鳥羽の『希望』もなかなか良い

2017年7月26日更新


殻を打ち破れ187回

1曲、歌うたびに瞼に浮かぶ顔がある。長いつきあいのその時々、直視したり、時に下から見上げたりした顔だ。その一つ一つが、喜怒哀楽をにじませて、シャイな微笑を浮かべている。何しろ38年分の師匠の笑顔だ。歌手35年の鳥羽一郎は、そんな思いで1曲ずつ、作曲家船村徹が遺していった作品を歌ってはいまいか?と、僕は思う。だから鳥羽はいつもこう言う。

 「おやじは亡くなってなんかいない。俺はこれからも、おやじと一緒に歌って行く気だ」

 612日、鳥羽を頭にした「内弟子五人の会」が「追悼コンサート・船村徹を歌い継ぐ」を開いた。場所は栃木・日光の船村徹記念館に隣接した多目的ホール。弟分の静太郎、天草二郎、走裕介、村木弾が一緒で、船村の「演歌巡礼」をサポートした仲間たちバンドも駆けつけた。この日は師匠の85回目の誕生日で、生前に「歌供養」を営むのが恒例だった。弟分たちもきっと、鳥羽と同じ思いでステージに立ったろう。

 「ま、日光サル軍団みたいなもんで...」

 鳥羽が満員の客を笑わせ、五人が船村の作品を片っぱしから歌った。『別れの一本杉』『男の友情』『柿の木坂の家』『王将』『おんなの宿』『矢切の渡し』『風雪ながれ旅』『兄弟船』『みだれ髪』...。会場の誰もが知っている傑作ばかりだ。

 鳥羽こそ内弟子歴3年と少々短めだが、他の4人は全部10年前後、師匠と起居をともにした。それも漁師をはじめトラックの運転手や建築業、サラリーマンなどの、社会人体験をした後の歌手志願。ぽっと出のカラオケ族出身とは訳が違う性根のすわり方のうえ、日夜船村の薫陶を受けている。思い思いの歌は、声を励まし、節をあやつり、各人がここを先途。歌にも男たちの性根があらわだ。

 思いがけない曲も出てくる。北島三郎初期の『東京は船着場』は村木。三橋美智也の『あの娘が泣いてる波止場』は走。織井茂子の『夜が笑ってる』は天草。5人の合唱は小林旭の『ダイナマイトが百五十屯』といった具合。船村の作風の幅の広さをしのばせるが、弟子たちはとにもかくにも、船村が好き、船村の作った歌が好き、師匠が酔余、話してくれたあれこれも、胸中にいっぱい詰まっている。

 鳥羽は今でも、船村を「おやじ」と呼び、船村夫人の佳子さんを「おっかあ」と呼ぶ。長男で作・編曲家の蔦将包は兄弟同然だし、娘の渚子さんは妹扱いだ。鳥羽には父親が3人居た。師の船村と作詞家の星野哲郎、実の父の伝蔵さんという幸せ者だった。しかし、星野は亡くなって今年で7年め、船村はほぼ4ヵ月前の216日に見送ったばかり。健在なのは伝蔵さんだけになったが

 「92才、少し怪しくなったけど、晩酌の2合は欠かさない」

 と言い「毎晩2合だぜ」と声を強めた。海で暮らした父への、共感が濃い目だ。

 コンサートの幕切れ近く、その鳥羽が『希望(のぞみ)』をギターの弾き語りで歌った。船村が刑務所慰問のために作詞・作曲、歌うたびに女囚が泣いた哀歌だ。斉藤功のギターが連れ添うのも、師匠のステージと同じ。鳥羽の歌唱も船村の往時をほうふつとさせるが、あの滋味横溢の境地を得るには、もう少し先へ「宿題」がありそうにも思えた。

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