマンショーだ。やれやれお疲れさん! そう思いながら僕が席を立とうとしたフィナーレで、いきなり三山が翔んだ。白いスーツの背中に天使みたいな羽根をつけての宙吊り。それも舞台上空を縦横無尽。スイスイとかっこ良くポーズしたり、溺れるようにバタバタしたり。客席の嘆声の中で、すうっと降下すると舞台中央、共演者と一緒に三方礼である。
僕が観たのは1月14日夜の部。3日後の17日にはこの劇場の2月公演、川中美幸主演の「フジヤマ〝夢の湯〟物語」の顔寄せがある。共演者の一人の僕は、今度は〝いい笑いづくりのお手伝い〟で、同じ舞台を行き来することになる。

殻を打ち破れ216回
ヒョウタンからコマ...という奴が、実現した。作曲家たちとたくらんだ歌づくり。それが歌謡史上初の組曲に仕上がったから、やっていた連中さえ、なかば驚き、なかば呆れ、なかば興奮状態である。作品名は『歌謡組曲「恋猫」~猫とあたいとあの人と~』で、作曲が杉岡弦徳、作詞が喜多條忠、編曲が南郷達也と、みんな親しいお仲間。歌ったのはタレントの松本明子で、20分余の大作になった。
冗談の発端はBSフジで不定期に放送されている「名歌復活」という番組で、作曲家の杉本眞人、岡千秋、弦哲也、徳久広司が思い思いの曲を弾き語りで歌うのが売り物だ。タイトルから判る通り、彼らの作品や彼ら好みの埋もれたいい歌を発聞掘するのが、当初のコンセプト。弾き語りの味が絶品で、必ずフルコーラス...という趣向が受けた。高視聴率に放送局や制作プロダクションが気を良くして、またやろう!もっとやろう!と、放送する機会が追加、また追加。もう本番は6回くらいになるか。BS番組の特徴で、再放送が多いから、ずい分長くかかわっている気がする。
僕と彼らの野放図な雑談にも、進行係の松本がすっかり慣れたころ、≪松本明子を歌手にしよう≫という話が、番組内で持ち上がった。せっかく名うての作曲家が揃っているのだから、曲はみんなで書こうと意見が一致。彼らの姓から一文字ずつ取った「杉岡弦徳」という作曲ユニットが出来あがる。作詞は喜多條忠にと僕が提案、これまたいいね!いいね!とまとまった。弦が作曲家協会の会長、喜多條は作詩家協会の会長でもある。あまりの大物揃いに歌手を指名された松本明子は、眼が点になり、ほとんど悶絶状態――。
それから約2年、ああだ、こうだ...のやりとりが交錯して、組曲「恋猫」は出来あがった。無茶ぶりだよこれは...と、悪乗りの渦に巻き込まれた喜多條は、杉岡弦徳それぞれの顔を夢に見て、うなされたとも言う。体裁は五つの歌詞をそれぞれ1コーラス分ずつ、作曲者のイメージに合わせて、全く異なる行数。失恋をぼやく女の第1コーナーを岡、男との出会いを回想する第2部を弦、飼い猫相手の愚痴の第3部を徳久、人生なんてそんなもんさと諦めかかる第4部を杉本がそれぞれ作曲、最後の第5部は4人がセッションして完成という具合い。全体を音楽監督ふうにリード、取りまとめたのは弦の役割だ。
青ざめて、必死で頑張ったのが松本である。各パートそれぞれに、ごく個性的な歌書きたちがとても個性的なメロディーをつけている。そのデモテープ相手に日夜歌唱の予習、復習のくり返し。内心「大丈夫かな?」と危惧した僕らを尻めに、彼女は見事にやたら高いハードルをクリアした。4人の作曲家が拍手したくらいの仕上がりである。
災難はいつふりかかるか判らない。あわせて5コーラスの歌の合い間を、女主人公と誰かの会話でつないだ方が物語性が濃くなるという話になり、お鉢がプロデューサーの僕に回って来た。舞台で役者をやっている経験を生かせ!と衆議一決、おでんの屋台の親父の役柄で、失恋女の松本と僕のぼそぼそセリフのやり取りが合計5ヵ所も。言いだしっぺは弦で、スタジオで僕にダメ出しをしたのは喜多條である。
10月24日、フジテレビの湾岸スタジオでやった「名歌復活」のビデオ撮りでも、それをそのまま再現した。引くに引けないノリの僕と、もはや余裕もにじませる松本のセリフと歌唱。背後でニヤニヤしているのが杉岡弦徳の4人と喜多條という20分余。NGなしで何とかやりとげた光景は、12月7日夜、3時間番組の最終部分でオンエアされる。恐るべきことにこの組曲「恋猫」は、やはり12月にテイチクからCDとして発売される。松本は上機嫌、僕は当分冷や汗をかくことになる。
暮れギリギリに台本が届き、正月は友人たちとの飲み会のあいまに、それと首っぴき。2月4日初日の川中美幸特別公演「フジヤマ"夢の湯"物語」(柏田道夫作、池田政之演出)で明治座に25日まで、詰め切りになる。
主演の川中は、経営不振の銭湯「夢の湯」を抱え、ご町内何でもOKの代行サービス業で大わらわ。気をもむ写真館の主井上順、実業家麻丘めぐみや大衆演劇の座長松井誠らがからむ下町人情劇だ。僕の役は川中に寄り添う弁護士だが、ことらもいろんなキャラで出たり入ったり。コミカルな役づくりで楽しくお手伝い・・・を目論んでいる。
松井は二度目、ほかに安奈ゆかり、由夏、穐吉次代、小早川真由、深谷絵美ら親しい顔ぶれとご一緒。三宅祐輔とは十手かざした親分子分で、大阪新歌舞伎座の花道を逆走した思い出がある。
思い出と言えば、井上順がスパイダースのボーカルでGSブームの人気者、麻丘はレコード大賞の最優秀新人賞をゲットしたころのつき合いだが、いずれも僕の取材記者時代の話。役者になっての初対面で、2人がどんな顔をするかが楽しみだ。顔寄せけいこ始めは1月17日である。
恒例の沢竜二「旅役者全国若手座長大会」が12月12日、浅草公会堂で。沢公演参加10年めで、初の女形役をやった。演目は「次郎長外伝・血煙り荒神山」。吉良の仁吉の家で働く女中3人組の一人お杉だが、今回も頬と鼻の頭を赤くしたおてもやんふうオッチョコチョイの造り。
訪ねて来た旅人に一目惚れ、身をくねらせて投げキッスをしてセリフも一言、二言。いつもチョイ役だが、相手は座長たちでみんなめいっぱいの二枚目ファッション。僕ひとりがオバカだから、やたらに受ける。「あんたは体中で芝居をするのがいいところ」と、座長の沢は毎回三枚目の役をくれるのだ。
友人の小森薫が手伝いに来たが"女装"と聞いて悶絶、近くの和服店へ飛び込んで、着せ方を教わって来た。その心配は無用で、着付けをしてくれたのが座長の一人市川富美雄の奥方。大衆演劇には床山さんやお衣装さんなど居ないが、急を知ってのボランティアだ。着付けをすませ、帯をポンと叩いた彼女と共演の岡本茉莉から、僕のオバカメーキャップに「かわいいわね」の一言があった。
川中美幸・松平健の大阪新歌舞伎座を手始めに、東宝現代劇75人の会、路地裏ナキムシ楽団、門戸竜二の大阪遠征に続いて沢竜二大会と、令和元年、僕の芝居行脚は合計5公演で打止め! 観て下さった諸兄姉に深謝、令和2年は2月明治座「川中美幸」公演でスタートです。
ちなみに門戸の「デラシネ」(田久保真見作詞、田尾将実作曲)と沢の「銀座のトンビ」(ちあき哲也作詞、杉本眞人作曲)は、ともに僕のプロデュース作品。二人がそれぞれの舞台で熱唱するのを、楽屋で聞くのは気分のいいものだ。
羽田から関空へ飛んで、電車に乗り換えて阪南市へ。大阪だがかなり和歌山寄りの場所。その市立文化センターの開館30周年記念公演へかけつけた。大衆演劇のプリンスモンド竜二一座に加わって、演目は人情芝居「あにいもと」。
大店伊勢屋の若旦那(田代大悟)が、芸者に入れ上げて50両の借金を作った。僕は金貸し山路屋で、抵当に取った"雪舟の掛け軸"を売り飛ばそうとするチョイ悪。若旦那の窮地を救おうと一計を案じた大工(門戸)と障害のある妹(吉野悦世)の美人局にひっかかって、ひどい目に合うドタバタ騒ぎだ。
成田の門戸のけいこ場で2日ほどけいこをして、1回こっきりの本番。以前竜小太郎らとやったことがある役だから、委細承知とおおむねスイスイだ。共演は他に朝日奈ゆう子、本州里衣、蒼島えいすけ。磨呂バンドの歌謡ショーと、恒例の舞踏がついた3部構成である。
在阪の役者細川智と松田光生が激励!?に現われたのに仰天したが、久しぶりに楽屋で懐旧談。1泊2日でひと仕事は初体験だったが、旅公演は楽しいものと再確認した。11月23日と24日の出来事である。
演歌をジャズ・アレンジで歌う。バックはピアノ、ギター、ベースのトリオ。曲目は「ちょうちんの花」「遣らずの雨」「豊後水道」で、川中美幸はまっ赤なドレスに思い切り長めのパーマネント・ヘア。遊び心たっぷりの演出に、ディナーショーの客はノリノリになる。12月8日のホテルオークラ。少し早めの忘年会、あるいはクリスマス・パーティーの気分だ。
川中はこの日が誕生日。実年齢を肴に、老後のあれこれをジョークにする。新曲「笑売繁昌」をそのままに、この人のトークは定評通りで、爆笑、また爆笑の賑いを生む。関西出身ならではの諧謔サービスが行き届いて〝飾らない飾り方〟が身上だろうか。
「ふたり酒」や「二輪草」「男の値打ち」など、おなじみのヒット曲は着物姿で決める。「女の一生汗の花」になれば、当然みたいに亡くなった母親久子さんの話になる。辛い時期を二人三脚で越えた相棒でもあるから、母をテーマにした16曲のアルバムも「おかあちゃんへ」がタイトルになっている。10月1日が祥月命日、その一周忌法要も済ませていて、少しは心がなごむのか、母の遺した入れ歯をカスタネットに見たてて、
「それがカタカタいってかわいいの」
と、またジョークだ。
ゲストは作曲家の弦哲也。「ふたり酒」で〝しあわせ演歌〟の元祖になった仲だから、お互いを「同志」と呼び「戦友」に例える。「とまり木迷い子」をデュエットしたあとは、弦が「北の旅人」「裏窓」と「天城越え」をギターの弾き語り。前2曲は石原裕次郎、美空ひばりに書いた作品で、
「昭和の太陽のお二人に歌って貰えたことが、最高の思い出」
とコメントすれば、会場の昭和育ちが、それぞれの青春を思い返すことになる。弦の自画像的作品「我、未だ旅の途中」に共感する男たちも多い。
川中、弦ともに長い親交のある僕は、十分にリラックスして彼女と彼の歌、それに上物のワインに酔い、なかなかのディナーを賞味する。会場には二人の後援者たちの顔が揃う。その誰彼にあいさつをしながら、僕は知らず知らずのうちに知己が増えていることに気づく。縁につながるということは、心地よくありがたいものである。
当然みたいにショーの打ち上げにも参加する。来年2月の明治座公演「フジヤマ〝夢の湯〟物語」の話になる。川中から声をかけて貰っての舞台役者、レギュラー出演してもう13年。近ごろ何とか格好がついて来たと言われたりする僕は、この席でも川中一座の老優のたたずまいだ。それにしても...と、共演する井上順や麻丘めぐみの件を持ち出す。井上は元スパイダースのメンバーで、リーダー田邊昭知と僕は昵懇の間柄である。麻丘は昔々、森昌子らとレコード大賞の最優秀新人賞を争ったプロダクションの陰に居た。二人とも僕が役者兼業であるとは知らぬはずだから相当に驚いているだろう。
弦哲也は歌手の田村進二時代からの知り合い。仲町会のメンバーとして公私とものつき合いがあり、彼が作曲家協会の会長になったことを契機に、レコード大賞の制定委員に呼び戻された。〝昔の名前〟のお手伝いである。最近は杉本眞人、岡千秋、弦哲也、徳久広司と売れっ子たちの苗字を一字ずつ取った作曲ユニット杉岡弦徳の歌謡組曲「恋猫~猫とあたいとあの人と」をプロデュースしたばかり。おまけに弦の指名で、おでん屋台のおやじに扮し、歌った松本明子と曲間の小芝居までやった。この有様はCDになり12月テイチクから発売と来たからもう、アワワアワワ...である。
打ち上げの席には弦の長男田村武也も居た。こちらはご存知路地裏ナキムシ楽団の座長たむらかかしで、今年10月、めでたく第10泣き(つまりは第10回)公演を成功させた。彼と僕は
「統領!」「かかしさん!」
と呼び合う数少ないレギュラー出演者。若者たちの熱気溢れる音楽と芝居に、ひたすら平均年齢を引き上げるお仲間になっている。この楽団は来年の令和2年5月に、小豆島へ遠征公演が決まっていて、その話も酒席の肴になった。これを書いている12月10日は、記念すべき10回公演の映像試写会が青山であるから、その分も浮き浮き...だ。
それやこれやの年の瀬である。来年は84才、何回りめか数えるのも億劫なネズミ年の年男。それもこれもよくして下さるお仲間があっての幸せで、何よりもまず健康を維持! と心に決めて、この欄最終回のごあいさつ、ご愛読を深謝しております。

『午前3時の御祓い』
これはもう〝哲の会〟の伝説のイベントになっている。20年以上前の話だが、そんな深夜にむくつけき男たちが神前の板の間に正座して、御祓いを受けた。場所は山口県周防大島の筏神社。地名が出ただけで、もしや...と思われる向きもあろう。そう、作詞家星野哲郎の故郷で、宮司は星野夫人朱実さんの姉星野葉子さん――。
哲の会は文字通り、星野の薫陶よろしきを得たレコード各社のディレクターやプロダクション関係者の集まりで、記者時代から僕もその一員。それが昔、星野の島へ出かけたのは、彼が主宰したイベント「えん歌蚤の市」を手伝ってのこと。キャリアが長く歌巧者だが、埋もれたままの歌手たちに脚光を! という趣旨に、いいね、いいねの作詞家や作曲家、放送局の人々や僕らが、大挙押しかけたのだ。
蚤の市はこの島で何度かやったが、問題の御祓いはその中の出来事。哲の会の面々10数人は筏神社の大広間にざこ寝で泊めて貰うのが常。例年、深夜まで酒盛りをやったが、ある晩、僕らが小皿叩いて星野作品を大合唱するのに感じ入った葉子さんが、
「哲郎さんが皆さんに愛されていることがよく判った。それじゃ御祓いをしましょう!」
の一言で神前へ。酔っ払った男どもが、粛然と頭を下げた一幕になった。
「忘れられないなあ、また行きたいよ、あの島の人情、宮司さんの祝詞...」
そんな懐旧談が飛び出したのは11月19日の夜、仲町会コンペを千葉の鎌ヶ谷カントリー倶楽部でやった後、月島のもんじゃ「むかい」で反省会!? としゃれ込んだ最中だ。
「葉子さんのあの笑顔に会いたいよ」
「あの人、もう年が年だから、早めに行こう。年が明けて春先くらいでどうだ?」
「有志だけでもいいじゃないか。あの神前の板の間の感触が、まだ膝小僧に残っているよ」
詩人の人徳に合わせて、口々に言い合うのは元テイチクの千賀泰洋、松下章一、元ビクターの朝倉隆、元東芝EMIの角谷哲朗、三井エージェンシーの社長三井健生、キングの古川健仁なんてあたり。仲町会は弦哲也、四方章人ら作曲家に南郷達也、前田俊明、若草恵ら編曲家が主だが、前記の哲の会メンバーがダブっている。
宮司葉子さんは、寝泊りする壮年のやんちゃ坊主たちのために近所の人達も動員、献身的な接待をしてくれた。早朝から釣りに出る奴、昼を海水浴に興じる奴、昼から酒を飲みはじめる奴など、食事時間がめちゃくちゃなのへ、炊き出しみたいな大忙し。島だから海の幸には事欠かないが、その他のお菜は食い尽くし、台所にあったらっきょうなどは「将校用だ!」と年上の僕らがびんごと抱え込む騒ぎだ。宮司の威厳と作詞家の義姉の優しさを兼ねた葉子さんは、にこやかに僕ら哲の会みんなのおふくろさんになった。
―――11月22日、その葉子さんの突然の訃報がファックスで届く。前日の21日午前1時、のどのがんで死去、90才。送信者は星野の長男有近真澄である。22日深夜に帰宅した僕はあわてて電話をするが不通。24日が葬儀とあるのだが、何とも間の悪いことに僕は23日に大阪の阪南市へ入り、翌24日が市立文化センターの「門戸竜二特別公演」に出演というスケジュール...。
有近は23日早朝、周防大島へ向かったろう。僕はその少し後の便で羽田を発ち関西空港へ向かう。同じ羽田から西へ飛びながら、島へ行きたくてもいけぬいらだちが重い。阪南は大阪だが和歌山に近いあたりと聞く。途中何度か、有近のケイタイにかけるが不通。まだ機中か? もう葬儀の打ち合わせか? こちらは翌日の舞台のけいこである。着信履歴は先方に残るだろうが、当方がケイタイを持っていないから、僕の自宅へ電話しかない。それやこれやの行き違いのあと、やっと連絡がついたのは夜。島ではお清めの席が始まっていた。
葬儀は滞りなく済んだ。哲の会一同の花は飾った。がんを病んではいたが、年が年だけに進行は遅く、穏やかに暮らしていた。それが突然容態が変わって...と、有近の声が続く。僕は24日が舞台の本番だから、身動きが出来ないと、ただただ不義理を詫びるしかなかった。
星野哲郎ゆかりの人と言えば、昨年1月に北海道・鹿部の道場登氏が逝った。その一周忌法要は今年11月8日に営まれたが、島倉千代子の七回忌法要と重なって不義理をした。そして、周防大島のおふくろ星野葉子さんの霊前にぬかずくことも叶わない――。
令和元年は早くも12月である。心残りばかりが胸に滓りになって沈む。今年も多くの知人を見送った。冬の風に吹かれて、心がやたらに寒い年の瀬である。

殻を打ち破れ215回
「コトバであれこれ言うよりも、吠えてもらった方がいいと思って...。ふふふ...」
作詞家田久保真見がいたずらっぽい口調になった。10月6日昼、中目黒のキンケロ・シアターのロビー。僕が出演した路地裏ナキムシ楽団公演「屋上の上の奇跡」を見に来てくれてのひとコマだ。彼女の視線の先には歌手日高正人からの祝い花が居据わっている。並んでいるのは川中美幸や阿久悠の息子深田太郎、小西会からのものなど何基か。田久保が冗談めかしたのは、日高の新曲『男の遠吠え』を作詞した胸の内で、
「聴いたよ、正解だよな、遠吠えが...」
僕も我が意を得たり...のリアクションになる。日高は力士かレスラーかと思われる巨体が容貌魁偉の口下手、そのくせ好人物丸出しの笑顔で、大汗かきながら歌社会を駆け回る。どうにも捨て置けぬタイプだから、つき合いは40年を越えようか。それが前々日に劇場の楽屋に現われ
「頑張ってます!戦ってます。いい歌が出来て最高です!」
と連呼、終演後の小西会の面々20人ほどの酒盛りでも存在感をアピールしたばかりだった。
新曲は前奏から「うおうおうお~おお...」である。それが7個所も出て来て、合い間にコトバが入る。「男なら夢を見ろ」「信じたら命を懸けろ」「泥の船と知っても崩れるまで漕げ」...と、何とも勇ましい。日高の信条そのままみたいだから、彼も乗り気十分になるはずだ。しかし――、
作詞家田久保はやはり一流で、歌を勇ましいだけでは終わらせない。
♪魂が泣きじゃくる日の 想い出と酔いどれる日の 哀しみを抱き寄せる日の...
と、遠吠えに熟年の男の苦渋をにじませ、75才を越えてなお、見果てぬ夢を追う、無骨な日高の日々に重ね合わせるのだ。
作曲したのは真白リョウ。ロックの乗りに和の味わいも加えたポップスである。いくら気持ちが若くても、日高は音楽的には旧世代。レコーディングでは苦戦を強いられたはずだが、やりおわせれば"へのカッパ"で、てこずったことなどおくびにも出さず、楽屋での報告は次に続いた。
「あのですね。実はですね」
と持ち出したのがジャケットの件で、何とも赤塚不二夫の30年以上前の作品。日高の似顔に後光がさし、星がちりばめられた独特の絵で、赤塚のサインも入っている。いわば日高のお宝が世に出た形。
「赤塚なぁ、お前さんも親交があったんだ」
と、僕の感慨は横っ飛びする。昔、彼とは新宿あたりでよく飲んだ。それが縁で僕の勤め先だったスポーツニッポン新聞の創刊50年には、題字横に指で50を示すニャロメが登場、記念に作った「ニャロメ旗」が、群馬の山岳会が冬期エベレストに挑戦した時は、山頂でひるがえった。50年祝賀パーティーでは、ほろ酔いの来賓祝辞で
「僕と小西は新宿で女を争った仲だ」
とぶち上げ、社の幹部が唖然とする一幕もあった。それやこれやのつき合いをフォロー、長く赤塚番を務めた同僚の山口孝記者が「赤塚不二夫伝・天才バカボンと三人の母」(内外出版社刊)を上梓、この9月29日に出版記念会を開いたばかりだった。
「縁なんですね、うん、縁なんだ」
日高はそれもこれもひっくるめて、彼の新曲に結びつける。見たばかりの僕らの芝居のことなどそっちのけである。
「楽しかった。ところどころジーンと来て泣けた。田村かかしという人の脚本演出がいいし、音楽と演劇のコラボも新機軸よね」
田久保の方はきちんと、ナキムシ楽団10回記念公演を笑顔で総括したものだ。
心に沁みる〝いい弔辞〟を二つ聴いた。11月11日、東京・青山葬儀所で営まれたJCM 茂木高一名誉会長のお別れの会。遺影の前に立ったのは作曲家の弦哲也と作詞家の喜多條忠で、それぞれ作曲家協会と作詩家協会の、会長としての立場だ。
最初の弦は、茂木氏を「関守」に例えた。これはいかめしいタイプの役人を連想するが、茂木氏はいつも柔和で、最高の笑顔で弦らを迎えたと言う。ご存知の向きも多かろうが、JCMはセントラル・ミュージックという社名の略称。文化放送の系列で、音楽出版事業を主とする。ひらたく言えばラジオ放送を背景に、歌手の育成、プロモーションや楽曲の制作などに係わり、歌謡界に貢献するのが役割。茂木氏は昭和32年に文化放送に入社、10年後のJCM創設にかかわり、以後常務、専務、社長、会長を歴任、平成25年に名誉会長になり、今年9月14日、85才で亡くなるまで、その任を全うした。
その間茂木氏は「ダイナミックレーダー・歌謡曲で行こう」や深夜番組の「走れ歌謡曲」などを手掛け、新人歌手の登竜門「新宿音楽祭」を創設するなど、活発な活動で数多くのスター歌手とヒット曲を世に送り出した。歌謡界切っての実力者なら〝やり手〟の老獪さも秘めていようが、JCMを訪れる関係者はまず茂木氏にあいさつをした。その様子を弦は「関守」に例えたのだろう。出会った人々には独特の笑顔と飾らぬ会話、親身の対応で接した。弦は茂木氏のそんな実績と人望を語り、簡潔で心あたたまる弔辞とした。
二人めの喜多條は、茂木氏を陰で「ムーミン・パパ」と呼びならわしていたと、より実感的な話をする。売れない放送作家時代、文化放送に通いつめ、局内の宿泊部屋に「棲息していた」と言う彼は、酒食まで氏に依存する。顔を合わせる都度聞かれたのは「大丈夫?」「喰えてる?」「ほんと?」の三つで、それは喜多條が功なり名遂げて以後も変わらなかったそうな。
この日、青山葬儀所は歌謡界の有力者や歌手とその関係者などで会場は満たされ、外には焼香を待つ人の列が出来た。そんな大勢が、作曲家と作詞家の弔辞にしみじみと聴き入った。二人とも不遇の時代を持ついわば苦労人で、茂木氏の人柄を語る言葉の端々に、彼ら自身の人柄もにじむ〝情の弔い〟になったものだ。
その3日前の8日昼、僕は北品川の東海寺で営まれた島倉千代子の七回忌法要に出向いた。ごく内々...の催しで、関係者がひと座敷分。石川さゆり、小林幸子、藤あや子、山崎ハコに南こうせつ、鳥羽一郎らと親しいあいさつを交わす。驚いたのは寺と墓地を囲んだ島倉ファンの群れで、その数何と200。貸切りバスまで動員されて、全国から集まったと聞く。ところが島倉の実弟も亡くなっており、親族の姿はゼロ―。
故人は山ほどの不幸を生きた人である。結婚と離婚、背負わされた巨額の負債が何度か。結局それで亡くなるのだが、二度のがんの発病...。時に声まで失って、その都度彼女は悲嘆に暮れ、やがて気丈に立ち直る。ヒット曲のタイトルそのままに「人生いろいろ」を笑顔で耐えた半生に見えた。
涙が芸の道連れとは言うものの...と、親交があった僕は、しばしば暗澹とした。美空ひばりをはじめ多くの女性歌手は、女の幸せも家庭の夢も捨てて、ひたすら庶民の娯楽に献身する。演歌、歌謡曲の主人公の辛い境遇をなぞる気配すら濃い。哀愁民族と僕が思う日本人の心を捉えるのは、身を捨ててまで奉仕して、悲恋を歌う彼女らの仕事だったのか?
法要を取り仕切ったのは、阿部三代松社長を筆頭にした日本コロムビアの人々である。この会社が身よりのない島倉の遺族代わり。彼女の遺品やもろもろの権利は、東海寺に寄進されており、陰で尽力したバーニングプロダクション周防郁雄社長も顔を見せていた。何かと厄介なことが残るこの世界のこととしても、これは極めて稀なケースだ。
墓参するファンの群れと話しているうちに、
「市川由紀乃の母です」
と名乗る婦人にまで出っくわした。
茂木名誉会長の弔いを囲んだのは家族と関係者の情、島倉千代子の霊を慰めたのは支持者たちの情だった。東海寺の参会者の中に美空ひばりの息子加藤和也氏の顔があって、僕は昔、島倉を喜ばせた語呂合わせを思いだした。
「美空ひばりは最初からおとな、島倉千代子は最後まで少女」
《北島三郎は元気だ!》
そう書くっきゃないな、これは...と思った。10月27日昼、東京プリンスホテルで開かれた作曲家中村典正のお別れの会でのこと。弔辞で彼は中村との交遊を語り尽くそうとした。弔辞は大てい書いたものを読み、故人の人柄や業績をたたえて型通りになるものだ。それを北島は遺影に正面切って、淡々と、時おり語気を強めながら、素手で語りかけた。言いたいことは山ほどある。時間的な長さなど意に介さずにまっしぐら。その熱意と音吐朗々に、僕は感じ入った。
お別れの会は日本クラウンの和田康孝社長と北島、それに中村夫人の歌手松前ひろ子が本名の中村弘子として3人が施主。北島は中村の友人であり、歌手代表であり、松前のいとこに当たるから親戚代表でもあったろうか。中村の作曲家デビューは北島の「田舎へ帰れよ」で昭和39年。その前年に創立されたクラウンは、この年の正月に第1回新譜を出している。コロムビアから移籍、クラウンの看板歌手になった北島と中村は、いわば同社同期の間柄。その後中村は北島のヒット曲「仁義」「終着駅は始発駅」のほかに「盃」「誠」「斧」など話題の一文字タイトルの歌づくりに参加している。
「歌手志望だったことは知らなかった...」
北島はつき合いのそもそもから語りはじめた。昔、歌手の登竜門として知られたコロムビア歌謡コンクールで入賞、山口・周南市から上京、歌手若山彰の付き人になり、作曲家原六郎に師事、作曲に転じた中村の、苦労人ぶりに気づいたのかも知れない。
「いやなところを一度も見せたことがない、いい男だった」
と言うのは、人前に出たがらない謙虚さと、囲碁、盆栽を趣味とする穏やかな人柄、麻雀とゴルフでの人づきあいなどを指していそうだ。
松前は北島の父方のいとこである。彼は当初彼女のプロ入りを渋ったとも聞くが、何くれとなく面倒を見たのだろう。中村に松前との結婚をすすめたのも俺...と弔辞は続いた。晴れてプロになった松前は、交通事故で声を失い、8年間ものブランクを余儀なくされている。中村がその間を支えて、再起から今日にいたる〝夫唱婦随〟ぶりにも、心を打たれていよう。
中村・松前夫妻は、門を叩いた三山ひろしを中堅演歌一方の旗頭に育てあげている。そのうえ娘の結婚相手として迎え入れた家庭づくりも堅実。性格的にはどうやら〝婦唱夫随〟の一端がうかがえるが、地方から捨て身で上京、名声と一定の平穏を得た彼らの生き方と身辺の固め方は、北島の若いころと軌を一にしているかも知れない。
ボスの肝入りの会だから会場内外には北島一家の顔が揃った。クラウンゆかりの古い人々の顔もずらり。みんなに親しまれたトラちゃんに献花する顔ぶれには、昨今の歌謡界と古きよき時代の歌謡界が交錯して見えた。ニックネームの由来は、中村がまだ無名だった昭和40年代にさかのぼる。彼の航空券を手配する担当者が、姓は判るが名が判らず「ええい、面倒」とばかり「とらきち」と書き込んだそうな。当時プロゴルファーの中村寅吉が有名だったことからの連想。そう言えば...と思い出すのだが、創立からしばらく「クラウン・スターパレード」一行が地方へよく出かけた。各地の民放テレビで歌手勢揃いの番組を放送、合わせて、首脳陣がその地区のレコード販売店主と会合を開き、よしみを通じた作戦。僕も取材で何度か同行したが、作曲家「中村とらきち」の名前の部分に、どういう漢字を当てはめたかは定かではない。いずれにしろ日本の7社めのレコード会社として誕生したクラウンの、牧歌的な時期の話ではある。
お別れの会の献花の返礼に、北島は松前と三山にはさまれ、椅子に座って対応した。彼が頸椎の手術のあと、立ち居振舞いに窮していることは周知の事実。
「それにしても、元気ですな」
と握手した僕の右手を、彼はしばらく放さなかった。彼や中村が過ごしたここ50年余を、よく知っている僕への懐旧の共感か。古きよき時代のあれこれを語り伝えたい思いが、彼の談話を長いものにしているのは、このところ恒例なのだ。
息子に先立たれ、身体が思うに任せぬいらだちもあるはずだが、それは表に出さず、北島三郎の動きは活発である。原譲二の筆名の作曲活動は旺盛だし、新曲も8月に出した「前に...」が今年のCD3枚目。
〽かわすな、ひるむな、ためらうな...
〽おごるな、迷うな、恐れるな...
と伊藤美和の詞に託して力説力唱する。中村典正と北島は83才。はばかりながら僕も同い年だが、元気な北島に尻を叩かれている心地がしたものだ。

