殻を打ち破れ138回
棺を閉じる直前、突然、聞き慣れぬ言葉が悲鳴のようにあがった。それに重なる激しい泣き声。質素な喪服の女性が3、4人、故人の身内のようで、とめどない別れの訴えかけは、北京語と知れた。8月10日午後、横浜のメモワールホール瀬谷で営まれた、歌手真唯林(まゆりん)の葬儀だ。
真唯林は台湾・嘉義市の出身。1988年に来日して『みちのくひとり旅』で知られる作曲家三島大輔に師事、翌年『演歌草』で日本クラウンからデビューした。代表作は『東京夜景』で、星野哲郎の詞に三島の曲。はとバスの定期観光開始50年を記念したイメージソングだった。日本での活躍を期待され、台湾の「正月紅白テレビ」に出演したこともある。亡くなったのは8月7日、享年50。
訃報は三島からの電話で伝えられた。
「がんだった。あっちこちに転移して、手を尽くしたが、だめだった...」
口下手の歌書きの声が、ボソボソと続いた。家族同然のつき合いが25年。もう一息! もう一息!と、お尻を叩きながら、一緒に頑張ってきた愛弟子の死だ。炎暑と言ってもいい今年の夏、精根尽きた闘病者も多いが、彼女もその一人だったのか――。
葬儀に駆けつけた僕に、三島が「送る言葉を!」と言う。その強い眼の色に促されて、僕はぶっつけ本番でしゃべった。新潟・長岡の神社に、全国の神々が集まる夜があるというのを、大勢で見に行ったことがある。深夜、宙空に舞ういくつもの火の玉を見上げて「ほら! ほら!」と彼女が笑ったのを覚えている。明るくて、人なつっこい娘だった。数ヶ月前、横浜で歌う会を開いたのに、日程が合わずに行けなかったことが悔まれる。体調回復...と聞いたが、あれが最後の舞台になったのか...。
「まだ50才は若過ぎる。ああもしたい、こうもなりたいという、夢が沢山あったろう。きっと歌にも、これから味が濃くなるころだったのに...」
霊前で、僕は暗澹としたままだった。いくら近くても、彼女にとって日本は異国のはずだ。言葉も文化も生活も、全然違う国へ来て、そこになじみ、その国の言葉で歌うプロになる。そのうえで、その国の歌手たちと競争して、勝ち抜いて行こうとする。なみ大ていの覚悟と生き方ではない。しかも真唯林は、厄介な病気と闘うことにまで、この国を選んだ。そんなに日本が良かったのか!
式場には、5年前の新曲『泣きたい夜』のポスターが貼られていた。バーのカウンター、左手にグラスを持つ彼女の、憂い顔が若々しくきれいだ。式は読経もなく、親しい人々が合掌した。「林ちゃん!」「林ちゃん!」と、ファンらしい女性が呼びかける声が続く。来日25年、50才の生涯で、残念ながら彼女の人と芸は、全国的に知られるものにはならなかった。しかし、数は多くなくても日本のあちこちに、彼女を愛した人々は確かに居た。
送る側を代表してあいさつした三島の声は、「俺もやがて行くから」と、途切れがちだった。彼もまた病院から抜け出しての、野辺の送りだと聞いた。真唯林が残した思いを少しでも実らせるために、僕は彼の、一日も早い全快を祈るばかりだった。