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新歩道橋958回

2016年9月 3日更新



 21年前の1995年5月8日、テレサ・テンはタイのチェンマイのホテルで亡くなった。42才の若さで、ぜん息による呼吸困難のためである。同行していたのはフランス人の自称カメラマン、ステファン・ピエール。14才年下の恋人のイケメン。テレサは常々郷ひろみや田村正和が好きだと言っていたが、ピエールは彼らに似かよった風貌と雰囲気を持っていた。
 彼女から〝日本のボス〟とも〝日本のお父さん〟とも呼ばれていた元ポリドール―トーラスの重役・舟木稔さんは、そのころの話になると苦虫を噛みつぶした顔になる。ピエールは生活力がなく、テレサに寄りかかりっきりの青年。パリに長く住んだテレサに似せた言葉で表現すれば〝ジゴロ〟日本的には〝ヒモ〟と言う単語を使うことにためらいはなく、
 「彼女は結婚する意思を全く持っていなかった」
 と断言する。
 何で今ごろ、そんな昔の話を...と思われる向きもあろう。実は8月24日、僕がレギュラー出演しているUSENの「昭和チャンネル」10月放送分で、舟木さんをゲストにテレサ・テンの特集を録音した。「つぐない」「愛人」「時の流れに身をまかせ」のヒット3連発で、テレサは日本のスター歌手にのし上がった。しかし彼女は、20才で初来日したころからすでに、香港を拠点に活躍していた大物歌手。新曲を出す都度プロモーションのために来日、集中的に仕事をするが、年のうち大半はアジアで歌っていた。声はすれども本人は...状態だったから、密着癖の強い記者の僕にも、手が届かなかった人、それだけに今も、興味津々の相手なのだ。
 ピエールに対する感想は、舟木さん固有のものではなく、テレサの家族、関係者もみな同じように受け止めていた。テレサ本人もそれは感じていたらしく、毎年正月に故郷台湾へ帰る時など、当初、ホテルを別々にしてもいた。「なんでまたあんな人を」とか「全く困ったもんだ」とかの感想が、やがて許容に向かうのは「本人が心安まる相手なら仕方がないか」と鵜呑みしたせい。富も名声も手にした女性のパワーと社会的地位は、男性同等、あるいはそれをしのぐものになる。
 「そのせいか、周囲に集まるのが女性っぽい人が多くなる。私はそういうタイプには、金輪際、惚れることがないから...。寂しかったよね」
 と、美空ひばりが苦笑いしたことを思い合わせる。
 テレサの半生は波らん万丈だった。父が大陸で戦った軍人で、追われて住んだのが台湾。テレサは生い立ちからして立場が微妙だ。やがて日米が中国と国交回復、台湾は孤立する。中国では彼女の「何日君再来」が若者たちに支持されると、文化を汚染するものとして彼女の歌全曲が排斥される。「昼は鄧小平が支配し、夜は鄧麗君が支配する」と言われたころで、二人めの鄧はテレサの中国名だ。若者たちの民主化への希求は弾圧され、やがて天安門事件にいたる。香港返還も騒然の中だ。自由を求める若者たちの動きに、テレサは敏感に反応する。その集会に参加し「血染的風采」を歌い、天安門以降パリへ逃れた若い指導者たちを物心両面で支援した。いつからかテレサは中国や香港の〝自由の象徴〟になるのだが、その根にあったものは〝二つの中国〟のきしみの実体験や、国際的な政治の流れに弄ろうされた〝根なし草〟の実感、それから生まれた自由への渇仰だったろうか? それが彼女の歌に哀愁としてにじんでいたのか?
 舟木さんは彼女が20才の時に香港で出会い、以後22年間を公私ともに後見人として過ごし、没後21年の今日も、台湾にある財団法人鄧麗君文教基金会の理事としてテレサの遺した文化の維持、発展に尽力する。テレサの遺族からも
 「長生きして下さい」
 と、すべてを託される親交が続いている。
 テレサのヒット曲を連発した作詞家荒木とよひさ、 作曲家三木たかしと僕はよく飲んだが、テレサのそんな素顔までは聞きとれていなかった。それが今日になって舟木さんインタビュー番組で、得難い追加取材が出来たかっこうだ。舟木さんは僕より年上の84才。録音中、時にテーブルを叩くほどの激し方でテレサを語り、年に似ぬ若さと情熱、彼女への果てることのない愛情を示したのが感動的だった。


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