殻を打ち破れ214回
≪いいじゃないか、こういう歌でお前さんは、還って来たんだな...≫
古くからの坂本冬美ファンと一緒に、僕はそう思った。しあわせ演歌冬美バージョンの『俺でいいのか』と、小気味のいい路地裏艶歌『男哭酒』のカップリング。久しぶりにモトの冬美に再び出会った気分だ。
吉田旺の詞がいいし、徳久広司の曲もいい。前田俊明のアレンジも手慣れてなかなか...と書いて、三拍子揃っていることに気づく。
しあわせ演歌と言っても、ひとひねり利いている。
♪二人ぽっちの門出の酒が 染めたうなじの細さに泣ける...
と、相手を見返す男も、あんたのためなら死ねると見詰める女も
♪星も見えない旅路の夜更け...
に居るのだ。『俺でいいのか』と問いかける男に、女の咲顔(笑顔を吉田はこう書くのだ!)がまぶし過ぎたりする――。
徳久の曲はW型である。歌い出しとサビと歌い収めに高音のヤマ場がある。ふつうおだやかめにスタートするM型の曲は、高音で張る部分がサビ一ヶ所になりがちだが、それに比べればインパクトの強さは倍以上。そのくせ破たんがなく、無駄もないメロディーで、芯が明るい。タイトルと同じ文句のサビが、以前徳久が書いた『おまえに惚れた』(美空ひばり)の♪惚れた
惚れたよ...を連想させるのもほほえましい。
≪冬美は"いい年増"になったもんだ≫
とも思う。もともとこの人は、「何を歌っても冬美」の得難い声の持ち主。それが作品によって趣きを変えるから、阿久悠が「色つきのたまねぎ」と評したことがある。むいてもむいても冬美...の意だろう。その独特の声味に、年相応、キャリアなりの生活感が加わった。声の切り替えや高音の張りに、かすれ気味の感触が生まれているのだ。もしかすると本人は、そこを気にするかも知れないが、歌のこまたが切れ上がったまま、情趣が濃いめじゃないか!
古い演歌好きの僕には、カップリングの『男哭酒』が捨て難い。自分を置き去りに逝った女をしのんで情緒てんめんの男唄。
♪あいつ居た春
居ない冬 心キリキリ風酒場...
と来て、男は「泣く」のではなく「哭く」のだ。だからタイトルは『男哭酒』と書いて「おなきざけ」と読ませる。
はばかりながら僕は昔々、彼女のために『夜桜お七』をプロデュースして、冬美の転機を作った。その後彼女は『また君に恋してる』を歌い、二つめの蜉化に成功している。歌世界の幅を広げた冬美は、ドレスでポップスを歌う今日性まで手にした。それもこれも「何を歌っても冬美」の強みで、ひところ僕は、彼女をニューヨークで歌わせてみたい夢を見たものだ。
そのくせ僕は、彼女が演歌に立ち戻る日を心待ちにもしていた。いくつかそれらしい挑戦を試みてはいたが、時期もよし、作品もよしの今作でこそ、わが意を得たりと合点する。
≪やったね、山口栄光!≫
と、友人の担当プロデューサーに拍手を送りたい。病気勝ちなのか、ほとんど人前に出なくなって久しい作詞家吉田旺にも拍手だ。1曲づつのこだわり方、ねばり強さ、独特の表現力は、変わることなく健在である。徳久広司の歌書きとしての千変万化は、油が乗り切って頼もしい。そして冬美がタイトルもじりで書けば
「わたしでいいの!」
と、昨今の演歌界に還って来た心意気にも共鳴する。
「やりやがったな、この野郎!」
亡くなった彼女の師匠・猪俣公章の声まで聞こえて来る心地がしている。
男の客がやたらに多い。それも多くは熟年である。女性客が居ても、ほとんどは彼らの連れ。ロビーのグッツ売り場に群がるのもほとんどが男。買い求め方が荒っぽくて、迫力まで感じる。作曲家杉本眞人、歌手名すぎもとまさとが集めた群衆だ。10月10日、用事がすんだ西麻布のスタジオから、プロデューサー佐藤尚の車で王子の北とぴあへかけつける。杉本のコンサートがそこで開かれていた。
「おっ、来てくれたんだ!」
シャイな杉本が相好を崩す。楽屋口から案内してくれたのも男、せまい楽屋に杉本と話し込んでいたのも複数の男。開演直前なのに妙にリラックスした雰囲気だ。
「この間は、ごちそうさん」
と杉本がぶっきら棒に言う。一瞬「ン?」になる僕が思い出したのは、ひと月ほど前に、行きつけの門前仲町「宇多川」で一ぱいやった件だ。六本木で秋元順子のライブを見たあと、作詞家の喜多條忠と彼を誘ったら、連れがあると言う。一緒でいいじゃないか...と乱暴に言ったら、観に来ていたファンを2人連れて来た。てっきり女性だろうと思っていたが、これも男。岩手だか青森だかの紳士で、杉本を応援する仲間が全国各地に多い気配があった。
北とぴあの客席の男たちのノリが滅法よかった。杉本の歌に合わせて、手を振り、声を合わせて大ホールがライブハウスみたい。「銀座のトンビ」では「ワッショイ、ワッショイ」がこだまする。「いまさらジロー」では「いまさらジロー、坂上二郎、二宮金次郎...」
と冗談の合いの手の大合唱。アイドル坊やにファンの女の子が反応するさまと、ほとんど同じ反応で、だんだん彼らがかわいく思えてくる。
「俺も年だから、だんだんきつくなって来たけど...」
ステージ上の杉本は古稀の70才。口の割りに精力的に動き、歌い語る。熱くなってるファンからすれば、似た世代の仲間意識や、彼を兄貴分とするリスペクト気分が強そう。杉本がスラックス、シャツにベストといういでたちなら、客席の面々も思い思いにラフな身なり、中には和服の着流しもいたりした。
「吾亦紅」は大ヒットしたからおなじみだろうが、母親の墓前で離婚を告げる息子が、白髪はふえたけど俺、死ぬまであんたの子供...と訴える真情ソング。「冬隣」は「地球の夜更けは淋しいよ...」を決め言葉に、逝ってしまった男を偲ぶ女性が主人公。男の真似して飲む焼酎にむせながら夜空を仰ぎ「この世にわたしを置いてった。あなたを怨んで呑んでます」なんて言っている。前者はちあき哲也の詞、後者は吉田旺の詞で、作曲と歌が杉本だ。
なぜか「死」にまつわる作品が多いが、それが象徴するように、バラード系は「杉本流情歌」である。それが歌謡曲ふう飾り言葉抜きで、率直に本音っぽい。辛い心情を彼のあの、ぶっきら棒口調と哀調のメロディーで歌うから、思いがストレートに伝わる。熟年の観客には思いあたる節も多そうで、会場がしみじみと一体化する。杉本とは長いつきあいで、彼の歌をよく聞き知っている僕でも、目頭が熱くなる。男は年を取ると涙腺がゆるむものだ。
終演後、僕は楽屋へ寄らずに次の仕事場へ行く。佐藤プロデューサーに託した伝言は、月並みだが「よかったよ」の一言である。会えば半端な感想など口にしにくい。十分に受けた感銘を言葉にしたら、話が長くなってその場にふさわしくなかろう。心に沁みたあれこれは、一人で抱えて帰るに限る。会場から近くのJR王子駅へ、聴衆の流れの中を歩く。男たちの多くは寡黙だった。彼らはきっと、杉本の歌に触発されて、人生って奴と向き合っている。自分自身の来し方行く末に思いをめぐらせてもいようか。
「アンコールもたけなわになっちまって...」
と客を笑わせながら、杉本は4曲もおまけをした。ラストはおなじみの「花のように鳥のように」で、これは、
?限りある一生を信じて、生きることが何よりも、しあわせに近い...
と阿久悠の詞が結ぶ。「しあわせに近い」の「近い」が曲者なのだ。
「100パーセントのしあわせなんてないもんな。60パーでも70パーでも、それを感じた時がしあわせなんだ。それを大事にしなきゃな」
と杉本も結んだ。これが作曲家杉本眞人と歌手すぎもとまさと(文中はややこしいので杉本で書いた)の創り出した世界である。上演2時間余、作品と歌手と彼の人柄と客が一体になって、おもしろくてやがて哀しい時間を共有するコンサート。歌社会でもきわめて稀れで、異色の充実感が一貫していた。

また家出をした。9月の門前仲町に続いて、今度は国道246に面した大橋のオリンピック・イン渋谷というホテル。10月2日に入って6日まで、ここから中目黒のキンケロ・シアターに通う。ここ5年ほど、レギュラーで出して貰っている路地裏ナキムシ楽団公演。このグループが今回はめでたく10回記念、これを「第10泣き」と表記する。
『涙の雨が降るぞオ』
がキャッチフレーズだ。
今作のタイトルは「屋上(やね)の上の奇跡」で、前作までとは打って変わったスペースファンタジー仕立て。タイムマシーンが過去と現在と未来を行き来する。とは言え不治の難病に冒された少年(中島由貴)と自称大発明家の青年(長谷川敦央)の交友が軸。例によって座長たむらかかしが中心のナキムシ楽団の音楽、歌と、役者の芝居が交錯する新機軸ドラマだ。
舞台は空と海に囲まれた病院の屋上。妙に強気な看護師長(小沢あきこ)にお尻を叩かれながら、自殺未遂の女(中島貴月)と入院患者の一人(橋本コーヘイ)の恋。ロックミュージシャン(千年弘高)と耳が聴こえない娘(三浦エリ)の淡い恋心。生さぬ仲の母(龝吉次代)と息子(小林司)の反発と和解などの悲喜こもごもが展開する。10作連続出演の小島督弘は、発明家の珍品の被害者。常連のIrohaは小道具揃えもてきぱき、病院長の僕にケイタイを持たせたりする。
バンド、役者も含めて若者揃い。その平均年齢を上げる僕の相棒は真砂京之介で死期が近い漁師という設定。真砂は松平健・川中美幸コンビの大劇場公演で、いつも一緒の10年来の友人。しかし別々のシーンばかりに出ていたのが、今回初めて面と向かっての芝居で、最初テレ気味がそのうち本気...と盛り上がった。二人は幼な友たちでいつもケンカ腰のやり取りだから、真砂の孫娘(鈴木茜)が気をもんだりする。友人の押田健史は発明家の弟だったり、未来からの使者だったりのお忙し。突拍子もない出番で笑いを取るもう一人の友人小森薫ともども新婚ほやほやで、二人の結婚披露宴は僕が主賓だった仲だ。
こう書いてくれば、ドラマの面白さや、和気あいあいの雰囲気が伝わるだろう。と、まあ、僕が役者だからお仲間の列挙がどうしても先になる。それにムッとしそうなのがミュージシャンたちで、何しろこの集団は〝楽団〟で〝劇団〟ではない。彼らがドラマを〝語り〟役者がドラマを〝歌う〟魅力を「青春ドラマチックフォーク」と標榜する。作詞、作曲、歌唱に演奏を担当するのがリーダーのたむらと暮らしべ四畳半、ハマモトええじゃろの3人。サポートするミュージシャンがカト・ベック、アンドレ・マサシ、遠藤若大将、久保田みるくてぃと妙なステージネームの腕利きだ。
ミュージシャンたちは舞台中央後ろめに板つき。その前で役者が芝居をする。それぞれの仕事が混然一体、ドラマの起伏とボルテージを大きめに揺すり観客を巻き込んでいく。得も言われぬ感興が生まれるから、この楽団の公演は演る方も観る方も「クセになる」のが特色。青春の感慨が具体的でたっぷりめのオリジナル曲の情趣に、初参加の真砂はうっとりしっぱなしで、
「俺も歌いたくなっちまうよ」
作、演出のたむらの才腕にも脱帽する。
よくしたもので、真砂と僕が歌う場面もちょこっとある。屋上のベンチで茶わん酒をくみ交わし、往時を思い返しながら舟唄をひと節。アカペラで歌声が揃わないのもご愛敬という趣向だ。歌となれば本職の演歌の歌い手小沢あきこは新曲が出たばかり。それも亡くなった先輩島倉千代子の「鳳仙花」をカバー。本家のキイをそのままの熱唱で、けいこの間もキャンペーンやライブなどに出かけて精を出している。
今回の公演は10月4日から6日までの3日間6ステージ。僕は9月初旬の東宝現代劇75人の会に出演したから、こちらのけいこには遅れて参加した。清澄白河の深川江戸資料館でやった「離ればなれに深川」のお調子者やくざ川西康介から、病院院長野茂への切り替えにひと苦労。体にしみ込ませた前作のせりふがなかなか居なくならず、新しいせりふが入る隙間が生まれないのに驚いたりした。このコラムが読者諸兄姉の手許に届くころは万事後の祭り。ま、本番は何とかこぎつけたから、乞うご安心である。

2019年夏、ベテラン歌手秋元順子のアルバムをプロデュースした。「令和元年の猫たち~秋元順子愛をこめて~」で、隠れた猫ソングの名作揃い。もともと誰かでカバーしたいとメモに書き止めていた作品群で、ひょんなことから秋元との縁でそれが実現した。
浅川マキが生前大事にしていた「ふしあわせという名の猫」は寺山修司の詞。昔なかにし礼が自作自演したアルバム「マッチ箱の火事」からは「猫につけた鈴の音」で、面白おかしくやがて物哀しいシャンソン風味。阿久悠作品なら「シャム猫を抱いて」と「猫のファド」、荒木とよひさと三木たかしが趣向をこらした「NE-KO」といった具合い。中島みゆきの「なつかない猫」や山崎ハコの「ワルツの猫」もいいなと思い、おなじみの曲もあった方がいいかと、ちあき哲也の「ノラ」や意表を衝くアレンジ(桑山哲也)で「黒猫のタンゴ」を加えた。
秋元の15周年記念盤だが、キャリアはゆうに40年。独特のいい声とさすがの力量で、彼女は初対面(?)の作品たちを見事に歌いこなしている。
ジャケット写真は、訴える視線の猫のドアップ。折からの猫ブームの核心を捉える算段だ。「面白くて味わい深い作品集」と大方の好評を得て意を強くしている。
新作は末尾の1曲「たそがれ坂の二日月」で、喜多條忠の詞に杉本眞人の曲。喜多條とは五木ひろしの「凍て鶴」以来の力仕事。杉本は秋元のリクエストだったが、いかにも彼らしい軽妙なメロディーとリズムに仕立てた。編曲は小粋なポップス系の川村栄二に頼む。この世界一流の面々を友人に持つことはありがたいもので、詞、曲、編曲、歌唱の4拍子が、あ・うんの呼吸であっという間に揃った。狙い通りのこの作品をシングルカット。こちらも9月の発売早々から好調の出足である。
「やったね!」とばかりに打ち上げの酒で盛り上がったが、調子に乗った僕は月島あたりの街角で、秋元と熱いハグをした。合計150才超の抱擁に、担当の湊尚子ディレクター(キング)の眼が点になったものだ。
年がいくつになっても、面白いことに目がない。新聞社勤めが長かったことが、性分に輪をかけていようか。近ごろは、行動半径こそせばまっているが、人間関係は深く、意外な方面へ広がって心躍ることが次々。ここ12年ほど、舞台の役者に熱中しているのもそのひとつ。ズブの素人が、70才からこの道に入ったのだから、それなりの苦心や緊張も味わっているが、要は面白くてたまらないのだ。それにしても―。
大阪の行きつけの居酒屋から、歌手のCDの売り込み!? が届くとは思ってもみなかった。差し出し人は「久六」の女将今井かほるさん。作品は田村芽実という歌手の「舞台」「花のささやき」「愛の讃歌」の3曲入りで、
「息子が小西さんに聴いて欲しいと何回も言うので...」
という手紙が添えられている。「久六」は川中美幸公演などで1カ月くらい大阪住まいをする時の、僕の夜の拠点。気に入った店があると通い詰めて、わがままな常連客になる癖があるが、この店も10年を越すつきあいだ。店では「おっかさん!」と呼ぶ女将と長く意気投合していて「息子」と言うのは二代めの大将克至さん、これが熟年筋金入りのアイドル・オタクで、歌手田村は愛称が「メイメイ」とあり、ジャケット写真も、いかにも...のいでたちである。
「おっかさん」と「大将」は、僕の泣きどころもしっかり抑えていた。3曲のうち「花のささやき」が、亡くなった阿久悠が遺した詞で、作曲がその息子深田太郎とある。川中美幸一家の役者やミュージシャン、マネジャーらを中心に、お仲間と夜な夜なおだを上げるのだから、阿久父子と僕の親交も、店の2人はよく聞き知っていたのだろう。手紙の行間に「これが気に入らぬはずはない」といいたげな笑顔が並んで見える。
《それはそうだよな》
と、僕はニヤつきながらCDを聴く。実は少し以前にも聞いていて、そちらは阿久の息子の太郎から届いていた。それも彼が出版した書きおろしの『「歌だけが残る」と、あなたは言った―わが父、阿久悠』(河出書房新社刊)と一緒。そのあとがきで彼は『田村は「二〇一八年にソロデビューした天才歌手」』と触れている。その時期太郎は、彼女のミニ・アルバムに父子共作の「カガミよカガミ」を提供したとかで、そうすると今作は、2作めになるのだろうか?
太郎は20代にバンドを組んでいたころ、
「セックス・ピストルズの演奏に、ヘンリー・マンシーニのメロディーを乗せたい」
と、思いつきを話したという。それが50代になった今日、こういう姿の音楽になったものか...。
〽はしゃいでいるだけで本気が苦手、いつもジョークで、たがいに笑わせて...
と、阿久の詞は年ごろの女の子の不器用な生き方と生きづらい時代にふれる。「たった一人を死ぬほど思いつめる」恋を思い描きながら、主人公は、ふと、
〽夢中、熱中、チュウチュウチュチュチュ...
なんてフレーズを口ずさむのだ。メロディーとリズムは、そんな若い娘の屈託を軽めに、多少の苦渋もにじませながら、太郎ロックとでも言えそうなセンスだ。
メイメイこと田村芽実の歌声が、何とも言い難い魅力を持つ。朗々とは声を張らず、幼げな口ぶりで語ることもなく囁くともない。それがアイドル世代のもの言いに通じるさりげなさと頼りなさに聴こえ、今ふうな心のゆらめきやときめきを伝えるかと思うと、ドキッとするような妖しい声味が出て来たりする。これがハロプロ・オタクの「大将」をうっとりさせ、作曲者深田太郎をして「天才」と呼ばせるゆえんだろうが、正直なところ旧々世代の僕は、心中たたらを踏む心地もしないではない。
ところで太郎の著書だが〝怪物〟と呼ばれ、時代を疾駆した大物作詞家と、繊細な感性を持つ一人息子の、極めて特異な父子関係を語って実に興味深い。多忙に追われ、めったに帰宅しない父を迎える時は「特別な客」に見えた子供のころから、「父以外のもの、ロック」と出会う青春時代、「阿久悠と関わらない人生」をテーマにした学生時代「株式会社阿久悠」の取締役として、父の歩みを検証、その業績を後世に伝える昨今までを、敬意をこめ注意深く、率直に伝える好著だ。
大阪の居酒屋「久六」には、僕の留守中も在阪の役者さんが現れ、僕の東京の芝居の様子は、在京の女優さんがメールで「大将」に伝えているらしい。おっかさんの手紙には、
「早く大阪へ戻って! 来たら必ず店へおいで」
の意も、さりげなく書き込まれていた。

殻を打ち破れ213回
清澄通りの信号待ちで、歌手秋元順子とハグした。合計150才超の抱擁である。居合わせたキングレコードの面々の、眼が点になったのも無理はない。
月島のもんじゃ屋「むかい」で酒盛りをした。秋元のメジャーデビュー15周年を記念したアルバム『令和元年の猫たち』の制作打ち上げで、本人を中心に、笑顔を揃えたのは7人ほど。
「最高!いいものが出来た!」
と、手放しで自画自賛する会だ。
もんじゃ屋と言っても、並の店ではない。銀座5丁目にあった小料理屋「いしかわ五右衛門」が、再開発に追い立てられて移転した小店。30年近い常連の僕が
「うどん粉なんて食えるか、戦後の食糧難時代に、フスマ入りがゴソゴソする代用食として食わされた。その幼時体験がぶり返すじゃないか!」
と悪態をついたせいもあってか、相当な酒の肴が揃っている。第一、銀座で鳴らした大将の腕がもったいないと、月島も行きつけになったが、もんじゃは滅多に食わない。お女将の心尽くしもあって当夜のメインは"はも鍋"で、猛暑の夜でもみんなが、ふうふう舌鼓を打った。
ところで『令和元年の猫たち』だが、折からの猫ブームをあて込んだな...と言われればそれはその通り。しかし、聞いて貰えば薄っぺらなものではないと判るはずなのだ。ミソは選曲の面白さ。歴代の名作詞家たちが猫の人生、猫に託した人間の喜怒哀楽を書いた傑作を並べた。それも人知れず埋れていた作品の再発掘が狙い。
たとえば寺山修司が書いた『ふしあわせという名の猫』がある。親交があった浅川マキのレパートリーだが、彼女は自分の歌を他人がカバーすることを許さなかった。それが仕事先の名古屋で客死、大分日が経ったから、もういいだろうと世に出すことにした。なかにし礼が自作自演した『猫につけた鈴の音』というのもある。子供を欲しがったのに、にべもなく男が断り、失望した女が出て行くのだが、彼女の置き土産の猫のお腹が大きくなる。仕方なしに鈴をつけてやって「おめでとう」と呟く男の心中はいかばかりか。
昔、なかにし礼が出したアルバム『マッチ箱の火事』に収められていた一曲。面白くてやがて哀しいシャンソン風味は、秋元の新境地開拓にもって来いだ。阿久悠が書いた『シャム猫を抱いて』や『猫のファド』もいいし、中島みゆきの『なつかない猫』や、山崎ハコの『ワルツの猫』も捨て難い。荒木とよひさの『NE-KO』もある。
おなじみの曲もあった方が...という意見を入れて、ちあき哲也の『ノラ』と、みおた・みずほ訳詞の『黒ネコのタンゴ』を加えた。全曲5人のミュージシャンをバックにしたライブ仕立て。『ノラ』は中村力哉、『黒ネコ』は桑山哲也のアレンジが「ほう、そう来るかい!」と言いたい味つけで、元歌とは趣きをまるで異にする――。
こうまで力み返って書くのは、はばかりながら僕がこのアルバムをプロデュースしたせい。「風(ふう)」と「パフ」という愛猫二人!?と同棲、猫好きでは人後に落ちぬ僕が、長いことメモして来た"わが心のキャット・ソング"の勢揃いである。歌うのが秋元で、ジャズが中心だが"何でもあり"の、彼女の力量があってこそのアルバムになった。新曲は『たそがれ坂の二日月』で、喜多條忠の詞、杉本眞人の曲、川村栄二の編曲。これがシングルになるはずだ。
この原稿にはアレが付くだろうな...と、僕がニヤニヤするのはジャケット写真の奇抜さ。ご覧の通り、何とも魅力的な猫のド・アップで、インパクトの強さといったらないじゃありませんか!
9月初旬の6泊7日ほど、深川・門前仲町のホテルに居た。昔、長いこと勤務したスポーツニッポン新聞社が越中島にあり、この一帯の飲み屋街はいわば僕の縄張り。ここから地下鉄大江戸線で一駅、清澄白河近くの深川江戸資料館小劇場でやった東宝現代劇75人の会公演へ通う。何で門仲泊まりかと言えば、共演者との反省会!? や、観に来てくれた友人たちとの宴会に便利なせい。5日間7公演、老優の僕を気づかってか、足を運んでくれた恩人、知人、友人は何と130人を越えた。涙が出るほどありがたい。
演目は「離ればなれに深川」(作、演出横澤祐一)の二幕九場。僕はお調子者のやくざ川西康介役で、出演者全員とからむ。自然出づっぱりで、せりふも山ほど。何しろ作、演出の横澤は、僕のこの道の師匠だから、緊張感も半端ではない。
《また見てるよ!》
芝居の最中に舞台ソデに目が行くと、必ず横澤の冷徹な視線に気づく。舞台の役者12年、この劇団に入れて貰って10年、客席の友人の視線は全く意識せず、全体の反応から来る陶酔の快さと、師匠のチェックが生む覚醒が、うまい具合に攪拌されればいい。しかし、年齢のせいにしたくはないが、集中力の方は時おり薄れる。とたんにせりふが表滑り、芝居にほころびが出る。細かい言い間違いや言い直しを、それとなくやるが、どうぞ客の諸兄姉には気づかれぬように...。
深川は掘割りの町である。それぞれを背景に、横澤の深川シリーズは今作で6本め。毎回いい役を貰っているのに...と、ふと立ち止まるのは、宿舎そばの大横川にかかる石島橋の上。人影もない深夜。その黒々とした流れを見おろし、アイコスのスムースなど一服すると、何やら感傷的な気分になる。口をつくのが昔々のはやり歌「川は流れる」だったりして、
〽病葉(わくらば)を今日も浮かべて、街の谷、川は流れる...
病葉役者が思い返すのは、今は亡き作詞者横井弘、作曲者桜田誠一の笑顔。歌った仲宗根美樹は元気にしていようか?
《そう言えば...》
と我に帰る。劇場には星野哲郎の息子有近真澄が一族郎党引き連れて6名も来てくれた。阿久悠の息子深田太郎は作家三田完と一緒に。吉岡治の息子天平や孫娘のあまなも来た。美空ひばりの息子加藤和也とその細君有香はなぜか別々の日に現れる。大きな実績を残した歌書きたちや、大歌手に密着取材をして、その子孫との〝その後〟のつき合いである。これもありがたい縁だろう。歌社会のお仲間の顔も沢山見た。親しい作家井口民樹は病いを押して夫人の介護つき。スポニチ時代の恩人牧内節男社長は僕よりはるか年上だが、
「君の芝居をみるのも、これが最後だろう...」
陸軍士官学校出身、毎日新聞時代にロッキード事件で辣腕をふるった社会部幹部で、僕ら記者の鑑なのに、珍しく弱気な発言をして去った。
8日昼の部が千秋楽。台風15号接近を心配したが、公演は無事に終了。後片づけのあと午後6時から門仲の中華料理店で、打ち上げである。飲み放題食い放題2時間を大騒ぎして、早々に解散する。電車が動くうちにと気もそぞろ。東海道線はもう止まったが、横須賀線はOKで、逗子駅から葉山へ、バスも運行していた。
うまく行ったのはそこまでで、台風の直撃を食らった。我が家はご用邸近くの柴崎地区と呼ばれる岬の突端。マンション最上階の5階に位置、眼前の海、その向こうに富士山、右手に江ノ島、左手に遠く大島...で、
「眺望絶佳!」
と、小西会の面々が嘆声をもらす代物だが、この夜ばかりはそれが裏目に出た。暴風雨が四方から叩きつけ、荒れた海の波しぶきが5階まで上がって、まるで滝壺の底状態。激しい音と建物の小ゆるぎに肝をつぶした愛猫の風(ふう)とパフは、あわてふためき、身を低くして隠れ場所を捜すが、三方が海、裏が山では、見つかるはずもない。
まんじりともせぬまま台風一過、その翌日10日から僕は路地裏ナキムシ楽団公演「屋上(やね)の上の奇跡」(4日初日、中目黒キンケロ・シアター)のけいこに入った。やくざの川西康介から、病院の院長・野茂への切り替え。引き続きの難行だが、望外の老後にうきうきしている。

