見知らぬ熟女から声をかけられた。あれは日高正人のディナーショーか何かの客席だ。
「川神あい、頑張ってます。新曲、出ました。聞いてあげて下さい。お願いします」
けげんな顔の僕に、彼女は一気にそう言った。円卓の一隅に座る僕の前でひざまずいた形のまま、小声だが口調は真剣そのものだ。
「わかった。とにかくCDを自宅に送るように、本人に言って下さい」
そう答えた僕と川神は古いつきあいだ。「あい隊」と言うファンクラブを持つとか。熟女はおそらく、彼女のとても熱心な応援者なのだろう。
しばらく後に、CDが届いた。"エンタメ歌謡曲第一弾"の触れ込みで、タイトルが『浮気したでしょ』ときた。一体、何が始まったのか?と、CDを回して、僕は一人でニヤニヤした。浮気に気づいて問い詰める妻、接待ゴルフだと言い逃げる夫、険悪ムードの熟年夫婦のやりとりを、歌で歌ってセリフで聞かせる。そのセリフが歌よりも長いくらいで、夫婦のさや当てが一幕、懲りない夫が女子社員を口説くさまが一幕、意外なオチがちょこっと...。それを川神が、あっちになったりこっちになったりの一人芝居だ。
作詞と台本!?は福島敏朗、作曲が杉本眞人。川神が生でこれを演じたら、客はきっとアハハオホホになるだろう。なるほどそれでエンタメ歌謡曲か。しかしこれが、彼女の30周年記念曲だそうな。ふつうなら悲恋ものの大作などが欲しい節目の年だ。そんな欲をタナに上げて、話題作で突破口を開く冒険。異色作で一発当てれば、鳴かず飛ばずの現状を脱出できる。次の企画も見えて来よう。そうか、そうなのか!
≪30周年なぁ、もうそんなになるのか...≫
僕は彼女が木村優希でデビュー、次に名前を悠希に変え、今の川神になった長い日々を思い返す。茨城の島名村(今はつくば市)出身だが、僕も戦争で疎開してそこで育った。川神の父木村満男は同級生。中学時代、彼がサードで僕がセカンドをやった草野球仲間だから、ずうっと川神の成長を見守って来た。
