新歩道橋1092回

2020年11月22日更新



 山形の天童市へ出かけた。東北の歌自慢NO1を選ぶ「天童はな駒歌謡祭2020」の審査。ご多分にもれずコロナ禍で、歌うことまで自粛を強いられていた60余名が、のびのび大音声の歌を競った。11月8日、天童ホテルのホールが会場。地元の人々が手造りの、人情味たっぷりな催しだが、ウイルス予防の対策はこの上なしの厳重さ。県の感染者が累計89人とごく少ない地域だが、その分だけ郷土を守る意識と決意はきわめて強い。

 僕は、酒なら出羽桜の「雪漫々」か10年ものの「枯山水」肴は芋煮と青菜漬け、飯は「つや姫」などご当地の美味を礼讃、人物なら地元の有力者で名僧の矢吹海慶師の猛烈な中毒者である。というのも、昨年まで19年続いた「佐藤千夜子杯歌謡祭」の審査に通い詰め、天童の人情と知遇にどっぷりつかっていたせいだ。

 矢吹師は名刹妙法寺の住職で、日蓮宗の荒行を5回もやってのけた剛の者。その割に小柄で、興味津々の目の色をし、患った舌がんをカラオケで征圧した粋人。それが長く市の文化、教育関係の要職をこなし「千夜子杯」も今度の「はな駒歌謡祭」も、実行委員長として、町おこしの一端とする。長くポケットマネーを注ぎ込んで来たが、

 「近ごろは家族葬がふえた。法事も内輪でやって、お布施の方まで自粛気味でねえ」

 とボヤいて見せたりする。

 《天童行は一年に一度という間合いが、何ともいえない...》

 と、僕はずっと思っていた。ためぐちのつき合いだが、相手への敬意はちゃんと胸中にあり、出会いの新鮮さとなれなれしさが、ほどよく交錯する。物見遊山の旅もいいが、会いたい人に会いに行く旅こそ最高だろう。和尚を取り巻くスタッフも長いつき合いで、遠くの親戚みたいだ。ところがイベントが去年でなくなって、

 《これじゃ年越しが出来そうもない...》

 と、うつ向き加減でいたところへ、

 「また今年もやるよ!」

 の声がかかった。何と! 矢吹師チームは、日本アマチュア歌謡連盟の天童支部「名月会」を立ち上げ「はな駒歌謡祭」を創設、全国大会の東北地区予選会と位置づけて、僕の仕事を作ってくれてしまった! そう言えば昨年僕は、矢吹師の「米寿を祝う会」の発起人代表をやった。それを大いに多として師は、

 「5年後にはあんたの米寿の会を、私が発起人で天童でやる!」

 と確かに宣言するにはした。僕は酒の上のジョークと聞き流していたのだが、矢吹師はその約束を果たし、毎年初冬の僕の天童詣での道筋を作ってくれてしまったのだ!

 事務局長の福田信子・司会係の福田豊志郎夫妻は、スタッフと出場者の両方で大わらわだが、催しのなり立ちには「当然!」の顔つき。「そんなのありなんだ!」と〝米寿同盟〟にゲスト歌手の奥山えいじは感じ入る。今年還暦というこのお仲間は、仙台を拠点に、稲作と歌手を兼業するいわば〝職業歌手〟で、目下「只見線恋歌」がヒット中。近々仙台のホテルで恒例のディナーショーをやるそうな。

 ところで読者諸兄姉は「天童を救った男・吉田大八」をご存知だろうか? 明治維新前夜、東北平定のため進軍した鎮撫軍と、抵抗した奥羽列藩同盟の板ばさみになった天童藩を救うため、37才で自刃した藩の中老のこと。天童藩を治めていたのが織田信長の子孫というのも初めて知ったが、天童を将棋の駒の産地にしたのもこの人だと言う。藩は財政難で、貧困にあえぐ下級武士たちに駒づくりの内職を導入したが、反対意見も多かったはず。それを若くから要職にあった吉田が、

 「将棋は兵法戦術に通じ、武士の面目を傷つけるものではない」

 と押し切り、今日の繁栄の端緒を作ったとか。

 その人の切腹の現場「観月庵」が、矢吹師の妙法寺の一角で、血染めの天井も残されている。矢吹師は彼を顕彰する銅像を桜の名所舞鶴山に建立。子息で副住職の矢吹栄修氏は、最近完成したドキュメント映像「大八伝・天童を救った男」の制作実行委員会を代表、脚本・解説も務めている。僕は11月7日夕、天童へ入ってすぐ妙法寺に案内され、その試写を見学した。

 久々の天童一泊二日は、矢吹師父子の歴史観と郷土愛にも触れて、感興が山盛り。その帰路、山形新幹線が突然「落葉による車輪空転」という季節ネタ!? 事故で止まった。山形駅から在来線18駅を仙台へ出、別の新幹線で東京を目指す想定外の迂回になったが、別段苦にはならなかった。

 週刊ミュージック・リポート