『天草情歌』の意味は重い

2018年7月1日更新


殻を打ち破れ198

昭和の名残りの歌になるのか? おそらくこれがそういう最後の作品だろう...。そんな思いで天草二郎の新曲『天草情歌』を聴いた。作詞が中山大三郎、作曲が船村徹。亡くなった二人の歌書きが共有した青春の感慨が、平成の30年を飛び越して今、しみじみと胸をひたすではないか!

縁というものは、こわいくらいの形で姿を現わす。この歌が世に出るきっかけを作ったのは、船村夫人の福田佳子さんの小声の歌だった。昨年の815日夕、船村の初盆に内弟子たちが集まったのは、湘南・辻堂の船村家。師匠が216日に逝ってほぼ半年後になる。

 「おっかあ、みんなを今後とも頼むよな」

 弔いの酒を含みながら、口火を切ったのは内弟子5人の会の兄貴分鳥羽一郎で、夫人を彼は、親しみをこめてこう呼ぶ。

 「そう言えば"天草情歌"って譜面が書斎の机に残ってた。こういうメロディーで...」

 佳子夫人が歌うと、即座に鳥羽が、

 「これは俺の歌だな。絶対に俺用だ」

 と応じた。しかし...と僕らはさえぎる。タイトルからすれば師匠の遺志は天草だろう。故郷の地名をそのまま芸名に与えられた彼は『天草かたぎ』『天草純情』などを歌っている。

 困ったことに歌詞が一番しかない...と話が進んで、僕の出番になった。

 「三佐子、大三郎が船村先生のとこに出入りしてたころの歌でさ...」

 電話した相手は中山夫人である。彼女もそのダンナも、親しい友人だからそう呼び捨てのつき合いのうえ、3ヵ月ちょっと前の47日に、大三郎の13回忌法要で会ったばかりだった。 

「私たちが結婚する前のものだと思うけど、探してみるね」

 それから何日か、残された資料をひっくり返して、三佐子夫人はこの歌の原稿を見つけ出した。大三郎は船村の弟子筋、歌うことになった天草は船村の内弟子の三男坊。未発表作品の一つで、男たち3人の演歌の血がつながった。

 ♪雨雲が西へ流れる ふるさとは雨だろうか...

 都会に出ている主人公がしのぶのは、むしろをたたむ母親と、急いで帰る妹の姿。柿の実もふたつや三つ落ちたころのふるさとだ。大三郎の詞は二番で、バスを待つ日暮れの雨に、別れた日の光景を語り、三番ではいつの日か、望みを果たして故郷へ帰ろう。その日まで、あぜみちよ、森よ変わるな、ふるさとに雨よ降れ...と念じるのだ。

 大三郎が描いたのは、昭和の原風景そのもの。詞に託したのは、あのころの男たちの多くが抱いた望郷の思いだ。彼に九州都城の風景があったとすれば、船村には栃木・船生村(当時)の風景があったろう。この詞を書いたころ、大三郎にまだ見果てぬ夢があったとすれば、すでにヒットメーカーに大成していた船村にも同じように胸を灼いた時期があったはずだ。

 だからこそと言うべきか。船村が書いた曲は情趣嫋嫋の船村メロディーで、彼ならではの「情歌」になっている。歌っている天草は技を用いず声を誇らず、素朴なくらいの歌唱で、彼自身の望郷の念を巧まずに作品に重ね合わせた。

 「7月に天草で発表会をやります。3日連続でやります!」

 そう意気込む彼の言葉には、師の遺作を貰った喜びと、応分の達成感がにじんでいた。

 さて、平成の時代は間もなく終わり、新しい年号の時代が始まる。そんなはざまの年の夏に僕は考える。戦後の昭和には語り継ぐべきものが山ほどあった。しかし、平成は果たして何を残せるのだろう? 時代はどこへ向かっているのか? 歌書き2人の遺作は、今日を築いたあのころの活力を、思い返すよすがになる。しまわれていた時間ほど決して古くなどない――。

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