新歩道橋1114回

2021年11月7日更新



 友人の歌手新田晃也が新曲「雨の宿」を出した。歌手活動55周年と喜寿を記念した作品だ。長く巷で歌って来た男である。業界の思惑を離れた演歌系のシンガー・ソングライター。「夢さすらい」「吹き溜まり」「前略ふるさと様」「冬・そして春へ」「母を想えば」などの自作曲を並べれば、独立独歩で生きた年月の、その折り折りの心模様がしのばれよう。
 長いつき合いである。彼を知ったのは「阿久悠の我が心の港町」というアルバムに接して。作詞家の阿久が全国の港町を旅取材。オリジナル曲を書き、合い間に本人が短いエッセーふうコメントを語った異色作で、全曲を無名の新田が歌っていた。アルバム発売が1976年だから、新田とは以後45年前後の親交が続いている。
 胸を衝かれた新田作品がある。「友情」の歌い出しの、
 〽こんな名もない三流歌手の、何がお前を熱くする…
 という2行。15才で故郷を離れ、無名歌手のままの里帰り。それでも友だちは温かい握手で迎えてくれた。本人の実感が歌になったのだろうが、そんな自分を彼は「三流歌手」と断じてはばからない。僕はもともと、テレビで全国に名や顔と声も売り、一流と目される人たちだけが歌手とは思っていない。亡くなった浜松の佐伯一郎を筆頭に、地域で親しいファン相手に膝づめで歌う友人たちもまた、立派な歌手だ。しかしそんな地方区歌手の中でも「三流」に胸を張る歌手は新田だけである。
 新田は1959年、福島・伊達から集団就職列車に乗った。中卒の15才で阿佐ヶ谷のパン屋が就職先。そこを2年で離れ、ジャズ喫茶のボーイ、純喫茶のバーテンを経て、バーブ佐竹の付き人兼運転手になるのが上京5年後。修行2年で新宿のサパークラブで弾き語りデビュー。阿久のアルバムに起用されたころはもう、銀座で名うての弾き語りとして知られていた。その出会いが歌謡界入りの好機だったが、「今さら新人歌手なんて…」と固辞している。人気弾き語りの収入は当時相当な額だったし、それ以外に業界周辺で、かなり痛い思いをしたらしいのだが、今日まで多くを語らないままだ。
 集団就職列車に乗った理由を、新田は屈託のない口調で、
 「口べらしですよ」
 と言い切った。僕は疎開した先の茨城で、そういうケースをいくつも見聞していたので、これにも胸を衝かれた。農村の貧しい暮らしから、ひとり家族が減れば、その分だけ家計が助かる。新田が福島を離れた1959年は昭和34年である。敗戦から14年、復興成る! の取り沙汰の陰に、そんな苦難がまだ続いていた。巷の歌い手は昭和のギター流しから弾き語りに推移して、平成、令和へ、カラオケが我が物顔になる。そんな流れの三つの時代を生き、新田は巷で歌いつのって来たことになる。
 10月11日、練馬文化センターつつじホールで開かれた彼の記念コンサートに出かけた。彼が歌い手を志した時代は大音声の〝張り歌〟が主流だった。新田もファンが必ずせがむ「イヨマンテの夜」や長尺の「俵屋玄蕃」を得意として来たが、喜寿の77才である。〝張り歌〟に〝語り歌〟の要素が加わり、中、低音の響きが心地よく、歌唱に年相応の滋味が生まれていた。隣りの席には作詞家の石原信一。10年前に僕が引き合わせたが、その間に2人は「振り向けばお前」「寒がり」「もの忘れ」「昭和生まれの俺らしく」など、熟年世代の歌を一緒に作り、石原は今や作詩家協会の会長だ。
 新田がステージで見せたのは、「三流の意地」「三流を超える芸」「三流の矜持」だったろう。一流作家を動員、有力プロダクションの後押しで一流を目指し、それに成功するのはひと握りの才能である。しかしそれも10年後には二流、もう少し時が過ぎれば懐メロ歌手に落ち着く例はかなり多い。それに比べれば、新田が三流に徹して歩いた我が道は尻上がり、ついに「三流のてっぺん」に到達していてなお、コンサートタイトルを「喜寿に羽ばたけ!」と、当然みたいにまだ前を向いている。
 以前、大作曲家船村徹の「喜寿」を、異端から出発、王道を極めた実績と人望から「毅寿」と置き換えて喜ばれたことがある。それと新田ではスケールも人物もまるで違うが、生きざまの潔さに感じ入って、ひそかにこの男にも「毅寿」を進呈してもいいかと思う。
 ゲスト歌手は新田の弟子の春奈かおりだった。師匠作品の「会津望郷歌」と「里ごころ」を歌ったが、大衆演劇出身の芸で、セリフ入りの「一本刀土俵入り」がなかなかだった。