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新歩道橋970回

2017年1月22日更新



 歌巧者が歌うと時折り、歌が聴き手の僕の前を横に通り過ぎる。作品に描かれたドラマが、横断帯みたいな絵になって感じるのだ。歌い手の意識が無意識のうちに「みんな」に聴かせているタイプで、それはそれで歌表現の一つ。僕が好むのはそれとは対照的に、歌の心情が縦に、聴き手の方へ突き刺さって来るタイプだ。その場合歌い手の意識は聴き手の「ひとり」に的が絞られ「個対個」になっていて、そのひとりを突き抜けて「みんな」に伝わる普遍性を持てば上出来。歌自体の訴求力が鋭角に強くなる利点があるから、スタジオで僕はしばしば歌手に、伝える相手の的をしぼって歌うように助言する。
 天童よしみの歌は、ずっと前者だと思っていた。不特定多数に向けて放たれている感じだったのが今度ばかりは違った。新曲「夕月おけさ」を聞いての印象だが、歌声が縦の形で僕に迫って来た。しかし待てよ、彼女の唱法が、急に変わったとは思えない。だとすれば何故...と考えて、これが彼女の45周年記念曲であることに気づく。気合いが入っているのだ。節目の年に会心作を届けようとすれば、歌手の意気込みが歌の発火点になる。「自分発」の強い思い入れが結果、彼女の歌を縦スタイルに変えたのかも知れない。
 曲の良さも手伝っていそうだ。久しぶりに天童と組んだのが水森英夫。彼は作曲家としての初期に「酒きずな」「旅まくら」「酔ごころ」などを天童に書き、ヒット戦線に浮上している。歌手を断念して作曲に転じたころ、水森には赤坂でバーを経営していた雌伏の時期がある。そんなネオン街脱出のチャンスが天童との出会いだったとすれば、彼女の記念曲に、気合いが入らぬはずはない。その後氷川きよしや山内惠介らを育て、有力なヒットメーカーの一人に大成した彼の、自負や意欲がこの曲には十分にこめられていよう。ゆるみたるみのないメロディーが、いい意味の緊張感と訴求力を持つのはそのせいではないのか?
 もう一人、新曲に気合いが入っている歌手に伍代夏子がいる。「肱川あらし」は彼女念願の船村徹作品だ。伍代はカラオケ全盛時代を背景に名を成した歌手。テレビの売り物が歌謡番組だった時期に重なって、キモノ美女歌手群の一角を担って来た。自然、作品は覚え易く歌い易いタイプの歌がほとんどでヒット曲も多いが、そろそろ代表曲と胸を張れる作品が欲しくなった時期。そこで船村作品に出会えたのだから、気合いが入るはずで、キャリアなりの達成感も求めたろうことは、想像に難くない。
 船村の曲がまた、手練者の手際まざまざなのだ。喜多條忠の詞が歌い出2行分、破調の口語体なのをほど良く語らせておいて、続く3行分が定型詞の字脚になるあたりで、独特の船村節に変化する。喜多條が大先輩に挑戦した詞を、「そう来るかい!」とニヤリと受けて立った船村の横綱相撲に思える。
 こうなれば伍代の歌も、それまでとは変わる。言葉の一つ一つ、メロディーの一フレーズずつをしっかり歌って、表現の彫りを深めにした。歌い甲斐のある作品に恵まれた彼女の、喜びと意気込みが、じかに聴く側に伝わって仕上がりは縦型だ。彼女がこの歌をレコーディングしたのは、昨年夏の終わりごろ。船村は5月に心臓手術をしリハビリ中で、吹き込みには立ち会っていない。それが大御所から褒めてもらえそうな出来になったのだから、CDが世に出る日が待ち遠しかったろう。その後秋に、船村は文化勲章を受章した。もしかすると伍代の「肱川あらし」は、その受章第一作になるおまけまで手に入れることになりそうだ。
 冒頭に書いた歌の「縦横論」は、僕の感覚的仮説だが、だまされたと思って2曲を聴いてみるといい。歌にはっきりと「的」が生まれて縦型になっていることに気付くはずだ。藤山一郎、東海林太郎の昔々から、春日八郎・三橋美智也の昔まで、歌は大会場で「みなさん」向けに放たれて来た。それが「個対個」の表現になったのはフォークブーム以後。歌が町にあふれた昔から、個対個で向き合う今日に変わったことを「歌が点滴される時代になった」と表現したのは阿久悠だった。それを思い返しながら、いずれにしろ新年、流行歌はやっぱり「個に伝えて全体に及ぶもの」と僕は再確認している。


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