殻を打ち破れ237回
山口県周防大島の星野哲郎記念館が、面白い企画をやる。館内の写真パネルを大幅に入れ替えるのだが、その1枚ずつに追悼の俳句を一句ずつ添えることにした。詠み手は星野の後輩の作家勢で、長く「虎ノ門句会」で腕を競う面々。掲げられる写真は24枚で、ありし日の星野の姿が収められていて、温和な詩人の素顔がほほえましい。
「伸びてゆけ開導五人のつくしんぼ 高坂のぼる」
の句は、星野の母校・開導小学校の閉校式の写真とセット。紅白の幔幕を背に、星野と5人の生徒がちょこんと並んでいる。過疎の島の学校がなくなる時の子供の数はこんなものなのか。ふるさとの冠婚葬祭やさまざまな行事に、率先して参加した詩人の「島想い」がしのばれて胸キュンになる。
「缶拾う言葉も拾う春の朝 鈴木紀代」には
「あぁ、あのころの…」と合点される向きもあろう。昭和54年、心筋梗塞で倒れたあとに日課とした小金井公園での「夜明けの缶拾い」の1ショットと並ぶ。そんな或る日、出会った初老のホームレスに「あんたも仕事がないのか」と言われ、星野は「作詞の依頼が途絶えたら、同業サン(?)になるか!」と撫然としたらしい。
「日傘受け横綱作家揃い踏み 川英雄」
の写真では、星野と作曲家船村徹が、宮本隆治アナのインタビューを受けている。後ろにはNHKの下平源太郎プロデューサーが写り込んでいて、島でやった「全日本えん歌蚤の市」の一景と判る。当時日本クラウンの幹部だった広瀬哲哉と僕が、下ごしらえで働いた連続イベントの平成15年夏の分。主宰者星野に「ゲストはあの人でしょう?」と謎をかけたら「僕の口からはそんなこと、絶対に頼めないよ」と尻ごみするので、僕が船村に出演を依頼した。船村は星野が作詞生活に入るきっかけを作った人で、常々「神だ!」と語った相手。「恩人出馬」にその喜びようったらなかった。
「丹精を込め大輪のダリアかな 沖えいじ」
は、都はるみ、水前寺清子との3ショット用。
「合縁に寄せる夏波歌きずな 林利紀」
は島津亜矢との2ショット用。
「歌書きのうどん打つ夢麦は穂に 二瓶みち子」
は星野が講演で歌づくりを語るアップに添えられて、なかなかに意味深である。
全24枚のパネルのうち、島倉千代子、畠山みどり、北島三郎、鳥羽一郎らと写っている5枚については俳句を来館者から公募とファン参加分も残されて「虎ノ門句会」分は19枚19句となった。この句会は34年前にJASRAC(日本音楽著作権協会)にかかわる人々が作った歴史を持ち、以前協会が虎ノ門にあったことからこの名称が残る。作曲家飯田三郎、渡久地政信や作詞家横井弘ら大勢が加わり「鬼骨」の号で星野も参加していた。現在はJASRAC会長も務める作詞家いではくが会長。世話人の二瓶さんの話では、コロナ禍で例会はしばらくお休み。投句で毎月作品を集め、会報が最近400号を迎えたとか。
≪もろもろの情熱、大したもんだ…≫
と僕は感じ入る。日光の船村徹記念館づくりも手伝って思うのだが、主導する自治体にとって箱モノの記念館は「開館が即ゴール」になりがち。ところがそのソフト面も担当、集客対策を練るチームにとっては「開館こそスタート!」で以後絶え間ない企画立案が求められる。星野記念館は平成9年開館だから今年で14年。その間の知恵者は星野の長男有近真澄君と長女桜子さんのダンナ木下尊行君だろうか。
この企画展は星野が亡くなった11月を機に今年11月11日から来年の5月まで開催される。星野との親交47年、記念館づくりにもかかわった僕は、久しぶりにのぞいてみようかと思っている。