ただ者ではないぞ! 原 文彦
情痴の果てに「こおろぎみたいに おんなは泣いた」と言う。美川憲一に『金の月』を書いた原文彦の一行である。生々しい筆致で男女の痴態を描きながら、決して下卑に落ちない詩心に唸ったあとで、とどめを刺された。絶えて久しく出会わなかった出来事。この人、ただ者ではない!と、次作を待つこと切だ。
相変わらず本心を秘めた詞が〝いいねえ〟は『うたびと』の池田充男。レーモンド松屋と大川栄策の仕事では〝昭和〟が戻って来た。
2012年8月のマンスリーニュース
2012年10月13日更新ただ者ではないぞ! 原 文彦
情痴の果てに「こおろぎみたいに おんなは泣いた」と言う。美川憲一に『金の月』を書いた原文彦の一行である。生々しい筆致で男女の痴態を描きながら、決して下卑に落ちない詩心に唸ったあとで、とどめを刺された。絶えて久しく出会わなかった出来事。この人、ただ者ではない!と、次作を待つこと切だ。
相変わらず本心を秘めた詞が〝いいねえ〟は『うたびと』の池田充男。レーモンド松屋と大川栄策の仕事では〝昭和〟が戻って来た。
雪のれん
作詞:瀬戸内かおる 作曲家・岸本健介と夏木は、実に長いコンビを組んだままだ。岸本が他の歌手に曲を提供する例はたまに聞くが、夏木が他の作曲家の作品を歌ったケースは、記憶にない。一蓮托生、お互いの才能に賭けている。
試行錯誤の歩みである。岸本にはきっと「これでもか、これでもか!」の思いが強かったろう。それがこの作品で、一つの成果をあげた。六行詞の〝港もの〟だが、曲にゆるみたるみがなく、夏木の歌を落ち着かせた。そのおだやかな起伏を、中・低音の語り口で、夏木は彼女〝らしさ〟を作った。師弟の思いが深い。
人生はふたりの舞台
作詞:三浦康照 作詞家・三浦康照と冠のコンビも、もう四五周年。
三浦はこの愛弟子に、さまざまな角度のドラマを書いて、倦むことを知らぬ仕事を続けている。
今度は〝しあわせ演歌〟である。各コーラスの歌い締めの「お前と俺の、ふたりの舞台」で、冠は大きく両手を広げるような気配を聞かせる。声に笑顔の色があり、
〝その気〟が素直に前に出る。冠のそんな芸風とキャラを、三浦は知り尽くしていての夫婦ものだ。冠をのびのびとさせるもう一つの要素は、叶弦大の曲。道中ものみたいなのどかさがあった。
白川郷
作詞:木下龍太郎九月の「ぎふ清流国体」を記念、新装再発売した『ひとり長良川』のカップリング作。木下龍太郎の詞、弦哲也の曲を新録音した。歌い出しの一行を、水森は息づかいで泣き節にした。シリーズの〝ご当地もの〟の明るさより、涙の比率を増やして新鮮である。
京都白川 おんな川
作詞:麻こよみ声の芯をはずしたような、細々とした歌唱にこの人の色がある。定石どおりの演歌を、それが頼りなげ、切なげにした。葵の持ち味なのだろうが、これが歌の主人公のたたずまいに通じたあたりが面白い。影山時則の曲が、そこをうまく生かした成果か?
おんなの波止場
作詞:荒木とよひさ市川昭介の遺作に、荒木とよひさが詞を書いた。去った男を何年も、港で待つ女が主人公。曲折多めのメロディーを、神野は思いひとつで乗り切った。さて、いかにも市川らしい歌い締めの昂り方。神野の目線は海へ開いたろうか、それとも胸に抱いたのだろうか。
おんな川
作詞:白鳥園枝白鳥園枝のいかにもいかにも...の四行詞に、市川昭介がたっぷり、聞かせどころのある曲を書いた。昭和五七年に出した旧作の改題、新録音。ギターのイントロから始まって、大川の歌は小節コロコロ、一途にうねる。これぞ「昭和の詠嘆」。他に言うことはない。
来島海峡
作詞:レーモンド松屋ラテンふう歯切れのいいノリ、大きめのビブラート、高音部の艶の作り方、歌全体のメリハリに、演歌的ハッタリも歌い納めで聞かせて、ムード歌謡の系譜。それをご当地ソングでアクを強めに仕立てた。昭和の味の再来、レーモンドは、かなりの〝やり手〟だ。
金の月
作詞:原文彦湯の宿、個室の情艶を、貼り絵みたいな金の月に託して、原文彦の詞、弦哲也の曲は相当に濃密である。まともに行けば、石川さゆりになってしまうところを、美川の醒め加減の歌唱が、独特の味に仕立てた。演歌色強めの作品が、美川色になった。
うたかたの風
作詞:久仁京介白い萩がこぼれるさまに、深まる秋と主人公の孤独を重ね合わせた詞は久仁京介。その大きめな構え方に、委細承知と弦哲也の曲が応えた。地力の強い歌手なら、ガンガン歌い込みかねない作品を、竹島は彼の身丈に引きつけた歌で、水彩画のドラマの味を作った。