新歩道橋1090回

2020年10月25日更新


 
 《2月公演から214日ぶりの舞台だって。そりゃ拝見せねばなるまい...》

 僕がいそいそ新宿の紀伊國屋サザンシアターへ出かけたのは9月30日のこと。24日が初日の劇団民芸公演「ワーニャ、ソーニャ、マーシャ、と、スパイク」(クリストファー・デュラング作、丹野郁弓訳・演出)で開演は午後1時30分である。

 「へえ、あんたもそういうの見に行くんだ...」

 と言われそうだが、この劇団は僕がスポーツニッポン新聞社づとめ時代のおつき合いで、それを忘れずに20年以上、毎公演お呼ばれをしている。社を卒業して以後、僕が70才で明治座初舞台と無謀な転進をしたのは、歌手川中美幸から声がかかってのこと。以後東宝現代劇75人の会に入り、あちこちの公演に出して貰っているが、それらはみんな「商業演劇」と呼ばれるジャンル。今回みたいに、片仮名だくさんの新劇との取り合わせを、奇妙に思う向きもあるのだろうが、そこはそれ、見るもの聞くものすべてが商売ネタのブンヤ気質、おまけに無手勝流老優の他流見学という殊勝な!? 心がけも手伝っている。

 物語の舞台は米ペンシルベニア州のとある邸宅。そこで初老の男(千葉茂則)と養女(白石珠江)が暮らしている。平穏無事、何の不自由も刺激もない二人の退屈な日々へ、男の妹の女優(樫山文枝)が帰って来て、にわかに空気が波立ち、騒動が始まる―。

 出演者は6人。それぞれが抱える屈託を一途に吐き出し合う。次第にあらわになるのは一見こともなげな暮らしの陰の、行き場のない不安やあせりや、達観しようとする無理。近ごろはやりの「生きづらさ」の種々相が、ユーモアをまじえて語りつがれていくのだが、自然、山盛りの長ぜりふ合戦である。半可通の僕に言わせれば、それはもう圧倒的な分量で、それを役者さんたちはよどみなく、それぞれの役の胸中のものとして滔滔また滔滔...。

 《あれはすごいもんだったな...》

 酷暑の夏がぴたっと終わり、急に赤トンボが舞う10月、葉山・森戸海岸を歩きながら、僕はそういうふうに思い返す。東宝現代劇75人の会公演では、作、演出の横澤祐一から、

 「今回も辛抱役で済まんね」

 と言われることもある。説明せりふが長く、見せ場に乏しいということらしいが、そう言えば友人の、

 「よくまあ、あんなに長いセリフが覚えられる」

 という感想に、

 「お前は俺の記憶力を見に来てるのか? 肝心なのは演技力だろう」

 と、まぜ返すこともあった。しかし今回の民芸を見れば、あんなもの長ゼリフの域になど全然入りはしない。

 ご多分にもれず僕はも、2月の明治座・川中美幸公演「フジヤマ夢の湯物語」(柏田道夫作、池田政之演出)のあと、予定されていた仕事がみんな中止や延期で、民芸の方々と同じくらいのブランクに見舞われた。もう8カ月も舞台に立っていないのである。もともと発声も演技も、基礎的な訓練など全くないままの、見よう見真似の10年余だ。近々どこかから、さあやるぞ! と声がかかっても、さて、声は出るのか? 体は動くのか? 何とも情けないことだが、全く生理的な部分から、不安がひたひた押し寄せる。

 長い巣ごもりのコロナ肥りも返上せねばなるまい。せめて足腰だけでも...と思っての、海岸歩きである。そのくせ砂浜の足許の悪さを避けて、波打ち際の平坦さを選んでしまう。こんなとこまで怠け癖が顔を出す仕儀に、右手にぶら下げた五木ひろしが重い。と言ってもそれは9月頭に彼が浅草公会堂でやったコンサートの、おみやげの買い物袋。黒地に金色で彼のシルエットや横文字の名前が入ったやつで、不要の時はごく小さめにたたみ込めて、トートバッグと言うのだそうな。それにおやつや日常品のあれこれを詰めて帰宅する。そんな買い物も7回目の年男になった今年、コロナ禍のお陰で身につけた習慣である。人間幾つになっても、新しい発見や体験があるのは、幸せなことと言わねばなるまい。

 救いの声も突然降って来る。沢竜二からの電話で、

 「今年もやるよ、11月30日、浅草公会堂だよ」

 大衆演劇界の雄から、恒例の座長大会へのお誘いである。長いこと僕はチョイ役ながらレギュラー出演者。毎回おバカ丸出しのコミカルな出番で、座長たちの二枚目競演の中では、妙に目立って大受けするもうけ役に恵まれている。

 《よおしっ!》

 沢が歌う昭和おやじの最後っ屁ソング「銀座のトンビ~あと何年・ワッショイ」のプロデューサーでもある僕は、俄然気合いが入るのだ。

 週刊ミュージック・リポート