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村木弾の『都会のカラス』に期待する

2017年7月 1日更新


殻を打ち破れ186回

 「めぐり合わせ」には大てい「不思議さ」がついて回る。それが「人の縁」ならなおさらだが、歌手村木弾はそのうえに「最後」の2文字が二つも与えられた。亡くなった作曲家船村徹の「最後の内弟子」としてデビュー、2作めの『都会のカラス』が師匠の「最後の楽曲」である。痛恨の別れが彼にとっては大きなチャンスになったから、悲喜こもごも、本人は唸ったはずだ――。

 辛い偶然だが、村木はこの作品を船村の死の翌日にレコーディングした。船村が亡くなったのは、今年の216日。急を聞いて駆けつけた神奈川県・辻堂の自宅で、彼は「録音は予定通りにやる」と告げられる。内弟子として12年半、起居を共にしその身辺で仂いて来た身である。動転の極にいたはずだが、それも師匠の遺志と言われれば、返す言葉もない。おそらく彼は眠れもせぬその夜、惑乱の果てに「やるっきゃない!」と心を決めたはずだ。

 船村が藤沢市民病院へ搬送された一報を聞き、僕も走った。スポーツニッポン新聞の記者として初取材をしたのが昭和38年。以後私淑し、知遇を得て船村歴は54年になる。密着取材はフリーになってからも続いていたから、自他ともに許す一門の一人である。急逝を悲しむいとまもなく、通夜、葬儀の日時、場所を取り決めたほか雑事にも集中していた。「おい、大丈夫か?」「はい!」村木とのやり取りも、ごく短め。内心では「大丈夫な訳はないだろう...」と、村木の心中を推し計っていた。

 死の3日前、船村は村木相手にこの曲のレッスンをしていた。珍しく熱が入ったという。『都会のカラス』は前作『ござる~GOZARU~』同様、歌手舟木一夫の作詞。舟木は船村作品を数多く歌って来た縁で、村木を自分の事務所に引き取っていた。芸名も船村の「村」に舟木の「木」である。村木には師匠と大先輩の意気と期待に応える役目もあった。録音には船村の長男で作、編曲家の蔦将包が立ち合う。村木は立派に師の遺作を歌い切ったと言う。カップリング曲は『さいはての月』で、これも舟木の詞、船村の曲。

 村木は骨太の男である。昭和55年、秋田生まれ。地元の高校を卒業、上京して建設会社に就職、鳶職や現場監督を5年ほどやったあと、23才で船村の門を叩いた。一応、社会人としての思慮も分別も身につけた後の歌手志願。カラオケ大会で勝ち、ちやほやされて"その気"になったケースとは訳が違う。そうでなければいくら相手が名にしおう大作曲家でも、修行12年の辛抱は出来まい。その間長く僕もつき合ったが、寡黙、冷静で言動に気仂きこまごまの好青年だ。

 漁師から歌手になった鳥羽一郎を筆頭に、船村の内弟子出身の歌手は5人で、静太郎、天草二郎、走裕介に村木の順。612日にはその内弟子五人の会が主催、栃木・日光の船村徹記念館隣りのホールで、追悼コンサート「船村徹を歌い継ぐ」を開く。鳥羽の3年を除けば、みな内弟子歴10年余の辛抱軍団である。師への尊敬と心服の思いは熱く、船村作品への愛着と理解は深い。

 先輩4人に伍して、村木も全身全霊で歌うことになる。現在37才、青春を賭してこそ獲得した好機である。それならば以後の歌手生活で「最後」の2文字を身をもって、生かしていかねばなるまい。

 

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