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新歩道橋1009回

2018年3月10日更新



 2月15日夕、帝国ホテルで、作曲家船村徹の一周忌法要とその会が営まれた。参会者350人。
 「もう、そんなになるんですよね」
 と、人々は異口同音になった。命日が翌16日だから丸一年が経った勘定。大作曲家の死がまだ、ついこの間のことのように思えて、親交のあった人々ならなお、そんな共感が強かったのだろう。
 形式ばらずに粛々と...というのが、船村夫人佳子さんの考えだった。祭壇の遺影の傍らには、うす紅の花がやっと咲き揃った梅の木、その下には菜の花の黄が勢揃いして船村の故郷・栃木今市の原風景をしのばせる。献花の間の読経は、湘南・片瀬にある泉蔵寺の住職と二人の僧侶。この寺にある墓は、家族が数年前に用意したもので、高台にあり正面に富士山、左側に江の島をのぞみ、眼下には小学校。終日子供たちの歓声が届く。
 会のあいさつは高弟の北島三郎と作曲家協会の弦哲也会長、作詩家協会の喜多條忠会長の三人だけ。北島が船村との出会いや、船村と佳子夫人の恋愛中のエピソードをユーモラスに語った。
 「長過ぎるか? もう少しいいだろ」
 と、司会の宮本隆治とやりとりしながら20分余。とかく暗めになりがちな会場の空気をなごやかにする心遣いだ。
 弦は船村メロディーの魅力を語り、彼が歌手を目指して千葉から上京、志得ぬ十代の日々を船村作品の「東京は船着場」に慰められ励まされたことも添えた。喜多條は船村の仮通夜に辻堂の自宅を弔問、初めて入った書斎にあったおびただしい日本の詩歌集に胸衝かれたことを披露した。天才の努力が老いてなお盛んだった事実が、会場の人々に伝わる。いずれにしろ三人三様の立場から、本音で語るあいさつが、この種の会にありがちな社交辞令ふうを避けて、実にいい。
 大忙しだったのは佳子夫人と娘の渚子さん、長男で施主の蔦将包の夫人さゆりさんで、会の準備から当日の席決め、土産物の配置まで、運営を船村家の手づくりにしたい思いの熱さが歴然とした。僕ら船村ゆかりの歌社会の面々は、その外側であれこれ手伝いをするに止まる。
 もうひとつ船村家の人々の心づくしは、中断したままの「歌供養」の再現。船村は一昨年が5月の心臓手術の直後で断念、昨年は6月12日のその日を待たずに亡くなっている。盟友高野公男と23才で戦死した実兄福田健一氏の慰霊を軸に、陽の目を見損なった歌たちや、年度内に亡くなった歌仲間に合掌するこの催しは、昭和59年に始まり、30回を超えていた。
 「さぞ心残りだったろう」
 というのが佳子夫人らのおもんばかりで、一周忌の席でその32回目が営まれた。供養されたのは永六輔、三浦康照、北原じゅん、曽根幸明、小川寛興、平尾昌晃、山川啓介、仁井谷俊也ら作詞、作曲家に歌手のペギー葉山、かまやつひろし、三条正人らここのところの2年分。
 「歌はないの?」
 と期待する向きもあったが、中締めにそれが出て来て、鳥羽一郎を筆頭に内弟子五人会がおなじみ仲間たちバンドの演奏で「師匠(おやじ)」の1曲だけ。星野哲郎が作詞、船村への弟子たちの思いを書き込んだこの歌が、船村を葬送する曲として定着したようだ。
 僕はと言えばこの2月12日に終演した東宝現代劇75人の会公演「私ん家の先に永代」の医師の吉桐松尾役が心身にまだ残ったまま、何しろ12日が千秋楽で13日がゴールデンミュージック市村義文会長の喜寿を祝う会、14日がUSEN昭和チャンネルで八代亜紀と5時間近い対談...の売れ方だ。
 医師役が59才だから、黒く染めた髪に白髪を書き足して7公演をやった。その名残りで染めた髪はまっ黒のままそう簡単には抜けない。久々に会う歌社会の人々の目線が、どうしても額から上に上がるのへその都度釈明に追われる仕儀になった。
 今公演を作、演出した劇団の大先輩で、この道の師匠の横澤祐一に、思うにまかせぬ演技で申し訳ないと手紙を書いたら、
 「意図した吉桐医師がちゃんと出来ていた」
 旨の返書を貰った。ま、ご苦労さんでしたネのいたわりの言葉と受け取り、決して図に乗ったりはしないが、終わっちまった芝居のセリフが、また夢の中で出て来るあたりは、未熟のせいかこだわり癖か。
 いずれにしろ、歌社会と芝居の二足のわらじ。81才でそう長いことではあるまいが、歌社会を逃げ場にだけはしない決心だけはぶれることがない。


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