その前置きに、母は息子を忘れ、自分をも忘れているとある。花の名前だけは覚えていて、母は少女のような横顔で菜の花畑を指さす。その向こうには、哀しいほど澄んだ青空――。
湯原昌幸の『菜の花』を聴いて、不覚にも僕は涙ぐんだ。あきらかにこれは、痴呆の母と息子の物語である。世界に冠たる長寿国日本が抱える、痛切な問題が歌になった。この素材、歌でも時おり目にするが、演歌だと妙に粘っこい情念が先に立った。それをまた、何ときれいに、だからこそ殊更に、哀しみと慈しみの情をたたえた詞にしたことか! ここまで見事な表現力は、並み大ていのものではない!
作詞は田久保真見。気になる才能として、僕はその仕事をずっと追跡している。どちらかと言えば、ポップス系の長めの詞に"らしさ"が生きるが、最近は5、6行の演歌も書く売れっ子。独特の感性と言葉えらびに、時折りドキッとする冴えを見せるが、今回はもう「これこそ田久保!」と僕は手ばなしで絶賛!である。
「いい歌が出来たんです」
と、まっ先に僕に聴かせたのは、作曲した田尾将実だった。「僕はさしたる仕事はしてませんが...」と、照れたような注釈がついた。聴き終えて僕は、即座に感想を伝える。
「これでいいんだ。作曲が妙に踏ん張ったら、詞の清澄感が壊れる。作曲にも無策の策ってのがあるんだよな」
田尾は得心した笑顔になったが、このごろ人気作曲家の仲間入りをした彼とは、苦しかった時代からの長いつきあいがある。僕の妙な発言も褒め言葉と受け取ってくれるのだ。
≪それにしても...≫
と、僕は別のことを考える。湯原の前作は『俺でよかったのか』で、女房を亡くした男の歌だった。それに続いて今度は痴呆ソングか...とネタ選びのかね合いが気になった。そう言えば湯原は、実母の介護を夫人の荒木由美子と一緒に頑張った体験で知られる。そこからの着想か?と制作担当の佐藤尚プロデューサーに聞いたら
「男の泣ける歌を続けて来て、その延長戦上の企画ですよ」
と、実話ソングが狙いではないと笑った。それはそうかも知れない。湯原の体験をそのまま歌にしたら、もっと生々しくなって、湯原も歌いにくかったろう。
≪それにしても...≫
と、もう一度『菜の花』を聞き直す。2コーラスめは主人公の少年時代が語られていて、学校帰りに転んで、泣きながら家路を走った彼を、迎えた母がやっぱり菜の花畑の中にいた。最後のハーフでは、この花が好きだった父親もチラリと出て来る。
田久保は一体、どこで何を知り、どんな思いをこめてこの詞を書いたのだろう? 特異な素材をシンプルな表現で、この人はここまで書けるんだ!と、僕は感じ入る。それやこれやの感慨にひたったのは決して、僕が痴呆の母を7年介護した体験を持つせいだけではない。
