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新歩道橋986回

2017年7月 2日更新



 「えっ? 嘘だろ!」
 留守電を再生して、僕は耳を疑い絶句した。逗子へ買い物に出て、葉山の自宅へ戻った6月17日、土曜日の午後、留守電の声は花屋マル源の鈴木照義社長から、
 「至急相談したいことがあります」
 とごく手短か。引き続きサンミュージックの名誉顧問福田時雄氏から、
 「我妻忠義社長が今朝亡くなりました。詳細はいずれ...」
 緊張気味の声がそこまででプツンと止まる。
 《そんな、バカな...》
 僕はJR逗子駅へ引き返し、小田急線の狛江へ急ぐ。我妻社長の自宅住所は判らないが、居ても立ってもいられない。ドアからドアへ約2時間、駅へ着いたら二人のどちらかに電話を入れればいい。
 5月18日の小西会のゴルフコンペに、参加予定の我妻社長から幹事へ、
 「風邪で体調いまいち。今回は休むよ」
 と事前に連絡があったと聞いた。15日には山田廣作氏の通夜の席で、福田氏から、
 「一時入院したけど、もう退院したようだ」
 と教えられる。驚いて翌日電話をしたら、
 「風邪をこじらせて肺炎になっただけだ。心配かけてご免!」
 と、本人の声は明るかった。8月にはまた小西会のコンペがある。有力なメンバーの一人だから「それまでには治してよ」と頼んだら、
 「OK、OK、うん大丈夫だ」
 と我妻社長は気軽に請け合った。彼は今年77才の喜寿、事務所の「アルデル・ジロー」は創立20年の節目だ。
 《次回には、そのお祝いをせないかんな...》
 と、僕はのんきなことを考えていた。
 すっかりはぐらかされてしまったのだ。後で聞けば彼は4月20日に「間質性肺炎」と診断されていた。肺の可動域が刻々と狭まっていく難病、美空ひばりの最後の病名だから、その程度のことは知っていた。我妻氏の一時退院には、相当な無理があったらしく、間もなく再入院、容態急変...。そんな病状を、
 「一切、口外するな!」
 と、彼は息子たちや事務所の人々にきつく箝口令をしいていた。仲間うちにも余分な心配をかけまいという彼一流の気遣いだったのか?
 6月20日が通夜、21日が葬儀。狛江市元和泉の泉龍寺別院へ駆けつけた人々はみな、異口同音に、
 「一体何があったのだ。どういうことなのだ!」
 と、驚きをあらわにした。突然過ぎた訃報である。喪主の長男義章氏と施主の二男重範氏が、対応に大わらわになる。長男は交通会社勤め、二男は父の事務所で働いている。内田あかり、井上由美子、工藤あやのが所属、仕事は一日もおろそかに出来ない。我妻氏の遺志と「アルデル・ジロー」をどう継いでいくのか? も気になる。兄弟でよく相談をし、歌社会の有力者の助言も受けて...と「喪主」と「施主」を併列させたのは、兄弟の〝事後〟へのおもんばかりだ。
 《それにしても...》
 と、僕は我が身を振り返る。平成18年7月、当時70才の僕に、明治座の川中美幸公演「お喜久恋歌一番纏」で初舞台を踏ませてくれたのが、我妻社長だった。以後10年、僕は彼の薫陶よろしきを得て、役者としての老後の日々に精を出している。演劇プロデューサーとしての我妻社長は、情熱的で粘り強い仕事ぶりでこちらでも一流だった。川中が芸術祭賞を得た「天空の夢」は、川中の代表作であり、我妻プロデューサーと演出家大森青児氏の友情の代表作にもなっている。
 その舞台でも滅法いい役を貰った僕にとっては、我妻氏は生涯最後の恩人だった。年が年だから、スポニチ時代の恩人たちの多くや、知遇を得た美空ひばり、親友の作詞家阿久悠、吉岡治らを弔い歌謡界の師である吉田正、星野哲郎、船村徹の3氏も見送っている。そのうえに我妻氏の骨まで拾うことになろうとは...。心が折れかかって、打ち合わせや通夜の酒、葬儀のあとの精進落しの酒がひたすら身に沁みて、到底酔えたりするはずもない。
 我妻家の宗旨は浄土宗、我妻氏の戒名は「真誉忠唄信士」と、ひどく判り易かった。生一本で誠心誠意、仕事一筋に生きたことが彼の誉れで、北島三郎の前歌時代からの歌巧者。「敵を作らない」ことを信条とした生きざまを反映して、弔問客は、ゆうに1000人を超え、みなお仲間ばかりだった。


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