春奈かおりに、いい歌が出来た!

2021年3月29日更新


殻を打ち破れ229回

 その娘とはしばし顔を合わせていた。笑顔がよくて物腰てきぱき。初対面からごく自然な愛嬌があり、長くつき合ってもなれなれしくはならない。人づき合いがいいバランスの彼女を、親友の歌手新田晃也は「俺の弟子です」と、事もなげに言った。

 その人・春奈かおりが、久々の新曲を出した。『さとごころ』『初島哀歌』『愛でも恋でも』の3曲入り。全部新田の作曲で3曲めは師弟のデュエットである。新田は長く演歌のシンガーソングライターとして活動しているが、今回はプロデューサーも宣伝マンも兼ねる気配。CDは彼から届いたが、

 「さっそくご挨拶かたがた資料を持参したかったのですが(コロナ禍で)思うに任せず…」

 と、ていねいな手紙つきだ。

 ≪ほほう、可憐なくらいのいい声で、望郷ソングを素直に歌っている。技を使わないところが、作品の色に合っているか…≫

 さっそく聞いてそう思った。新田は昔々、福島・伊達から集団就職列車で上京、歌への情熱やみがたく、70代の今日まで一途に孤軍奮闘して来た。それだけに望郷の思い切々…の作品が多く、今作は師匠のそんな心情に、春奈が巧まずに反応したことになろう。

 10年ほど前、大衆演劇の名座長だった若葉しげるに、いきなり

 「うちの子が世話になってるんですよね」

 と言われて驚いたことがある。全国座長大会の主宰者沢竜二に役者として誘われ、浅草公会堂の楽屋に入った日のこと。こちらぺいぺいの老役者、あちら名うてのスター役者だから、緊張しっ放しの僕は咄嗟に誰のことか思いつかなかった。

 それが春奈の件だった。彼女は母親に連れられて「若葉しげる劇団」に参加、3才で初舞台を踏んだらしい。10年後に母親が「若奈劇団」を旗揚げして6年間、房州白浜のホテルに専属、その後福島・会津若松でまた常打ちの日々を過ごす。その間、彼女はどうやら一座の看板スターだった。それがカラオケ大会で認められ『墨絵海峡』(坂口照幸作詞、弦哲也作曲)でデビューしたのが1996年。以後新田に師事してCDは今作が4作めだから、今どき珍しいのんびり派だ。

 ≪何だ、同業さんなんだ。年はずっと若いが、キャリアじゃ俺の先輩じゃないか!≫

 僕は沢竜二の全国大会にその後もレギュラー出演、若葉には何くれとなく世話になり、教えられること多かった。人波にまぎれこみそうに、小柄でごくふつうのおじさんが、舞台上はまるで別人の芸、かわいいお尻ぷりぷりの町娘姿など、惚れ惚れとした。知人の橋本正樹の著書「あっぱれ!旅役者列伝」(現代書館)によれば1962年、関西の猛反対を押し切って上京、三軒茶屋の太宮館の専属になったが、高速道路の建設で劇場が廃業、手痛いショックを受けた…とある。

 ≪えっ! こちらはごく近所だった!≫

 僕はまた驚く。東京五輪の直前、国道246のその工事で僕も難儀した記憶がある。当時、三軒茶屋の左手奥、上馬の西洋ぼろ屋敷に住み、若者たちが勝手に出入りして、議論と酒盛りに明け暮れた日々があった。売り出し前の作曲家三木たかし、中村泰士、作詞家の石坂まさお、歌手は浅川マキ、藤圭子らが顔を出し、最近新田とコンビの仕事をしている作詞家の石原信一も常連だった。

 世間は狭いと思うし、縁は異なものではないか! 春奈かおりのおっとりお人柄の歌を聞きながら、いろんな顔が数珠つなぎである。

 春奈の母親は3年前に引退、劇団旗揚当初に縁のあった房州白浜で、居酒屋良志久(らしく)庵を開いているとか。春奈はここでも看板娘なのだろう。コロナが下火になったら一度、海が間近のその店へ、新田ともども行ってみたいと思っている。