新歩道橋1126回

2022年5月28日更新



 その日の夕方、渋谷のライブハウスPLEASURE PLEASUREの関係者受付には長い行列が出来た。知人を見つけて手を挙げる女性、グウタッチする男性4人組、仕事の続きみたいに小声の会話の男女…。いろんな業界の匂いを漂わせる人々が「山崎ハコ・バースデイライブ復活! 〝飛びます〟」開演前のにぎわいを 生々しくする。5月14日、開演は16・00。僕もその列の中の一人だ。
 《どの劇場、コンサートやライブ会場に行っても、関係者がここまでの数になることはないな》
 会場入り口でそう思ったし、1階K列10番の席についても同じことを思った。一般のファンと比べると年齢が少し上で、身なり、態度物腰が独特。ハコを〝捨ておけない気分〟が一様ににじむようだ。ハコの弾き語りの1曲目は「望郷」で、青い空白い雲と一緒に語られるのは、神社の石段、舞っていた蝶、かぶと虫やおばあちゃん。2曲目が阿久悠の遺作から彼女が選び出した「横浜から」で、港町をさすらう娘の独白である。以下「ヘルプミー」「SODASUI」「私が生まれた日」「新宿子守唄」などが続く。
 要するに山崎ハコの世界はとても切ないのだ。一生懸命に生きても辛い。夢と現実の行き違いが辛い。男も辛いし女も辛い…。ハコはギターをかき鳴らして哀訴する。歌が高音部にかかると、声は艶と張りと粘着力を増し、悲痛な響きを濃くする。低音部へ落ちると、呟きくらいのボリュームになって、客は引き寄せられるように聴き耳を立てざるを得ない。
 僕は1曲ごとに彼女の述懐を聞き届け、その胸中を探ろうとする。そんな作業はしばしば、僕に少年時代の満たされぬ思いや鬱屈を振り返らせ、共感を増しながら、彼女の世界に引き込まれていく。あんなに小柄でやせぎすな体をふるわせて、それでもあんなにひたむきに…と、キャラと歌唱から感じ取る情感は「いじらしさ」や「けなげさ」「いたいけな純真」で、それは僕らが世俗にまみれてとうに見失ったものを突きつけて来る。だから彼女を捨ておけなくなるのだ。
 そんな僕の感興は初ヒットの「織江の唄」から始まっている。その後40数年の歌手活動と浮沈の中で、彼女は変化し成長したろうが、僕の方は第一印象を引きずったままだ。ハコの舞台は続いて、新宿花園神社の椿組公演の映像と主題歌を歌う彼女になり、「今年もやるからネ」の予告があって幕切れの「ごめん…」「縁(えにし)」アンコールの「BEETLE」「気分を変えて」につながる。このうち3曲は去年の7月4日に、原宿クエストホールで彼女が開いた「最初で最後の安田裕美の会」で歌われた。安田はハコの夫君で、尊敬する先輩であり、よき理解者で同志でもあったギタリストだが、2020年7月6日に亡くなっている。
 そんな事情もハコを〝捨ておけない〟具体的な理由のひとつなのだが、ハコは
 「この2年、5曲しか歌ってなかったし…」
 「安田さんに、もう歌えなくなっちゃったの? 僕の責任かななんて言われたくないから、この会をやることにしたの」
 「こんなに沢山の人がいてくれるんだもの、復活だ、大丈夫だヨと言いたい、皆さんありがとうございました」
 と言葉を継いだ。5曲だけ歌ったというのは原宿の催しを指し、彼女が最後まで夫君を「安田さん」と呼んだことは、みんなが知っていた。
 話はコロッと変わるが、その3日後の17日、僕は宇都宮の下野新聞社へ出かけた。以前連載した作曲家船村徹の追跡記事を、来年の7回忌を機に単行本にする打ち合わせ。応分の加筆をするほか、船村語録も加えたい希望と原稿を届けるトンボ帰りである。始発駅の逗子から終着駅の宇都宮へ片道3時間、湘南新宿ラインで往復した車窓は、東大宮あたりから田園風景が広がった。水田には植えられたばかりの早苗が青々と風になびき、黄色に色づいているのはおかぼ陸稲か。屋敷山にかこまれた農家は古めかしく、対照的に新しい文化住宅はカラフルだ。
 レモン酎ハイをチビチビやりながら、ふとこれが僕の原風景か! と感じ入った。疎開して小学3年生から高校卒まで暮らした茨城・つくば市の隅の旧島名村は、知人を頼っただけの縁だから故郷ではないのだが…。
 《しかし、昭和そのものだなあ! 船村徹先生も山崎ハコも。俺も人後に落ちないか…》
 何だか突然、ここのところの感傷の意味が、妙に腑に落ちた。ちょこっとだけにしろ、旅って奴はいいものだと思った。