新歩道橋1101回

2021年5月1日更新



 頼まれて単行本の帯を書いた。推薦コピーである。
 「タフな行動力に感動! 山陰を離れず音楽を糧に、辿った数奇な半生に脱帽。小説にしても面白すぎる!」
 いささか長く歯切れが悪いが、何案か渡したものを本人がつなぎ合わせて、こうしたいと言うからOKした。石田光輝著「あの頃のままに~遠回りしたエレキ小僧」(小さな今井刊)。
 届いた本を見てニヤリとした。帯に名を連ねる向きが他にも2人居て、作、編曲家の伊戸のりおと司会者、ラジオパーソナリティーの水谷ひろし。双方僕も旧知の間柄だが、そう言えばエレキギターだのグループサウンズだのの体験者として、著者石田と彼らには〝お仲間感〟がある。
 石田光輝の名は、多くの作詞家、作曲家におなじみのはず。というのも、日本作曲家協会が主催する作曲コンテストの常連応募者で、入賞6回、石川さゆりの「長良の萬サ」鳥羽一郎の「秋津島」川中美幸の「ちゃんちき小町」などがCD化されている。鳥取・境港生まれ、米子市在住の有名人なのだ。
 このコンテストの初期、僕は協会側の担当者三木たかしと組んで、選考の座長を務めていた。石田と知り合ったのは石川さゆり用に「長良の萬サ」を選んだ時。作詞者は峰崎林二郎だった。前後してこの催しで親しくなった歌書きには、田尾将実、花岡優平、藤竜之介、山田ゆうすけらが居るが、当時は皆無名。
 「グランプリを取って、仕事に変化は生まれたか?」
 と聞いてみると、
 「作品の売り込みに行くと、お茶が出るようになったけど…」
 と異口同音だった。登竜門を突破しても、仕事環境が劇的に好転することはない狭き門―。
 それならば…と「グランプリ会」を作った。受賞者が集まり、用意した課題詞を競作、売り込み作品の完成度を上げようという企み。切磋琢磨しながら親睦も深め、作曲界の次代を担うグループになろう! とぶち上げたら、みんなが賛同した。最初のうちは狙い通りで、意欲作がいくつも生まれたが、そのうち厄介なことになる。グランプリ受賞者は年に2人ずつ出るから、会員がどんどん増える。ついには当時経堂の我が家のリビングにあふれんばかりになって、何のことはない盛大な酒盛りに終始する騒ぎに。
 そんなところへ石田が登場した。米子からはるばる上京して、はなから突っ張り加減。メンバーは多くが東京在住。それぞれが一丁前の面魂でカンカンガクガク。石田とすれば地方からの新入りだが高校時代からGSバンドを組んで、地元ではちょいとした顔…。その負けん気が座の一部に渦を作った。呼応する連中も血気盛んで頼もしくはあるが、これでは全然勉強会にならない。別に当方負担の酒、肴代が惜しかった訳ではないが、会は間もなく解消した。
 その後しばらく、石田は疎遠になるが、コンテストでの活躍ぶりは作曲家協会報でよく見ていた。後で知るのだがこの人、高校時代から独学で作詞、作曲も試み、エレキバンド、ザ・スカッシュメンを組んで勉強などそっちのけ。卒業後にサラリーマンやデザイナー見習いなどもちょっとやるが、おおむねキャバレーやクラブのバンドマンと歌手の生活。地元では一流どころにのし上がるが、夢は作曲家だから大阪、東京へひっきりなしに現れて作品の売り込み、一部形にはなったがヒットには恵まれず「賞獲り男になるぞ!」宣言。晩年に高校時代のザ・スカッシュメンを再結成するなど、音楽世界を休む暇なく右往左往した。
 その晩年は悲痛でもあった。自分で興した音楽事務所が仲間の裏切りでつぶれて自己破産。膀胱がんを発症、それがこじれて4年間に11回も手術するが、その間にもコンテスト応募は続き島津悦子の「鹿児島の恋」を出すしぶとさ。全快すれば復活ライブ、知人の支援で自前のライブハウス「SHOWA66」を持つのが2016年4月1日、66才の誕生日という嘘みたいな話…。
 単行本「あの頃のままに」は70才になった石田がそんな自分の蛮勇はちゃめちゃ音楽盛衰私史を、あけっぴろげに書きまくった197ページ。面白くておかしくて、時に切なく胸を衝かれる手記である。これがまた地域コミュニティ「小さな今井」のコンテストに応募、特別賞を受賞して書籍化にこぎつけたあたりが、いかにも石田流。自称〝生涯現役のエレキ小僧〟境港に快男児あり! と言わねばなるまい。