トップページ>小西良太郎のカラオケ談義> 山田太郎は、また咲くのか!

山田太郎は、また咲くのか!

2019年3月 2日更新


殻を打ち破れ206

 新年早々、まず聞いたCDは山田太郎の『やっと咲いたよなぁ』だった。

 ≪ふむ...≫

 いろんな感慨がいっぺんに胸に来る。まずジャケット写真の彼の笑顔だが、亡くなった父君の西川幸男氏に似て来ている。しっかりとカメラを見据え、ほほえんでみせる目許に西川氏を思い出す。戦後のプロダクション業の創草期、テレビ局寄りの渡辺プロ、ホリプロと一線を画し、演歌・歌謡曲で全国の興行を制した新栄プロの創業者だ。その生前に長く、僕はたっぷり過ぎるほどの知遇をこの人から得た。

 ≪歌がうまい、熟年の味か...≫

 山田のCDを聞き、一番だけでもそう感じる。中・低音に響く男の渋さ、高音部には晴れやかな明るさがある。二番三番と聞き進んで、歌に温かい情がにじむことに気づく。息づかいがたっぷりめで、夫婦歌の新曲に似合いだ。

 ♪生きる晴れ間に 見つめ合う それが夫婦の そろい花...

 と三番の歌詞が来て

 ♪やっと 咲いたよなぁ...

 と歌が収まる。苦労をともにした男女の年月をしのばせる詞は波たかし、聞き慣れぬ名だが原案は山田夫妻の実感か。作曲は岡千秋。この人も西川氏に認められ、無名のころからこの事務所の禄をはんだ。僕と同じ新栄育ち、二代目社長山田用に、初代へ恩返しのいいメロディーを書いている。

 ≪雀、百までって奴か...≫

 山田は西川賢の本名で、西川氏の跡目を継いだが、競馬界で名を成した。馬主会の大幹部で、このジャンルでも父君の仕事を受けて、長く働いた成果だ。その間歌手活動は減ったが、宴席などでは請われてよく歌っていたろう。「新聞少年」でデビューした少年時代からずっと親交がある僕は

 「金を取って歌っていた昔より、金を払って歌うこのごろの方が、腕が上がった。カラオケ様々だな」

 と冗談を言って笑わせたこともある。何はともあれ2月には全国馬主会の会長に就任する矢先の歌の現場復帰である。超多忙は想定内の新曲発表、それなりの覚悟はあろうと言うものだ。

 「聞いてくれた?」

 と本人から電話があったのは、昨年の暮れも押し詰まったころ。まだCDが届いてないもの...と答えたら

 「すぐ送るけど、クラウンは何をやってんだろ、全くもう...」

 とボヤいた。発売元のクラウンと新栄プロと僕と、浅からぬ因縁の仲なのにという残念さが言外にある。

 そう言われればそうなのだ。日本クラウンはコロムビアを脱退した実力者伊藤正憲氏を陣頭に、馬渕玄三、斉藤昇氏ら腕利きのプロデューサーたちが興した新会社。意気に感じた新栄プロの初代西川氏が、手持ちの歌手北島三郎、五月みどりらを移籍させて看板とした。コロムビアとの裁判沙汰を物ともせぬ男気。その間の男たちの連帯をテーマに、北島の『兄弟仁義』が生まれたほどの絆があった。クラウン設立は昭和38年、翌39年正月が第1回新譜の発売で、山田の「新聞少年」ヒットもここから。内勤記者から取材部門に異動した新米記者の僕は、当初からクラウンに日参して密着、レコード会社のいろはをここで覚えた。山田と僕はクラウン育ちでもある。

 「昔は昔、今は今。その気で頑張ろう!」

 山田の電話の最後に僕はそう言って笑った。何しろ55年も前の話、知る人ももう居ない。そう思いながらしかし、創業者や開拓者の志が受け継がれぬようで、一抹の寂しさは残る。温故知新の例えもある。新しそうなものばかりに、血道をあげていても仕方あるまい。


http://to-ryo.com/menu02/photo/201202cre_k_s1.gif