川西康介、60代、江東区深川在住のやくざ。先々代の跡目を継いで、こぶりの建築会社を経営。隅田川畔にボロ・アパートを持つ大家だが、老朽化の激しさに苦慮する。何しろ太平洋戦争末期の東京大空襲から、辛うじて焼け残った代物である―と、僕は珍しく今回与えられた役柄とその周辺を書く。9月4日初日の東宝現代劇75人の会公演「離ればなれに深川」(作、演出横澤祐一)の件で、上演するのはおなじみ大江戸線と半蔵門線の清澄白河駅そば、深川江戸資料館小劇場だ。
舞台になるのは問題のボロ・アパートに急造された喫茶店。康介の兄弥太郎(丸山博一)は管理人。三井留子(鈴木雅)と星会直子(梅原妙美)は一人暮らし、俳人の原田修(大石剛)と深川芸者鶴吉(高橋ひとみ)は夫婦、吉永貴子(高橋志麻子)と待子(下山田ひろの)は母娘で、折りに触れて弥太郎の娘八洲子(古川けい)や留子の息子章太郎(柳谷慶寿)が現れる。劇の冒頭に登場する竹原朋乃(松村朋子)と、時々ふらりと姿を見せる老人(横澤)が、この脚本家お得意の謎多い人物で、出演者はこれで全部。時代は敗戦から10数年後の昭和30年代後半、出て来る善男善女はみな、何かしらの事情を抱えている―。
ま、こういう方々とそれぞれの役柄を相手に、酷暑の8月、せっせと池袋・要町のけいこ場へ通った。この劇団、もともと劇作家菊田一夫の肝いりで作られた由緒正しいところで、その薫陶よろしきを得た面々はみなベテランの芸達者。そこに加入を許されて10年そこそこの僕は、年齢こそひけを取らないが、いつまでたっても一番の新参者だ。
けいこ後の反省会なる酒盛りでは、飲んべえキャリアなら相当に自信の僕も、水を得た魚になるが、けいこはやはりかなりの緊張感を強いられる。舞台装置が一つだけの二幕九場。自然おびただしいせりふが飛び交うことになるが、みなさん平然と役柄をこなす。月はじめの顔寄せ、台本の読み合わせで、もうせりふが入っている人に度肝を抜かれたり、着々と役に入っていく共演者を横目に、こちらはあたふたの連続だ。
《ン? どうしたんだ一体?》
と、自分にいらだつのはなかなか役が、自分のものにならないせい。師匠の横澤の教えを受けて、そこそこ型になったこれまでにくらべて、どうしたことか今回は思うに任せない。
「加齢による症状でしょう。抜本的な対策はありませんな。ま、あまりストレスを貯めないように...」
と、行く先々の医師が口を揃えるのを思い出す。年のせいにしたくはないが、物忘れはどんどん進行するのに、物覚えの方はまるで劣化している。
毎回見に来てくれる友人たちが、
「よくまあ、あれだけのせりふを覚えるよ」
と、妙なほめ方をしてくれるのへ、
「諸君は、俺の記憶力を見に来てるのか? 演技力についてのコメントはねえのか!」
と言い返して来たが、今回はそう言い切れるかどうか。葉山からバス、逗子から湘南新宿ラインで池袋へ。家からけいこ場までドア・トゥー・ドアで2時間半ほど。車内で台本を広げるのは面映ゆいから、自分のせりふを書きだした紙片相手にボソボソを続ける。そのうち車内では完ぺきの境に達するのだが、けいこ場で大声を出すと、とたんに頭がまっ白...という体たらくだ。
ホッと一息ついたのは8月の下旬、さすがの炎暑もひと段落という束の間の数日に、記憶力が少々戻って来た。九州北部は記録的大雨で大変な水害被害。知人に「大丈夫か?」の電話を入れるほどなのに、不謹慎のそしり免れぬのは承知で、気楽にけいこのラストスパートである。有楽町線要町駅から、谷端川南緑道をトボトボ10数分。日傘デビューを果たした日々を思い返す。ふと気づけば、終わったと勘違いしたさるすべりの花が一挙満開、カンナの花の赤や黄が背のびをはじめ、ずっとしおれたままだったおしろい花まで、息を吹き返しているではないか。
とまあ、それやこれやでけいこも何とか軌道に乗りかかった。僕の川西康介はやくざだが、気のいいお調子者。吉永母娘の双方に、ちょいとその気になったりするのだが、そんなにうまく行くはずもない。言ってみれば深川の寅さんみたいで、出番は全九場のうち五場。9月1日にけいこ場を閉めて深川へ入り、4日の初日に向けて、やっとこさ雄躍邁進! である。

《ほう...》
いい歌に出っくわした。昼ひなかからうなぎを食って、日本酒をやったせいばかりではない。「小島の女」というその作品が、妙にしみたのだ。桟橋で男を見送る女が主人公。北から流れて瀬戸内へ来た居酒屋ぐらしだが、それが一夜の相手と別れる。ま、お定まりの設定だが、歌詞に気になるフレーズがいくつかあった。例えば、
〽あたしの体を男がすぎた、何人だったか数えたくない...
〽カモメが泣いたらあたしは起きて、みそ汁なんかを作って送り出す...
ステージで歌っていたのは西山ひとみという歌手。聞いたことのある名前だが記憶はさだかではない。年かっこう、歌いぶりからすれば、かなりのベテラン。この世界の酸いも甘いも、そこそこ体験したろう気配がある。発声が妙だ。一度口中にこもったような声が、ハスキーな味を作って改めて出て来る。歌詞のコトバが粒立って聞こえないのは、唇の緊張感に欠けるせいか。しかし、これもこの人の個性と言えば個性か―。
西山とこの作品に出会ったのは、大分前の7月27日丑の日。上野・不忍池そばのうなぎ料理屋亀屋一睡亭4階のライブハウスだ。実はこの日、ギタリスト斉藤功の演奏会がそこであり、友人夫妻に誘われて出かけた。船村徹メロディーを中心にやるのが気になった。斉藤は船村の自主公演「演歌巡礼」をサポートした仲間たちバンドのメイン・ミュージシャン。船村の知遇を得て、外弟子を自称する僕の船村歴は54年だが、
「僕が今日あるとすれば、船村先生の薫陶を得たおかげです」
と、常々語る斉藤とのつき合いも長い。
さすがの手腕である。斉藤が弾いた船村作品は「別れの一本杉」「柿の木坂の家」「海の匂いのお母さん」「みだれ髪」など。弦を押さえた左手の指が、その箇所を離れぬまま、小刻みに揺れる。生み出された音色が、船村メロディーをはかなげに揺らして、余韻を深いものにする。泣くでもなく恨むでもなく、その哀愁にはそこはかとない抑制の妙がある。一世を風靡した〝泣き〟のギタリスト木村好夫の没後、斉藤が第一人者と目されるゆえん。多くの演歌歌謡曲系の作家や歌手が、レコーディングに彼をこぞって招くはずだ。
西山はその会のゲストとして登場、斉藤のギターで「小島の女」を歌った。もう一度聞きたいと言ったら、すぐにCDが届く。山上路夫の詞、杉本眞人の曲、斉藤がアレンジしたアコースティック・バージョン。どうやら彼女は、旧作のこの歌を、後生大事に吹き込み直しをし、編曲を変え、趣きを変えているらしい。彼女にとってはきっと、宝物の作品なのだろう。
《あの山上が、こういう詞も書いていたんだ...》
ずいぶん長いことご無沙汰をしっぱなしの詩人の顔を思い返した。昔、小柳ルミ子で、泣いて見送る弟をなだめながら、嫁ぐ娘の真情を書いた作詞家である。あれも舞台は瀬戸内。それがこの作品では西山に、
〽後添いぐちでもあったら行くよ...
と、やすらぎの寝ぐらを探す女の心情を歌わせていて面白い。行きずりの男を見送る女が、約束はいらない、またふたり縁があったら逢えるさ...と、泣きも恨みもせぬあたりが山上流か。
《流行歌って、いいもんだな...》
僕は〝埋もれたいい歌〟との、偶然の出会いにしみじみとする。杉本の曲もなかなかだ。毎月々々、流行歌はひっきりなしに生み出され、その多くがさしたる反響も得ぬまま、流れ去っていく。歌好きたちの支持を得るヒット曲はひと握り。制作者と作家や歌手が、精根こめた仕事をしても、消費され続けるのが流行歌ビジネスの現状なら、だれも異を唱えることはない。
「でも...」
と、与えられた作品を掌の珠みたいに、長く歌い継ぐ西山の例は、それだけに得難い。作品の完成度が高く、歌手に似合いならなおさらだ。
斉藤のコンサートには昵懇のジャズ歌手森サカエも来ていた。「ダーリン!」と呼び合い、人前でもハグをするこのベテランも、船村門下の姐御肌である。この会で僕は、西山のいい歌と出会い、船村の連載ネタをいくつか拾った。船村の郷里・栃木を中心に発行されている下野新聞の「素顔の船村徹・共に歩んだ半世紀」は、2年めに入っている。月に2回の掲載だが、地元だけに船村と親交があった読者は多い。その緊張感も手伝うのか、もう3回忌も過ぎた船村が、僕の胸中から全然居なくならない。それもこれも流行歌が結ぶ縁だろうか。

殻を打ち破れ212回
ケイタイに電話をしたらその夜、新田晃也は故郷の福島に居た。コンサートが終わったばかりだと言う。
「新曲、受けたか?」
と聞くと、待ってましたとばかりに、
「受けた、受けた。タイトルを言っただけで、もう爆笑!拍手が来ましたよ」
受け答えする彼の背後には、人々の談笑がにぎやかだ。久しぶりに会った友人たちか、それとも打ち上げのスタッフか。場所は居酒屋と、おおよその見当はつく。
≪そりゃ受けるだろうな、客のみんなに思い当たるふしがあるんだから...≫
こちらもニヤニヤする。新曲のタイトルが何と『もの忘れ』なのだ。
♪近頃めっきり
もの忘れ どうしてこの場所 俺はいる...
石原信一の詞の歌い出しである。薬は飲んだのかどうか?昨日の約束もすっかり忘れている...などと歌が続く。二番では惚れた女を待った雨の街角が出てくる。昨日今日のことはおぼつかないが、昔のことはやけにはっきりと覚えている老境がほほえましい。三番には、話の合わない息子や、わけのわからない娘のおしゃれまで。
僕もそんな年かっこうである。隣りの部屋へ行って、さて何しに来たのかなんてことはしばしば。友人との会話は、
「あいつだよ、ほら...」
と話しかけながら、あいつの顔は出て来ても名前が思い出せない。よくしたもので相手は、
「あぁ、あいつか。うん、まだ元気だろ?」
と応じて、話が通じてしまう。年寄りならではのツーカーで、友だちはなかなかいいものだ。
友人の新田のために、石原は時おり思い切った詞を書く。コンビの第一作は『寒がり』だったし『昭和生まれの俺らしく』なんてのもあった。2015年の新田の歌手活動50周年記念曲は『母のサクラ』で、年を重ねてしみじみ思い返す母親について二人は、大いに意気投合した。ともに70代、そんな年ならではの本音を歌にする。石原の詞にその都度じ~んと来て、新田が曲をつけて歌う作業。歌づくりを楽しんでもいようか。
流行歌はもともと、絵空事のお話である。恋愛ざたのあれこれが、永遠のテーマ。作家も歌手もいわば青春時代の感傷を、それぞれの味つけで独自の世界を作ろうと腐心する。絵空事に、血を通わせ肉とする試行錯誤をくり返すのだ。演歌、歌謡曲の歌手たちも、ご他聞にもれぬ高齢化社会の中にいる。孫に恵まれた年になっても、孫の話はせず、孫の歌は歌わない。ファンの夢をこわすまいとするのが一般的だ。
石原はヒットメーカーの一人である。市川由紀乃をはじめ、若手から中堅の歌手たちには、似合いの恋物語を書く。実績が認められて日本作詩家協会の幹部にもなっている。
「でもさ...」
と、時おり踏み止まったりするのだろう。熟年の歌手には年相応の歌があってもいいのではないか?ファンの年齢層が高いジャンルだけに、そんな歌に呼応する向きも居るはずだ。問題は"老けネタ"を承知の歌手が居るかどうかだったが、新田との出会いがそれを可能にした。
新田は銀座の名うての弾き語り出身。自作自演の演歌系シンガーソングライターとしてマイペースを貫いて来た。一発ブレーク、天下を取る夢を捨ててはいまいが、むしろ「自分らしい世界」を作ることに熱心な男だ。
新田が伊達、石原が会津と、同郷のよしみも深い二人の歌づくりは愉快な冒険である。二人それぞれとのつき合いが長く、引き合わせた僕としては、笑いながら極力応援せざるを得ない。
影を踏みながら歩いている。谷端川南緑道をトボトボ。連日35度の酷暑を午後1時半過ぎから15分ほど。地下鉄有楽町線の要町駅から行く先は廃校になった大明小学校跡の一部のけいこ場。9月4日初日の東宝現代劇75人の会公演「離ればなれに深川」(横澤祐一脚本・演出)のけいこだ。2時ちょっと前には現場へ着きたい。それにしても、全身から吹き出す汗はどうしたもんだ。
辿るのは遊歩道である。もともと川だったのを、埋め立てたのだろう。植え込みの緑が続き、ところどころに子供用のブランコ他の遊具がある。池袋界隈とも思えぬほど自然がたっぷり。さるすべりの花はもう終わった。無花果の実がふくらみ始めている。それやこれやを視線の隅に入れて移動する。5月ごろに歩いたら、すこぶる気分がよさそうな場所である。しかし今は8月初旬、カンカン照りが恨めしい。おまけに去年まであった喫煙スペースだってなくなっちまっているでないか!
「影を踏みながら...」と書いた。自分で作る影である。遊歩道だから緑はいっぱいあるが、背の高い樹木がないから日陰はない。やむを得ず日傘をさしているのだ。家人に買い与えられた代物。テレビが連日、
「お年寄りが熱中症で搬送され、亡くなった方も...」
と報じるのを見てのことらしい。そう言われれば僕も、十二分に該当する年齢である。家人の懸念も無理はないか。
「男が日傘? 冗談言うな!」
と、当初は抵抗した。はばかりながら昭和の男である。敗戦後の食料難にもツバを飲み込みながら耐えた。高校を出て上京、新聞社のボーヤに拾われたが、安月給の空腹にも耐えた。腹の皮が背骨にくっつきそうになり、JR王子駅から飛鳥山の坂が上がれなかったのも、今は笑い話だ。振り返ればこの年まで、耐えてしのいだ山ばっかりだった。歯をくいしばって耐える。明日を信じて踏んばる暑さになんか負けるか。それが男ってもんだろう...と、やたら演歌チックになる僕を、ニヤリと見返して家人が言ったものだ。
「男の日傘って、今やトレンドよ!」
ま、それはそれとして、けいこ場へ入ればこっちのもんである。時代は昭和30年代後半、舞台は深川のボロアパート。そこで暮らす人々の人情劇だが、僕の役はそのアパートの大家で建築会社の主、住人からは〝親分〟と呼ばれるやくざだ。それも能テンキなお調子者で、することなすことヘマばかりである。住人の一人で、もとはお家柄のご婦人(高橋志麻子)に懸想してのあれこれ。実の兄貴でアパートの管理人(丸山博一)から、その都度、
「馬鹿だねえ、まったく...」
とサジを投げられている。
セットがボロアパート一景だけの2幕9場。自然せりふ劇の色彩が濃く、そのうち5場と出番が多い僕にも、覚えるのが難儀なくらいのせりふがある。放っておけばそれを、突っ立ってしゃべってばかりになりそうなのへ、演出の横澤祐一が動きを加える。
「あ、そこは入り口をガラッとあけて、一歩中へ。あれ? 何よ、ちょうど良かった...なんて言いながら中央へ...ね!」
「そこね、つけ回しにしようか、貴子が嫌みな笑いを見せてカウンターの奥へ入るでしょ。それを見送りながらグルッと回り込む。立ち止まって老人を睨みつけて咳払い、管理人に眼をやると、また馬鹿だねえ...が来るでしょ。そこで正面切ってガクッとなって溶暗。そうだな、咳払いは2回やるか」
貴子は僕が懸想するご婦人。ライバルみたいな謎の老人をやるのは横澤。二人のからみ方に僕がイラ立つシーンだが、横澤は老人から演出家に早替わりしての演技指導である。その方が手っとり早いとばかり、貴子の動きも僕の動きもさっさとやって見せる。お手並み鮮やかだから僕は吹き出し、出を待つ鈴木雅、古川けい、下山田ひろの、高橋ひとみら女優陣は大笑い。一人ひどく真面目に、台本にあれこれ書き込むのは演出助手の柳谷慶寿という具合い。
行きは地獄、現場はよいよい...の日々。日傘の道々で僕を慰めるのは、小路の両側の民家からひょいと顔を出す猫の一、二匹である。立ち止まって愛想を言う僕を、怪訝な顔で見守るそいつらは、別に逃げるでもなく、なつくでもない。この欄で以前に触れたが、僕は秋元順子の新アルバム「令和元年の猫たち」をプロデュースしたばかり。寺山修司、阿久悠、なかにし礼、中島みゆき、山崎ハコらが書いた〝埋もれた猫ソング〟の傑作を集めたのを思い返す。それだけに道ばたの猫もお仲間気分。しばし灼熱も遠のいたりして、やれやれ...なのである。

〽ナムカラカンノトラヤ~ヤ...
がまた出て来た。太平洋戦争に日本が敗れた昭和20年、疎開して一時世話になった寺で、耳で覚えたお経の一部である。当時僕は小学校3年生(そのころはまだ国民学校と言った)だから、その意味など判るはずもない。歌謡少年の僕は、おまじないみたいに音だけで、これを覚えた。片仮名で書くしかないが、その表記だって正確とは全く思えない。
それにしても、ひと夏に2回である。1回目は7月12日の臨海斎場、ひばりプロ加藤和也社長の運転手・西澤利男氏の葬儀で聞いた。そして今度は同じ月の21日、永平寺別院長谷寺で営まれた作詞家阿久悠の13回忌法要で耳にする。阿久の墓は当初、伊豆の高台にあった。家族が住居を東京に移したころに、それも東京へ移転した。場所は六本木通りを青山の骨董通りへ右折する手前の角である。〝怪物〟の名をほしいままにした阿久の、〝主戦場〟にあたる界隈。ここならみんな、思いつく都度、いつでも墓参りが出来よう。
近ごろちょくちょく連絡を取っていた息子の深田太郎から、
「親族だけでやるつもりだけど...」
と聞いた僕が、
「俺も親族みたいなもんだろ!」
と強弁して押しかけた法要である。
《もう13回忌か...。それにしても午前10時からってのは早いな。俺、葉山からだぜ...》
身勝手な感想を抱えながら、控え室に通されたら、雄子夫人に太郎夫妻、阿久が見ぬままに逝った孫を中心に、集まったのはごく少人数。血縁でないのは、オフィス・トゥーワンの海老名俊則社長夫妻と僕だけだった。間もなく本堂へ。僧だけはすごく大勢である。メインの椅子に1人、それに両側で従う僧が5人ずつ。その後ろにもかなりの僧たちが控えていて、鐘と木魚の係りが1人ずつといった具合い。参列した僕らより相当に多い豪華版だ。
《内々でやっても、することはきちんと、堂々と構えるあたりが、実にあの人の法要らしい》
長いこと歌づくりに密着したが、阿久は僕らのスポニチに、エッセイや連載小説、作詞講座に27年におよぶ大河連載「甲子園の詩」などを精力的に寄稿した。しかしその間、慣れや手抜きのゆるみたるみが、一切なかった事に改めて感じ入る。
粛然たる法要もいいもので、読経の声がまっすぐに胸に来る。その中に「愛語」という言葉が出て来た。たまに耳にすることのある熟語である。阿久も僕も言葉や文字を繰る仕事をして来た。
《この際だから、この言葉が経の中でどういう意味を持つのかを考えてみるか》
僕は帰りしなに「修証義」なる小冊子を買い求めた。曹洞宗宗務庁刊で100円である。それによれば、衆生を利益する「四枚の般若」というのがあり、一が「布施」二が「愛語」三が「利行」四が「同事」で「これすなわち、薩?の行願」だと言う。仏の教えや戒めということか。
「愛語」にこだわる。これは赤子の思いを貯えて言語するもので、徳あるは讃(ほ)め、徳なきは憐み、怨敵を降伏し、君子を和睦させることを根本とし、聞く人を喜ばせ、心を楽しませる。聞いた人は肝に銘じ、魂に銘じる。だから「愛語」は「廻天の力」があると言うのだ。
《なるほど、そういうことか...》
と、僕は腑に落ちた気分になる。
今回の法要は、お清めの食事もなしで墓に焼香して散会した。これもいい! と共感しながら、手土産に添えられた太郎と雄子夫人のあいさつ状を読む。
「時代が昭和から平成、そして令和に突入いたしました。いつの時代も音楽が聞こえてくるような平和な世の中を祈り、これからも阿久悠が遺した歌の数々が、令和を生きる皆様の心のよりどころになるように、私どもも努力して参ります」
とあった。
阿久が書いた山ほどのヒット曲は、すべて彼が発した「愛語」だったと思い知る。流行歌に彼は、彼の信条や哲学を全力をあげて書き込んだ。だからこそ彼の作品は良質な娯楽として、長く人々の心を楽しませ、感興を深いものにするのか―。
「今回は珍しく、抹香くさい内容だな」
と思われる向きもあろう。10月で83才と馬齢を重ねた男の、老境が書かせたものとお汲み取り頂きたい。7月までとは一転、酷暑の日々が来た。間もなく「お盆」で9連休とかになる。帰省する人々、外遊する人々などで、みんなは大移動する。そんなお楽しみの中で、
「〝愛語〟なあ...」
なんてひととき、あれこれ思い返すのも、一興じゃありませんか!

こちらもレギュラー出演、若いミュージシャンや役者諸君に混じってブイブイ言っています。恒例の路地裏ナキムシ楽団公演は10月4日から3日間5公演、「屋根(やね)の上の奇跡」を中目黒キンケロ・シアターです。
ステージ下手板つきのバンドは、たむらかかし(Vo, AG)を筆頭に暮らしべ四畳半(Vo, AG)、ハマモトええじゃろ(Vo, Pf)、カト・ベック(EG)、アンドレ・マサシ(Ba)、遠藤若大将(Dr)、久保田みるくてぃ(Perc)の7人。それに対抗する演技陣は長谷川敦央、中島由貴、小沢あきこ、小島督弘、千年弘高、橋本コーヘイ、小森薫、Iroha、押田健史、中島貴月、穐吉次代、小林司、鈴木茜、三浦エリ、真砂京之介と僕。生演奏と芝居がコラボするこの新機軸エンタは今回が第10泣き記念公演です。
ライブハウスからスタート、次第に劇場へレベルアップ、第10回を「10泣き」と表記するのが特色。若者らしい感性で、人が生きていくことの機微を描いて、涙を誘います。その熱気がファンの心を撃って、毎回、けいこ始めの時期にチケット完売の勢いを持ちます。今作の舞台は病院の屋上。そこに集散する人々が、こちらも悲喜こもごもの生き方をさらします。メジャー展開定着を賭けるエネルギーにぜひ触れて下さい。
お待たせの東宝現代劇75人の会、今年の公演は9月4日から5日間、おなじみの深川江戸資料館小劇場です。横澤祐一脚本、演出の「離ればなれに深川」(2幕)で、くどいくらいに"深川"ですがシリーズ6作目、毎回大好評を受けて、今回のお話は、敗戦後10年ほどの時期、安アパートを舞台に、庶民の悲喜こもごもの人情劇が展開します。
出演は丸山博一、鈴木雅、高橋ひとみ、高橋志麻子、古川けい、柳谷慶寿、梅原妙美、大石剛、下山田ひろの、松村朋子らベテラン勢に、所属10年めの僕。東宝演劇を支えた面面の"味とコク"の仕事ぶりに、触発されること山ほどの日々です。酷暑に入った8月、せっせとけいこ場に通った成果!?をぜひご覧下さい。問い合わせ先は080-6697-3133です。

殻を打ち破れ211回
「頑張ってます!」
とエドアルドが言う。5月25日、東京・芝のメルパルクホール。関係者気分で楽屋裏に入って来た彼と、久しぶりに会った。この日、このホールで開かれていたのは「日本アマチュア歌謡祭」の第35回記念大会。エドアルドは18年前の2001年に、ブラジル代表として出場、グランプリを受賞してそのまま日本に居据わり、苦労してプロになった。レコードデビューして何年になるか、異郷人だからか望郷ソングを2曲ほどシングルで出し、最近作は『竜の海』(石原信一作詞、岡千秋作曲、前田俊明編曲)で、とてもいい歌だからあちこちに吹聴の原稿を書いた仲だ。
「ガンバッテ、マ~ス」
明るい一言にブラジル訛りを感じる。それはそうだろう。本名がフェレイラ吉川エドアルド年秋だが、生粋のブラジル人で日本は彼にとって異国である。そこで歌い、異国の楽曲で、異国の歌手たちとしのぎを削るのである。半端な頑張り方では勝ち目などない。グランプリを獲った時は、相撲部屋の新弟子みたいに太っていた。それが今では、すっきりと中肉中背、当時の半分くらいの体型になっている。ダイエットなんてなまやさしいやり方ではない。文字通り身を削る努力が、こんなにはっきりと眼に見える例など皆無だろう。
面倒を見てくれた事務所が、最近事業を縮小、エドアルドはその禄を離れた。当面は所属するレコード会社扱いで活路を模索する。縁が薄いのか、ツキがないのか、彼はまたまたそんな境遇とも戦わなければならない。演歌、歌謡曲を取り巻く状況は、相当に厳しい。それも承知で彼は、もうひと踏ん張りするのだろう。いい奴なのだ。いい歌い手なのだ。しかし、それだけで何とかなるほど、この世界は甘いものではない。
「うん、頑張れよ!」
僕はそう言って、かなり年下の友人の手を握った。出来る限りの応援をするつもりだが、今は、そう言うしかないか!
エドアルドの隣りで
「統領!あたしは来年40周年です。またいい曲を作って下さい!」
と、大声になったのは花京院しのぶである。僕は彼女のために、カラオケ上級者向けの"望郷シリーズ"をプロデュースして来た。亡くなった島津マネージャーとの、長いつき合いがあってのこと。今回の舞台でも『望郷新相馬』や『望郷やま唄』を歌う参加者が居た。歌の草の根活動をしている花京院の、ひたむきな努力の成果だ。
2曲とも、榊薫人の作曲である。集団就職列車で上京、新宿の流しからこの道に入り、苦吟していた彼に昔、曲づくりを頼んだ。大の三橋美智也マニアの彼だから「三橋さん用を想定して100曲も曲先で書いてみろ」と、乱暴きわまる注文だったが、その中から『お父う』も生まれた。
うまい具合いに民謡調に活路を見出した榊も、最近大病をして元のもくあみ状態。口下手、世渡り下手、宮城育ちの榊に、この際だから再起の発注をした。来年の花京院のための記念曲を
「もう一度、死ぬ気で書いてみろよ!」
深夜に電話をしたら、返答はやたらに力み返っていた。
≪よし、その意気だ≫
と僕は思う。苦境をはね返す意欲がバネになれば、それはきっと作品の勢いや艶に生きるだろう。例えは悪いが「火事場のバカ力」を期待するのだ。
日本アマチュア歌謡祭は、スポーツニッポン新聞社在職中に立ち上げたイベントである。それが35周年なら、その年月分だけ深いつきあいになった人も多いのだ。

