弦哲也の57年間を辿った

2022年5月28日更新


殻を打ち破れ243回


 名手! と紹介された。尺八の素川欣也氏。吹き口に情熱そのものを注ぎ込むような演奏が、会場の空気を揺すり圧した。ひなびた味わいがドラマチックな起伏を示して、ふと『リンゴ追分』の1フレーズを聴いた心地もする。それが『与作』のイントロに収まって、弦哲也が歌に入る。何だか妙にリラックスして、いつになく歌が軽やかだ。4月2日夜、原宿のラドンナで催された彼の「LIVE2022旅のあとさき~ふたたびのうた」のスタート・シーン。素川氏はこの場面だけのスペシャル演者だった。

 『与作』は弦が昔、NHKの「あなたのメロディー」の下請けで、発掘した作品。応募曲から目ぼしいものを選び出す、無名時代のアルバイトだったが、後に北島三郎がレコード化、彼の代表曲の一つにした。しかしこの曲がこの番組1977年の年間最優秀曲に選ばれるまでは、番組内で弦が歌い続けた。ギターの弾き語りで共演したのは尺八の村岡実氏と、そう思い出せば、今回のライブの冒頭に、同じ演出でこの曲を据えた弦の胸中も想像に難くない――。

 節目を大事にする人で、音楽生活55周年が一昨年。記念コンサートをやるはずが、コロナ禍で昨年6月の北とぴあに延び、ライブが今年になったから57年めのステージになる。売れない歌手時代から全国を歌い歩き、歌手と作曲家兼業時代も旅暮らしだった。作曲した最初のヒットが内藤国雄の『おゆき』で1976年だから、それまで11年の苦吟の年月がある。振り返れば思いは深かろう。

 人には出会いの数だけ別れがあると言う。弦には運命的と言ってもいい別れがあった。ハワイのスタジオで『北の旅人』をレコーディングした石原裕次郎。いずれ日本で…と握手して別れたが、裕次郎はこれの曲を歌うことはなく逝き、作品だけが一人歩きして弦の代表曲に育った。『裏窓』は亡くなる1年前に美空ひばりが吹き込んだ。作曲家として会わねばならぬ頂きの人に、何とか間に合っている。弦は“昭和の太陽”二人との縁を語りながら、その2曲を歌う。淡々と、作品を慈しむような味わいがあった。

 心ならずも見送った友人の名も挙げた。作詞家の喜多條忠や坂口照幸…、中村一好プロデューサーの名も出て来た。この日が命日だと言うが、没後何年になるだろう? 彼とパートナーの仲だった都はるみは引退同然。「元気なんで、また歌ってくれないかな…とは思うけど」と、弦が心底惜しそうに言って歌ったのは『小樽運河』で、都が一度引退、再び歌謡界へ戻った時の再出発作だった。

 彼は長く金沢へ通っている。歌づくりと石川県の各地を訪ねるテレビのレギュラー番組を持っていてのこと。その他に北海道にも福島にも九州にも、多くの知人、友人が居る。不遇の時代に鈍行列車で全国を回って出会った人々との、親交も続く。つらい時期に背を押してくれた数々の人情が、彼の作品の情の濃さと温かさを作ってはいまいか。この夜のライブで、そんな出会いを代表して舞台に上がったのは川中美幸で、お互いの代表作『二輪草』を笑顔でデュエットした。『ふたり酒』で第一線に浮上した二人は、作詞したたかたかしとともに“しあわせ演歌”の元祖と呼ばれる“戦友”である。

 『飢餓海峡』と『天城越え』はビシッと決めて弦哲也74才、この日ステージで垣間見せたのは「酒脱」の小粋さとおおらかさに思えた。たまたま当日の朝刊全紙は、彼の日本音楽著作権協会会長執任を伝えていた。その件は笑顔で流し、アンコールで歌った『我、未だ旅の途中』で示したのは歌書きの気概だったか、会場周辺で忙しかったのは弦ママの愛称で知られる夫人と音楽家の息子田村武也、秘書の赤星尚也だった。