新歩道橋1093回

2020年12月6日更新


 
 最近大病を体験した作詞家喜多條忠についての噂だが、
 「毎日一万歩あるいて、ゴルフの練習場にせっせと通っているそうだ。12月4日、参加するあんたのコンペが伊豆であるんだって?」
 このご時世で大丈夫か? の顔も含めて、教えてくれたのは、亡くなった作詞家星野哲郎の事務所「紙の舟」の広瀬哲哉である。もともとは日本クラウンのやり手宣伝部長で、定年退職後は番頭格でこの事務所を取り仕切っている。
 彼もまた最近、大病をやって、その予後をせっせと歩いているらしい。浅草から隅田川沿いにとか、日本橋だの湯島あたりがどうとか、どうやらついでに東京の名所めぐりをしている気配。病後のやつれ方はなく、口調ものんびりしている。
 「それにしても、あの手紙の文面は意味深だったな」
 と、僕は彼をいたわりもせずに話を変える。11月15日の午後、場所は小金井・梶野町の星野宅。
 実はこの日、星野の没後10年のしのぶ会を、ここでやることになっていた。半年も前から、僕もスケジュールを手帳に書き込んでいたのが、コロナ禍3密を避けるために、広瀬が「中止」を知らせて来た。その文面の後半で「宴はやめるが線香をあげに来るのはやぶさかではない」ことが、ごく控えめに、その分だけあいまいな表現でつけ加えられていたのだ。
 「それなら俺は行くぞ、スポニチの記者時代から知遇を得て、師と仰ぐ人だったし、俺は哲の会の頭だものな」
 そう勝手に合点して出かけたのである。哲の会というのは、レコード各社の星野番ディレクターの集まり。みな薫陶を得て親しい仲だが、立場はライバル同士だから、年嵩で第三者的な僕が座頭(がしら)をやった。没後何年経とうが、哲の会は続くのだし、年忌は「紙舟忌」に変わりはない。
 星野家のいつもの部屋に、そこそこのメンバーが揃っていた。元クラウンの幹部牛尾氏に佐藤氏、現幹部の飯田氏、元コロムビアの大木。おしげとさっちゃんは星野のコロムビア時代からのお気に入りだし、作詞の紺野あずさは星野の弟子で近所に住む。宴は中止とは言っても、無遠慮に現れるやんちゃ用に、一応の酒肴は揃っている。それをゴチになりながら、故人の噂話をひとくさり。「噂供養」としゃれ込む部屋に流れていたのは、コロムビアとクラウンが没後10年を記念して作った星野の作品集。あれこれ聞き分けながら、表現簡潔で情が濃い星野流の作詞術に感じ入る。
 「美辞麗句を用いず、彼の生活や体験に根ざした詞は、演歌の命そのものだった」
 と評したのはゴールデンコンビを組んだ作曲家船村徹。この人も知遇に甘えて師と仰いだ縁がある。しかし、長く駄文を書き散らす不肖の弟子の僕には「推敲」の2文字がまぶしくも重い。
 星野家をほどほどに辞して、東小金井の居酒屋に席を移す。そこまで追って来たのは、星野の長男有近真澄氏で、紙の舟を引き継ぎ、しばしばライブハウスで独特の歌世界を開陳するボーカリストが、
 「統領(僕の仇名)たちが飲んでるのに、知らん顔など出来ないでしょう!」
 どうやら病後の広瀬氏を帰らせての、こころ配りとおもてなしである。
 それから1週間、21日からの3連休前後から、新型コロナは全国的に急激に増殖、案の定GoToトラベルがGoToトラブルに転じ、丸投げした首相と都知事のさや当てが取沙汰されるなど、物情騒然になった。ここで、喜多條が満を持し、練習ラウンドまでこなした意欲は空転する。12月3日~4日、伊東のサザンクロス・リゾートでの小西会コンペを延期したためだ。忘年会を兼ねた催し…と早くから告知した分だけ、プレーに10数人、酒宴のみ参加の4名などが名乗りを上げていた。しかし、小西会も今回が100回記念となるとメンバーはもはや皆老齢、そのくせ酔えばカンカンガクガクが習い性だから「3密」も「5小」も守れるはずなどありはしない。
 それを「中止」ではなく「延期」にしたのは、ゲストに東伊豆町職員を定年退職した梅原裕一氏と、年内でサザンクロスの顧問の職を辞する粕谷武雄氏を招くせい。梅ちゃんは失礼にも「木っ端役人」と呼びならわし、本人もそれを名乗る名刺を作って悪ノリ。昔、熱川の海岸に星野哲郎作詞、船村徹作曲、鳥羽一郎歌の「愛恋岬」の歌碑を一緒に作った仲。粕谷氏は長く当リゾートの星野番として親身な仕え方をした大物。それゆえに小西会は、この2人を囲み、喜多條の全快を祝って、晴れて挙行出来る「春」を一途に待つのである。


 週刊ミュージック・リポート