三井と日高の友情に拍手を!

2016年12月23日更新


殻を打ち破れ177回

 友人に三井健生という男がいる。イケメン・スターの山内惠介を筆頭に、大勢の歌手を抱えるプロダクション、三井エージェンシーの社長で、僕らのお遊び仲間"仲町会"のメンバー。音楽事業者協会傘下の大手プロダクションが、いつのころからか歌手よりも俳優やお笑い芸人中心のビジネスに転じた中で、頑固に歌手の育成、売り出しに熱中する。その甲斐あってか最近では、中堅プロダクションにのし上がった唯一の勢力だろうか。

 「他人に出来ないことをやる」がその信条の第一。レコード会社の宣伝マンのころから、全国各地のテレビ、ラジオ、新聞などのメディア勢をコツコツと回り、独自の人的ネットワークを作った。皮切りがキャニオン時代、山本譲二の『みちのくひとり旅』で、昭和55年の成功だから、もう36年も前のこと。そのころからずっと僕と彼は「ミツイ!」「頭領!」のつき合いだが、当時からプロデューサーの視野と並ではない情熱、行動力を持っていた。

 お次のブレークが夏川りみで『涙そうそう』のヒットは、三井抜きでは考えられず、その次が山内惠介だ。二年ほど前に、門前仲町の事務所移転先を訪ねたら、エレベーターのまん前に鎮座するのが彼本人の等身大パネル。

 「所属歌手よりも、お前が最大の売り物ということか!」

 と呆れたら、「当然!」とでも言いたげな笑顔で頷いた。惠介のファンクラブ誌では毎号1ページ、惠介の大物への歩みと、その陰にある彼のビジネス戦略を自筆で展開している。人気歌手のサクセス・ストーリーを、表裏一体の読み物にするのだから、惠介ファンと三井の親しさはまるで旧知の仲。コンサート現場などで熟女ファンから、しきりに「社長!」の声がかかり、握手を求められるのが日常茶飯になっている。

 徹底して「出る釘」の三井の、陽動作戦連発の作品づくりとプロモーションが成功、惠介の「紅白歌合戦」初出場の夢が実ったのは昨年の大晦日。年が明けてしばらく、三井に会ったら、

 「反応の大きさに仰天してる。年内のスケジュールがアッという間に一杯になった。大きな出演依頼がひきもきらずなのよ」

 と満面の笑顔だった。

 その惠介が827日、日高正人&いもづるの会コンサートに出演した。日高は"無名のスーパースター"と呼ばれる知る人ぞ知るベテラン。いもづるの会は彼が主宰して、無名の歌手たちを引きずり上げようとするイベントで、今回が40回目。節目の大会だから人気者の惠介をゲスト格で...という目論みだったろうが、場所が日高の移住先に近い南足柄市の文化会館。趣旨は趣旨としても、三井の言う「大きな出演依頼」の一つとは到底思えない。

 ≪友情って奴の頼もしさなのかなぁ...≫

 と僕は振り返る。昔々、三井がスタッフとして苦労していたキャニオン時代、売れない歌手の日高は同じ会社で奮戦していた。二人にはそのころから"同期の桜"みたいな交友があり、それが今も続いていての惠介出演なのだろう。日高は『木守り望郷歌』といういい新曲に恵まれている。「来てくれるよね、あにさん」の一言で、僕には当日1階ロ列24番の席が用意されていた。日高との親交も40年近い。

 ≪三井の友情は"熱い"が、俺への日高の友情は"暑い"よな...≫