「和也、水くせぇじゃねぇか!」
僕としては珍しく、他人に悪態をついた。もっとも口角はあげて、笑顔にとりつくろったうえのことだ。7月11日夜、場所は臨海斎場。ここで営まれていたのは西澤利男という人の通夜で、嫌味を言った相手はひばりプロダクションの加藤和也社長である。美空ひばり家三代のつき合いになっている彼を、僕は昔から親しみをこめて呼び捨てにしている。
「ま、ごくごく身内のことにしたかったんで...」
和也の言い訳は聞くまでもなく判っていた。西澤氏は彼の車の運転手で、音楽業界とはかかわりあいがない。だから「身内」で、だから参列者10数人ということになるのだろうが、それじゃ何か、俺は身内じゃないってことか? と僕は言い募りたかった。西澤氏と会ったのは、彼が和也の父・哲也氏の運転手だったころで、彼はひばり家の男二代にわたってその身辺にいたことになる。和也の代になってから、僕はしばしばその車に乗せて貰っている。会合のあと飲み屋へとか、僕が帰宅する最寄りの駅までとか、思い返せばきりがないくらいの回数になる。
実は西澤氏の死と、和也が「施主」として営む葬儀を、僕は花屋のマル源鈴木照義社長から聞いた。別の話をしていたそのおしまいに、ひょこっと出て来てのこと。和也も鈴木社長も、ゴルフと酒でお遊びの小西会の有力なメンバーである。早速連絡を取ったから、通夜にはテナーオフィスの徳永廣志社長や新聞販売店主で作曲もやる田崎隆夫もかけつけた。徳永は小西会の幹事長、田崎はやんちゃな少年時代の話が、和也とやたらにハモる仲間だ。
享年72、西澤氏は口数少なめで笑顔のいいダンディだった。しかし口ぶりや挙措に時折りちらりとする翳りが、ただものではない気配も作る。その物証!? が遺影の前に並んでいた。米軍将校の制帽にベレー帽が3点、肩章に鎖つきの認識票など、映画やテレビドラマでよく見るアメリカ兵の持ち物がズラリで、愛したという葉巻まで添えられている。彼は一体何者だったのか? 和也の説明を待った。
そもそもは、横浜のやんちゃだった。和也の父哲也氏と知り合うのもそのころ。武勇伝いろいろのあと、西澤氏は空手道場の師範代になり、米軍に乞われてベトナムに渡る。あちらでは米軍兵士に格闘技を教える軍属になり、ついには中尉に昇格したという。帰国して三島由紀夫の楯の会に参加、しばらく後に哲也氏の許にたどり着く―。
通夜のビールを含みながら、僕はぼう然とした。何という年月を生きた人なのだろう。復興、復活を急いだ時期の、日本の戦後の転変がその背景に見える。一途に、まっしぐらに生きたろうその折々の心境を、多くは語らなかったという男の、後年、微笑に見せたあの穏やかさは何だったのだろう?
和也の葬儀での立ち場は「施主」だった。「喪主」がいない。天涯孤独、西澤氏には一人の親族も居なかった。肺がんで倒れた彼に、大モテだった時期の女性に連絡は? と尋ねた和也に、
「全部きれいに別れたからな」
と、答えは苦笑まじりの一言だけ。肺がんも治療は一切受けず、痛み止めだけだった。自宅近くの病院で2週間近く、看病をし尽くした和也に、死の三日前に彼は、
「世話になったな、ありがとう」
と手を握ったと言う。
近ごろは、通夜に出席すれば告別式は欠礼することが多いが、僕は12日昼も臨海斎場へ出かけた。他の予定はキャンセルした。通夜は西澤氏の「見送り」であり、告別式は〝施主〟和也の「見届け」である。波らんに満ちた男の生と死を、一人で背負ったのがこの年下の友人なら、そばに居ることだけがせめての心尽くしと思った。彼にはまだ事後のあれこれも残っている。例えば西澤氏の遺骨をどこに収めるかも問題だろう。
棺を花で埋める最後のお別れで、和也がすっと動いた。テープレコーダーから流れたのは、西澤氏が好きだったフランク・シナトラの「マイ・ウェイ」である。棺が火葬の扉の向こう側に収められた時、和也は戦い続けた男を見送るように挙手の礼をした。
「ナムカラヤンノ・トラヤーヤ...」
敗戦の年に、茨城に疎開して一時世話になった寺で、僕が耳で覚えたカタコトの経の一部である。西澤氏を送った読経で胸を刺されたが、同じ真言宗。少年時代の僕は、あやうくその寺の養子にされかかった。
店の照明が消えた。細長いカウンターの奥にある小さな庭園だけが、くっきりと浮かび上がる。草木の緑が色濃い装飾用のそれは「坪庭」と呼ばれるそうな。その手前に女性の人影が、うすらと見えて、彼女が吹き始めたのは篠笛である。哀感に満ちたその音色が、しょうしょうと店の空間を満たす。カウンターの酔客も僕も、粛然として束の間「いにしえの魅惑」へ導かれる。
7月9日深夜、場所は北陸金沢のひがし茶屋街、美しい出格子の古い町並みの大路は、寝静まったように人影もない。その通りの奥、突き当りの右側角で、ひっそりと営むスナックが一軒。篠笛を吹いた佳人はその店のママで、元芸妓。愛用の篠笛を見せて貰ったら、うるし塗りの黒で、この方が素の竹笛よりも音色が丸く優しげになるという。1820年に町割を改めお茶屋を集めたこの地区で、伝統を守る昔気質の女性と思ったら、毎朝10キロを走り、東京五輪の聖火リレー走者に応募する気だと、明るく笑った。
翌10日昼前から、僕は金沢テレビの「弦哲也の人生夢あり歌もあり」にゲスト出演した。作曲家弦哲也が石川県のあちこちを訪ね、ゲストとその風土や景観の妙を語り、双方の夢や歌心を披露するのが狙い。地元の名士・作家五木寛之が「恋歌サミット」というイベントをやり、弦がそれに招かれたのが縁で、彼がホスト役のこの番組が生まれたと言う。以来、金沢通いをして14年、弦はもはや優秀なこの町ガイド。車で移動する間の発言も、「ここが武家屋敷跡」「ここが近江町市場」「あれが兼六園」「あれが21世紀美術館」「こちら側が犀川、あちら側が浅野川」...と懇切ていねい。ついには加賀百万石の歴史や栄耀栄華にまでおよんだ。
ところで番組のロケだが、午前から夕刻までで3本分。訪ねた先は林恒宏さんが活動の拠点にする「語りバコ」と、平賀正樹さんが経営するジャズ喫茶「もっきりや」の2カ所。林さんは発声と言語の指導者で研声舎を主宰する「声の達人」ナレーター、俳優として活動するほか、ビジネスマン向けのボイストレーニングにも精を出す。平賀さんは精力的なレコード・コレクターで、有名無名のミュージシャンや歌手たちと親交のあるマスターだ。
林さんと「声談義」になるのは、僕が舞台役者をやっているせい。実は6月の新歌舞伎座公演にも金沢テレビのクルーが入っていて、主演の川中美幸と松平健にからむ僕の場面を取材していた。それもインサートする番組だから、僕は身にあまる光栄に恐縮しきり。林さんが室生犀星の詩を朗読する技には、弦ともども膝を打ったものだ。
平賀さんの「もっきりや」では〝幻のブルースシンガー〟と呼ばれた浅川マキの話になる。彼女は近辺の美川町の出身。寺山修司がプロデュース〝アングラの女王〟として頭角を現わす1960年代から、僕もその一部始終につき合っている。昔々のこと、真夜中に突然マキから歌いたいという電話があり、平賀さんが店に客を集めなおして、明け方までアカペラコンサートを開いたなどというエピソードが出てくる。店には彼女のファーストアルバムもあった。僕は寺山の詞、山木幸三郎の曲の「ふしあわせという名の猫」を所望する。最近秋元順子のアルバムを制作、カバーしたばかりだから、感慨が生々しい。ニューハードのギター奏者で作、編曲をやった山木も、ふらりとこの店に現れたと言う。
厄介だったのはこの番組、ゲスト出演したら必ず一曲ずつ歌う決まりごとがあったこと。ディレクターの注文で僕は、プロデュースした「舟唄」をまず歌う。声の達人の林さんが歌詞を朗読したあと、同じ部分を弦のギター伴奏でという趣向。作りはしたが歌うことなどなかった作品だが、アンコのダンチョネ節は小林旭の「アキラのダンチョネ節」の後半
〽嫌だ、やだやだ、別れちゃ嫌だと...
をパクってお遊びとした。
平賀さんの店では、ステージで「夜霧のブルース」をやる。弦のイントロが思いっ切りブルースだったが、こちらはバーボンをチビチだからいつもの気分。マスターは音楽評論家の歌ってのは、そんなもんか...と思ったろう。
さて、冒頭に書いたひがし茶屋街の件は、撮影前夜に前乗りしての見聞。その後僕は酔いに任せて片町新天地へ足をのばした。こちらは一転、巨大な迷路めいた路地を埋めて、居酒屋やバー、レストランなどが密集する庶民の歓楽街。その一軒のバーで、僕はレコードで「カスバの女」を聞いた。昭和20年代のエト邦枝のヒット曲である。そんな昔との出会いも飛び出して、金沢の1泊2日は、実に何とも感興深いものになった。

頭の中にあるのか、それとも心の中か。芝居の科白を入れる袋があるとする。その大小や機能には個人差があるのだろうか? 6月、大阪の新歌舞伎座の楽屋で、僕はふと、そんなことを考えた。川中美幸と松平健の合同公演。芝居は平岩弓枝作、石井ふく子演出の「いくじなし」と、この欄に何回か書いた。浅草近くの裏長屋を舞台に川中・松平の気のいい夫婦を中心にした時代劇の人情物語。大劇場公演には珍しいせりふ劇だが、実に数多くのコトバが飛び交う。
「いい年して般若が人食ったように紅ぬって、風呂屋の番台に色眼つかってるんだってね、この色狂い!」
川中演じるかかあ天下おはなの啖呵である。それに応じる鷲尾真知子の大家が、
「十両はおろか五両一両の銭だって、拝んだことのないような暮らしをしているくせに、えらそうな口叩くんじゃないよ!」
と来る。最近住みついた謎の姉弟の家賃についてのやりとり。支払いに窮した姉弟と、それならば...と立ち退きを迫る大家との間に、おはなが割って入っての大ゲンカだ。
双方に理はあるのだが、カッとなってどちらも一言も二言も多くなる。下町気質の一端だろうが、その激しさがヒステリックにせり上がるのだ。どちらも山ほどある科白の連発、それも江戸前のテンポでビシビシだから、観客はあっけにとられた。
《しかしまあ、よくもあれほど...》
と、ぼくは出を待つ舞台そでで感じ入る。因業な大家の悪態のつき方が、立て板に水で、その嫌みたっぷりが体全体からににじみ出る。素顔は物静かで、笑顔が素敵なベテラン鷲尾が、近寄り難くさえ感じられるのは、芸の力か。そんな騒動に閉口しながら、低姿勢でかみさんをたしなめ続けるのが、気のいい律儀者の六助で芸歴45年を記念する松平が、珍しい役柄に取り組んでいる。それが―。
「うるせいやい、すっこんでろ、このとんちきおかめ!」
と、突然おはなを叱り飛ばすのは、大立ち回りのあと。下戸の彼がノドをいやすために、おはなに酒をのまされて酔っぱらう。罪を背負って駆け落ち同然の姉弟が、無実と知って二人を秘かに旅立たせる大詰めだ。
「どこか遠くへ行きなさるがいい、知らねえ土地で仲良く、幸せになっておくんなさいよ!」
と、呼びかける見せ場で、はなむけの思いもこめてか、馬子唄をひと節。それも酔っぱらったへべれけ口調で、ゆらりゆらりと客を泣かせる場面だ。
ものがものだから、川中も松平も貧乏人のいでたちで、いつもの華やかさはない。そのうえ二人は、出ずっぱりのしゃべりっぱなしで、客を驚かせたり、笑わせたり、しみじみほろりとさせたり。その合い間を鷲尾の悪態が刺激的に緊張させるのだが、役柄が役柄だけに、きつい科白がこれでもか、これでもか...。
三者三様、科白を入れる袋の大きさに驚嘆する。芝居によってその袋は、伸縮自在なのだろうか? それとも科白の数によって、とめどなくふくらむものなのだろうか。その袋の中身と、演技者それぞれが持つだろう別の袋の中の本音は、響き合うものなのだろうか? 時に同化するのだろうか? 振り返れば僕は、どの程度の科白の袋を身につけ得たのか? それはこの先、経験を積むたびに、少しは大きく育っていくのだろうか?
くだらない屁理屈、年寄りの世迷言につき合わせるな! と、叱らないで頂きたい。言語は人格を示すと思っている。雑文屋稼業は、恥ずかしながら自分の言葉で自分を語る部分が多い。しかし、演技者は、自分とは全く違う人間を演じる。役柄として与えられた人間は、それなりの人格や言語を持っているはずで、演技者はそんな他人と自分自身とに、どう折り合いをつけていけるのだろう? 「科白の袋」と思っていたのは実は、演じる人間の人格や考え方生き方、特有の言語で満ちているものではないのか? 「量」はともかく、大切なのは「質」ではないのか?
6月27日大阪。梅雨が来ないまま台風が来た。G20サミットで、町は警官だらけである。厳重な警備は物流をストップさせ、人々の生活全般に、大きく影響している。そんな中に滞在し、28日千秋楽を迎えた僕は、何だか旅する人間みたいに浮遊していた。
26日夜には東京からの連絡で、作詞家千家和也の死を知る。「終着駅」や「そして神戸」など、いい歌を沢山書き、歌謡曲黄金の70年代に足跡を残した人だが、小説を書くと言って歌社会を離れ、以後の消息が途絶えていた。あれから彼は、どんな暮らしをしていたのだろう?

殻を打ち破れ210回
歌謡界は、いい人なら何とか生きられるほど甘くはない。人柄よりも才能本位だから、時に厄介なタイプでも、うまく行くことがある。しかし、長もちするのは「いい人」の方だ。人間関係がものを言う世界のだから、嫌われもんが長もちした例は、ほとんど無い。
そんなことを考えながら、4月29日、浅草ビューホテルへ出かけた。「北川裕二35周年記念ディナーショー」取材で、北川は作曲家弦哲也の弟子。昭和28年生まれだから、この8月で66才になるはずなのだが、申し訳ないことに歌をちゃんと聞いた記憶がない。たまに師匠の弦のイベントに出ていて、名前を知ってはいた。
新曲『やめとくれ!!』(かず翼作詞、弦哲也作曲、前田俊明編曲)を皮切りに、北川はガンガン21曲を歌い切った。身長172、体重75、がっしりした体格で、歌声の圧力もなかなか。デビュー曲の『雨の停車場』から発売順に書けば『溺愛』『潮来雨情』『女のみれん』『恋雨みれん』『なみだ百年』『命まるごと』『泣いて大阪』『酔風ごころ』など。みんな弦の作品だが、残念ながらブレークした曲はない。
だから彼は、弦作品をヒットさせ、恩返しをすることが「ライフワークだ」と胸を張る。なじみのある曲は『東京の灯よいつまでも』『別れの一本杉』『長崎の女』『霧の摩周湖』などで、昭和の匂いが強い。春日八郎や布施明のヒットを歌うことで判ろうが、セミクラシック寄りの発声で高音を決める唱法。歌い手は歌手を志した時代の、歌唱のファッションを長く道連れにするものか。
「キャバレーで歌ってたかねぇ?」
隣りの席に居た担当の中田信也ディレクターに聞いてみた。大勢の客相手に、声を励まし、受けを狙うタイプとも思えたためだ。答えはNO、一時流行した弾き語りもやっていない。これをやれば歌唱は、もう少しソフトなタッチになるだろう。
昭和58年、テレビの「新スター誕生」で、グランド・チャンピオンになったのが振り出し。アイドルを量産した"スタ誕"のあとがま番組だったが、業界から声はかからず、故郷の福島・郡山に戻る。しかし矢も楯もたまらず、番組の審査員だった弦哲也に直訴、断わられたが粘って2人めの弟子になった。本名の増子ひろゆきでデビューしたのが1年後の昭和59年で、2年後に北川裕二に改名している。
以後21枚のシングルを出し、キャンペーンや実演のステージで頑張って来た。言ってみれば草の根活動、膝づめで歌って少しずつファンをふやしたのだろう。今回のディナーショーは、主催、企画、構成が「Yuji音楽工房」とあって、彼の個人事務所。会場には北海道から九州までのファン300人が集まった。独立独歩、歌手生活35周年の長さを、彼の誠意が獲得した立派な成果だ。
ゲストは師匠の弦哲也。二人で『北の旅人』を歌い、弦は『天城越え』を弾き語りで歌って花を添えた。
「人を押しのけてでも前に出るタイプではない。お先にどうぞって、譲ってしまうような男でねぇ」
控え室で弦は、愛弟子をそう語った。歌を「飽きるな
諦めるな」と励まし、北川が落ち込んだ時には「外に出ろ、所をえらばず歌え」と叱咤したそうな。
冒頭に書いた例で言えば、北川裕二はきっと「いい人」なのだろう。それでなければ35年もの間、支えてくれる人々の"和"に出会えたはずがない。長い苦難の道を頑張ることも、師匠譲りだろうか。昭和、平成を歌い、令和に挑戦するファイトを聞いた。終演後僕も彼と激励の握手をしたが、達成感ありありの笑顔で、握り返した手は強く熱かった。
ホテルの部屋、電話器のメッセージ・ランプが点滅する。酔眠にその朱色がまぶしい。
《東京の便り、それも音楽界からか...》
案の定、キングレコードからのCDがフロントに届いていた。秋元順子の新曲のオケとテスト・ボーカルが収められたものだ。喜多條忠作詞、杉本眞人作曲の「たそがれ坂の二日月」で、アレンジは川村栄二。
《いいね、いいね...》
と深夜、ひとりで悦に入る。編曲は杉本と相談、異口同音で川村に決めた。すっきりと今日的な味わいのポップス系で、おとなの情感が粋だ。歌い手の〝思い〟に預ける音の隙間づくりが心憎く、秋元の歌声が生き生きとするはずだ。
詞の喜多條は僕の推薦、いきがかりがいろいろあるから虚心坦懐、大ていの無理は聞いてもらえる。作曲の杉本は秋元のリクエスト。詞の思いの伝え方が彼流の語り口とリズム感で快い。テストの秋元の歌には、杉本流の口調があちこちにあってニヤニヤする。これを彼女は、少し時間をかけて、きっちり彼女流に仕立て直すだろう。それだけの個性と年輪の味わいを楽しみにしようか!
手数をかけているのは、キングの湊尚子ディレクターである。プロデューサーの僕が、大阪・新歌舞伎座6月公演に出ていて不在。そのくせ、作品の狙いはどうの、ジャケットはどうの...と、あれこれ伝えた面倒を、着々とココロとカタチにしてくれるはず。届いたCDはその経過報告の手紙つきだ。
「そんな無茶なことしてて、本当にいいんですか?」
川中美幸側近の岩佐進悟が制作者不在を心配する。新歌舞伎座は川中と松平健の2座長公演。けいこから本番まで、責任者としてずっと一緒の岩佐とは、
「シンゴ、お前なあ...」
と、呼び捨てのつき合いが長い兄弟分だから、何ごとによらず肚から話し合う仲だ。
進悟が気づかうのも当然なのだ。僕は秋元のアルバム「令和元年の猫たち」も同時進行でプロデュースしている。長いことメモして貯めて来た〝猫ソング〟の集大成のつもり。昨今の猫ブームを当て込んだと言われればその通りだが、作品はそれぞれ、埋もれたいい作品揃いである。例えば、寺山修司が浅川マキのために書いた「ふしあわせという名の猫」は、寺山ならではの筆致と情感。昔、なかにし礼が自作自演したアルバム「マッチ箱の火事」の中の1曲「猫につけた鈴の音」は、面白くてやがて悲しいシャンソン風味だ。
子供が欲しいと言った女。それが愛の形とは思わないと拒む男。失望して女は去るのだが、彼女の置き土産の猫のお腹が大きくなって、のそのそと歩くけだるい夏の昼ざかり。男はその猫に鈴をつけてあげて「おめでとう、おめでとう」と頭をなぜるのだが、その胸中はいかばかりか。
《自作自演の礼ちゃんも、ここまでは歌えなかったな》
と、僕はひそかに憎まれ口を叩く。秋元が歌い、語る味わいの精緻さを思えば、この楽曲は初めて、手がけるべき歌手を得たということになるだろう。
犬は餌をくれる人間を、自分にとっての神だと考える。猫は人間が餌をくれるのは、自分が神だからだと思うのだ。そんな言い伝えが、ヨーロッパのどこかの島にあると聞いた。猫は決して口外しないが、人間の営みのすべてを熟視し、何も彼も知り尽くしている。歌づくりの名手たちは、そんな猫の人生(!?)を描き、猫に人間の哀歓を託して来た。今作には阿久悠が書いた「シャム猫を抱いて」や「猫のファド」も加えた。中島みゆきや山崎ハコが生みの親の猫ソングも、得がたい味わいがある。猫で連想するおなじみの曲ならちあき哲也の「ノラ」それに「黒猫のタンゴ」か。
別便でまた、湊ディレクターからトラックダウンしたそんな9曲分のCDが届く。これまた深夜、用意のウォークマンでしみじみと聞き直す。秋元の歌唱も秀逸だが、何よりも、作詞家たちの人生観や世界観が深い。聞けば聞くほど、さりげなく暖かく、しみじみと胸に刺さってくる。
《うん、これはなかなかのアルバムだ!》
酒の酔いが醒めてまた、別の酔い心地を味わいながら、自画自賛のひととき。芝居に打ち込む折々に思い当たるのだが、僕の正体はエエかっこしいのナルシストなのかも知れない。
月末、ひと仕事終えたら僕は、1カ月ぶりに葉山の自宅に戻る。ドアを開けた瞬間、わずかに身構える愛猫の「風(ふう)」と「パフ」の2匹は、次にまた、
「何だ、お前か!」
という顔をするだろう。

「金無垢の松平健」というのは圧巻である。ご存知の巨漢が、金のスパンコール一色の衣装で「マツケンサンバ」を歌い、踊る。これまたピカピカ衣装の男女ダンサーをバックに、大阪・新歌舞伎座の舞台を縦横無尽、客席も大いに沸くのだ。
「眼がチカチカして、痛いくらい...」
と笑うのは、舞台そでで出を待つ川中美幸。松平に招かれて、出演者全員が勢揃いするフィナーレだが、
「健さん、息が乱れもせずにそのまま挨拶でしょ、タフだとは知ってたけど、一体どうなってるのかなあ」
川中がまた嘆声になる。
6月、新歌舞伎座開場60周年記念の特別公演、松平、川中の歌もたっぷりのスペシャルショーで、特別出演の中村玉緒と松平の「浪花恋しぐれ」も大いに受ける。玉緒の飾りけのない老婆ぶりが、得も言われぬ可愛さなのだ。松平は「中村玉緒さま」と尊称を使う。師匠勝新太郎の夫人だから、そこは殊勝なもの。相手はのけぞり加減のリアクションで、客席も舞台上の面々も、ニコニコ顔のオンパレードだ。
芝居の「いくじなし」(平岩弓枝作、石井ふく子演出)一幕四場では、松平・川中の立居振舞が逆転する。江戸時代の裏長屋を舞台に、嬶天下のお花(川中)と甲斐性なし行商人六助(松平)が役どころ。川中が江戸弁を立て板に水でやたらに威勢がよく、呼ばれる松平が「へ~い」ボソボソと、漫才の突っ込みとボケふうに、おもしろおかしい夫婦である。それに長屋人種あれこれがからむ下町しみじみ人情劇だ。見せ場山盛りの大劇場公演としては珍しいタイプのせりふ劇。貧乏人扮装の両主役に意表を衝かれたファンは、そのまま芝居の世界に引き込まれていく―。
楽屋に突然、作詞家のもず唱平が現れた。先天的に厄介だったと言う血管が、心筋梗塞を引き起こし「あわや...」の瞬間もあった春先から復帰、びっくりするくらい元気になっている。往年の情熱的話術も復活していて、内緒にしていた病状から、川中の新曲「笑売繁盛」まで、こちらも縦横無尽のてい。彼の作詞50周年記念第2作に当たる今作の、プロモーション案や昨今の政治、国際関係、とりわけ北朝鮮対応への憤懣など、語気が熱い、熱い!
一夜、川中ともども、この関西を取り仕切る詩人から、今が旬の「はもしゃぶ」のもてなしを受けたが、彼を師匠と仰ぐ川中はその回復ぶりに大喜び。いわく因縁があって彼を呼び捨てのつきあいが長い僕も、
「今宵、一番の酒の肴はもずの復調だな」
などと冗談めかした。12年ほど前に、僕が川中から声をかけて貰って舞台の役者を目指した時は、
「そんな甘い世界やありまへんで!」
と、忠告、反対したもずも、僕が松平、川中ご両人にからむ今回の舞台に、どうやら得心した気配なのもやれやれ...だ。
それやこれやを楽屋同室の友人真砂京之介に報告したら、
「大先生を呼び捨てなのかよ」
と、あっけにとられた。長く松平側近のこの男は、今回の舞台唯一の激しい立ち回りを松平と演じている。いつもは暴れん坊将軍の松平と仇役の彼が丁々発止の殺陣でおなじみだが、長屋の住人と人買いの〝ぜげん〟という町人同士。組んずほぐれつの大乱闘を二人きりで、蓮池に沈められたり、脱出したり...の大騒ぎで、おしまいに真砂は雷に打たれて頭が変になる。
「こんな体育会系の仕事は初めてだ」
と、体のあちこちに打ち身のアザや小さいかすり傷を作りながらの奮闘である。芝居の続きみたいに、息も絶え絶えで楽屋に戻ってくるのへ、
「お疲れさん、いやあ、いい出来だったよ、今回も...」
と、毎回僕はねぎらい役。何しろこちらは町内の世話役で、松平・川中に上から目線でブイブイ言うだけの〝もうけ役〟だから、彼のココロの介抱は、時に、行きつけの居酒屋にまで続いたりする。
終演後の食事は、松平、川中それぞれのお供をする果報や、舞台のお仲間、東京からの友人、在阪の友人...と、多彩な夜をほどほどのスケジュール。何だかこの稿、末尾は〝うかれ町報告〟めくが、昼夜ともに日々これ好日である。関西の梅雨入りは6月下旬の見通しとかで、照る日曇る日、気温までほぼ快適で居酒屋「久六」のお女将と大将の機嫌も上々なのだ。

