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船村徹葬送、歌の符合の凄さを知る!

2017年4月29日更新


殻を打ち破れ184回

 作曲家船村徹の訃報が伝わった217日夜、遺体が安置された神奈川・辻堂の自宅へ、作詞家池田充男が飛び込んで来た。周囲があっけに取られるくらい、あわてふためいている。低頭の理由は1年前に、鳥羽一郎のために書いた詞。

 ♪嘆くな泣くな わが妻よ いとし子よ わかれてゆくのも また運命(さだめ) また運命...

 2番に書いたフレーズが、作曲した船村の夫人佳子さん、長男の作曲家蔦将包と小百合夫人、長女三月子さん、二女渚子さんらの心境にダイレクト過ぎたと感じたのだ。

 「へんなものを書いてしまって、私としたことが、なんともかとも...」

 好人物丸出しの池田を、佳子夫人たちは慰めに回る。庶民の哀歓の種々相を模索する作家の仕事は、時にこういう符合を生み出してしまうものだ。その作品『悠々と...』の1番には、

 ♪たとえば俺が 死んだなら いのちのすべてを 灰にして 北の空から 撒いてくれ...

 というフレーズがあった。223日、東京・護国寺の船村の告別式、同門会会長として弔辞を捧げた鳥羽は、のっけからこれを引用、

 「あれは先生の、辞世の歌だったんですか。遺言だったんですか!」

 と切り出している。この詞は一年前に夫人に先立たれた池田が、傷心の中で書いたもの。そういう意味ではこの歌は、詩人の失意と作曲家の死にざまが、奇しくも合致したことになろうか。

 告別式の出棺時には、鳥羽を筆頭に、静太郎、天草二郎、走裕介、村木弾の内弟子5人組が棺を担って『師匠(おやじ)』を歌った。

 ♪子でも孫でもない他人(ひと)の子を 火の粉背おって育ててくれた...

 と、師匠へ弟子たちの感謝が歌われた鳥羽の旧作である。内弟子OBで福岡から駆けつけた香田晋や、大分から飛行機に乗った美唄五郎もその列に加わった。

 ♪ちょっぴりのぞいた赤坂あたり 栃木訛りの風が吹く...

 と、生前の船村の風貌まで偲ばせるのも、作詞家星野哲郎ならではの名文句。師弟の絆の歌が、生まれた長い年月をはさんで、葬送の思いに符合している。地名の赤坂は、船村の主戦場だったコロムビアレコードを指すのか、仕事終わりに立ち寄ったネオン街を指すのか?

 香田晋は歌手をやめ、2年前から福岡・遠賀町で「Caffe真凛(まりん)」を営んでいる。酒の肴の売り物を尋ねたら「フルコース!」が答えで、船村家の仮通夜では彼が料理したカレー味のからあげが好評。修行は内弟子時代の体験で十分と笑った。美唄五郎は大分・佐伯市でスナック「ハッピーキャット」をやっている。こちらも酒と肴の珍味とそこそこの品揃えは、船村直伝だろう。

 鳥羽は3年だったが、内弟子5人組の残る4人、静、天草、走、村木はそれぞれ10年前後の内弟子生活。「歌」よりも「人」の部分を重視する船村教育を経て、歌手デビューした遅咲きだが、好青年、歌巧者ぞろいだ。昭和38年に船村を初取材、以後長く私淑、知遇を得ている僕は、北島三郎の後輩で鳥羽以下には先輩に当たる外弟子である。当然彼らとは呼び捨てのつき合いだが、星野、池田の詞のすばらしさ、歌の持つ力の強さを共に体験した、師匠の葬送1週間だった。


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