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コロナ・ブルーの中で三橋美智也と再会!?

2020年5月25日更新


殻を打ち破れ221

 「謹告 開封後はすみやかに封筒を捨てて、ていねいに手洗いをお願いします」

 と、いきなりの赤文字、それに続いて 

 「封筒は皆さんに届くまでに、いろいろな人が触れていますので、念のためです」

 と説明文が黒文字である。新型コロナウイルス禍が世界中に蔓延、日本も危機感つのらせている最中の郵便物。差出し人は青森市の工藤隆さんで旧知の人の心遣い。内容は三橋美智也の後援会報で、工藤さんは「みちや会」本部のボスだ。昭和の大歌手・三橋の偉業を顕彰、各地にある支部を束ねて、精力的な活動が驚くほど長い。

 今回で100号を数えるレポートは、A417ページの表裏に、後援会活動のあれこれが、写真入りでギッシリの労作。ページの多くを割いているのが、215日、上野で開かれた本部新年会の模様だ。この時期すでにウイルスの感染者が各地に出ており、苦渋の決断で決行したと言う。後援会活動は三橋ソングを継承、後々に伝えることを目的としていて、新年会もカラオケが中心。積年のノドと技を聞かせる熟年紳士淑女諸氏の写真が目白押しだ。

 ≪俺も参加したいくらいの雰囲気だ...≫

 何となく、うらやましい気分になる。写真の中に作詞家たなかゆきおや作曲家榊薫人、元キングの制作部長満留紀弘さんらの顔を見つけるせい。ことに榊は僕が世田谷の経堂に住んでいたころ、近所づき合いになって、せっせと通って来た。新宿の阿部徳二郎一門で流しをやり、クラブの弾き語りも体験した東北人でやたらに粘り強い。芯からの三橋マニアだったから、

 「もし三橋さんが元気だとしたら、彼に歌わせたい曲を50でも100でも書いてみようよ」

 とそそのかして、花京院しのぶの"望郷シリーズ"をスタートさせた。そのうちの一曲『お父う』など、カラオケのスタンダードになっている。

 三橋が亡くなったのは平成8年だから、もう24年になる。そんなに年月が過ぎたのか...と、月並みだが感傷的になる。歌謡少年だった僕は、彼のごく初期の作品『酒の苦さよ』や『角帽浪人』からのファン。高野公男・船村徹コンビの『ご機嫌さんよ達者かね』や『あの娘が泣いてる波止場』は、そのあとのヒット曲だ。スポニチのアルバイトのボーヤのころは、千葉・松戸の流しの友人を頼って遊びに行き酒場で歌ったことがある。エア・ギターで『哀愁列車』専門だった。

三橋との親交に恵まれたのはスポニチの音楽担当記者になってから。それも彼が絶不調のまま紅白歌合戦で『星屑の町』を歌ったあとに、酒席で「引退を考えたりしないのか?」と質問して大ゲンカになった。駆け出し記者の無遠慮を恥じる一幕だが、麻布―銀座―向島と飲んで、双方相当に酔ってもいた。「表へ出ろ!」といきりたつ三橋の前から、そっと逃がしてくれたマネージャーの池ちゃんも、もう亡くなってずいぶんになる。

 一件のあと、出演中の国際劇場の楽屋で仲直りしたが、その後はお互い心許した関係。三橋が熱海にホテルを作れば「彼女と一緒においで。最高の部屋を用意する」宝石商をやれば「ダイヤはいらないか、安くするよ」の申し出がある。双方とも丁重に断った。熱海で遊べる身分ではなかったし、半値にしてもダイヤはダイヤ。スポーツ紙記者が手の届く品ではない。

 そう言えば...と思い出す。志村けんがコロナ禍で亡くなり、また脚光を浴びた『東村山音頭』は、三橋と下谷二三子のデュエット盤が元祖だった。

 それやこれやを思い返す僕は、コロナ禍のために自宅に巣ごもり中。年寄りほど重篤化、持病があればなお...と言われればやむを得ない。記者から雑文屋の60年近く、飛び歩くのが商いだった僕の気分は「コロナ・ブルー」である。


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