殻を打ち破れ209回
弔辞に拍手が湧くなんてことは、ありえるだろうか?
葬儀における弔辞はふつう、故人の業績や人望を讃える。相手が成功者ならネタが多く、遺徳をしのんで哀調もほどほど。しかし、さほどでもない人を真面目な人がやると、形通りで社交辞令に上滑り。そのくせ長めだから参会者はうんざりする。弔辞が本音で、人物像に迫るケースはごく少ない――。
俳優の堺正章はそれを、
「あなたはいい事も悪いことも、沢山僕らに教えてくれた。そのうち悪いことの方が、とても魅力的だったけど...」
と切り出した。会場はもうクスクス笑いだ。4月3日、東京の青山葬儀所で営まれた内田裕也の「Rock'n Roll葬」でのこと。故人は蛮行、奇行が多かったから、みんな思い当たる節が多い。
「あなたはロックンロールを貫いた」
と、内田の生涯を讃えたあと、歌手として長もちする秘訣を「ヒット曲を出さないことだ」と教えられた件を持ち出し
「あなたは、それも貫きましたね」
と語り継ぐ。事情を知らぬ向きには「皮肉」にも聞えようが、ロック界を主導しながらロックがビジネス化することを嫌い、ヒット戦線を度外視した内田の一念に、会場には同感の輪が広がる。
以前、パーティーの席で、司会した堺がアントニオ猪木に
「裕也さんに気合いを入れてやって下さい」
と頼んだ一幕も出て来た。バシッとやられた内田が
「30年ぶりにやられた。グラッと来たぞ」
と言ったので
「30年前になぐったのは、誰?」
と聞いたら
「樹木希林にきまってんだろ」
と内田が答えた話になると、会場は大爆笑である。
夫人の樹木希林が亡くなって半年後、延命治療も断わった覚悟の死を堺は
「やっぱり希林さんに呼ばれたんです。だからと言ってついでに、僕らを呼ばないで下さい」
と弔辞を結んだ。
会場からは割れんばかりの拍手である。堺の弔辞は時に軽妙に、時に真摯さをうかがわせる話術の妙があった。相手が相手だから面白いネタは山ほどある。その一つ二つを披露しながら彼が語ったのは、内田裕也という先達への共感と、己れの信条を一途に"むき出しの人生"を生きた男への敬意だったろう。内田の享年79、堺は72才、堺にも真情を吐露できる年輪があった。
この葬儀でもう一つ感動的だったのは、娘の内田也哉子さんの謝辞。結婚生活1年半で内田は家を出、40年余の別居生活を送った。也哉子さんが父と過ごした時間は数週間にも満たない。だから彼女は内田裕也という人を
「ほとんど知らないし、理解できない」
「亡くなったことに、涙がにじむことさえ戸惑っている」
率直である。父は自由奔放に生きて、恋愛沙汰も数多い。その時々、父の恋人たちに心から感謝を示した母と父のありようは、
「蜃気楼のようだが」
「二人の遺伝子は次の世代へと流転していく。この自然に包まれたカオスも、なかなか面白いものです」
と、口調も終始淡々としていた。
結びのひとことは
「ファッキン・ユーヤ
ドント・レスト・イン・ピース(クソったれ裕也、安らかになど眠るな!)ジャスト・ロックンロール!」
エッセイストらしい冷静にして親密な表現で、ここまで心のこもった本音の謝辞を、僕は初めて聞き心打たれたが、会場からはここでもまた拍手が起ったものだ。
けいこ場に森光子からの差入れがドカッと届いた。
「えっ?」「えっ?」
「えっ?」
と、怪訝な顔の勢揃いになる。それはそうだ。贈り主の森は亡くなってもう、ずいぶんの年月が経つが、あれ? まだお元気でしたっけ? なんて呟きももれる。去る者は日々に疎しの例えもあるか、それにしても―、
「あの人は、こういうことが好きだったのよ...」
演出家の石井ふく子が謎ときをする。江東区森下の明治座スタジオでけいこ中なのは、6月7日初日の新歌舞伎座公演「いくじなし」の一幕四場。平岩弓枝脚本、石井演出のこの芝居の初演で、森光子が主演したそうだ。昭和44年、歌舞伎座でのことで、
「相手役は中村屋でね」
と石井がさらりと言う。中村屋というと...と、僕は訳知りの林プロデューサーを頼る。答えは勘三郎で、先々代に当たるとか。
話題の贈り物は「京橋・桃六」の折り詰め弁当である。しっかりした経木の箱に、こわめしと季節野菜の煮物、肉だんごなどが詰まった逸品。包み紙の印刷によれば「創業百年、当主は四代目」で「素朴な手づくり」が売りとある。
「なるほどなあ...」
と、僕らはあの世の森とその関係者の心づくしに感じ入る。休憩時間にさっそく賞味する者や、大事そうに持ち帰る者まで、反応はさまざまで、しばらくは森の人柄や仕事ぶりの話があれこれ。森との親交が長かったのだろう、石井の笑顔が優しくあたりを見回している。
昭和44年と言えば、かれこれ50年も前のことだ。その時も演出担当の石井にとっては、愛着のある作品の一つなのだろう。今回の主演は松平健と川中美幸。中村屋と森とはキャラクターも芸風も違うが、こちらはこちらの風趣である。身振り手振りもまじえて、こと細かに演出する石井の胸中に去来するものは、ありやなしや...。江戸時代の裏長屋が舞台。そこで暮らす嬶天下の川中と、滅法気の好い旦那の松平のやりとりで話が進む。
松平は周知の通り、威風堂々の見事な体躯の持ち主。暴れん坊将軍や大石内蔵助をやる彼を見慣れている僕と友人の真砂京之介は、
「とても貧乏人の体格じゃないよな...」
などと、小声のへらず口を叩いている。大変なのは川中で四場全部に出ずっぱり。大阪出身の彼女が江戸下町弁で、威勢のいい啖呵もポンポンやるが、単語ひとつひとつのイントネーションが違うのだから、苦心のほどがしのばれる。
もっと大変...と脱帽するのは演出の石井ふく子で、6月明治座と新歌舞伎座の演出の掛け持ちである。それも同じけいこ場で、昼前後から3時間余を明治座の坂本冬美、泉ピン子主演の「恋桜」のけいこ。引き続き僕らの「いくじなし」に入る。「恋桜」は昨年、大阪でやったものの〝思い出しげいこ〟だそうだが、大劇場二つ用を一つのけいこ場に居続けで、しかも石井は僕より10才も年上と聞いた。その情熱とタフさは、驚異的と言わざるを得まい。
その手前、恐縮の限りだが、5月25日にはけいこを抜けて、僕は早朝から芝のメルパルクホールに詰め切りになった。今年35回を迎えた「日本アマチュア歌謡祭」で、100人、2コーラス、11時間の審査の取り仕切りである。スポニチ在職中に事業の一つとして立ち上げたイベント。東日本大震災の年だけ自粛して、36年のつき合いだ。驚くべきことに岐阜の長岡治生というご仁は28回連続出場の71才。歌唱水準の高さで知られるこの大会でも群を抜く実力者で、今回はグランプリに次ぐ最優秀歌唱賞を受賞した。28年も毎年聞いていると親戚みたいな気分になるが、歌に滋味まで生まれているあたり、頼もしい限りだ。
5月は並行して、秋元順子のアルバムと次作シングルをプロデュースしている。秋元が友人のテナーオフィス徳永廣志社長を頼った縁でのお声がかり。
「その代わりにお前なあ...」
と、大衆演劇の大物沢竜二の「銀座のトンビ~あと何年ワッショイ」のプロモーションを彼に頼んだ。これも僕のプロデュースだが、ちあき哲也作詞、杉本眞人作曲の作品が、キャラと芸風にぴったりはまった〝昭和のおやじの最後っ屁〟ソング。沢がやたらに〝やる気〟でカッカカッカしている。
それやこれやの後事を託して、僕は6月4日、大阪へ入る。やたら忙しいが、この節80過ぎの年寄りにすれば、ありがたいことこの上なしである。

ゴールデンウィーク明けから、せっせと江東区森下へ通っている。逗子から馬喰町まで横須賀線と房総快速の相互乗り入れで一本道、そこで都営新宿線に乗り換えて、浜町の次が森下である。行く先は明治座のけいこ場、6月7日初日の大阪新歌舞伎座公演のけいこだ。今年は役者の仕事が少なめで、この公演がいわば令和初。〝せっせと...〟とは書いたが、実情は〝いそいそと...〟の方が当たっている。
芝居は平岩弓枝作、石井ふく子演出の「いくじなし」一幕四場。主演が川中美幸と松平健の特別公演で、新歌舞伎座開場60周年記念企画だ。ご一緒するのは特別出演の中村玉緒と鷲尾真知子、中田喜子、外山誠二ら石井演出作品でおなじみの面々。関西ジャニーズJrの室龍太が二枚目、友人の真砂京之介や瀬野和紀は松平組、川中組は穐吉次代、小早川真由と僕といった具合いで、顔なじみには荒川秀史や森川隆士がいる。
葉山からドア・ツー・ドア2時間半弱、電車の中でブツブツせりふを繰り返しながら移動する。けいこ開始は昼の12時半だが、1時間30分以上前には主演の二人以外、もうほとんど集まっている。気合いが入るのは、演出家が大物のせいもありそうで、石井も間もなくけいこ場入りする。いつもは横着に甚平をけいこ着にする僕も、今回は浴衣に角帯をきりり。とは言っても、昨年3月の新歌舞伎座公演の時にお衣裳さんに頼んで、帯をつくりつけにしてもらってある。着脱ベリベリッ...と便利なものだ。
素足に雪駄をつっかけて、
「おい、六ちゃん、お前さん、さっき井戸端に居たから、話は聞いたろ...」
なんて、僕のせりふはいきなり上から目線。それに、
「へい...」
と応じるのが主演の松平で、その隣りに川中がいて、こちらにもひと言という、大変な出番を貰った。舞台は江戸浅草は龍泉寺町の裏長屋。川中は鼻っ柱の強い女房お花で、松平はその尻にしかれっぱなしの行商人。季節が夏の真っ盛りなのに、井戸の水が枯れてしまって、急遽井戸替えにかかる騒ぎになる。町内の世話役甚吉の僕は、大家さん鷲尾にくっついて、人集めに歩いている筋立てだ。
松平と川中は大変である、かかあ天下と気のいい亭主のやりとりが、江戸っ子気質でやたら威勢がいい。冷やっこい水売りは今が稼ぎ時だから、井戸替えには私が出ると言い出すお花と、因業な大家の口ゲンカが丁々発止である。この二人は隣人の家賃についても険悪なヤマ場がある。六さんは大家に謝ったり嫁を叱ったりで、またやりとりが口早にポンポン...。
主役の二人がこんなにしゃべりまくるのを見るのは初めて。僕と友人の真砂はけいこ場の隅で、
「大変だよなあ、お二人は...」
などと、なかば案じながら、なかば面白がっている。おはなしを厄介にするのは、長屋へ辿りついたいわくありげな姉弟の中田と室の存在。姉が弟のために身売りを計り、それを止める六さんと女衒の真砂の立ち回りの原因になる。
おなじみの「暴れん坊将軍」なら、松平の殿様と悪者の真砂の殺陣が見事に決まるところだが、今回は二人とも町人。せいぜい息を切らしながら、くんずほぐれつの取っ組み合いである。舞台に蓮の花が並んでいて、白いテープで四角に仕切ってあるのは、どうやら沼地。ということは、本番では水槽に本物の水が仕込まれていて、二人はずぶ濡れ、泥まみれになる安配だ。松平ファンはびっくりしそうな設定だが、本人は楽しそう。女衒役の真砂は、けいこから本当に息があがる運動量になる。
それやこれやの時代劇裏長屋人情劇だが、僕の出番は三場でブイブイいうばかり。演出補の盛田光紀の指示で、立ち位置や歩く段取りが決められたが、演出の石井からはダメが一つも出ない。90才超の大ベテラン演出家の顔色を盗み見ながら、身勝手な芝居をやっている僕はついに、
「ご注意を頂いていませんが、こんな感じでいいんでしょうか?」
と、お伺いを立てることになる。演出家はにこりと、
「いいですよ。貫禄があって...」
の一言だけだから、当方はありがたいやら、不安になるやら。
今回、それでも開放感十分なのは、芝居が江戸ものなこと。この劇場の川中公演はここ何年か、関西ものが続いていた。大阪で関西弁というのは、僕にとっては難行そのもの。冷汗三斗だった日々を思い返しているが、さて、行きつけの居酒屋〝久六〟の女将さんは、元気だろうか?

《ま、これも〝ゆうすけ〟らしい創作活動の一端か》
そんな感想を先に持ったまま、山田ゆうすけ自作自演のアルバムを聞き始めた。「冬の鳥~高林こうこの世界を歌う」がタイトル。作詞家高林とゆうすけのつき合いは長い。二人は「シルクロード」という同人誌で知り合って、その25周年を記念した企てだと言う。
「冬の鳥」「途中下車」「五条坂」「大阪ララバイ」「神戸メルヘン」「散り椿」「ぶるうす」「センチメンタルジャーニ」「枯葉の中の青い炎」「ラストタンゴ」と、曲目順にタイトルを並べれば、いかにもいかにも...の10曲。高林は関西の人で、友人の作詞家もず唱平に紹介されて僕も旧知の仲だが、寡黙だから詰めて話したことはない。それが―。
歌を書くとなると、秘めた情熱がほとばしるものか、全体的に長めの詞に、彼女なりの思いがあれこれ、多角度に書き込まれている。表題曲はメロ先だそうだが、雪の駅で去って行く恋人の前途を、
〽飛ぶなら高く、飛ぶなら遠く、飛ぶなら強く...
と祈る男心もの。「償いは、美しく見送ること」と思い定めた恋の幕切れだ。
「途中下車」は人生の息抜きの旅のひとときを描く。舞台は田舎町のひなびた宿。漬け物やホッケを肴に、銚子は3本。良い月と良い風を仲間に、男は往時を思い返す。優しい女がいた。悪だけど憎めない奴がいた。父親みたいに忠告してくれた人がいた...。
《どこかで聞いたな、これは...》
ひょいと思い出すのは、銀座のシャンソニエ。ここで歌っていたのは、歌を東北弁でやってのける変わりダネで、確か福浦光洋という人がこの作品を歌っていた。歌手歴30年余の年の功と東北弁が、人生を〝途中下車〟した男のひと夜を、味のあるいい歌にしていたものだ。
アルバムに添えられたゆうすけの手紙には、
「いろんな歌手に提供した作品や、書きおろしも集めてセルフカバーした」
とある。それにしても歌っているゆうすけ本人が、
「歌手としての力量はイマイチ、いやイマニだと思う」
と正直なところがほほえましい。
《ま、歌い続けりゃそのうち〝下手うま〟の境地に辿りつくケースだってあるさ》
とこちらは、冷やかし気分になる。
ゆうすけと会ったのは1998年に、彼が作曲家協会のソングコンテストでグランプリを取った時。選考会の座長だった僕と受賞者の間柄で、もう20年を越すつき合いになる。当時の受賞者で作曲の花岡優平、田尾将実、藤竜之介とゆうすけ、作詞の峰崎林一郎の5人組と「グウの会」を作った。「愚直」のグで、めげずに頑張れ! の意だったが、その後彼らはそれぞれに、歌社会にちゃんと居場所を作っている。
ゆうすけはこのところ、ネット関連のビジネスやSNSを使うプロモーションで、独自の仲間やコミュニティを作る作業に熱中、それらしい手応えを感じているらしい。そんな才覚を買われて、作曲家協会事務局のIT関係の仕事を引き受けてもいる。各メーカーへの売り込みはもう諦めた様子。彼我の作品的乖離が大きいし、相手側の顔ぶれも組織も当初とは大きく変わっていよう。最近、白内障の手術をした66才だが「やりたいことをやる」にはいい年ごろだ。70才で舞台役者になった僕の前例だってあるではないか!
話はアルバムに戻る。ゆうすけのメロディーは、フォーク系の穏やかさにポップスのヤマ場を作って、人柄なり。「大阪ララバイ」にはムード歌謡の匂いがあり「神戸メルヘン」は3連ものと、それなりの工夫をこらす。「五条坂」は老舗の陶芸店を守る女性が、去って行った窯ぐれを待つ切ない心情を歌う。高林の詞の「からだを全部耳にして」男を待つ切迫感と、曲の穏やかさのバランスが、聴く側にどういう味で届くものか? 「窯ぐれ」は「技術を磨くために、全国の窯元を渡り歩く職人」を指し「昨今はそんな職人も数少なくなっている」と、高林の曲目メモにあって、教えられた。
ゆうすけのこういう仕事は、
「トップダウンではなく、ボトムアップで仲間を増やしていく」
のが狙い。今年はもう1枚、友人の作詞家堀越そのえの作品集を作るそうな。手間暇と経費もかかろうが、熟年の初志なら、こちらは双手をあげて賛意を表すことに決めた。

殻を打ち破れ208回
「地方区の巨匠」と呼びならわしている佐伯一郎は、すこぶる元気である。
「聞いてみてよ」
と届いたのが、自作の15曲ほどを収めたCD。本人や弟子が歌っているデモだが、いかにも彼らしい"昭和テイスト"横溢の作曲集で、どうやら誰かの歌で世に出したい希望のようだ。というのも――。
脊髄の手術を繰り返して、車椅子が必要な暮らし。毎年恒例だった浅草公会堂コンサートも、大分前に閉幕した。体調はそんな風だが、演歌歌謡曲への情熱は衰えることがない。自分が無理なら楽曲だけでも一人歩きを!の一念が、各曲に添えられた歌詞の、彼流の筆文字ではねかえっている。僕とほぼ同じ年、そのエネルギーには頭が下がる。
『飲んだくれの詩』『捨て台詞』『時化』『海峡の果てに』などというタイトルがズラリと並ぶ。いずれも未発表曲というが、昭和30年代後半から、彼が得意として来た世界とメロディーに、僕はニヤニヤする。昭和を見送り、平成も終わるこの時期だからこそ、彼は彼流の決着のひとつをつける気になったのか。
今でこそ、地方に根を降ろして活動、インディーズの枠組にくくられる歌手は大勢いるが、佐伯はその"はしり"だ。静岡・浜松に蟠居、自作自演で人気を集め、育てた弟子には楽曲と芸名、歌う場を与えている。自前のレーベルまで持ち"東京望見"の意気で東海の雄になっていた。僕はもともと、テレビで顔と名を売るスター志望の"全国区型"だけが歌手ではないと思って来た。地元の歌好きと膝つき合わせて歌うタイプもまた、立派な歌手。だから東北に奥山えいじ、首都圏に新田晃也、名古屋に船橋浩二、高知に仲町浩二、福井に越前二郎などの友人が多い。
≪そう言えば佐伯は、一旗揚げに上京した若いころ、作曲家船村徹の弟子だった...≫
と往時を思い返す。その船村は今年3回忌。僕は2月1日に代々木上原のけやきホールで「船村徹の軌跡」というトークショーをやった。一緒に出たのは鳥羽一郎、静太郎、天草二郎、走裕介、村木弾の内弟子5人の会と、ギターの名手斎藤功。祥月命日の2月16日にグランドプリンスホテル高輪で開かれた「3回忌の宴」では、司会をやった。船村と個人的な交友のあった人だけを招いたうちうちの会だったが、"うちうち"で参会者150人である。船村の人脈の広さと深さに、改めて感じ入ったものだ。
「蒲田で芝居やっててさ、残念だけど行かれなかった」
と言ったのは、大衆演劇のベテラン沢竜二。母親が座長で、その楽屋で生まれたというこの人は"生涯旅役者"を自称するが、九州から上京した時期に、船村の門を叩いている。声がかかって僕は"沢竜二全国座長大会"のレギュラー役者だが、彼にぴったりの楽曲『銀座のトンビ~あと何年・ワッショイ』ではプロデュースを買って出た。お陰で中高年の紳士たちの支持が熱く、
「ステージに出ると、紅白!紅白!の声がかかる。もちろん俺も出る覚悟だけど...」
と、本人も俄然"その気"で歌い歩いている。
昭和38年夏の初取材以来、知遇を得て僕の船村歴は54年にもなった。物書きの志と操を教わるよりは盗めで学んだいわば"外弟子"である。それが佐伯一郎とも沢竜二とも、出会いは別々だが結果同門の交友が長い。
昨年、川中美幸公演で一緒になった女優安奈ゆかりは、何と佐伯の娘だった。ふっくら体型で、いい声の個性派。「縁」の妙の不思議な継がり方に、僕はうっとりしている。
今年最初の舞台は大阪・新歌舞伎座。松平健・川中美幸特別公演で6月7日初日、28日が千秋楽。
芝居は平岩弓枝作、石井ふく子演出の「いくじなし」(4場)で、鼻っ柱の強い女房(川中)とお人好しの亭主(松平)が軸になる時代劇人情物語。舞台は下谷龍泉寺町の裏長屋。そこで起こる悲喜こもごもに首を突っ込む世話役、甚吉が僕の役。
ご一緒するのは特別出演の中村玉緒に中田喜子、鷲尾真知子、外山誠二、友人の真砂京之介、瀬能和紀、関西ジャニーズJrの室龍太という面々。
毎年、川中座長の新歌舞伎座公演は、関西もので、ご当地で関西弁の冷汗をかいたが、今回はお江戸ストーリーなので、内心ヤレヤレ・・・の気持ち。1カ月、老体に鞭打って、大方のご期待に応える覚悟でいる。
久々に仲町会のゴルフコンペがあった。4月17日、名門の千葉・鎌ヶ谷カントリークラブ。西コースのスタートホールの第1打。ドライバーショットが自分でも驚くほど、よく飛んだ。
「ナイス・ショット!」
同じ組の作曲家弦哲也や後の組の四方章人、アレンジャーの南郷達也らから〝おほめ〟の声がかかる。その他の声には「えっ? どうしたの?」に似た怪訝の気配がにじんだが、
《ようし! 大丈夫だ、この調子なら》
と、僕はひそかに自分自身を励ました―。
それなりのヒミツはある。前夜は一人、ゴルフ場近くのビジネスホテルに泊まった。葉山から早朝移動の体調ロスをまず避ける。次に「80才を越したんだから」と言い立てて、シルバー・ティーから打つ特権!? を獲得した。距離的に大分オマケがある。三つめは、亡くなった作曲家船村徹の形見分けのドライバー。まだビニールで覆われて未使用だったが、テレビの通販番組で〝驚異的飛距離〟と宣伝されている業物である。もっとも僕が、それを誇示するのはいい当たりの時だけ。チョロでは故人に顔向けが出来ない。
「年齢なんて関係ねえよ」
とうそぶいていたのは、70代後半まで。80才を過ぎたら〝思い込み〟と〝体調〟のギャップが、やたらに大きくなった。2月末に小西会コンペで遠征したボルネオ(マレーシア)では醜態を演じた。1ラウンド終わって、ホテルの部屋へ戻った午後、食事もそこそこに熱を出して寝込んだ。熱中症まがいで、まだ冬の日本から気温35度の現地、体の対応が追いつけなかった。病院へ連れて行かれて点滴を受ける。夜は一行の酒盛りに復帰するにはしたが...。
「統領、タフだねえ」
「80過ぎとは思えないよ」
などというはやし言葉に、常々〝その気〟になったのは愚の極みと思い知った。その後だけに千葉の「ようし!」は、大事な体力の確認である。ゴールデンウィーク明けの15日から、6月の大阪新歌舞伎座公演のけいこが始まる。
劇場開場60周年を記念した松平健・川中美幸特別公演で、平岩弓枝作、石井ふく子演出の「いくじなし」が第一部。浅草龍泉寺町の裏長屋を舞台に、気のいい水売り行商の六助(松平)とかかあ天下の女房はな(川中)を軸にした時代もの人情劇である。僕は町内の世話役甚吉という役を貰って、一場面だが両主役にからむ。年のせいで体にガタが来ていて...じゃ面目が立たない。
セリフを一生懸命覚えながら、栃木・下野新聞の連載の書きだめをする。「続・素顔の船村徹~共に歩んだ半世紀」で、昨年1年間、月2本で24本書いたものの続編である。昭和38年の初対面以来、僕の船村歴は54年。知遇を得て密着取材、〝外弟子〟を称して鳥羽一郎ら〝内弟子5人の会〟には兄貴風を吹かせている。最晩年の心臓手術から文化勲章受章、亡くなっての通夜、葬儀、1周忌、3回忌の法要まで、ずっと身辺に居たから、ほとんど〝親戚のおじさん〟状態。書くべきネタは山ほどあり、しかも下野新聞は船村の地元発行紙だから、気合いが入らざるを得ない。
5月分2本は入稿した。6月は大阪暮らしだから、あちらへ入る前に書いておこう。年寄りのぺいぺい役者が、公演の合い間に原稿書きなどもってのほか。ご一緒する向きが僕を〝二足のワラジ〟と知ってはいても、それに甘んじては芝居の世界のお行儀として最悪だろう。第一、資料のあれこれを宿舎のホテルに持ち込めば、大荷物を運搬することになる。
昨年24本、今年24本の連載となると、合計すれば単行本一冊くらいの分量。それを船村メロディーの曲目ごとに書くのだから、こちらで数えれば48曲分。さて、どの歌にしようか、あれも書きたいし、これも捨て難い。誰もが知っているヒット曲ははずせないし、隠れた名曲もある。北島三郎を筆頭に、育てられた歌手たちにも触れておきたい。それやこれやに思いをめぐらせる日夜、亡くなった船村が、僕の脳裡からずっと居なくならない。
「...という訳でさ」
なんて言いながら、ドライバーショットをビシッ、時にチョロ。スコアは西コース49、東コース54の合計103になったが、ぴったりオネストで、僕としてはまずまずの成果。しっかりけいこに励み、その間に雑事もこなして、これなら元気に大阪へ入れそうと気をよくしている。

「四万十川恋歌」
歌:仲町浩二 作詞:紺野あずさ 作曲:岡千秋 編曲:石倉重信
競作の「孫が来る!」から5年、仲町の第2作シングル。もともとスポーツニッポン新聞広告局勤めのサラリーマンが、定年でプロ歌手になった変わりダネ。出身地高知へ通い詰め、キャンペーンに明け暮れていた。当然「第2作はいつ?」の声が出て、あせる仲町の「いずれ"四万十川恋歌"を作るから」と、タイトルだけ先行予告していた経緯がある。
満を持して!?の新曲で、作詞は同じ高知出身、星野哲郎門下の紺野に、作曲は「孫が来る!」を競作した岡千秋をわずらわした。60才を過ぎて念願のプロになった仲町は、親交を深めた地元の各メディア、有力者たちの応援を受けて、見事に「地方区のアイドル!?」に育ちつつある。

「銀座のトンビ~あと何年・ワッショイ」
歌:沢竜二 作詞:ちあき哲也 作曲:杉本真人 編曲:伊戸のりお
沢竜二はご存知大衆演劇の雄。それが惚れ込んだ楽曲で何と、今年の紅白歌合戦出場を目指す。卒業した北島三郎より年上だから現役歌手の最年長。それがハンパない意気込みで歌い歩いている。
あいつらはみんな逝っちまったが、俺はあと何年生き残れる。あと何年、女にチヤホヤしてもらえる。あと何年、女房に大目に見てもらえる。命のローソク、最後の炎、俺は俺流に生きてやる、ワッショイ!
歌詞を沢が歌い、吼える。令和に年号が変わっても、変わらぬ性分、変わらぬ欲望をわれとわが身に突き合わせて、昭和おやじの快唱である。ワッショイ!ワッショイ!の掛け声で、呼応するのは熟年の紳士たち。みんな思い当たる節があって、「あのワッショイ!には、俺もかなわねえや」と、作曲者杉本も妙な太鼓判を押している。名残りのネオン街をとび歩くご同輩よ、時ならぬワッショイ!大合唱が聞こえたら、その騒ぎの中心に居るのは沢竜二だ!

