新歩道橋1112回

2021年10月10日更新



 大阪の町・枚方を「ひらかた」と読むことは、作詞家もず唱平とのつき合いで知った。彼はこの町に住んで45年、このたび思い立ってこの土地に縁のある歌を作った。北河内、淀川流域のこの町で知られるのは、京街道の主役だった三十石船で、伏見から天満まで半日の航程。それを舞台にもずが書いたのは「三十石船哀歌」で、歌では〝船〟が抜けて「さんじっこく」となる。土地の人々が呼びならわした通り名なのか。
 売れ線ソングとして世に問うよりは、土地の風物、歴史の一端として遺したい歌なのだろう。「堀江の新地」「堀割」「八軒家」「造り酒屋」などのディテールが並ぶ。その造り酒屋の下働きに15才で出された娘が主人公。兄さんみたいに優しい船頭に惚れたのが初恋だったが、家の貧しさゆえに売られていく。哀れんで鳴くひばりに「忘れてくれ」がせめてもの伝言…というストーリー。
 「小生の歌づくりの宗旨、恵まれぬ底辺庶民の応援歌、幸せへの哀訴です」
 ともず本人が狙いを語る。
 《〝宗旨〟と来たか、やはりそれが原点だ…》
 と僕はニヤリとする。その昔「釜ヶ崎人情」で作詞家デビュー、金田たつえが歌った「花街の母」がブレークしたころは、
 「終生、未組織労働者の歌を書く!」
 と、胸を張ったものだ。前者がドヤ街の「たちんぼ」後者が「子持ちの芸者」が主人公で「よおしっ!」と、僕は共鳴、後押しをして以後親交が続いた。
 「花街の母」は当初、
 「コブつきの芸者の歌なんぞ、誰が喜んで聴くか、誰が歌うか!」
 と総スカンだった。金田が「江差追分」の歌い手から歌謡曲に転じたのも問題視されて、レコードの販売は関西限定。それでもめげずに行商の長期戦、近ごろでは〝お仕事〟になった盛り場プロモーションの実と、金田の悪声のわびしさ辛さがリアリティに通じて、息の長いヒット作に育った。
 「三十石船哀歌」を歌うのは、「はぐれコキリコ」など、もず作品を一番多く歌った成世昌平で、作曲も堀慈の名で彼。関西では名うての民謡歌手が、歌謡曲でもヒット曲を持つ成世らしく、高っ調子の民謡フレーズを盛り込んだ曲にして、のうのうと歌っている。なまじの感情移入よりは、その方が聴き手の胸に沁みる算術なのだろう。
 それよりも《えっ?》《おいおい!》になったのはもずの手紙の中段の1行で、
 「残余の人生を考えますと、この世の置き土産になるやも知れません」
 と述懐していること。残余の…と言ったって、まだ80代のなかば。このところ、もっと若いヒットメーカーが次々と逝ってはいるが、もずにそんなふうに達観されちまったら、少々年上の僕は一体どうなるのだ? 人の縁を辿って成り行き任せ、出たとこ勝負で憂き世を泳いで来た僕は、いけしゃあしゃあの楽天家だから、まだ残余なんぞ数えちゃいない。
 「花街の母」が世に出たのは昭和48年だからちょうど48年前。一極集中の東京へは出ず、関西で踏ん張る肚を決めるのがそれから3年前後とすれば、45年前に家でも建てて、以後ずっと枚方暮らしになったのか? 彼我比べるべくもないが当方は、親の代からの貧乏借家住まい。19才で茨城から上京、勤め先こそスポーツニッポン一筋だったが、北区滝の川を手始めに、現在の葉山海っぺりまで転居すること12回、10年住めば飽きが来て次! の流れ者生活で、定住型のもずとは、そこのところが違うのか…と一人合点する。
 もず唱平から届いたもう1枚のCDは、三門忠司が歌う「峠の夕陽」という股旅もの。ところが
 「一つ峠を越えるたび、いつもお天道様に叱られて、この身が真赤に染まるんだ」
 なんてセリフ入りで、五十路のやもめ暮らしの母親を、助けることすら思うに任せぬ禄でなし…と主人公はボヤいてばかり。隣りのおみよとの二世の誓いを反古にした悔いも手伝い、なんとも颯爽としない流れ者なのだ。コロナ禍でまるで先が見えないモヤモヤ時代には、無職渡世の男もため息まじりになると言うことか。
 カップリングの「望郷ヤンレー節」は3番の歌詞がもず流で、村の娘が紅灯の新地の女になった噂に、
 〽まさかあの娘じゃあるまいな…
 と、主人公がたたらを踏んだりする。2曲とも作曲は三山敏で「花街の母」で一緒にブレークしたお仲間。こちらも関西在住のまま〝東京望見〟の仕事を続けて来た人だ。もずの新曲はあれもこれも、いわば原点回帰の趣きだらけだが、後生だから〝人生、残余の置き土産〟なんぞと弱気を見せないでおくれよ! と僕は「哀訴」するしかない。