新歩道橋1107回

2021年7月22日更新



 東北の〝職業歌手〟奥山えいじの新曲「うまい酒」が妙にしみじみしている。槙桜子の詞、伊藤雪彦の曲で、一番がちょいと一息の〝ひとり酒〟二番が友だちとの〝つるみ酒〟三番が夫婦の〝ふたり酒〟という歌詞。庶民の暮らしの中の、安らぎの場面を並べ、人生良いことばかりではないが、うつむかず明るめに暮らすことが肝要と訴える。こんな時期だけになおさら…ということか。
 奥山とは山形・天童で開かれていた佐藤千夜子杯歌謡祭でよく会った。全国規模のカラオケ大会で、僕は審査委員長、彼はゲスト歌手。農業で生計を立てながら、プロの歌手を兼業するから、あえて〝職業歌手〟と呼んで仲良くしている。東北は米どころ、酒どころ、歌どころである。そんな空気をまとった奥山は、地元に蟠踞しながら、ごくふだん着の顔つきと物言いで、のびのび歌っているのがいい。
 歌唱は一口で言えば〝くさい〟魅力。歌全体にほど良い訛りがあって演歌向きだ。声味と節のあやつり方は宮史郎や宮路オサム似で彼らより少し若め。言葉つなぎにゴツゴツ感を残し、大きめのビブラートでそれをつなぐ。前作の「只見線恋歌」よりは歌のゆすり方が強め。もしかするとベテラン作曲家伊藤雪彦の、独特の〝歌のさわり方〟を学んだのか。いずれにしろ〝押し〟が強めの仕上がりだが〝嫌味〟がないのは人柄のせいだろう。
 僕はテレビ出演で顔が売れ、ヒット曲にも恵まれているスターたちだけが歌手とは思っていない。彼らを一流と考えれば、地方でコツコツと支持者を集め、いい仕事をしている歌手もプロ。全国区歌手と比べれば地方区の歌手で、一般には無名だから三流と目されようが、三流には三流の芸と意気地があろうし、僕はそれを得難いものと思っている。
 地方区の巨匠と呼んだ静岡・浜松の佐伯一郎は亡くなったが、他にも各地に、親交を重ねる地方区さんは多い。そう言えば埼玉・所沢あたりの新田晃也に会ったら、近々レコーディング、秋には大きめのコンサートをやると言っていた。彼らは別に、全国制覇を諦めている訳ではない。地盤を持ってガツガツしないだけだ。東京に一極集中する歌謡界へ、彼らが逆転突入する夢を果たしたら、それは愉快なことではないか!
 僕は今年も、山形の天童へ出かける。佐藤千夜子杯歌謡祭は19年続いて一昨年終了したが、昨年からはそれに代わって「はな駒歌謡祭」が開かれている。審査の縁がつながった訳で、米は「つや姫」酒は出羽桜の「雪漫々」や「枯山水」肴は「芋煮」と「青菜漬け」という美味との縁も継続中だ。イベントの主導者は名刹妙法寺の主矢吹海慶師、この人は日蓮宗の高僧、天童の有力者で、僕より年上だが、カラオケを通じて〝ためぐち〟の付き合い。ジョーク山ほどの酒をともにして、その粋人ぶりに甘えている。
 今年は11月14日の日曜日が本番だが、前夜入りしてあたためる旧交に、今からワクワクする。その時分はもうかなり寒いだろう…とか、コロナ禍は大事にならずに過ぎていようか、顔なじみのスタッフはみな達者か…など、あれこれが思い浮かぶ。7月にはファイザー社のワクチン接種の2度めも終えている僕が、ウイルスを持ち込む心配はなさそうだ。
 もともと僕は「人間中毒」と「ネオン中毒」の患者である。スポーツニッポン新聞社の記者から今日の雑文屋兼業の役者まで、人の流れに添い、大勢の知人友人を得て暮らして来た。縁を結び縁に感謝する人間中毒だ。その場、その流れの潤滑油が酒で、その勢いもかりての虚心坦懐、人を知り人に許された根城はネオン街だった。それが昨年以降、巣ごもり・自粛の日々である。人に会う機会が激減し、その分、酒を飲むケースもきわめて少なくなった。たまに仕事をしても、お仲間はそそくさと帰路に着き、僕はすごすごと帰宅する。これでは二つの中毒の症状は悪化する一途ではないか!
 本を読み、テレビを見る日々は、日付けや曜日までが怪しくなり、体重だけが増え続ける。これはいかん…とウォーキングまがいに出かけても、
 ・弓なりに森戸海岸800歩、怠惰な僕は2往復ちょい…
 がいいところ。これ一応は短歌の字脚になってはいる愚作である。
 今日7月14日、木曜日は、浮き浮きと渋谷オーチャードホールの第59回パリ祭を見に出かける。シャンソンの祭典である。冒頭の奥山えいじは東北ふうに〝くさい〟が、これから出会う彼や彼女たちは、パリふうに〝くさい〟のが面白い。