歌手井上由美子は近所のおじさんやおばさんから「パチプロ」だと思われている。理由はもうけの手堅さ。投資額は1000円代で、ジャラジャラ...と来ても深追いしない。台の選び方や球の打ち方などに、それなりの「手」はあるのだろうが、きちんと稼いで大損がない。
大阪の藤井寺から上京、足立区や昨今の西小山付近などに住むが、なぜかそばにパチンコ屋がある。そこで打ったら最初からうまく行った。ビギナーズ・ラックである。
「パチンコ台が私を見ている。少しサービスして〝その気〟にさせる気だな」
と見た。うまく行かない時はさっさと家へ帰り、着替えをして入店する。自分を〝新顔〟に見せる細工で、これが図に当たったと言う。見ているのは台ではなく、その裏の店員の視線なのだろう。
「沢山たまった球を、主として何に代えるの?」 と聞いたのは、明らかに愚問だった。答えが、
「お金に決まってるじゃん」
と来たからだ。獲得する金は全部生活の足しにした。プロ歌手になる前は、そんな暮らしが長かった。
井上由美子は「演歌」の歌い手である。それに似合いの苦難の時期とエピソードもちゃんと持っている。しかし口調はやたら明るい。
「中学3年の時、母と私は、藤井寺に居る必要がなくなった」
両親の離婚が理由。そこで母子二人はすっぱりと大阪を捨てる。井上には歌手になる夢があったが、その方法について、知識もコネもない。とりあえず母もバイト、自分もバイトの日々である。ところが母が体調を崩したため、彼女は昼夜バイトのダブルで生計を支えた。文化放送の深夜番組「走れ歌謡曲」がやった新人歌手募集に応募、1年後にデビューする好機をつかむのは、一発勝負のいわば僥倖。それまでにカラオケ大会もオーディションも出たことはない。
根拠のない自信家井上由美子は「チビ」である。この表現は人をおとしめるとして要注意だが、身長146センチ、足のサイズ21・5、童顔の彼女は「かわいい」と言われそれを売りにするのだから、使ってもいいだろう。もっとも彼女は子供のころから、コンプレックスを持ってはいた。しかし歌手になると、あちこちでかわいいと言われるために、自分の価値として再認識。昨年から年齢も非公開にした。容姿の説得力を保つ作戦である。
恩人の名前が二人分出て来た。一人は元文化放送の玉井進一さん。応募した時に年齢制限越えを明記したら「正直でいい」とし、見た目を「かわいい」と評価して、歌手への道を開いてくれた。文化放送系の音楽出版社JCMの社長も務めた人だが、僕も親交がある人情家だ。もう一人は亡くなったアルデルジロー社長の我妻忠義さん。デビュー時井上を引き取ったプロダクションの主で、僕もこの人のお声がかりで役者の道へ入った。共通の恩人というのも縁の妙か。今は我妻氏の息子二人が事務所を引き継ぐが、何しろ井上が頼りの弱小プロ。そこで彼女は、
「お金を下さい。事務所がつぶれちゃいます!」 と、舞台で叫ぶ会社こみの〝自虐ネタ〟をやり、爆笑を呼んだりするのだ。
歌手井上由美子は「おもろい女」である。「パチンコ」に並ぶもう一人の趣味は「温泉」だが、長野の白骨温泉へ出かけた時など、2日間で12回もつかり、
「お肌ツルツルを通り越して、パサパサになった」
と笑い飛ばす。休みがあると飛んで行くのは伊香保の宿で素泊まり。コンビニでおにぎりなど買い込み、寸暇を惜しんでつかりまくると言う。
それやこれやを僕はレギュラー出演中のUSEN「昭和チャンネル」月曜日の「小西良太郎の歌謡曲だよ人生は」6月放送分で、彼女と5時間近くしゃべり尽くした。相棒の歌手チェウニも笑い転げんばかりの長時間だった。
井上が生来身につけていたのは、関西人特有の諧謔精神と、血液型Aの眼くばり心くばりのサービス。ボケよりツッコミの威勢の良さがある。目下彼女は新曲「想い出の路」キャンペーンに没頭しているが、僕はマネジャーに、
「バラエティ番組に出せ、パチンコか温泉探訪のレポーター役を取って来い!」
と注文した。まず顔を売る近道だが、さて我妻兄弟、どこまで頑張れるものかどうか...。

老練のシャンソン歌手出口美保は、粘りに粘った。以前にもこの欄で触れた大阪の作詞グループ「詞屋(うたや)」の歌づくり。メンバー各人の歌詞がほどほどに仕上がり、私家版のアルバム2作めにしようと企んでのことだ。作家・エッセイストの杉本浩平の詞「詩人の肖像」に、僕の友人の作曲家山田ゆうすけが曲をつけた。出口には前回同様サンプル歌唱を頼んだのだが、詞に注文がつき、曲に一部変更の相談が来る。
《こうなりゃ、とことんやるか!》
プロデューサー格の僕もハラを決めた。詞はそれまでに何度か手直し、タイトルもシャンソン風に変えていた。出口はその作品を「自分のレパートリー」にすると意気込む。それならば「試作品」を越える完成度を目指さなければなるまい。
出口は関西のレジェンドである。シャンソニエを持ち、そこを中心に歌いながら、年に一度はフェスティバル・ホールでリサイタルをやる。いくつかの教養講座で教え、相当数の教え子たちもいる。それだけに彼女なりの世界をはっきり持っており、それにふさわしい言葉やそうではない言葉にも敏感だ。だから、
「この部分はどうも...」
「このメロディーはもう少しこうならない?」
と、相談は細部にわたった。
その都度僕は杉本と話し合ってまた詞に手を加え、山田に注文して曲の手直しをする。
「すみませんねえ」
と詫びる彼女。
「いやいや、気持ちは判りますよ」
と応じる僕。これまで僕は歌謡曲のプロデュースをいくつかやり、歌手たちの代表曲にした経験がある。相手がスター歌手でもこうと決めたら一直線。反対も押し切る我の通し方だった。それがこんなに手間暇をかけたのは初めてだ。
出口の歌を聞いたのは、ずいぶん昔のNHKホールの「パリ祭」で、ズンと来る低中音の魅力と存在感をカラオケ雑誌の記事にまぎれ込ませた。ほんの数行なのに、それを読んだ彼女から連絡があり、東京でのコンサートも何度か見た。それを縁に詞屋の仕事につき合ってもらうことになる。
詞屋のアルバムは文字通りの手づくりで、メンバーの研鑚の記念品であり、欲を言えば作品のプロモーションが狙い。府長と市長が入れ替わり、大阪維新の会がダブル選挙圧勝、ぶち上げる都構想...などとは全く関係ないが、
「歌のコンテンツづくりが東京一極なのはいかがなものか、この際われわれが関西から発信したい」
とする会の意気に感じて手伝って来た。4年前のアルバム第1作は思い思いの作品でコンセプト薄め。今回は「大阪亜熱帯」「ちゃうちゃう大阪」「ふたりの天神祭り」「ワルツのような大阪で」など、いかにも〝らしい〟作品が集まっている。歌詞に本音を書き込むのはむずかしいが、リーダーで演出家の大森青児の「おやじの歌」は、101才で亡くなった父君への思いが切々である。
5月1日発売を目途にした作業。
「それにしてもお二人、粘りますなあ」
と会の面々に呆れられながら、締切りをかなり遅れ、見切り発車されそうな中で「詩人の肖像」は出来上がった、ピアノ一本をバックに、出口美保渾身の歌唱である。彼女も僕も、とうに80才を越えている〝老いの一徹〟だが、彼女はまだ、
「いまひとつ歯がゆい」
と、歌唱への未練を口にしている。
詞屋のメンバーは、大森、杉本のほかに槙映二、丘辺渉、井美香、近藤英子ほかだが、正体は大学の先生、作家、進学塾のやり手など、異業種ではひとかどの面々。そこが面白そうだと、僕は時おり大阪の合評会に参加、年寄りの知ったかぶりでお尻を叩いて来た。会の弱点は作詞家ばかりで、作曲、編曲、歌もやる松原徹と曲の上原昇以外は作曲、編曲、歌手の仲間が手薄なこと。いずれ関西の有志を糾合...とその気になっているから会は第2期に入りそうな気配だ。
「だから、歌い手がいまへんねん」
「これはお似合いの作品と思うんやけど...」
などと、冗談めかした視線に射すくめられて、酔狂な僕は杉本のもう一つの「古き町にて」を歌うことになった。作曲は大病の療養中だった有名アレンジャー前田俊明に依頼、女に振られたまま京都あたりで独居する熟年男の悔恨をしみじみ...という段取り。歌唱ばかりは口ほどにもないと、失笑を買うことは覚悟の上である。

殻を打ち破れ207回
偶然ってあるものだと思った。なかなかに味なものだとも思った。2月にちあきなおみを2度も聞いたのである。もちろんCDとテレビの映像でのことだが、久しぶりに沁みたのは『紅とんぼ』と『紅い花』の2曲――。
『紅とんぼ』にグッと来たのは、1日の代々木上原けやきホール。ここで僕は「巨匠船村徹の軌跡」の語り手をやった。共演したのは鳥羽一郎、静太郎、天草二郎、走裕介、村木弾の内弟子5人組とギタリストの斎藤功。船村の歌づくりの足どりを、作詞家高野公男との時代、星野哲郎との時代を軸に辿った。
『別れの一本杉』をはじめ、往年のヒット曲を内弟子たちが歌い、斎藤の妙技は『みだれ髪』で。美空ひばりや北島三郎のヒット曲はCDで聞きながら、船村の"ひとと仕事"のあれこれを、エピソード仕立てでしゃべる段取り。昭和38年の初対面以来、僕の船村密着歴は54年に及ぶ。話のネタも聞き直したい歌も、山ほどあった。
高野、星野作品にしぼると、ちあきなおみがはずれてしまう。それでは残念...と、3時間余のショーの幕切れ近くに『紅とんぼ』を所望した。平成4年のNHKの歌番組を最後に、ふっつりと姿を消したままの歌手である。会場の人々も心なしか、かたずを飲む気配で聞き入った。昭和63年のシングル、まさにちあき円熟期の作品だ。
それから4日後の2月5日、風邪の微熱がおさまらぬまま、テレビをつけたらたまたまBSテレ東のちあきなおみ特集に出っくわした。大流行のインフルエンザではなかった安堵もふっ飛んで、テレビの画面に正対する。"いい歌"ばかりの中で、待ったのはやはり『紅い花』だった。平成3年の新譜、めったに聞けない作品をそれもフルコーラス。彼女41才の収録とテロップに出た。こちらも現役最晩年、歌い手盛り、女盛りの彼女だ。
『紅とんぼ』は、駅裏小路の店が店仕舞するドラマ。常連だったケンさんやしんちゃんに、酒も肴も空にしていって、ツケは帳消し、5年間ほんとにありがとう...と、ママの一人語りが続く。歌うちあきの表情は、客への感謝が暖く、故郷へ去る身の寂しさで揺れる。3コーラス全部、最後の決めのフレーズが
♪新宿駅裏"紅とんぼ"
思い出してね...時々は~
で、ここでちあきの顔はふっと真顔に戻った。はりつめんばかりの思いを表現、ちあきの全身がママそのものになっている。
≪演じるというレベルではない。これはもはや憑依の芸そのものだ≫
1日にCDで聞いた歌を、5日に映像で見直して、僕はそう納得した。
一転して『紅い花』は、熟年の男の悔恨がテーマ。ざわめきの中でふと、男は昔の自分を振り返る。思いをこめてささげた恋唄も、今では踏みにじられ、むなしく流れた恋唄になった。時はこんなに早く過ぎるのか、あの日あのころは今どこに...男はそんなほろ苦さをひとり、紅い花に託して凝然とする。ちあきのくぐもり加減にハスキーな歌声が、静かなまま激していく。情感は抑え込まれるからこそ生々しくなる。結果歌は、さりげなく熱い――。
ずいぶん昔に居なくなった、一人の歌手の歌心を、こんなふうに再確認することもある。そして僕は二人の男の顔を思い出した。『紅とんぼ』も『冬隣』も、『喝采』も作詞家吉田旺の作品である。『紅い花』は、テレビの歌謡番組が花盛りだった70年代から90年代に、腕を振るった構成作家松原史明が作詞した。吉田は書斎型の物静かな歌書き、松原はこわもての言動に、あの歌のような維細さを秘めた物書きである。久しく会わない二人の近況が、しきりに気になったものだ。
いきなりびっくりするくらいの〝ゆうとコール〟である。赤羽会館1階の客席はほとんど女子。歌が始まれば一斉にペンライトが揺れて、そのリズム感もなかなかだ。3月23日夕、辰巳ゆうとのファーストコンサート。昨年末のレコード大賞最優秀新人賞ほか、いろんな賞を取った注目株で、2階席にはメディア関係者が相当数集まった。
なぜか歌まで拠点が北区赤羽なのだ。
《もしかして...》
と思い返す。氷川きよしの初コンサートがここ。夜桜演歌まつりの発端もここ。双方見に行ったが、いずれも辰巳が所属する長良プロダクションの主催だった。ビクターの担当・菱田ディレクターに確認したら、拠点選びはやはり事務所主導である。先代の長良じゅん社長の遺志を、息子の神林義弘社長が引き継いでのことか。〝こだわり〟は時に、強い武器になる例だろう。
「おとこの純情」「下町純情」「赤羽ものがたり」と、辰巳のレパートリーはみな明るく、テンポ快適。新人だから歌唱に荒けずりなところはあるが、それも活力に通じ、美男子ぶりが彼女らを酔わせる。歌の中身は今様青春歌謡で、
〽叶わぬ夢を叶えるために(中略)ここぞと言う時一気に出せよ、やれば出来るさ、運も呼べ...
と、若者を鼓舞するタイプ。
僕の席は2階2E14。ショーの途中、辰巳の歌をごく小声でなぞる男が居た。前奏、間奏、後奏までの念の入れ方で、実に気分がよさそう、振り向けば後ろの席のハミングの主は作曲家徳久広司、隣りには作詞家久仁京介の笑顔がある。辰巳でひとやま当てたコンビが上機嫌なのだ。
《そう言えば...》
と、同じ月の17日、ザ・プリンスパークタワー東京で会った歌手藤野とし恵の迷いを思い出す。シングルを出すたびに、カップリング曲の方が評判になるらしい。タイトルで言えば「水無川」より「失恋に乾杯」で「路地しぐれ」より「私をどうするの」となる。メインは彼女らしい情緒艶歌、他方は前者がマンボ、後者がルンバだ。藤野は福田伴男・真子夫妻の「舞と食事と歌の会」にゲストで出ていた。福田氏は横浜の医師だが、山歩きと釣りとカラオケが大好きの粋人。夫人の真子さんは地唄舞いの本格派で、この夜は「雪」を舞った。僕は二人と長い交遊に恵まれている。
地唄舞いの粛然、精妙のあとは、カラオケ達者連のステージ。2次会も含めて、みんなが軽快にノリのいい曲を選んでいた。よく見ると、熟年の歌い手の体が倍テンポで動いている。
「そうなんだよな、近ごろは...」
と、僕は藤野とうなずき合った。みんなが一心に歌を楽しんでいる。情緒だの情感だのをひたひたと訴えることは、かったるくなったのか? この節、若者にも熟年にも、娯楽の種類は信じられないくらいに増えた。庶民の生活は大いに様変わりして、生活感も変わった。その中で、演歌歌謡曲の哀愁に、自分の思いを仮託する味わい方など失われてしまったのか?
暗めのドラマを聞かされるよりは、歌手と一緒にその場を楽しむ心地良さの方がいい。歌う側と楽しむ側が体を揺すり、手拍子を打ち、掛け声をかけ合ってひとときの〝まつり〟とする。そのためのツールとしての流行歌が近ごろは人気を集めやすいのか!
そんなことを考えながら24日昼は六本木のREAL DIVA'Sへ、ゆあさみちるという新人のライブを見に行った。友人の作曲家花岡優平が手がけていて、
《じゃあ、昼間から一杯やるか!》
と誘いに乗った。これが何とも小気味のいい魅力の持ち主だった。中肉中背、短髪、黒いシャツブラウスで、キビキビと体がよく動き、歌の合い間のコメントも手短か。時おりシャウトする地声が強く、情緒的湿度よりは、活力を伝えて快活だから、
「アイドル性があるな」
と言ったら、花岡は一瞬けげんな顔をした。年齢が高めの層相手のアイドルだって、アリではないか。
話は辰巳ゆうとに戻る。この青年は1曲ごとに数回「ありがとうございます」を繰り返した。客席を回るシーンなどその連発で、1ステージで150回くらいは言ったろうか。体の動きやコメントに氷川きよし似のところがあり、ファンに両手をひらひらさせるあたりは水森かおり似とも思えた。同じ事務所の先輩2人の、いいとこ取りをした賢さが、ごく自然なところが面白かった。

内田裕也はいつも「怒って」いたし「いらだって」いた。自分の考えにそぐわない事柄が多過ぎるし、それをアピールしても届かない無念がある。言動が粗野だから、主張ぶりは時に〝事件〟となって、世間の耳目をにぎわしてしまう。
《そうじゃねぇんだよ、このタコ!》
という鬱憤が、どうしても積み重なっていく。そういう一念と、蛮行、愚行に走ることの乖離を意識しながら、彼は彼流を押し通した。胸中にうずく含羞の美学など棚にあげたままだ。
1981年、樹木希林との離婚届けの件もそうだった。夜遅く会いたいという電話を受ける。僕はその日のスポニチ編集の責任者で、手が離せないと言っても、きかない。仕方なしに、勤め先近くの東京プリンスホテルのバーで落ち合った。
「離婚しました」
が彼の第一声。夫人が同意したとは思えないから問いただすと、二人分の印鑑を勝手に押している。誰がどう考えても、そんな届けは無効だから、取り下げるように話したが、
「渋谷区役所は受理した。決定だ」
と強弁する。その足でハワイへ発つと言うので、僕は社の車で成田空港まで同行、説得を続けたが、「うん」とは言わぬままだ。彼の言う通り、事実は事実だからありのままに記事にした。
案の定、大騒ぎになる。帰国後の彼と話して、友人の弁護士を紹介した。間違いなく敗訴になるにせよ、本人がマスコミ勢にもみくちゃにされ、またあらぬことを口走らぬように...のおもんばかりだ。
10年後の91年、都知事選に立候補する件は、赤坂プリンスホテルの寿司屋で報告を受けた。政治への関心と、候補者選定の舞台裏への義憤が熱く語られる。こちらには止める理由もないから、翌日の立候補届け出に、仲間の記者とカメラマンを同行させ、取材した。選挙運動の期間中も破天荒な遊説に密着する。落選はしたが彼は、5万票超の支持を得た。
長いつき合いがあった。ロカビリー・ブームからグループサウンズ・ブームまで、僕はジャズ喫茶や日劇のウエスタン・カーニバルなどを徹底取材した。異形の彼らの凄まじいエネルギーと熱狂するファンの姿を、世間は不良集団と指弾する。しかしそれは明らかに、新しい音楽や流行の波頭だったから、スポニチは支持し、僕はたくさんの記事を書いた。
もともと僕は密着型の記者である。歌手の美空ひばり、作曲の??田正、船村徹、作詞の星野哲郎、阿久悠、吉岡治らがそうだが、相手が許してくれればとことんその懐に深入りして「ひとと仕事」の実情をきわめようとした。「密着」と「癒着」は違うのだ。内田の場合もそうなり、しばしば一緒に酒を飲む間柄になった。
ところが相手は、ロックンロールと生き方考え方を表裏一体の魂と念じる男である。ロックがビジネス化することにも異議を唱え、憤懣やる方ないから、荒れた酒になることが多い。ゴールデン街ではいつも、彼をカウンターの一番奥に据え、僕はその手前に陣取った。居合わせた客の発言に腹を立ててケンカになると、僕は止め役である。口惜しがって彼は僕の腕を噛む。明け方、僕の右腕には彼の噛み跡が二つ三つ残ったものだ。
あとになれば笑い話の、そんなエピソードは、いくつもある。しかし、それを笑っては済ませないほど、その時々彼はすこぶる真剣でなりふりかまわない。短絡的で衝動的に行動する彼との酒は、いつも危険物持ち込みみたいな緊張を伴った。右側二の腕に残った彼の噛み跡は、当時の僕の名誉の勲章だったかも知れない。
駆け出し記者には、とうてい対応できる相手ではない。そのために僕は、スポニチに、〝裕也番〟の担当記者を置いた。晩年まで長く密着したのは佐藤雅昭で、文化社会部長もやったベテランである。2013年、彼の父親が亡くなった通夜に、内田が突然姿を現わした。何と葬儀式場は北海道の釧路である。こわもての内田の情愛の深さとおもんばかり、筋の通し方に僕は感じ入ったものだ。
内田裕也は己の信ずるままに戦い「むきだしの人生」79年を貫いて逝った。胸中の核としてあったのは、樹木希林夫人の言う「ひとかけらの純」だとすれば、もって瞑すべき生涯だったろう。
僕はこの欄の今年第1回から全部で、亡くなった人のことばかりを書いている。時代の変わりめに立ち会っている感慨がひとしおである。

「二度とない人生だから...」
を冒頭に置いて、いくつかの心得が並ぶ。いわく―、
「太陽や月、星に感謝して、宇宙の神秘を思い、心を洗い清めていこう」
「風の中の野の花のように、命を大切にして、必死に、丁寧に生きていこう」
「お金や出世より、貧しくとも心豊かに、優しく生きてゆこう」
「残り少ない人生だから、沢山の〝ありがとう〟を言うようにしよう」
箇条書きにそんな言葉が次々...。一部省略、一部割愛したが、これは亡くなった作詞家下地亜記子の信条であり、同時に遺言にもなった。
親交のあった歌手真木柚布子は、病床の下地からこのメモを示されて胸を衝かれた。下地はこの時すでに、自分の病状の厳しさを知り、残された日々がそう長くないことを、予感している気配があったと言う。後に真木は、渡されたメモの重さに思い当たる。作詞歴40年、72才で逝った下地は、自身の生き方考え方、歌づくりの姿勢を総括、それを歌みたいな表現で、真木に伝えたのではなかったか!
3月11日、中野サンプラザ13階のコスモルームで、真木は「下地亜記子先生との思い出ライブ」を開いた。「託された詩があり、伝えたい歌がある」をテーマに、3回忌の追悼イベント。彼女のファンや下地の知人、関係者など230人が集まった、こぶりのディナーショーである。その舞台で真木は、下地の遺言を朗読した。作曲家樋口義高のギター演奏がバックで、寄り添うように静か。
《3回忌に、こういう催しもありなんだ...》
2月16日に作曲家船村徹の3回忌の宴を、司会で手伝ったばかりの僕は、それとこれとを思い合わせる。船村の場合は、故人と親交のあった人だけを招いて、遺族の「アットホームな雰囲気に」という希望を満たした。一方下地の場合は、真木が下地作品を歌いまくる歌謡ショー。冒頭と幕切れに息子の下地龍魔があいさつをしたことだけが、それらしさの演出だ。
ともかくにぎやかだった。曲目を挙げれば、お祝いソングの「宝船」から、本格演歌の「北の浜唄」「夜叉」「雨の思案橋」にコミカルな「ふられ上手」「助六さん」リズムものの「大阪ブギウギ」「夜明けのチャチャチャ」じっくり聞かせるのは歌謡芝居「九段の母」...である。劇団四季に居たこともある芸達者・真木のために書いたとは言え、下地の詞世界の幅の広さがよく判る。隣りの席に居たキングの中田信也プロデューサーが
「売れ線ばかり作っても、おもろないもんねえ」
と笑ったが、彼が主導したトリオならではの面白さが前面に出ている。
下地は世渡り下手な作詞家だった。広告代理店のコピーライターから転じたと聞くが、歌謡界の表通りに出てはいない。それでは裏通りに居たかと言えばそうでもなく、コツコツと「自分の道」を歩いて来た人だ。決して器用な人だとも思えない。歴史ものにはちゃんと下調べをした痕跡があり、書いては消し、消しては書いた推敲のあとが歴然。歌の常套フレーズの中に、自分の言葉を書き込む粘り強さで、中には言葉山盛り、書き過ぎと思える作品もあった。安易に流れることを嫌った彼女の作詞術は、いってみれば力仕事で、出来栄えは〝おとこ前〟だったろうか。
真木もまた、表通りではなく、自分の道を行く歌手である。先に書いた曲目がそれぞれシングルで発表される都度、
《中田は一体、何を考えているんだ?》
と、企画の蛇行、路線の見えなさに疑問を持ったものだ。それが過日、真木のコンサートを見て、眼からウロコが落ちた。趣きが多岐にわたる作品群を、巧みに並べ合わせた構成で、まるで「ひとりバラエティー」の面白さ。歌謡ひとり芝居も情が濃いめで、僕は不覚にも涙ぐんだりした。
《彼女はそういうタイプのエンタテイナーなんだ...》
と合点する。それは流行歌の歌い手だから、一発ブレークを念じないはずはない。しかし下地・真木・中田のトリオは、ヒット狙いにあくせくするのを避け、真木なりの世界を作ることにも制作の狙いを絞っていたということか。
下地3回忌ショーの客席で右隣りに居たのが元JCMの岡賢一社長。森山慎也の筆名で香西かおりの「酒のやど」ほかのヒットを持つ人だが、 「この催しを決定的にいい会にしたのは、真木の誠意と歌手としての実力だな」
と感嘆していた。下地亜記子ももって冥すべきだったろう。

元第一プロダクション社長岸部清さんの死は、淡路島で聞いた。2月11日、作詞家阿久悠の故郷のこの島で、阿久作品限定の大がかりなカラオケ大会「阿久悠音楽祭2019」をやったことは、この欄でも書いた。その大会が終わり、大盛会に気をよくした打ち上げで、ひょいと席をはずしたのが同行した友人の飯田久彦。戻るなり神妙な顔で囁かれたのが岸部さんの訃報だった。
通夜・葬儀の日程はどうなったか...と、葉山の自宅へ戻ったら、スポーツニッポン新聞の後輩記者から電話が入る。岸部さんの人柄や業績についての問い合わせ。
《そうか、彼らは岸部さんが元気だったころを知らないんだ。ま、戦後のプロダクション隆盛時代を作った、いわば一期生のせいか...》
岸部さんの笑顔を思い出す。ぴんからトリオの「女のみち」の件になって、これは結局書かないだろうな...と言いながら、自慢話をひとつした。ある日、霞ヶ関の第一プロ社長室に呼ばれて彼らのテープを聞かされた。
「どう思う?」
岸部さんは「女のみち」の値踏みに窮していた。
「三振かホームラン。限りなくホームランに近い。だけど、ひどい歌詞です。まるで素人でしょう。大当たりはするけど、作品論としてはイマイチもいいとこかな」
僕はえらそうに太鼓判を押した。何といっても説得力が強力なのは、宮史郎の歌声。悪声の一種だが、だからこそ底辺の女の嘆き歌にビシッとはまっていた。森進一や金田たつえがそうだが、たぐいまれな悪声は、時として天下を取る魅力に通じる。
大ヒットした。そのころ親しかった第一プロの若手、只野・島津両君が、嬉しそうな顔で、
「社長がお礼に、台湾旅行に行こうと言ってます」
のお使いに来た。「バカなことを言うな。はいそうですか、今回はようございましたねなんて、ノコノコ出かける訳はないだろう」と言下に断ったら、二人は虚を衝かれた顔をしたものだ。
18日、青山葬儀所の岸部さんの通夜に出かける。葬儀委員長がホリプロの堀威夫最高顧問、副委員長が田辺エージェンシー田邊昭知社長とプロダクション尾木の尾木徹代表取締役、世話人がバーニングプロダクションの周防郁雄社長と、業界の大物が勢揃いだ。現役を退いて久しい岸部さんだが、この世界の草創期に名を成した人である。歌社会が総出の弔いになって当然だったろう。
《ところで只野、島津はどうした?》
立ち働く元第一プロの諸君を見回したら、
「只野は大病をして動けず、島津は今のところ連絡がついていない」
と、教えてくれる人がいた。親しかった分だけ、二人の不在には舌打ちしたい無念さが残った。
帰宅したら届いていたのはザ・キングトーンズのリードボーカル内田正人の訃報である。「グッドナイト・ベイビー」のヒットで知られる日本の〝ドゥーワップ〟の草分け。小沢音楽事務所に所属、長い親交があったが、小澤椁社長も「グッドナイト...」他を作曲した異色の歌書きむつひろしも、亡くなってずい分の年月が経つ。
内田は僕と同い年の82才。葬儀は近親者だけでやると聞くと、手を合わせる機会がない。むつひろしを弔ったのは平成17年の9月、「八月の濡れた砂」や「昭和枯れすすき」を書いた異才だが、最晩年は、がんの苦痛と戦っていた。その気をまぎらわせることと激励の意味も含めて、
「最後に1曲、これぞって曲を書き残せよ。ちあき哲也に詞をつけてもらって、内田正人に歌わせるから」
と、無茶振りをしたことがある。ところがそのころすでに内田は脳梗塞で倒れていて、以降長い闘病が続いた。そうこうするうちに親友のちあき哲也も旅立ってしまい、むつひろし最後の傑作曲は、宙に浮いたままになった。
2月25日から僕は今ボルネオに居る。正確に言えばマレーシアのコタキナバルというところで、ハワイのマウイみたいな景観とリゾート施設が整う。連日30度の気温だが、昔の日本の夏みたいな過ごしやすさの中で、小西会の遠出のゴルフ・ツアー。ボルネオはもう10回近く通っているが、幹事長の德永廣志テナーオフィス社長が、
「小西会もやばいよ。みんな年取っちまって、体調不良のいい訳ばかりだもん」
と嘆く。結局参加者はゴルフの2組ほど。苦笑いしながら、平成最後の春、僕は遠のいていく昭和と、親しかった人々の友情を思い返している。

「仲間たちをなァ、大事になァ」
これが亡くなった作曲家船村徹からのメッセージ。本人の筆跡で、遺影とともに祭壇に飾られた。透明のアクリル板仕立てで、背後の桜の花が透けて見える。その前には位牌と、生前愛飲した酒「男の友情」のボトルや愛用のグラス、周囲には春の花々が揃う。2月16日の祥月命日、グランドプリンスホテル高輪で開かれた「3回忌の宴」でのことだ。
業界の葬儀屋よろしく、数多くの作家や知人の葬儀や法要を手伝って来たが、
《3回忌が一番むずかしいな》
と常々思っていた。亡くなってまだ2年、大ていの遺族は喪失感が生々しい。それに引きかえ参会者の方は、去る者は日々にうとし...で、双方の偲ぶ心にギャップがある。ことに歌社会の面々は、仕事上の懸案事項があれこれあって、自然わいわいがやがやになりやすい。新聞記者時代の僕など、人が集まればネタ探しが最優先だったから、不逞のやからの見本みたいだった。
「だから今回は、うちうち、アットホームな感じでやりたいの」
船村夫人の佳子さん、施主になる長男蔦将包とその嫁さゆりさん、船村の娘三月子さん、渚子さんの意見が一致した。
「判りました」
と、その意を受けたのが、構成、演出など全体取り仕切りのボス境弘邦と、相談しながら飾り物や花の細工をしたマル源社長の鈴木照義と僕...と、いつものメンバーだ。
そこで参会者名簿だが、生前の船村と個人的に親しいつき合いのあった人にしぼる。当然親戚の人々、船村の弟子たちの同門会、船村の故郷の栃木、コンビだった作詞家高野公男の茨城勢、後輩の作曲家と作詞家、薫陶よろしきを得た歌手たちということになる。レコード会社やプロダクション関係はごく一部になったから、後日、
「何で俺が呼ばれなかったの?」
と疑義を唱える向きには、境と僕の責任だからと謝ることにした。それにしても〝うちうち〟なのに参会者150人である。さすが巨匠船村...と、僕は感じ入る。
もうひとつの〝それにしても〟だが、素人の僕に司会のおはちが回った。昭和38年夏の初対面以来、知遇を得て船村歴54年、物書きの志と操を習うよりは盗んだ外弟子である。ことに師の晩年は連日のように密着、船村家の番頭格になったうえ、ここ10年余は舞台で役者をやっていて、年も年だから、人前に出てもあがらないだろう...ということでご指名にあずかった。
《ようし、それなら俺流に...》
と境の台本を書き直して、本番前には栄養ドリンクなどを飲んだ気合の入れ方。
来賓のあいさつは、船村の秘書係りまでを長く務めた浅石道夫ジャスラック理事長、船村の件ではこの人を絶対はずせない歌手北島三郎の二人だけ。それでも予定より15分押した。話したいことは山ほどある人たちだから仕方がないにしても、
「あいさつが〝長い〟と言い切る司会者は初めて見た。僕なんか、口が割けても言えませんよ」
と、本職の司会者荒木おさむに笑いながら激励された。万事この調子で、それが僕の〝うちうち流〟コンセプト。献杯の五木ひろしには
「あいさつ、長くなてもいいよ」
と声をかけた。伝説のテレビ番組「全日本歌謡選手権」での船村との出会いから、師匠だった上原げんととのいきがかりまで、こちらも山ほどの思いを持つ。いつもは「仲間たちバンド!」で終わりの紹介だが、メンバー12人を一人ずつていねいに紹介、みんなに一言コメントを貰った。彼らが選んだ船村作品「みだれ髪」「柿の木坂の家」と、家族が選んだ「街路樹」「風雪ながれ旅」を演奏でしみじみと聴く。
会場入って右側が、まるでフリーマーケット状態。背広上下が2点をはじめ、ジャケット、ジャンパー、コート、作務衣、帽子、ネクタイのセット、ぐい呑み等々。これが全部船村の遺品だったが、カラくじなしのくじ引きで、にぎやかな形見分けになった。お別れは例によって星野哲郎作詞船村徹作曲の「師匠(おやじ)」を関係者の感謝をこめて。歌ったのは鳥羽一郎、静太郎、天草二郎、走裕介、村木弾の内弟子5人の会、送り出しの演奏は「宗谷岬」で、会場にも戸外にも、春の気配が濃かった。
次の日、作詞家の喜多條忠から電話が入る。
「司会、よかったです。船村先生より俺の方が、足が5センチ長いことが判りました」
どうやらくじ引きで背広が当たり、帰宅してすぐに着てみたらしい。

