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新歩道橋942回

2016年4月 9日更新



 ずいぶん久しぶりに、浅川マキを聴いた。「ちっちゃな時から」「かもめ」「愛さないの愛せないの」などの初期の歌から「ボロと古鉄」「ブルー・スピリット・ブルース」「裏窓」「ゴビンダ」など、熟成期の作品まで。3月中旬、気温17度、やっと春めいて来た葉山の海の穏やかさに眼をやりながら、それとマキの諦観めいた暗めの穏やかさが、ミスマッチの趣きを作りながら違和感がないから、ふっと溜息をついたりする。
 友人の寺本幸司から届いたアルバムは「マキ・アサカワ・UKセレクション」と銘打たれている。どうやらあの浅川マキの歌が、あちらで世に出て、ユニバーサルからその〝日本盤〟が発売されたらしいのだ。寺本の走り書きのメモには、
 「何だかイギリス人に浅川マキを寝取られたような気分ですが、聴いて読んでやって下さい」
 とある。寺本はマキの終生のプロデューサー。1960年代後半から長く僕が棲んでいた、三軒茶屋の古い西洋館、通称〝お化け屋敷〟の初代有料同居人だった。
 そんないきがかりがあったせいで、僕がマキにかかわったのは彼女の初期。天井桟敷を主宰した寺山修司が詞を書き、ジャズ・ギタリストの山木幸三郎が曲を書いたアルバム一枚分で、マキを「アングラの女王」に仕立てたころだ。1968年12月、新宿の蠍座でやった深夜コンサート「浅川マキを聴く会Ⅰ」に、僕らはレコード会社の腕利きプロデューサーを呼び込み、彼女の新しい出発を画策した。満員の客席の隅には、ダスターコートとハンチングベレーの寺山が居て、傍らには九條映子や田中未知がすそ長い黒いコートで陣取る。客席で「おせんにキャラメル...」と物売りをしたのが、僕の先妻とその友人たち...。
 「彼女はカウンター・カルチャーのアイコンであった。深夜と煙草と酒の声、常に黒い衣装を纏っていた日本版ジュリエット・グレコのような装い、個人的な面と政治的な面の両方で、敗北や失望や喪失を味わった同時代の人々を、静かに癒してくれたその歌...」
 と、マキのUK盤のライナーノーツに、アラン・カミングスという人が書いている。歌詞カードに添えられたマキの写真のバックには「本日全学ストライキ、清水谷公園→国会へ」の文字が、黒板に太い白墨の字で大書されている。
 寺本のメモに「聴いて読んでやって...」
 とある〝読んで〟の部分がこれかと合点する。アランの原稿は相当な長文で、マキが彼女らしい脚光を浴びた新宿の夜の意味を言い当てているうえに、彼女の〝それ以前〟と〝それ以後〟を実に綿密に調べあげて詳述する。その背景になったあのころの時代の変化や音楽の流れも大局的に捉え、その中での浅川マキの存在と成長の意味あい位置づけを分析、解説しているのだ。
 《イギリスの音楽評論家にも、こんな剛の者が居るのだ!》
 と、僕はアラン氏の職種もキャリアも知らぬまま、脱帽し、敬意を払う気持ちになり、そこからとめどない連想を始める。加藤登紀子が将来を手探りしていた時期「浅川マキに会いたい」と言うから、その機会を作ったら、ウォッカをグイグイいく加藤とコーラしか飲まないマキが、肚の探りあいみたいに寡黙なのに往生した夜があった。あのころ、僕のお化け屋敷には、マキや藤圭子が来ていた。鉢合わせしたことはないが、双方70年という時代の巫女である、藤はその後、迷走して自死し、マキは己れの世界を突き詰める旅の中で客死した。
 寺山が死んだ夜は、彼が遺した傑作を歌って通夜とした。日吉ミミのために書いた「人の一生かくれんぼ」と「たかが人生じゃないの」で、銀座の安クラブでアカペラだったが、昨今はカラオケにも入っている。それなのに日吉の全曲集には2曲とも入っていないとは何事か!
 浅川マキの歌の孤独と寂寥、倦怠と渇望に触れたあとしばらく、プレーヤーからCDを取り出す。虚を衝かれる気がして手を止めたが、小さな丸いCDはまだ、人肌みたいに温かかった。浅川マキはこういうふうに今も生きているのかも知れないという思いがズシッと胸に来たものだ。 


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