新歩道橋1094回

2020年12月28日更新


 

「冬枯れの木にぶら下がる入陽かな」
 「寒玉子割れば寄り添う黄身二つ」
 亡くなった作曲家渡久地政信と作詞家横井弘による俳句で、古いJASRAC(日本音楽著作権協会)会報に載っていた。「上海帰りのリル」や「お富さん」などのヒット曲で知られる渡久地は奄美大島の出身。南国の体験がありありの句で、闊達な人柄もしのばれる。横井は「あざみの歌」や「哀愁列車」などに、僕の好きな「山の吊橋」も書いた叙情派。歌謡曲ふう愛情表現が、いかにもいかにもで、往時の穏やかな笑顔を思い出した。
 この句が紹介されているのは、1988年のJASRAC会報。その年の1月21日に発足した「虎ノ門句会」の席で詠まれたものらしい。32年も前の古い資料を見せてくれたのは、二瓶みち子さん。その会が「ジャスラック句会」と名を変えて、今日も続いておりその世話人を務める。会の名が変わったのは、当時虎ノ門にあった協会が代々木上原に移っているせいだろう。
 その二瓶さんからあろうことか、この句会の審査を頼まれてしまった。年間の優秀作の中から1句を選び賞を出す仕事。すでに「いではく賞」と「弦哲也賞」があって、三つめだそうな。作詞家星野哲郎の没後10年の11月15日、小金井の星野邸へ出かけて例によって酒宴。噂供養でほろ酔いのところへ、二瓶さんから、
 「お手伝いして下さいましな…」
 と、品よく持ちかけられて、ついずるっと引き受けてしまった。昔々、これも亡くなった作詞家吉岡治が主宰した句会へ、二、三度参加した程度の半可通だが、やむを得ない事情もあった。
 星野の忌日「紙舟忌」がついに季語になった! と、二瓶さんから興奮気味の手紙を貰ったのは2017年だから3年前の暮れ。朝日新聞の歌壇に長谷川櫂氏の選で静岡の安藤勝志氏の
 「紙舟忌や、酔ひて歌はむ〝なみだ船〟」
 が選に入ったのを発見してのことだった。彼女は星野の事務所「紙の舟」に通い、薫陶よろしきを得ていた人だから、星野を師と仰ぐ僕にも大急ぎで知らせたかったのだろう。星野は〝鬼骨〟の号で例の虎ノ門句会に参加しており、二瓶さんも「大いにやりなさい」とすすめられた。
 「俳句を何句か並べると演歌になり、演歌の一作を分解すると、何句かの俳句になること」
 も実感したらしい。この手紙で僕は
 「表現は簡潔さが命」
 という師の教えを再認識したものだ。
 コロナ禍は国内外ともに被害を拡大、人々の生活や社会の仕組みまでに厳しい影響を与えて「国難」という表現が妥当になって来た。
 倒産する企業や、死を選ぶ人も増える苦難の中、僕は高齢ゆえにいたわられること多い身である。その鬱屈の日々の中で、たまたまJASRAC句会諸兄姉の作品に接する機会を得た。句のココロに眼や耳をこらすひとときは、巣ごもり無為の暮らしに、思いもかけぬ果報と感謝せねばなるまい。
 歌社会は氷川きよしや坂本冬美の激しい「蜉化」「変化(へんげ)」が際立つ。アルバム「Papilion」でロックやラップ、バラードに転じた氷川は、その前後からの耽美的なビジュアル展開で、もはや性別を超えた。冬美は念願の桑田佳祐作詞、作曲による「ブッダのように私は死んだ」を得て、ほとんど憑依的とも思える世界へ傾倒。歌唱、ビジュアルともに、これまでの彼女の魅力を超えている。
 ウイルス感染のとめどない拡大への不安、先行きのまるで見えない閉塞感に満ちた時代。このくらい激しい変化や、鋭い刺激が好まれ許容されるということなのか。いずれにしろ、ものみな変わる庶民生活の中で、演歌、歌謡曲だけではなく、Jポップもロックも、自分たちを見直し、新しい変化を目ざす時期、氷川と冬美はその先端を走っていることになりそうだ。
 その反面、変化の激しさに抵抗する気分も生まれて来よう。新しい生活への変化を求められても、にわかにはついて行けないのもまた人情である。では流行歌は、どんな型とどんな息づかいで、そんな人々に寄り添って行けるのだろうか?
 この稿は、のどかな俳句の話にはじまって、歌手2人の激変にいたった。僕は不要不急のものと言われたスポーツ新聞づくりに長くかかわり、育てられた。当然、流行歌も不要不急と言いだす向きには「断じてそういう産物ではない!」と訴えて、今年最後の稿としたい。