淡路島に居た。2月10日から12日の2泊3日。東京からすれば南の方である。多少は暖かいか...と、のん気な旅は、羽田から徳島へ空路1時間20分、空港から大鳴門橋の高速を車で40分、島の中心部洲本へは案外あっさり着いた。しかし寒い。日本へやって来た例の史上最強の寒波とやらで、淡路島も例外ではなかった。
その寒空の下、11日の祝日に120人ものノド自慢が集まった。洲本市文化体育館文化ホールは〝しばえもん座〟のニックネームがある。そこで開催されたのは「阿久悠杯歌謡祭2019」阿久の故郷の島で、阿久作品限定のカラオケ大会である。
《そりゃ、手伝うしかないよな...》
と、審査に出かけたのは阿久作品で数多くのヒットソングを作った飯田久彦、朝倉隆に阿久の子息深田太郎と僕。あの〝怪物〟とは、切っても切れない仲の男たちということになる。おまけにゲストは山崎ハコ。彼女は阿久の未発表作を集めたアルバム「横浜から」を出したばかりだ。
天候の加減で欠席者が3人ほど出たが、ステージのボルテージは高かった。それぞれが歌う阿久作品は、傑作揃いである。「また逢う日まで」「北の宿から」「勝手にしやがれ」「雨の慕情」などはレコード大賞受賞曲だが、出場者たちは楽曲に寄り添い、ちゃんと〝自分の歌〟にしている。「街の灯り」を歌ったのは6人「聖橋で」が5人「転がる石」が5人...と、選曲が重なっても、歌唱は思い思いだ。参加者は中部、四国勢を中心に九州や広島、関東、東北からも。
言い出しっぺの情熱家は実行委員長の山中敬子氏。阿久が育った五色町の出身で、小学校から高校までを同じ校舎で学んでいて、崇敬の念がやたらに熱い。服飾関係の仕事で成功、島内有力者たちと親交があるうえ大の歌好きだ。彼女の一念発起に呼応したのが島の歌好きたちと観光関係者で、全国的組織の日本アマチュア歌謡連盟の竹本雅男本部長が指揮を取った。それにしても100人規模の全国大会である。第1回を成功に導いた陰の努力は、なみ大ていではなかったはず。話の発端から陰でかかわった僕は途中相当に心配したが、打ち上げの席では十分に快い酒に酔った。
成功の第一は、地元の人々の情熱、第二は参加者の歌唱の水準の高さ、第三は阿久悠の作品力の凄さだったろう。審査員席で僕らは歌われる1曲ごとに、阿久との親交のあれこれを思い浮かべた。120人近くの歌を聞くのはかなり難儀! と覚悟したが、それがそうではなくなった。100点満点で採点しながら、作業はけっこう楽しく、会場の人々の拍手も長丁場だが飽きる気配がなく、暖かかった。
ホテルの部屋で、兵庫県淡路県民局が編んだ小冊子「俳句で詠む淡路島百景」に出くわした。その序文に、淡路島は古事記に伝わる「国生み神話」の中で、日本で最初に創られた「日本のはじまりの島」とされているという。
《ほほう...》
と新しい発見をした気分で、書中の作品を引けば、
「この島の地球にやさし花菜畑」
「神の島埋みつくして若葉かな」
「胡麻干して淡路瓦の本普請」
「島一つ黄金に染めて秋落暉」
「流星に明かせし夜空島のもの」
などが目につく。阿久が少年時代にかこまれた島の豊かな四季や、彼の鋭く旺盛な叙情的感性を育てた風景に接した心地がした。
島のイベントに参加するには、当日の前後がどうしても〝乗り日〟になる。3日目の12日は洲本から阿久の通学道路などを辿って、五色町のウェルネスパーク五色(高田屋嘉兵衛公園)へ出かけた。ここには阿久作品を映画化した「瀬戸内少年野球団」のモニュメントや、彼の没後「あの鐘を鳴らすのはあなた」をモチーフにした「愛と希望の鐘」がある。ありがたいことに前日までとは一変したポカポカ陽気。眼下に新都志海水浴場、その向こうは青々と播磨灘である。土地の名産だった瓦を使った碑銘や、青銅色の野球少年像にからんで記念写真...と、阿久を偲びながらのおのぼりさん気分だ。
瀬戸内海はいい。これなら周防大島で星野哲郎音楽祭、小豆島でゆかりの吉岡治音楽祭がやれる。3島の優秀者を集めて、後日「瀬戸内歌の王座決定戦」ってのはどうだ! と、僕らの夢はふくらむばかりになった。

殻を打ち破れ206回
新年早々、まず聞いたCDは山田太郎の『やっと咲いたよなぁ』だった。
≪ふむ...≫
いろんな感慨がいっぺんに胸に来る。まずジャケット写真の彼の笑顔だが、亡くなった父君の西川幸男氏に似て来ている。しっかりとカメラを見据え、ほほえんでみせる目許に西川氏を思い出す。戦後のプロダクション業の創草期、テレビ局寄りの渡辺プロ、ホリプロと一線を画し、演歌・歌謡曲で全国の興行を制した新栄プロの創業者だ。その生前に長く、僕はたっぷり過ぎるほどの知遇をこの人から得た。
≪歌がうまい、熟年の味か...≫
山田のCDを聞き、一番だけでもそう感じる。中・低音に響く男の渋さ、高音部には晴れやかな明るさがある。二番三番と聞き進んで、歌に温かい情がにじむことに気づく。息づかいがたっぷりめで、夫婦歌の新曲に似合いだ。
♪生きる晴れ間に
見つめ合う それが夫婦の そろい花...
と三番の歌詞が来て
♪やっと
咲いたよなぁ...
と歌が収まる。苦労をともにした男女の年月をしのばせる詞は波たかし、聞き慣れぬ名だが原案は山田夫妻の実感か。作曲は岡千秋。この人も西川氏に認められ、無名のころからこの事務所の禄をはんだ。僕と同じ新栄育ち、二代目社長山田用に、初代へ恩返しのいいメロディーを書いている。
≪雀、百までって奴か...≫
山田は西川賢の本名で、西川氏の跡目を継いだが、競馬界で名を成した。馬主会の大幹部で、このジャンルでも父君の仕事を受けて、長く働いた成果だ。その間歌手活動は減ったが、宴席などでは請われてよく歌っていたろう。「新聞少年」でデビューした少年時代からずっと親交がある僕は
「金を取って歌っていた昔より、金を払って歌うこのごろの方が、腕が上がった。カラオケ様々だな」
と冗談を言って笑わせたこともある。何はともあれ2月には全国馬主会の会長に就任する矢先の歌の現場復帰である。超多忙は想定内の新曲発表、それなりの覚悟はあろうと言うものだ。
「聞いてくれた?」
と本人から電話があったのは、昨年の暮れも押し詰まったころ。まだCDが届いてないもの...と答えたら
「すぐ送るけど、クラウンは何をやってんだろ、全くもう...」
とボヤいた。発売元のクラウンと新栄プロと僕と、浅からぬ因縁の仲なのにという残念さが言外にある。
そう言われればそうなのだ。日本クラウンはコロムビアを脱退した実力者伊藤正憲氏を陣頭に、馬渕玄三、斉藤昇氏ら腕利きのプロデューサーたちが興した新会社。意気に感じた新栄プロの初代西川氏が、手持ちの歌手北島三郎、五月みどりらを移籍させて看板とした。コロムビアとの裁判沙汰を物ともせぬ男気。その間の男たちの連帯をテーマに、北島の『兄弟仁義』が生まれたほどの絆があった。クラウン設立は昭和38年、翌39年正月が第1回新譜の発売で、山田の「新聞少年」ヒットもここから。内勤記者から取材部門に異動した新米記者の僕は、当初からクラウンに日参して密着、レコード会社のいろはをここで覚えた。山田と僕はクラウン育ちでもある。
「昔は昔、今は今。その気で頑張ろう!」
山田の電話の最後に僕はそう言って笑った。何しろ55年も前の話、知る人ももう居ない。そう思いながらしかし、創業者や開拓者の志が受け継がれぬようで、一抹の寂しさは残る。温故知新の例えもある。新しそうなものばかりに、血道をあげていても仕方あるまい。
「お金が要るんです。お金をちょうだい!」
歌手が舞台で大真面目に言うから、少々驚いた。客席からはクスクス笑いが起こる。それが大笑いにつながったのは次の一言。
「会社があぶないんです。お金がないと、つぶれちゃうんです!」
井上由美子の、いわば自虐ネタ。応援に来ていた歌手たちと爆笑、その後で胸がツーンとした。
井上が所属しているのはアルデル・ジローというプロダクション。業界のやり手として知られた我妻忠義氏が興した会社で、その没後は二人の息子が引き継いだ。父親の代に川中美幸との契約を解消したから、今は井上が頼りの小さな事務所。この時期、諸般の情勢から、有名歌手を抱えた大手でも、そうそう楽な経営ではない。いわんや弱小プロにおいておや...で、歌手生活15年の井上にも、荷の重さが先に立つのか―。
彼女のコンサートは、1月11日昼、品川・荏原のひらつかホールで開かれた。タイトルが「由美子さ~ん! 開演時間ですよ~!!」と風変わりで、幕あけ、映像の彼女は商店街でパチンコをやっている。そこへタイトル通りの声がかかって、自転車で会場へ駆けつける段取りなのだが、実物の井上は、自転車に乗ったまま舞台へ現れた。のっけからコミカルな演出である。
「恋の糸ぐるま」「海峡桟橋」を歌い、メドレーでつなぐのは「赤い波止場」「片瀬波」「港しぐれ」「夜明けの波止場」に「夾竹桃の咲く岬」「城崎夢情 」「高梁慕情」...。残念ながらブレークした曲はないが、歌唱はそれなりにしっかりした演歌だ。サービス曲は「東京キッド」「ガード下の靴磨き」などが、ごく小柄な井上のキャラに合い、中島みゆきの「空と君のあいだに」やかぐや姫の「赤ちょうちん」杉本眞人の「冬隣」などは、歌手としての力量を問う選曲。
井上はその間、ジョークの連発で、冒頭のギャグもそこで出て来た。僕らを仰天させたのはアンコールの「ダンシング・ヒーロー」で、歌のノリもさることながら、突然登場したキモノ美女軍団の踊りが見事にキレキレ。DA PUMPもEXILEもそこ退け! の激しさだ。聞けば彼女たちは向島の芸者衆で、井上と親しいつき合いだそうな。
アルデル・ジローの先代我妻さんは、川中美幸ともども、僕を舞台の役者へ導いてくれた恩人。その息子たちの奮闘につき合うつもりで見に行った井上由美子だが、活路をひとつ見つけた心地がした。井上の歯切れのいい本音ジョークと、小柄でちょこちょこのキャラと、客の反応は、バラエティー向きである。ショーの演出も本人だと言うから、お笑いの素養は天性のものと見た。
1月23日には「コロムビアが平成最後に放つ秘密兵器」がふれ込みの門松みゆきデビューコンベンションに出かけた。いきなりの注文が乾杯の音頭である。昔はこの種のイベントに乾杯がつきもので、乾杯おじさんの異名を持つ大先輩も居たが、近ごろでもそんなのアリなの...と引き受けた。門松が10年内弟子暮らしをしたのが作曲家藤竜之介の許で、デビュー曲の「みちのく望郷歌」も彼の作曲。作詞が石原信一と来れば、二人とも、いわば弟分のつき合いだから、やむを得まい。
藤は20数年前から、花岡優平、田尾将実、山田ゆうすけ、峰崎林二郎とともに〝グウの会〟と名付けた飲み会を作り、僕が仕切っているお仲間。なかなかチャンスに恵まれなかった彼らに、
「愚直に頑張ろう!」
とお尻を叩いたのが会の名前のココロだ。一方の石原は、彼が大学を卒業したころからのつき合いで、当初はスポニチの常連ライターだった。
「だからさ...」
とステージで、僕が彼らの兄貴分なら、お前さんと俺は「おじさん」と「姪」の関係になると説明したが、門松はキョトン。委細かまわず僕の乾杯のあいさつは「親戚のおじさん」調になった。
《そうか、内弟子10年ねえ》
作曲家船村徹の内弟子、静太郎、天草二郎、走裕介、村木弾が、同じくらいの年数を辛抱したのと親しいが、女性にも我慢強いタイプが居たことに、一種の感慨もある。門松は16才から藤の門下で、第一興商のカラオケ・ガイドボーカルを150曲以上こなしたという。地力の強さを感じさせる歌声で、新人だから多少荒けずりだが、のびしろはたっぷり、津軽三味線の弾き語りも披露した。
特に演歌だからという訳でもなかろうが、近ごろ歌手たちの陰の人間関係にかかわることが多い。馬齢を重ねたせいか―と、少々ホロ苦さもある。

殻を打ち破れ205回
今年のレコード大賞の作詩賞は、松井五郎が受賞した。対象は山内惠介の『さらせ冬の嵐』と竹島宏の『恋町カウンター』の2曲。演歌ファンには聞き慣れぬ名前かも知れないが、この人はポップスの世界ではベテラン、相当な有名人だ。
≪よかったな。本人は今さら...とテレたかも知れないが...≫
と、余分な感想を後半につけ加えたのは、彼が仕事を歌謡曲分野に拡大、新鮮な魅力を作っているせい。僕は山内惠介に書き続けたシリーズで、それを面白がって来た。構築する世界がドラマチックで、インパクトが強い。70年代以降、阿久悠が圧倒的に作りあげた境地に近く、山内のキャラを生かして、その青春版の躍動感があった。
コツコツ歌っては来たが、作品に恵まれなかった竹島に悪ノリしたのも、松井の『恋町カウンター』と出会ったため。もしこの路線を続ければ、竹島は昨今勢いを持つ男性若手グループの一員に食い込む予感がある。民謡調の福田こうへい、演歌の三山ひろし、歌謡曲の山内惠介の新々ご三家に追いつき、ポップスの味わいで伍していけそうなのだ。この4人に青春ムード歌謡ふう純烈を並べれば、それぞれ個性のはっきりした集団がパワフルになる。世代交代の気運がある歌謡界で、先行する氷川きよしを兄貴分に見立てると、なかなかの陣立てではないか!
12月8日夜、テレビで日本作詩大賞の生中継に出っくわした。同じ時間に別のBSで、弦哲也、岡千秋、徳久広司、杉本眞人と出演、ワイワイ言ってるシリーズ「名歌復活」が放送されていたから、あっちもこっちも...の忙しさになった。作詩大賞の方に松井の顔が見えたから、レコ大と2冠になるといいななどと思ったが、結果は福田こうへいの『天竜流し』に決まった。万城たかしの詞で、作曲は四方章人である。
万城は地道に頑張って来た人だから、おめでとうと言いたいし、これで作詞の注文が増えたりすれば、なおいいなとも思う。だからこの受賞に異議を唱える気はないが、新聞記者くずれの僕にはどうしても、新風を吹き込むエネルギーや知恵を期待し、歓迎する性癖が強い。松井の仕事を支持するのは、彼の作品には独特の着想が際立ち、それにふさわしい表現力を示すせいだ。恋物語とその成否は流行歌の永遠のテーマ。長い歴史でほとんど書き尽くされていそうだが、それでも見方を変え深彫りすれば、一色変わった作品が生まれる例もある。
川中美幸が歌っている『半分のれん』がそのひとつ。作曲家協会と作詩家協会が共同企画するソングコンテストの2018グランプリ受賞作で、岸かいせいの作詞、左峰捨比古の作曲だ。舞台は居酒屋、登場人物は店の主らしい女と男客が一人。この設定には特段の新しさはない。それが、
♪のれんしまえば
あなたは帰る 出したままでは 誰かくる...
という女の思いから急展開する。きんぴらごぼうを出したり、問わず語りの身の上話をしたりして、女は客をひき止める。詞のとどめは、外の看板の灯をこっそり消し、商い札を裏返すあたり。こまかい細工を重ねて、女心のいじらしさを巧く表現した。深彫りさえすればこの手があったか...と感じ入ったものだ。
真正面から松井流の大胆な発想が一方にあれば、ありふれた設定の中で、創意工夫を凝らす表現が他方にある。色恋沙汰は書き尽くされたかと思ったが、歌をありふれたものにしない粘り強さが、まだまだ活路を持っていて頼もしいではないか!
何かと屈託多めの新年、さて仕事だ、仕事...と切り替えて、CDをあれこれ聞き直す。胸の奥にツンと来る歌を選び出した。ブラザーズ5の「吹く風まかせ~Going My Way」と沢竜二の「銀座のトンビ~あと何年ワッショイ」の2曲。双方熟年の男の、成り行きで生きて来は来たが、さて...の感慨がテーマだ。80才を過ぎた当方も十分に思い当たる。前回に書いたが、星野哲郎の友人、北海道・鹿部の道場登氏を葬い、放送作家の杉紀彦や、元ニューハードのギター奏者で、浅川マキの曲を幾つも書いた山木幸三郎の訃報などが相次いだ1月、
「う~む」
と落ち込んだ矢先のことだ。
〽あんな若さであいつも、あン畜生も、先に勝手に逝きやがって...
と、沢の「銀座のトンビ」は友人を見送った男が主人公。〝あン畜生〟は少々乱暴だが、そう言えるつき合いがあったのだろう。残された主人公は、あと何年生きられるとしても、
〽俺は俺のやり方で、お祭りやってやるけどね...
とハラをくくる。お祭りというのは、女にチヤホヤしてもらえる、女房に大目に見てもらえる、暴れたがりな欲望を開放する...とノー天気。合いの手に「ワッショイ!」を繰り返して陽気に歌うが、居直りと言うか、自棄クソと言うか、面白くてやがて哀しい歌詞のココロが陰でうずく。
作詞したちあき哲也は4年前に亡くなったが、僕にとっては〝あン畜生〟といいたいくらいの弟分、作曲した杉本眞人が大事なレパートリーの1曲として歌って来た。それに感動してカバーした沢は、僕より一才年上の大衆演劇の大物。作品の内容とノリに、思い当たる数々が彼の本音と重なって、
「これはもう、俺の歌ですよ」
と、気合いを入れてCDにした。年齢の割に声が若々しいし、役者だけに、やたら出てくる「ワッショイ!」のニュアンス分けもなかなかだ。
ブラザーズ5はご存知だろうが、杉田二郎、堀内孝雄、ばんばひろふみ、高山厳、因幡晃が組むユニット。いずれも70年代のフォークシーンで、ブイブイ言わせた男たちが熟年に達している。資料の勢揃い写真も高山以外はズボンのポケットに両手を突っ込んで、あっぱれ不逞のおじさんムード横溢だ。
4年ぶりのシングルは「君に会えて...会えてよかった」と「吹く風まかせ~Going My Way」で、作詞が石原信一、作曲が馬飼野康二。両A面扱いと聞くが、僕は後者に悪ノリした。こちらも歌の主人公が熟年で、
〽恋でもひとつしてみるか、行き先なんて吹く風まかせ...
とノー天気。沢の歌の舞台が「銀座のクラブ」なのに比べて、こちらは「洒落たカフェテラス」と少々若め。曲もカントリーふうに軽快で、5人組の音楽的出自が生きる。
気に入ったのは、各コーラス収めの2行分で、
〽Going My Way Taking My Time 変わりゆく時代でも、俺らしく生きるのさ...
のコーラス部分だ。5人組が気分よさそうに歌っていて、おそらく聴衆もここで声をあわせるだろう。沢の方はきっと「ワッショイ!」に、ファンが怒号で応じるだろうと、好一対の愉快さを持っている。
作詞した石原信一は、彼が大学を卒業した時分から、僕がスポーツニッポン新聞で作った、若者のページのレギュラー執筆者のいわば同志。そのつきあいが今日まで続いている。ひと回り年下の団塊の世代で、ばりばりの売れっ子にのし上がったが、僕にとってはやはり〝あン畜生〟の部類に入る親しさだ。その辺で、
「そうか...」
と気づく。沢の「銀座のトンビ」もブラザーズ5の「吹く風まかせ」も熱く共鳴し、たまらない気分にされそうなのは、団塊の世代前後から上の男たちだろう。2作とも絵空事のはやり歌に、作詞、作曲者と歌い手の、本音の部分が重なり、にじんでいるからこその説得力を持つ。
CD商売は橋幸夫、舟木一夫、西郷輝彦のご三家が活躍した昔から、買い手の年齢層をどんどん下げながら、今日にいたった。しかし、若者の音楽嗜好も多様化、細分化した昨今、買い手の的の年齢層を高めにし、反響を下におろしていく手もありはしないか。もともとご三家以前は、はやり歌は大人専用の娯楽だった。そんなことも再認識しながら、両者をこの作品で、同じ舞台に乗せてアピールしてみたい―遅まきながら、それが僕の初夢になった。

新年を挑戦の転機に
「俺は今、こういうメロディーが書きたい」「私が書きたい詞はこういうものだ」――作家たちの意気込みが"こだわり"に聴こえる何曲かが揃った。歌い手の個性を生かし、あるいは進化を期待する思いが、その芯にあるだろう。
新しい年を迎え、間もなく新しい年号に変わる。それを転機と捉え、歌社会の人々が創意工夫を凝らして挑戦するなら、頼もしい限りだ。はやり歌の拡散小形化や低迷を嘆くことなど、すっぱりと捨ててしまおう!
漁火街道
作詞:麻こよみ
作曲:岡千秋
唄:椎名佐千子
ジャジャジャジャ~ン...と伊戸のりお編曲の前奏が始まる。「おっ、大きく構えたな!」と、聴く側のこちらは身がまえる。
作曲の岡千秋はこのところ「王道もの」を書くことに熱心な様子。今作も麻こよみの5行詞を、起承転結も彼流に、差す手引く手たっぷりめで「これでどうだ!」の気合いが入っている。絶唱型のメロディーだ。
ヤマ場はサビの「ねえ ねえ あなた 今頃どこにいる...」の高音部。椎名佐千子の歌はここでめいっぱいになる。長く歌い込めば、彼女の代表作の一つになるだろう。
「しゅら しゅしゅしゅ...」はどうやら、女がほどいた帯の音。それがまだ続いて、歌詞では「修羅 朱朱朱」と漢字表現だ。耳で聴くだけでは、そうとは判らないだろうに、作詞の田久保真見はこだわる。女の性は「修羅」そのもの、事実、三番でドキッとさせる。
これも作曲は岡千秋。女唄では定評のある角川博を知り尽くしていて、その"極み"を狙った気配がある。この人も最近、妙に強気だ。
角川は委細承知の歌唱、息づかいも巧み、歌の語尾に思いを託して、年期の芸を聴かせている。
初恋の詩集♡
作詞:志賀大介
作曲:伊藤雪彦
唄:三代沙也可
作曲家伊藤雪彦もこだわる。弟子の三代沙也可の作品は一手引き受け、他人に渡したことがない。それが湘南を舞台の連作に一段落、今作に転じた。昔なら舟木一夫に似合うだろう青春叙情歌。三代の歌も初々しい。
詞は志賀大介の遺作。三番に「夢よりも嘆きの歌ばかり」の一行がある。生前に彼は、自分の仕事にそんな苦渋を抱えていたのか?
散らず花
作詞:坂口照幸
作曲:四方章人
唄:西方裕之
作詞は名文句捜し、それを歌い出しに書ければ勝負が決まる。坂口照幸のこだわりは「やさしい男に女は惚れて、そのくせ訳あるひとに泣く」を一番の歌い出しに据えた。四方章人の曲のその部分を、西方裕之の歌は客観的に語り、サビの「いいのいいのよ」以降を主観的な嘆き歌とした。歌唱の微妙なサジ加減の妙を聴き取れば、楽しみが増す。
一番星
作詞:水木れいじ
作曲:水森英夫
唄:天童よしみ
チャカポコ賑やかな伊戸のりおのアレンジが、快適なテンポで進む人生の応援歌天童版。メロディーを軸に、しっかり声を張るタイプの曲をよく書く水森英夫が、こちらもそれが得意の天童に、この手のものを提供したのが面白い。
世に出るのが新年の初頭に似合いそうで、天童も気分よさそうに歌って、ちゃんと彼女の歌にする。なかなかである。
望郷山河
作詞:喜多條忠
作曲:中村典正
唄:三山ひろし
喜多條忠の詞は故郷の山河に「俺も男だ 負けないぜ」と、主人公の心意気が勇ましい。それを中村典正の曲はあえて〝望郷〟に軸足を置いた穏やかさ。三山ひろしの歌唱ものびのびのどかに聴こえる仕立て方だ。
弟子であり娘婿でもある三山に賭ける中村の思いが、透けて見える。中、低音の響きを中心に、三山の〝男らしさ〟を前面に出す演出だろう。
愛は一期一会
作詞:たきのえいじ
作曲:弦哲也
唄:北原ミレイ
たきのえいじの詞は、彼流の〝愛の讃歌〟で、最愛の人を得れば、生きて行ける未来を「一秒先」までと真摯さを訴える。
その序章4行分を、おおらかに語らせるのが弦哲也の曲。一転する次の4行で、女主人公の思いに切迫感を加えた。ポップス系のメロディーは弦の幅の広さを示し、大ステージで双手を広げて歌うミレイが、目に見えるようだ。
マンスリーコースの皆さんに
一つの歌が生まれる陰には、かかわった人たちの"一生懸命"が必ずある。僕は1曲ずつにそれを捜し、応援の弁を書いて来た。これが僕の批評の骨子で、アラ捜しはしない。マンスリーニュースを担当したのは平成13年11月号からと言うから、丸17年間毎月。僕は沢山勉強をさせて貰い、多くの知己を得た。平成とともにこの号が最終版である。よいお年を!よい歌を!を、ごあいさつとしたい。(小西)
「星野先生は、めんこいなあ...」
と、それが口癖の男がいた。作詞家星野哲郎を見やりながら、少年みたいな眼をキラキラさせて酒を飲む。当の星野は温顔しわしわとテレ笑いしながら、杯を交わす。昭和61年から21年もの毎夏、二人はホテルの宴会場やバーで、そんな出会いを繰り返した。場所は北海道の漁師町・鹿部。相手は地元の有力者・道場水産の道場登社長だ。
この欄にもう何回書いたか判らない。鹿部は函館空港から車で小一時間、川汲峠を越え、噴火湾の海沿いに北上したところで、人口4000。星野はそこで、定置網漁の船に乗って綱を引き、番屋でイカそうめんに舌つづみを打ち、昼は漁師たちとゴルフ、夜は酒宴の2泊3日を過ごした。海の男や港の女を主人公に、数多くのヒット曲を書いた〝海の詩人〟星野の、いわば〝海のおさらい〟の旅だ。
実際に彼が東シナ海で漁をするトロール船・第六あけぼの丸に乗っていたのは、終戦後のわずか2年。病を得て海を断念、作詞家に転じたが、功なり名遂げてもなお、
「海で一生を終わりたかった」
と言うこだわりがあった。
「僕は鹿部へ、心身に潮気を満たすために来ている。昔、船乗りだった僕から、いつか潮気が失せていたら、これ以上の恥はない」
星野は〝鹿部ぶらり旅〟の本意をそう語ったものだ。
一方の鹿部の人々には、知名人を招いて活性化を計る〝町おこし〟の狙いがあった。「21世紀を考える獏の会」のメンバーが、たまたま星野に声をかけたのは函館空港。ひょんな出会いが「海」と「男同志」をキイワードに、21年分もの友情で結ばれたことになる。その獏の会のメンバーで、星野の招へい元を買って出たのが道場登氏。20代で独立、たらこ専門の会社を興し「たらこの親父」の異名を道内にはせた立志伝中の人だ。それが大の酒好き、歌好き、ゴルフ好きで、あっという間に二人は肝胆相照らす仲になった。
海の男の特徴は、寡黙であること。無造作に身軽なこと。さりげなさと完璧さを持ち合わせ、あ・うんの呼吸で心を通わせ合うこと。だから彼らは、自分の本能を信じて生き、自然、虚飾の部分はそぎ落とされている。星野の旅のお供を続けた作曲家岡千秋、作詞家里村龍一と僕は、星野と道場のとっつぁんの交友の傍に居て、そんなことを学んだ。乞われれば岡は「海峡の春」や「黒あげは」を弾き語りで歌い、里村は釧路訛りのだみ声「新・日本昔ばなし」なるブラックユーモアで、漁師とそのかみさんたちを大笑いさせた。
星野が逝ったのは平成22年11月で享年85。僕らトリオは、驚いたことに、
「お前らが、星野先生の名代で来い!」
という道場社長の鶴の一声で、その後も鹿部詣でを続けた。行けば行ったで、払暁の釣りやゴルフ、昼からの酒である。ゴルフコンペにはずっと「星野哲郎杯」の横断幕が張られた。海の男のもう一つの特徴は、故人の追悼に心を砕く情の深さ。道場氏の場合はこれに、視野の広さ、心根の優しさ、無類の寂しがり屋が加わる。
海の詩人と日本一のたらこの親父の友情に、ピリオドが打たれたのは今年1月5日午後だった。正月三が日は相変わらず飲んでいたという道場社長の訃報は、あまりにも突然だった。誤えんが原因の心不全。尚子夫人が気づいた時は、居間のソファに寄りかかる形だったそうだ。9日午後6時から通夜、10日午後1時からが葬儀。僕らは初めて冬の鹿部へ飛んだ。岡と里村と僕、それに元コロムビアの大木舜、作詩家協会の高月茂代と、僕の後輩でスポニチプライムの高田雅春が9日の便。高田は事あるごとに僕らのツアコンにされる。10日当日は、仕事で体が空かなかった星野の長男有近真澄の代理で由紀子夫人と星野の秘書だった岸佐智子がとんぼ帰りだ。
葬儀は僕らがいつも宿舎にしたロイヤルホテルみなみ北海道鹿部のホールで、株式会社丸鮮道場水産の社葬として営まれた。ゴルフで顔なじみの男たちが、道場家長男の真一君、二男登志男君を中心に立ち働く。喪主の尚子夫人と長女真弓さんは気丈な立ち居振舞い、指揮するのは渡島信用金庫の伊藤新吉理事長で葬儀委員長である。読経は曹洞宗の僧侶が8人、ご詠歌は7人の婦人たち。焼香する人々は鹿部の人々全員かと思えるほどの列を作った。32人もの子供や孫、親戚の人々に囲まれて、道場氏の遺影は鹿部のボス然とした笑顔。戒名は「登鮮院殿尚覚真伝志禅大居士」享年79だった。

