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和尚にどっぷり、天童の16年間

2020年2月 2日更新


 殻を打ち破れ217


 信子さんが泣いた!

 それも、登壇してマイクを持った瞬間、あいさつにならない。会場は静まり返る。主賓のテーブルに居た僕は、たまらずに声を挙げた。

 「信子、泣いていい!泣いてもいいぞ!」

 隣りの席の矢吹海慶和尚も、息を詰めている。万感胸にせまる気配で、それは同席した人々がみな、大なり小なり抱え込んだ感情でもあった。1117日夜、山形県天童市の温泉ホテル「ほほえみの宿 滝の湯」の宴会場での出来事だ。

 泣いたのは佐藤千夜子杯歌謡祭の実行委員会福田信子事務局長、見守った和尚は物心ともにこのイベントを支え、主宰した町の有力者で、僕はこのカラオケ大会の審査委員長。この席は大会の打ち上げで、例年なら"後夜祭"と名付けた陽気な宴会である。大会終了後に何も泣くほどのこともあるまいと思われよう。実はこの夜が年に一度で19回続いた大会の、最後の最後に当たっていた。

 佐藤千夜子は、当地が生んだ日本のレコーディング歌手の第一号。大会はその実績を顕彰して彼女の名を冠していた。当初は地元本位の催しだったが、次第に全国規模にスケールアップ、最終回、今回のグランプリ受賞者は『人生の晩歌』を歌った千葉県市川市の和田健だったくらいだ。僕は16年連続で審査を務め、東北の歌好きたちの人情とおいしい物を満喫して来たから、感慨もひとしおの一幕だ。

 大会は文字通りの"手づくり"で、事務局長といっても信子さんは単なる芸事好きのおばさん。それが準備段階から当日の運営まで、全員ボランティアのおばさんたち相手に率先奮闘の指揮を取った。19年やっても一向に進歩せず、舞台裏はいつも、ドタバタあわてふためくがかわいかったくらいで、信子さんが最後に泣いたのは、そんな大会を毎年支え切った達成感ゆえだったろう。

 和尚はそんな彼女らの日々を見守り、事を任せて来た。この人がまた曲者で「酒と女は2ゴウまで」とか「仏はほっとけ」とか、冗談まじりでカラオケと酒をたしなむ。新聞記者時代から今日まで"人を観る"ことをなりわいとして来た僕には、彼が只者ではない見当くらいついてはいたが、その人柄に甘えて"ためぐち"のつき合いをさせて貰った。片言隻語に含蓄と慈味があって、僕の天童詣では、やがて和尚と会う楽しさに変わっていったものだ。

 和尚と飲む出羽桜の「枯れ山水」は美味だった。癖になったのは「青菜漬け」や「いも煮」めしは「つや姫」に止めを刺し、酒どころ、歌どころ、人どころの東北の妙に、僕はすっかりはまった。旅という奴は、神社仏閣見聞に物見遊山、近ごろはご当地グルメばかりだが、何と言っても第一は、逢いたい人に逢える醍醐味だろう。

 今大会の前夜祭は、和尚の「米寿を祝う会」になった。例年大会前夜は、和尚はじめ関係者と食事、二次会ふうにくり出すスナックで、カラオケに興じて来た。祝う会の発起人代表に指名された僕は、そのレベルのお遊びを兼ねての催しと早合点しいたが、案に相違のスケールだった。ホテル玄関の立て看板には「矢吹海慶上人の米寿を祝う会」とあり、何と"上人"である。参会者百余名が着席の宴席で、夫人同伴の和尚はカラフルな法衣をまとって壇上におさまる。僕は金屏風を背負ってのあいさつで、少々たたらを踏んだ。

 改めて和尚の正体を知る。観月山妙法寺第十八世住職で、任ずること六十五年、日蓮宗大荒行寒中百日間を5回達成。市民文化会館と中央公民館の初代館長を兼務したほか、元、前、現を合わせ市の文化、教育全般で数々の役職を務める仁徳。山形いのちの電話理事、平成のかけ込み寺を営んで、舌がんの予後をカラオケでやってのけた八十八才、すこぶる元気と来る――。

 ――これではもう、今度会っても"ためぐち"をきける自信など無くなりそうだね!


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