旅の終わりはいつだってひとりに戻る。ふと思い返すのは訪ね歩いた先々の風物、触れ合った人々の営みや人情…。ずんと胸に来る孤独の中で、男は歌を書くのだろう―、と、まあ、そんな雰囲気を作って、弦哲也は「北の旅人」から歌い始めた。6月11日午後、東京・王子の北とぴあ・つつじホール。「音楽生活55周年記念ライブ」と銘打った自前のイベントで、タイトルは「旅のあとさき」。
同じ題名の記念アルバムを作った。それとギターを携えて、全国を回るつもりだった。55年の節目は実は去年、デビュー当時と同じ形で…と意気込んだが、コロナ禍で断念、1年遅れでこの日の催しになった。まだ非常事態宣言下、客の数を絞り、検温、手指の消毒、マスク着用などおこたりなく、楽屋へのあいさつは謝絶。受付けで友人の大木舜が顔を見るなり、
「終宴後は何もないからね、打ち上げもやらないよ」
と宣言した。やはりここも〝お疲れさん〟の酒は抜きか!
弦の歌は「五能線」「夏井川」「新宿の月」「渡月橋」「大阪セレナーデ」と続く。仲間のバンドをバックに、舞台中央、ほど良い高さで椅子に掛け、弦はおなじみの弾き語りだ。
《確か50年のテーマは「旅の途中」だった。それが5年後の今回は「あとさき」か…》
古稀を大分過ぎて、ゆっくり来し方を振り返り、これから先に思いを馳せる心境になったのか。思いなしか歌声にこもる〝情〟に〝滋味〟も加わって聴こえる。もともと弾き語りの良さは、息づかいが人肌で、歌い手の人柄やその道での成熟まで匂うところにある。
O―7の僕の席の右隣りがあいていて、通路側のその隣りに、川中美幸が滑り込んで来た。
「ごぶさたして、済みません」
と、僕があいさつするのは、川中一座の役者として14年も世話になっているせい。座長も人を反らさぬ対応で、飴玉が一個そっと手渡される。その後弦の歌に集中していて、ふと気づいたらその川中が消えていた。
《仕事の途中の顔出しだったのか…》
と、弦の歌に戻る。曲目が「長崎の雨」になって2コーラスめ、突然川中が歌いながら登場したから驚いた。そう言えば彼と彼女は「ふたり酒」で〝しあわせ演歌〟の元祖になった。これは〝戦友〟としての心尽くしか。
第2部は「おゆき」に始まり「ふたり酒」「鳥取砂丘」「裏窓」「天城越え」など、彼の作曲家の歩みをヒット曲で辿る。第1部の「北の旅人」は石原裕次郎、2部の「裏窓」は美空ひばりのために作った。〝昭和の太陽〟と弦が讃える2人である。胸中には、一緒に仕事をした誇りがありそうだ。
曲ごとにあれこれ、思いも語った弦のライブは「演歌(エレジー)」がラストソングになる。
〽俺のギターが錆びついて、指が切れても切れないこの意地で、生きたあの日の、演歌が聴こえるか!
「演歌」を「エレジー」と意味を広めに歌って、この曲は弦の〝これから〟の決意表明になる。作詞したのは息子の田村武也で作曲は弦本人。父の生きざまに息子が呼応しての歌づくりだったろう。無名のままの早めの結婚で生まれた息子は、一時弦の親元に預けられて育つ。祖父母を親と思い込んだ幼時、弦は父親の愛を実感させるための暮らしで息子に密着、朝型の歌書きになった。売れない歌手と作曲家から脱出できた「ふたり酒」を息子は「お風呂の歌」と呼んだ。この曲のヒットで、弦夫妻は初めて、風呂つきの家に住めたと言う。その息子も今は壮年、父のために詞を書き、記念アルバムのうち3曲「大阪セレナーデ」「夏井川」「新宿の月」の編曲もしている。
会場で僕はその武也とグータッチをした。首にタオルを巻いた彼は、どうやら父のライブの裏方のボスで演出者。もともとステージ・ネームを田村かかしと名乗る彼は、路地裏ナキムシ楽団を主宰する。作、演出から音楽、照明まで手がけボーカルも担当、フォークソングと芝居を混在させる新機軸公演を続けている。僕はその一座のレギュラー役者として、彼の優れた才能と統率力を目のあたりにして来た。ナキムシ公演もここ2年、やはりコロナ禍で休演中である。
「その見果てぬ夢を、親父のライブで使ってやしないかい?」
「ははは…。判りますか、やっぱり…」
僕らはそんなやりとりをした。スクリーンを駆使する舞台表現などに、彼のセンスが生かされていたせいだ。
5日後の6月16日、弦からていねいな礼状が届く。「ありがとう」を連発して、穏和で堅実、人望を集めるヒットメーカーの、律儀な一面である。