神野の『泣き上手』ふたつの匙かげん

2020年11月29日更新


殻を打ち破れ226回

 
 ≪ほほう、なかなかに...≫

 と、神野美伽を聞いたあと、頬をゆるめた。新曲『泣き上手』のタイトルにひかれて、CDを回す。松井五郎の詞、都志見隆の曲、萩田光雄の編曲という顔ぶれにも興味がわいた。もちろんポップス系の歌謡曲、それを近ごろロック乗りもやる神野用に、どの程度の匙かげんの楽曲にしたのだろう?

 甲斐性なしでのらりくらり、風に吹かれているような男に、ほだされた女が主人公。暮らし向きは思うに任せず、幸せは尻切れトンボだ。それだもの...と愚痴っぽくなったり、それでも...と耐えてみせたりすれば、おなじみの演歌になるところを、

 ♪泣くのは上手さ 泣くのは平気さ どうせ泣きながら 生まれてきたんだし...

 と、松井のサビは、さらりと躱して独特の味を作った。

 気性きっぱりの世話女房型。男の呑気そうな寝顔をぼんやり見ながら、毛布を掛けてやる夜もある。人生なんてそんなもんさとか、男女の間柄なんてそんなもんさなどと、達観している訳ではない。彼女には彼女流の"わきまえ方"がある気配。

 お話4行サビ2行の詞を、都志見のメロディーは、シンプルに3回繰り返す。心地よいテンポ、起伏おさえめだがなかなかのムード派ぶり。萩田の編曲は間奏でエレキギターが小粋にメロディーを浮き上がらせる。そんなお膳立てが揃って、神野の歌は激することなく淡々と進む。ところがこの淡々...が曲者なのだ。歌全体をファルセットに近い発声で歌うことで、主人公のあてどない心情を匂わせる。もし地声の太めの響きで歌ったら、切ないはずのサビが、啖呵になってしまったろう。

 言葉ひとつずつを丁寧にというよりは、大づかみに1フレーズに思いをこめる。よく聞けば語尾のあちこちで、ニュアンスを変え、情のこまやかさも作っている。CDを聞き直すごとに、芸事によく言う"細部に神宿る"の意味を思い返したりするのだ。

 ≪もしかすると彼女は、すうっとこの作品に入れたんじゃないかな...≫

 と僕は神野の素の部分を推しはかる。下衆の勘ぐりになりたくないが、親しい間柄の分だけ、彼女と作詞家荒木とよひさの、暮らしと別れを連想してしまうのだ。気ままな文士ふうに、京都でひとり暮らしをした荒木を、神野はひところ「亭主の放し飼い」と笑ってみせた。しかし、別れてみればそれなりの葛藤は深く、彼女は"泣かない女"を装っていたことに僕は気づく。戦後満州(現中国)から引き揚げたせいもあってか、どこかに異邦人のかげりを宿した歌書きの、はぐれ加減の言動や生き方を許してはいたのだろうが...。

 その一方では、歌書きの彼の才能を尊敬し、信じることに変わりはなかった。離婚後も神野は同志みたいに、彼の作品をいくつも歌っている。作曲したのは主に弦哲也だが、このコンビは神野の期待に応じ、あるいは挑発するように、いろいろな冒険作を提供した。昭和の演歌の再現から、思いがけないバラードまで、彼らは神野のボーカリストとしての魅力を大事にしていた。

 荒木はレトリック派の女心ソングを得手とし、実績を作った。その世界から神野は、今作で松井五郎の世界に転じた。女心ソングにも味な手口を見せる松井も新しい歌謡曲の担い手だが、荒木とは文体や文脈が違って独自である。『泣き上手』の主人公は、そうは言っても実は"泣かない女"なのではないかと思う。実生活では"泣かない女"を装った神野が、陰では"泣いた"感慨を、この作品に歌いこめたとすれば、その微妙な匙かげんにも、神野の気性の"男前"に思い当たったりする。