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新歩道橋974回

2017年3月 5日更新



 〽子でも孫でもない他人(ひと)の子を、火の粉背おって育ててくれた...
 2月23日午後、音羽・護国寺に男たちの歌声が湧いた。急死した作曲家船村徹の出棺で、歌いながら担っていたのは鳥羽一郎を筆頭にした弟子たちと、船村のコンサートを長くサポートして来た仲間たちバンドの面々。彼らが声を揃えたのは「師匠(おやじ)」という作品で、船村の同門会の集いなどでは、最後に合唱されるのが常だった。
 「やるぞ!」と声をかけたのは鳥羽。彼ら弟子たちと船村の心の絆がそっくりそのまま、星野哲郎の詞になり、船村が曲をつけて、鳥羽がレコーディングした旧作だ。それが突然の別れの場面には、ぴったりはまり過ぎたから、男たちの歌声はどうしても涙まじりになる。
 〽ちょっぴりのぞいた赤坂あたり、栃木訛りの風が吹く...
 船村の風貌をしのばせる三番の歌詞では心がよろけがちになるが、彼らは、蛮声で何とかもちこたえた。
 鳥羽の横には、歌手を卒業した美唄五郎、香田晋が居り、現役の後輩静太郎、天草二郎、走裕介、村木弾が連なる。みんな内弟子として船村と起居をともにし、歌よりも男の生き方そのものを学んだ青年たちだ。実の父親よりも血が濃い〝おやじ〟への思いは、それぞれに深い。棺が霊柩車に納められると、別れの曲は船村の代表作のひとつ「別れの一本杉」である。見送る人々も涙々...だ。
 船村は2月16日午後零時35分、藤沢市民病院で亡くなった。前夜に好物のカレーうどんを食べるくらい元気だったのが急変、救急車で運ばれての最期。風邪気味で熱もあったから、肺炎を起こしてのことかと思われた。昨年5月に心臓を手術した時も、かなり危機的な状態だった。
 「三途の川を渡ったが、あちらの人たちに来るな! と追い返されてな」
 9月に茨城・水戸で開いた「高野公男没後60年祭演奏会」の楽屋で、船村は〝その時〟をそう語っている。
 高野は茨城、船村は栃木と隣り同士の出身で、ともに新しい歌づくりを模索した心友。「別れの一本杉」が二人の出世作だが、この歌がブレークした直後に、高野は26才で夭折、船村はその時24才、交友はわずか7年に過ぎなかった。しかし、船村の追悼の情は信じ難いほど長く、没後60年の演奏会は「這ってでも行く」と決行したくらい、実は体調が厳しかった。
 11月には一転して文化勲章受章のおめでた。今年1月18日には、その祝賀会の主になった。僕らは「曇のち晴れ」と冗談めかしたが、本人は皮肉な口調で「地獄から天国か」と苦笑いしたものだ。いずれにしろ84才の高齢で、体調回復ははかばかしくなかったのが実情。それにしても...の驚きが、多くの人々の訃報の受け止め方だった。
 亡くなった晩、遺体につきっきりだったのは一番弟子の北島三郎。彼は通夜の22日も、何度も棺の師匠に話しかけていた。秋田の仕事へ前乗りの予定を変更してのこと。その去り難い姿に通夜の人々は声をのむばかりだ。彼らの〝おやじ〟は、昭和と平成の二つの時代に、庶民の哀歓を綴る数多いヒット曲を生んだ大作曲家。22日の通夜と翌23日の告別式は、その大きな業績と人柄に、2000人を越える人々がぬかずいている。
 神奈川・辻堂で続いた仮通夜の20日のこと。弔問客も帰ったうちうちの顔ぶれで、船村の娘渚子さんに励まされて、内弟子たちが〝おやじ〟の枕辺で歌った。長男で喪主の作曲家蔦将包のギター伴奏で、香田晋が「新宿情話」天草二郎が「おんなの宿」走裕介が「夜行列車」村木弾が「東京は船着場」静太郎が「流れ者だよ」の順。時が時、場所が場所のうえに、船村への思いばかりが先に立って、歌声はうわずりがちになる。1曲おわるごとに棺に手を合わせて「すいません」「ごめんなさい」の声が続くのを、にこやかに見守ったのは船村の夫人佳子さんや長女の三日月子さん、蔦の嫁の小百合さんら。鳥羽はうなだれた形で黙々と、弟分たちの歌に聞き入っていた。彼には同門会会長として、告別式で弔辞を捧げる役目が、まだ残っていた。巨匠であるおやじへ、弟子たちだけの時間、惜別の情が濃い長い夜になったものだ。


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