新歩道橋1108回

2021年8月9日更新



 みなとみらい線・日本大通り駅から徒歩8分、神奈川県民ホールへ、熟年男女が行進した。7月19日月曜日の午後1時、相変わらずの暑さだが、人々の歩みは物見遊山ふうにゆっくりめで、軽い。行く先は福田こうへいコンサート。去年7月にやるはずだったものの振替公演。道々交わされる会話はコロナ禍の不満や、久々に再会した友人との近況報告など…。
 待ち兼ねたのは観客だけではないとでも言いたげに、福田のステージはいきなりハイ・テンション。「南部蝉しぐれ」も「北の出世船」も「天竜流し」も「筑波の寛太郎」も、一気! 一気だ。客席もそれに呼応して…と行きたいところだが、反応は盛んな拍手とペンライトの波に限られる。マスク、検温、手指の消毒、声援ご法度は、このところどの公演でも当たり前になっている。
 「それでも、熱気は感じるなあ。うん、会うのは久しぶりだしねえ」
 なんて、福田のトークは如才がない。東北弁丸出しで、笑わせネタもちょこちょこ。メジャーデビューして10年、それなりの進化とそれなりの自信が見える。
 新曲は「男の残雪」で、坂口照幸の詞、四方章人の曲、南郷達也の編曲。歌い出しが高音、サビも高音、歌い納めが高音のメロディーを、僕はW型と呼んで珍重する。そんなヤマの張り方は、言うは易く作るには難しい。メロディーのどこかに〝つなぎ〟の無駄が出るか、無理を押し通して破綻するかになるせいだ。しかし四方の今作は、ほとんど高音へ行きっ放し、福田の声と節を存分に生かす算段で、これならインパクトは強いし、売れ足も早いだろう。
 坂口が書いた詞も欲張っている。タイトル、イントロ、歌い出しの2行…と、素直に聞けば「男の決意ソング」ふう。そこに以心伝心で生きて来て、明日の山も一緒に越える女性との〝しあわせ演歌〟要素が混ぜ込まれる。この狙いを成就するには、どうしても決まり文句の多用になる。愚直なくらいコツコツと、演歌の姿形を整えようとする坂口にしても、今回は苦労したろう。
 それやこれやを福田は、委細構わず歌いまくる。ゆうゆうと言うか、のうのうと言うか、細部にこだわらないのが福田流。CDを聞けば多少の心情表現は確かにあるが、ステージとなると行け行け! でもはや野放しである。
 《そうか、民謡は声と節が勝負だものな…》
 僕はそういうふうに納得する。気分は微苦笑だ。男と女の色恋沙汰が流行歌の永遠のテーマ。その微妙さに踏み込めば、表現はどうしても多岐にわたり複雑になる。細分化する心情のあれこれを向こうに回して、民謡調の福田の歌唱は真一文字。発出するのは若さと熱度だ。民謡の持つ野卑なまでのエネルギーで、彼は野放図にコンサートの2時間を走り抜け、客を圧倒する。技の一端を見せたとすれば、マイクをはずし地声で聞かせた「江差追分」か。
 隣りの席に居たプロデューサー古川健仁は、古いつき合いである。コンサートを見終わって顔見合わせた僕らは、
 「見聞きしているだけでも疲れるよなあ」
 と笑い合った。伴奏もフルバンドに津軽三味線や尺八を加えたナマ。それを圧し続ける福田の大音声である。僕は昼の部だけで十分堪能したが、福田は昼夜2回公演である。タフでなければスターじゃないのだ。
 コンサート中盤、いきなり僕の名が呼ばれてびっくりした。ナナオという一風変わった名前の男性司会者が、来客の一人として念入りな紹介をしてくれた訳だが、
 「さて、どこに居らっしゃいます?」
 と彼が言う。客席の頭が一斉に右左に動くさまに恐れをなした僕は、手も上げず起立もせずに身をちぢめた。
 「それにしても古川、どの作品も直球一点ばり。先々もずっとこのままで行けるのかねえ」
 「それなりの幅は作ろうとは思うけど、今は売れてる流れに任せてということかと…」
 突然僕らは音楽評判屋と制作プロデューサーに立ち戻った。そうかも知れない。人気稼業は時相場、ダッシュが加速している時期は、余分な小細工などその勢いを削ぐだけになるか。
 「それにしても…」
 と、僕はもう一方の隣席の作詞家の坂口に、
 「東北訛りがきつすぎて、歌詞がほぼほぼ判らないのは困るよな」
 と小声で言ったら、
 「僕、最近耳が遠くなって来てまして…」
 と、やんわり切り返された。