殻を打ち破れ204回
新曲の『片時雨』を聞いて「うまくなったな」と思った。もう一度聞き直して「いいじゃないか!」になった。岩本公水とはデビュー以来のつき合いだが、このところちょっとご無沙汰。そんな話をしたら編集部から「会ってみません?」ということになって――。
小西 いい歌だよな
岩本 私も初めて頂いた時、いいな、売れそうだなって思いました(笑)
小西 曲先だって? 岡千秋があれこれ考えて、これで行こうって強気になった気配だ。
岩本 岡先生は『北の絶唱』『雪の絶唱』に続いて、シングル連続3曲めです。3連演歌を2つやったから、今度は違うものをやろうと言って下さって...。打ち合わせの後がすごかったんです。
小西 どういうふうに?
岩本 事務所の近く、赤坂のカラオケ・ボックスに行って、あれ歌ってみろ、これ歌ってみろと...(笑)
小西 どんな曲を歌わされたのさ(笑)
岩本 岡先生の作品が多かった。『波止場しぐれ』とか『河内おとこ節』とか。今、これじゃないな、それじゃこれかなって。曲を入れたり、止めたりして下さって...。
小西 彼がそんなことまでしたの? マネージャーは何してたんだ?
岩本 居ません。岡先生と二人っきりです。
小西 危ねぇな(笑)。それでその後、飲みに行ったわけ?
岩本 はい。私、作家の先生にそこまで一生懸命して頂くのは初めてでした。それで...。
小西 どうなったのよ!(笑)
岩本 酒の歌をやろう。お前も40才越えて、芸歴も20年を越えたんだから、ギター演歌の王道をやろうって...。
小西 ちょっと待てよ。お前さん、もう40を越えたのかい? 20年以上になるのかい?(笑)
岩本 だって、吉岡治先生の『雪花火』がはたちの時でしたから。あれから23年になります。
小西 そうか、知らず知らずに、そんなに時が過ぎてたのか...(笑)
岩本 で、岡先生からは、飲んだ夜から2、3日で、デモテープが届きました。
小西 あのしゃがれ声のな(笑)。彼、歌も彼流にうまいもんだけど、すっと入れた?
岩本 はい。1回聞いただけでメロディー覚えました。ららら~って3番まで歌えました。
小西 そのららら~...に、詞をはめ込んだのが、いとう彩だ。
岩本 いとう先生も3作連続です。『北の絶唱』の時に、どうしたことか、私のステージをあっちこち見に来て下さってたんです。聞きましたら、興味がある、ずっと書いてみたいと思ってたって...。それならば是非ということになって、それから今度が3作めです。
小西 詞、曲ともに、いい縁があったってことか。歌づくりって、そういう情熱や思いがあらかじめあるってことが強いよな。酒場でひとり、別れた男を思う歌って、そんな体験があるのかどうか知らんけど(笑)ま、岡チンの思い通りに、年相応、キャリア相応の作品が出来上がった...。
岩本 自分自身で思うんですけど、歌い方が昔よりずっと素直になったなと...。
小西 俺たち物書きもあんたら歌い手も、率直なのが一番だね。気負いも衒いもなしに、すうっと真っ直ぐにね。それが何といっても本音に近い。『片時雨』のよさは、歌声の芯に岩本公水本人の思いがにじんでいること。歌詞で言えば3行めと4行めの頭の部分が、長めに揺れながら歌ってるあそこ。聞いてて気持ちがいい、歌ってて気持ちがいい。心地よく哀しいんだ。
岩本 気持ちがいいから、酔いがちになるんですね。レコーディングの時に、岡先生に言われました。「酔うのはお客の方で、自分が酔っててどうするのよ!」と。不思議に快いメロディーなので、ついつい...ね。それでハッ!と気づくんです。それ以来、酔い過ぎないように、酔い過ぎないように...と、毎日、頭に入れて歌っています。
小西 酔う、酔わない...の、そのギリギリのところがいいんだね。丸山雅仁のアレンジがまた、その気にさせるしな...。
岩本 ふふふふ...。
小西 俺さ、うまくなったな...と思ってたけど、こう話してみれば、やっと自分の背丈に合った作品に恵まれたんだと判ったよ。一時体調を崩して歌手活動を2年半も休んだ経験も、生きてるかも知れない。ところでお父さんは元気なの?
岩本 はい。元気で米づくりをやってます。一度歌手をやめて故郷へ帰ったころに、脳梗塞で倒れたんですけど。私を歌手にする夢が破れかけて、心が折れたのかも知れない。
小西 その看病をしながら、お前さん、ホームヘルパー2級、障害者(児)対応ヘルパー2級なんて資格を取ってる。休業中もちゃんと、やることはやってたんだ(笑)。
岩本 だって秋田での2年半、暇で仕方がなかったし...(笑)カラオケで毎日、ガンガン歌ってもいたんですよ(笑)
小西 陶芸も教室に行ってから、もう20年になる?
岩本 趣味だったんですけど、2年前に東秩父に窯を持ちました。
小西 プロフィールに「陶芸展」って欄がある。秋田や埼玉などで個展をずいぶんやって、公私ともに充実の平成時代だな(笑)
岩本 はい!(笑)
だいぶ前の話だが、銀座でばったり出会った。ちょうど蕎麦を喰いに行くところで「どうだ?」と聞いたら「うん」とついて来た。二人きりの時間も乙なものだったから、今度は「飲もうな」と誘ったら、やっぱり「うん」の返事。いずれ折を見て...の話だが、この人、人づきあいもやんわりと率直なあたりが、なかなかの熟女になっていた。
石田光輝、元気なんだな!
『半分のれん』というタイトルが思わせぶりで、逆にキャッチー。歌を聞いてその意味をほほえましく合点した。川中美幸が歌った作曲家協会と作詩家協会が募集したソングコンテストのグランプリ作。特段に目新しさはないが、よくある酒場風景でも、視線を変えたり、掘り下げたりすれば、「なるほど」の新味を作れる一例だろうか。そう言えば、カップリング作『ちゃんちき小町』の作曲者石田光輝は、昔、僕がかかわっていたころからの常連。米子で元気にやっていそうなのが嬉しい。
なみだ雲
作詞:羽衣マリコ
作曲:弦哲也
唄:川野夏美
2013年10月のマンスリーに、この人の『悲別~かなしべつ~』を〝うまい歌〟よりは〝いい歌〟と書いた。作曲家弦哲也が切り開いたドラマチック路線。以来ずっと弦の手腕と川野夏美の進化を追跡して来た。
今作はシャンソン風味の2ハーフ。歌詞の4行ずつを序破急の〝序〟と〝破〟に仕立て、おしまいの2行を〝急〟より心持ち穏やかめに収めた曲づくりだ。面白いのは、芝居なら1番が第一幕、2番が第二幕のような歌唱の情感のせり上がり。川野の新境地には、羽衣マリコの詞、川村栄二の編曲が必要だったのだろうな。
『流氷の駅』からもう10周年になるのか。走裕介のデビュー発表会に彼の故郷網走へ出かけたことを思い出す。気温30度のマレーシアから帰り、その足で流氷祭りへ。気温差40数度の厳冬に音を上げたものだ。
作詞が石原信一、作曲が田尾将実の『春待ち草』は、再会した男女のほのぼのを語るスローワルツ。亡くなった師匠船村徹作品で、声と節を聞かせて来た走には、新しい挑戦になる。歌詞4行めのサビが、意表を衝くメロディーの展開を示すあたりが、走らしい聞かせどころ。船村の長男蔦将包の編曲がサポートしている。
ひとり象潟
作詞:麻こよみ
作曲:新井利昌
唄:花咲ゆき美
歌詞の1番で言えば「信じたくない 信じない」のサビから「ひとり象潟 あなたに逢いたい」の「逢いたい」を心の叫びにしたかったのだろう。風景を淡々と描く歌い出しから、そういう形に切迫した展開を示すのが、ベテラン新井利昌の律儀な曲づくり。花咲ゆき美の歌唱はよく心得ていて、彼女なりに女心の一途さを率直に表現した。
半分のれん
作詞:岸かいせい
作曲:左峰捨比古
唄:川中美幸
春日はるみの芸名で歌い、不発のまま大阪へ戻った川中美幸は、母親のお好み焼き屋で一時、看板娘だった。その時期の客あしらいを思わせる明るさと弾み方が、歌の前半にあって若々しい。それが後半一転して、好いた客と二人きりを願ういじらしさをしっかり伝える。なかなかの役者ぶりと言えようか。ソングコンテスト受賞作だ。
礼文水道
作詞:森田いづみ
作曲:岡千秋
唄:水田竜子
森田いづみの詞は、礼文水道あたりの景色をあれこれ見せて、連絡船に女心の未練を託す。情感を表すのはもっぱら岡千秋の曲と前田俊明のアレンジで、そのせいだろうが、水田竜子の歌の眼差しは、はるか遠めを見て明るい。「ひとり見つめる」とか「祈るおんなの」とか「揺れて彷徨う」とかの収めにあるキイワードが、表現のよすがになっていそうだ。
最終出船
作詞:麻こよみ
作曲:岡千秋
唄:山口ひろみ
一般論だが、歌手の芸の〝しどころ〟は高音のサビの部分。それだけに、そこに到る歌い出しをどうクリアするかに苦心する。逆にその部分で魅力的な語り口を示せれば「うまいな」の第一印象が稼げる。山口ひろみのうまさはそこで点数を挙げ、サビもいなし加減に全開放しないところ。声を〝抑え〟て思いを〝突く〟唱法が、都はるみ調に聞こえた。
「悲しい酒」から「愛燦燦」まで、ひっきりなしに美空ひばりの歌声が流れて来る。
《文字通り歌声は永遠だな。彼女が亡くなったのは平成元年、その平成も30年の今年で終わろうというのに...》
親交があった感慨ごと楽屋のモニターをのぞけば、踊っているのは大衆演劇の座長たちだ。12月12日午後の浅草公会堂、沢竜二が主宰する恒例の座長大会の第2部。
「また芝居の話か?」
と、うんざりされそうだが、これが今年、僕が出演した6本目の舞台。第1部が「大親分勢揃い」で、驚いたことに大前田英五郎、清水次郎長、国定忠治に森の石松、桶屋の鬼吉など、有名どころがゾロゾロ出て来る。演じるのが座長たちだから皆な二枚目。ただ一人馬鹿桂という三下で、道化る僕がチョイ役なのにやたらに受ける。お客が笑えるのはここだけという、沢の気くばり配役だ。
というのも、新聞社勤めのころからの約束で、もう10年近いレギュラー出演。それにこの冬は、沢が「銀座のトンビ」を歌いたいと言うので、プロデュースを買って出てCDを作った。杉本眞人の作品で、彼が歌っておなじみ。老境のプレーボーイが「あと何年、バカをやれるか!?」とネオン街を飛び歩く内容だ。死んだちあき哲也が、杉本の年かっこうと遊び方ぴったりの詞を書いたのだが、これが沢にもモロに当てはまるうえ、何度も出る掛け声の「ワッショイ!」が悲喜こもごも、超ベテラン役者の味で何とも得難い。
沢と杉本は最近ラジオ番組で合流、大いに盛り上がったそうな。
「一緒に一杯やろう!」
がこういう時の決まり言葉だが、新宿育ちの杉本が近ごろ通うのは銀座と聞くし、沢が根城にしているのは池袋である。そう言えばこの歌は、杉本が歌うと銀座っぽくポップス系で、沢が歌うと池袋ふう演歌っぽさがにじむのが面白い。いずれにしろ二人があちこちで、
〽あと何年、女にチヤホヤしてもらえる...
〽あと何年、女房に大目に見てもらえる...
とぶち上げ、なかば自棄の「ワッショイ!」を繰り返す年の瀬、似たような老紳士たちが「ワッショイ!」「ワッショイ!」と声を揃えるか!
美空ひばりの話に戻ればハワイでやったイベントから、息子の加藤和也と有香夫妻が帰って来た。和也はおなじみゴルフと酒の〝小西会〟のメンバー。葉山国際でやった年忘れコンペのあとで、酔った事後報告が愉快だった。ひばりのフィルム出演と生で競演したゲストが細川たかし。司会の女性と通訳の女性を、ステージ上で手玉に取ってのジョーク連発が大受けした。細川の歯に衣着せぬ毒舌と稀有のユーモア精神はおなじみだが、ハワイの人々は爆笑に次ぐ爆笑。すっからかんに晴れ渡ったハワイと根っから陽性な細川は、これ以上ない組み合わせだ。あげくに歌は歌で、おなじみの細川節でビシッと決めるのだから、ハワイの人々が溜息を下げる様子が目に見えるようではないか!
美空ひばりと芝居とで、あとはどうなのよ? と聞かれれば、二足のワラジの僕はこの原稿をFAXしたあと、15日には加藤登紀子のほろ酔いコンサートに出かけ、翌16日は作詞家吉岡治の孫の吉岡あまなの大学卒業、社会人一年生のお祝いの会をやり、17日はレコード大賞の表彰式に出る。ひところ舞台裏のあれこれが不愉快で、
「やってられねえよ!」
と毒づいて縁切れになっていたレコ大だが、制定委員で久々の復帰。主催する作曲家協会が、弦哲也会長、徳久広司理事長以下、友人たちの新体制に変わってのお誘い。「昔の名前...」のお手伝い、夜は川中美幸ディナーショーに行く。
時おり町で見知らぬ人から「テレビで見てます」と声をかけられる。BSテレビで盛んな昭和の歌特集に呼ばれて、年寄りの知ったかぶりをやっているせいだが、さて、平成が終わり昭和がもっと遠くなってどうするのか?
「サザンと安室とピコ太郎じゃ、平成ものはしんどくなるねえ」
と、きついことを口走りながら、迎える新しい年と新年号である。少々早めだがこの欄も今回が今年の最終回。来年はやせ衰えたイノシシよろしく、80才代の猛進を敢行する覚悟をお伝えして、ご愛読への深謝に代えます!

エレベーターを降りたら眼の前に、坂本九が立って居たので驚いた。まっ赤なジャケットを着て、おなじみの人なつっこい笑顔だ。等身大のパネルである。集まる人々が、彼をはさんで記念写真を撮りはじめる。その人数が次第に増え雑踏に近いにぎわいになるが、何だか穏やかないい雰囲気だ。12月3日夜の銀座ヤマハホール、知り合いを捜したが見当たらないから、僕はロビーの片隅のカウンターで白ワインなどをちびり、ちびり。そんな光景を見守ることになる。
この夜、このホールで開かれたのは、「坂本九ファミリー ママエセフィーユ」という名の恒例のクリスマス・コンサート。出演者は坂本九夫人の柏木由紀子、娘の大島花子と舞坂ゆき子の3人で、2006年に始めた催しだから、もう13回めになるのか。今年は坂本の生誕77年を記念したスペシャル・バージョンという触れこみだが、どんな内容になるのか?
《それにしても、彼女らは偉いもんだ。彼も本望だろうな...》
坂本があの日航機事故で亡くなったのが1985年だから、もう33年になる。突然の死の悲嘆からやがて立ち直り、彼の魅力や実績を顕彰しながら、3人の女家族は、彼が生涯の仕事とした音楽で、人々を楽しませている。その追慕の思いの深さとその後の彼女らの自立した姿が、人々の心を動かすのだろう。年に一度だがそのために、毎回家族が趣向を凝らす手づくりな内容、つつましげに、決して大きくはない規模であることなどが、好感度につながるのか、チケットは毎回、発売と同時に完売するそうな。
僕が招かれた席は1階G列10番、中央を横断する通路を前にして、足ものびのびと至極楽ちんな場所。横を見れば坂本がダニー飯田とパラダイスキングに所属した時代から、ヒット曲を制作したベテランディレクター草野浩二が居り、僕の右隣りには、その後の坂本の制作にかかわり後にファンハウスというレコード会社を興した新田和長が居る。彼は今日も坂本一家と親交がある相談相手の一人。左側の席へは柏木と親しい歌手の竹内まりやが飛び込んで来た。
スペシャルバージョンの第1部は「ザ・グレイテストショーマン坂本九」で、さまざまな映像で彼が登場した。プレスリーを歌う彼、カントリーウエスタンを歌う彼、テレビでオリジナルヒット曲を歌う彼、舞台の「雲の上団五郎一座」に出演中の彼...。カラーにまじってモノクロ版も出てくるが、多くがテレビ番組の抜すいで、全盛期のテレビがエンターティナーとしての彼を育て、彼を必要としたことが判る。NHKの「夢で逢いましょう」に代表されようが、彼はテレビの申し子だった。ロカビリー・ブームの中から登用された才能だが、当時、若いエネルギーが炸裂したこのジャンルの人気者は、多くが異端の存在と目されていた。オトナ社会が彼らを〝悪い子〟と決めつけたとすれば、坂は穏健で陽気でみんなから愛される〝いい子〟の代表になっていはしなかったか?
第2部は「ザ・グレイテストヒッツ~坂本九」で「上を向いて歩こう」「見上げてごらん夜の星を」「明日があるさ」「幸せなら手をたたこう」など、おなじみの作品を夫人と娘たちがこもごもに歌った。曲にあわせてファンが手をたたいたり、歌ったりと呼応して、ステージと客席が一体になる場面も。彼女たちの歌声越しに甦るのは坂本の笑顔と独特な魅力だ。
「大きな存在を失ったんですよね」
隣席の新田がしみじみした声音で囁いた。
「そうだねえ」
と、僕は同調しながら、坂本を支えた作家たちの顔も思い返す。作詞家の永六輔、作曲家の中村八大やいずみたくらで、彼らが坂本に強力な「作品力」を提供していた。歌詞の第一行がタイトルと同じで、全編が話し言葉という永の仕事は、新鮮で独特のロマンチシズムを持つ。それに応じて曲を書いた中村やいずみの仕事ともども、新しい日本のポップスの行く方を指し示していたろう。前衛と言えば言えたが、それが多くの人々に愛され、歌い継がれる平易な親しみやすさを持っていたことが得難い。
僕がスポーツニッポン新聞の内勤記者から音楽を取材する担当に異動したのは昭和38年夏。28才の僕より5才年下の坂本は、すでにスターだった。彼の関係者もファンも、一様に親しげに彼を「九ちゃん」と呼んでいたが、幼いころ軍国少年だった僕には、人を愛称で呼ぶ習慣などない。インタビューでいつも「坂本さん」と呼ぶ僕に、彼はその都度怪訝な顔をしたことを今でも覚えている。

殻を打ち破れ203回
大衆演劇の大物・沢竜二と売れっ子編曲家の伊戸のりおが、文京区関口台のキングスタジオで待っていた。徳間ジャパンの梶田ディレクターと僕が合流する。10月4日夕、それぞれ旧知の仲だから「やあ、やあ」「どうも、どうも」になる。実はこれが一つの企画の顔合わせと細部の打ち合わせ、キイ合わせにアレンジの相談などを一ぺんにやる乱暴な会合。バタバタっと小1時間で万事OKになる。よォしっ!俺たちのお祭りなのだ、ワッショイ!
『銀座のトンビ』という"いい歌"がある。ちあき哲也の詞で、杉本眞人が作曲、すぎもとまさとが歌って、一部に根強いファンを持つ。
「あれをレコーディングしたいんだ。俺が歌うとやたらにウケる。みんなが、あんたの歌だって言うのよ。何とかならないかねぇ」
沢から深夜の電話がある。この人は何かしら思いつくと即電話...のタイプで、大てい酔っており、年のせいか相当にせっかち。僕は東京で仕事仲間に会い、お定まりの酒になるから、湘南葉山に帰宅するのはほとんど深夜。午前さまがベテラン役者からの留守電を聞いて、折り返しのやりとりは翌日の午後になる。
≪『銀座のトンビ』なあ。なるほど彼には似合いかも知れない。さて、作業としてはどこから手をつけるか...≫
そんな僕の思案は、ほろ酔いのベッドの中だ。
♪あと何年
俺は生き残れる あと何年 女にチヤホヤしてもらえる...
夜の銀座をピーヒョロ飛び回る年老いたプレイボーイが、そんなことを言い出す歌だ。あと何年、俺は飲んだくれる、女房に大目に見てもらえる。友だちの多くは勝手に逝きやがったが、俺は俺のやり方でお祭りをやってやる。暴れる欲望のまま、ハッピーにド派手に、ワッショイ!
すぎもとまさとのやんちゃなキャラと声味にぴったりはまる歌だ。いいコンビだったちあき哲也ならではの詞で、二人とも団塊の世代。人生どうにかここまで漕ぎつけて...の実感が歌い込まれるから、同世代の男たちがやたらに共鳴する。それぞれが最後のお祭りをやる気になる。ほろ苦く"来し方"を振り返り、傷つけちまった誰彼を思えば、少しもの悲しくもなりながら、ワッショイ!
スタジオのキイ合わせで沢竜二が歌った。なるほど、いいね、いいね...の味がある。役者だから、歌も演じることになるのだろうが、歌声の芯に本音がのぞく。杉本やちあきよりも一回りは年上だが、しっかり共感の手触りがある。役者だから心身も感性もそのくらい若いのか、それもあろうが、作品自体が世代を越えて、最終コーナーに入った男たちの胸を打つのさ!
「そういう訳だからさ、あんたの歌のポップス乗りよりは、歌謡曲寄りになるかも知れんけど...」
と杉本に電話を入れる。
「そうか、ありがたいことだねえ。あんたに任せるよ、うまくやって」
相手の返答もお楽しみの口ぶりだった。
「じゃあさ、こんな感じでエレキギターをメインに...」
伊戸が、音楽的見地をひとくさり。そう、そう...と、ディレクターもはなから悪ノリ気味。そんな打ち合わせに沢が持ち込んだのが大きなポスターで、彼が主宰する恒例の「全国座長大会」用。今年は12月12日、浅草公会堂だが、その隅に僕の写真も入っている。大衆演劇の名だたる座長たちに混じって、はばかりながら僕も長いことレギュラーだ。
「そこで歌うよ、ウケるぞ、また...」
「CDも間に合わせて、派手に即売だ!」
あっと言う間にその発売時期まで決めちまった。沢も僕も80代、彼の方が一つ上だが「うまく行く時ゃこんなもんか!」と目顔でニンマリして、ワッショイ!だ
「おお!」
思わず僕は快哉の声をもらした。大手プロダクション、サンミュージックの創立50周年記念式典の写真を見てのこと。前列中央に相澤社長、森田健作千葉県知事と並んで名誉顧問の福田時雄さんの笑顔があるではないか! 〝業界現役最長不倒距離〟と敬意をジョークに託して、長い親交を持つ人だ。11月27日に撮影したものを、僕は翌28日付のスポーツニッポン新聞の紙面で見つけた。野村将希、牧村三枝子、太川陽介らこの事務所生え抜きの顔も見える。
福田さんは昔から、僕ら新聞記者を大事にしてくれた。温和な人柄、歌謡界の生き字引きで、そこそこの酒好き、絶妙の話し上手...。思い返せばこの人とのひとときは〝夜の部〟の方が多い。レコード大賞や歌謡大賞が過熱していた昔、福田さんは陳情に全国を回った。審査をする民放各局のプロデューサーや新聞記者詣で。その先々へ転々と、彼のゴルフバッグが先行している話も聞いた。サンミュージックが各地にタレント養成所を持てば、その責任者としてまた全国...である。各地に福田さんファンが増え、情の濃いネットワークを作る。〝やり手〟だが敵はいない。
〝永遠のNO2〟でもある。西郷輝彦のマネージメントを手掛かりに、先代社長の相澤秀禎氏とプロダクションを興した片腕。昔はNO2が独立、事務所を開く例が多かったが、福田さんは相澤社長の相棒に徹した。社長は松田聖子をはじめ、女性歌手を育てることに熱心だったが、福田さんは「それならば...」と、男性タレントの発掘、育成に力を注ぐ。森田健作は彼がスカウト、人気者に育て、やがて政界へ送り出している。
もともとはドラム奏者。灰田勝彦のバンド時代、熱演!? のあまりシンバルを舞台に飛ばして、ボコボコのお仕置きを受けた話は、何度聞いても面白い。戦後の歌謡界のエピソード体験談で酒席は笑いが絶えない。西郷輝彦のバックに居たのがミュージシャンとしての最後の仕事。ある日西郷が「こんな感じで行けません?」とドラムを叩いてみせた。福田さんは4ビート、西郷の注文は8ビートだったから、福田さんは時代と世代の違いを痛感、即ドラムセットを売り、その金でスーツと鞄を買ってマネジャー業に転じた。
人間関係もそうだが、飲み屋発掘にも鼻が利いた。業界のゴルフコンペでは前夜に現地へ先乗り、ここぞ! と決めた店で歓談、酒盛り、カラオケ...。お供は元コロムビアの境弘邦と僕だが、店の雰囲気も肴も、ハズレたことがない。最近「空振りばかりになった」と、ゴルフを卒業してしまったのが残念だが、僕の舞台は必ず見に来てくれる。終演後は小西会の面々ともどもお定まりの酒だが、こっちの方はまだ元気。
「だいぶ腕をあげたが、さっと座ってさっと立てなくなったら、時代劇の役者は限界だよ」
と役者の僕への助言もあたたかい。82才の僕より大分年上なのだが、友だちづきあいの眼差しが嬉しくてたまらない人だ。
個人的な「おお!」をもうひとつ。11月18日、山形・天童で開かれた「佐藤千夜子杯歌謡祭2018」でのこと。歌どころ東北の人々がノドを競ったが「望郷新相馬」「望郷よされ節」「望郷五木くずし」と、かかわりのある〝望郷もの〟が3作も登場した。これは花京院しのぶという歌手のために僕がプロデュースしているシリーズで、カラオケ上級向けの難曲ばかり。相当に高いハードルを用