母子二代、日韓歌のかけ橋

2016年1月3日更新


殻を打ち破れ168回

 「ママがね、ドレスもくれたヨ」

 近ごろチェウニは、しきりに母親の話をする。彼女が2才のころに離婚した母は"韓国の美空ひばり"と呼ばれる大物歌手の李美子。チェウニはその後、父方で育った。ふつうの母娘なら『瞼の母』の女性版になるところだが、チェウニも8才で歌手デビュー、10代でそこそこの人気を得ていた。韓国の歌社会で別々の活動だったから、心境も関係も微妙で時に深刻だったろう。

 その娘がこの秋『チェウニ 李美子を歌う』というアルバムを作った。全10曲、母親があちらでヒットさせたものばかりで、日本でもおなじみの曲もいくつか。こちらでの歌手生活が16年、歌巧者として独自の世界を作ったチェウニが、あえて母親の魅力に挑戦する企画である。長く離ればなれだった母子が、再会したのは今年の春。その後の人生や歌についても話し合い、お互いのこだわりは氷解したという。母親は60年代に日本でも歌っている。「母子二代、日韓歌のかけ橋!」という惹句は、アルバム制作を手伝った僕が作った。

 「この人ね、私が初恋の人だったのヨ」

 チェウニは時おり、僕を人にそう紹介する。確かにそう言われればそうで、彼女が10代のころ日本で吹き込んだ『どうしたらいいの』に鳥肌が立った。生歌を聞きたいと探したが、本人は不発のまま韓国へ戻っていて会えずじまい。それが16年前の『トーキョー・トワイライト』で東京へ帰って来た。あの歌声の哀愁、高音部ににじむ艶といじらしさの情感は、往時のままだった!

 二度目の鳥肌を体験して以後、流行歌評判屋の僕は、チェウニ関連の記事を書きまくり、その魅力を吹聴しまくった。彼女のヒットを連作した杉本眞人やディレクターの松下章一も友人だから、そんな騒ぎ方に弾みもついた。親交のあるキム・ヨンジャに、

 「私たち韓国の歌手に、何か特別な思いがあるの?」

 と不審な顔をされたのも、そのせいか?

 『トーキョー・トワイライト』がヒットした当初、チェウニは母親の話に触れたがらなかった。尊敬と鬱屈が交錯するチェウニに、あちらの歌社会では母の影響がきつかったろう。そんな行きがかりに訣別、日本に新天地を求めた彼女にすれば、無理もないことではあった。しかし僕は、歌手最大の魅力と武器は声そのものと思っているから、

 「それをお前さんは、李美子から貰ったのよ。こだわるのもいい加減にしたら...」

 と、文句を言ったものだ。それが昨今では

 「ママが"つばき娘"をレコーディングした時、そのお腹に私が居たんだってヨ」

 とコロコロ笑うようになっている。

 その『つばき娘』に『黒山島娘』『ソウルよ さよなら』『女の一生』と、今回のアルバムの10曲のうち4曲は訳詞が三佳令二。歌社会の僕の叔父貴分だった名和治良プロデューサーの筆名である。彼と僕が歌づくりの拠点にしたドーム音楽出版は、彼の没後、息子の大地君が引き継いでいる。

 チェウニは永住権を取り、NHKの腕利きプロデューサーと結婚、日本に帰化する手続きも進めている。異国でつかんだ歌手生活の安定と女の幸せ。チェウニにはいい事ばかりのこの1年である。

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