追悼中川博之、美川の新曲を聴く。

2015年2月7日更新


殻を打ち破れ156


1111日、東京は時々小雨、気温が15度を切った冬日に、中川博之が納骨された。墓所は青山・梅窓院。ムード歌謡で一時代を作った彼に似合いか、盛り場の一隅にある有名な寺で、取り仕切ったのは夫人で作詞家の髙畠じゅん子。

 その中川の遺作が新譜として出た。美川憲一の『雨がつれ去った恋』である。

 ♪ガラス窓 雨粒が つなぎあい 落ちてゆく...

 というのが、髙畠が書いた歌詞の、歌い出しのフレーズ。そんな光景の中で、去った恋人をしのぶ女心ソングが、この日の空模様と参列者の心模様につながる。中川が亡くなって五ヵ月めの月命日。髙畠の胸中はどんな揺れ方をしたのだろう。

 美川の歌が珍しく、熱唱型になっている。中川のメロディーが美しく、起伏豊かなことがそうさせたのか。高音のサビあたり、思いのたけが切迫する気配を作る。

 ≪判る気がするな...≫

 と、僕は合点する。彼の代表作の一つ『さそり座の女』が、中川作品だった。美川のデビュー作は『柳ヶ瀬ブルース』で、昭和41年、僕は岐阜のあの繁華街へ同行取材に出かけた。低音がよく響く印象が残るが、当時の彼はごく"ふつう"の演歌歌手だった。それがやがて化粧濃いめの異能の歌手に変身する。昨今大流行の"おねえ族"の元祖。その転機を作ったのが『さそり座の女』ではなかったか?

 そういう意味では、中川は美川の師にあたる。その人の遺作を歌うとなれば、美川は当然、心の威儀を正したろう。毒舌コメントでテレビの芸能レポーターにもてはやされていても、芯の部分はきっちりした昔気質の歌手である。襟を正して楽曲と向き合う。中川との親交のあれこれを思い浮かべる。マイクの前に立てば、師を葬送する思いも深まったことだろう。だとすれば、けだるげに突き放ち気味の、いつもの唱法でなくなるのも無理はない――と、僕はそう思うのだ。

 昭和38年にスタートした七つめのレコード会社日本クラウンへ、駆け出し記者の僕は日参した。コロムビアに反旗をひるがえした人々の新会社は、妙に陽気な活気に満ちて、来る者一切拒まぬ気風があった。その中に米山正夫が居り、星野哲郎が居り、小杉仁三や中川博之が居た。僕はあっさりお仲間の一人にしてもらい、流行歌世界のいろはをここで学ぶ。中川はロス・プリモスの『ラブユー東京』や『たそがれの銀座』などで頭角を現し、あっという間にムード歌謡の書き手として一家を成した。平昜、簡潔、ロマンチックできれいなメロディーで、彼はクラウンの作曲勢の柱の一本になり、昭和、平成の歌謡史を下支えする人になった。

 決して世渡り上手とは言えない、控えめな言動と、好奇心に満ちた少年みたいな眼と、はにかみ笑いの中川と僕は、同い年だった。流行歌のうねりが、演歌から歌謡曲に大きく流れを変えた今日このごろである。彼だからこそ書けた中川メロディーの出番は多かったろうに...と、僕は痛恨の思いで美川の新曲を聞いている。

月刊ソングブック