新歩道橋1130回

2022年7月24日更新



 明らかに〝米寿の歩み〟だった。今年のパリ祭2日めの7月7日、渋谷オーチャードホールのステージへ、舞台下手から菅原洋一が登場する。客席から温かめのくすくす笑いも起こった、歩幅狭めのおじさん歩きである。無理もない。昭和8年8月生まれだから88才、それがひとたび歌となれば音吐朗々の「マイ・ウェイ」である。国立音楽大学声楽専攻科卒業の基礎の確かさが、びっくりするほど生きている。
 このところのパリ祭に菅原はレギュラーで出ているが、僕も観客としてほぼレギュラー。知遇を得たシャンソン歌手石井好子が、昭和38年に日比谷野外音楽堂で始めた第1回から、ずっと見ている。今年が第60回、石井の生誕100年を記念…という長寿イベント。客席にも〝ご長寿さん〟が目立った。杖が頼りの紳士淑女、車椅子の数も多く、母親の手を引く風情の娘さんも、立派に熟女だ。シャンソン愛好者たちは、高齢化が顕著な演歌ファンの年代をゆうに超えている。
 《昭和38年なあ。パリ祭と菅原の人気歌手歴は、ほぼ同じということか!》
 古きよき時代を生きた人々の中で、僕の回想もタイムスリップする。前の東京オリンピックの前年だが、小澤音楽事務所を興したばかりの青年社長小澤惇が、スポニチ記者の僕を訪ねて来た。オープンリールのテープレコーダーで聞かされたのが菅原の「恋心」と「知りたくないの」で、どちらをA面にするかという相談。彼はタンゴのオルケスタ・ティピカ東京専属からソロシンガーに転じたが全く売れず、この2曲が最後とポリドールから引導を渡されているという。
 僕は即座に「恋心」を名指した。越後吹雪と岸洋子が吹き込んだ情報を持っていて、「競作」で菅原の名前を売る魂胆。しかし結果、大勝ちしたのは岸で、菅原は残るもう1曲の「知りたくないの」で再挑戦する以外に手はない。折から五輪対策でネオン街の深夜営業はご法度。ところが菅原がレギュラーだった泉岳寺のホテル高輪のトロピカルラウンジは、銀座、赤坂界わいのホステスさんたちの〝脱法隠れ穴場〟として賑わった。「知りたくないの」は彼女たちに支持され、その情報を週刊誌―ラジオ―有線放送…と拡散、ネオン街を攻める作戦は、成功までに実に3年の時間を要した。当時の僕はほやほやの音楽担当記者。しかしそれ以前に5年間、スポニチの芸能面を編集した体験から、まだ業界に認知されていなかった「プロモーション」のあれこれはお手のものだった。
 今回のパリ祭で、一番「いいネ!」に思った歌手は川島豊だった。歌ったのは「行かないで」だが、哀願の囁きの前半からサビの大音声への切り替えが秀逸で、独特の情感をドラマチックに伝えた。昨今のシャンソン歌手の多くは大学の声学科出身の本格派で、美声と大振りな歌唱で客席を圧倒する。彼らと川島の違いは、ほどの良い声味と濃いめのフィーリング。本格派にありがちな歌の無表情な乾き方に対して、適度の情緒的湿度と酔い心地を保っていたこと。そう言えば菅原もかつての本格派だが、声に得も言われぬ憂いを秘めていた。
 《えっ? そうか、やっぱりな…》
 プログラムの川島のプロフィールを見て、驚きもし合点もした。友人のパリ祭プロデューサー窪田豊にも確認したが、川島は一時ザ・キングトーンズで歌っていた時期を持つ。「グッドナイト・ベイビー」が大ヒットしたこのグループも小澤音楽事務所の所属。「知りたくないの」の一件以後、この事務所の陰の相談役にされた僕が手がけた仕事のひとつだった。
 持って生まれた〝いい声〟と、応分のキャリア、ジャンルを問わず歌い込んだ体験…と言えば、この日注目した秋元順子にも通じる。ここ3年ほど彼女のシングルやアルバムをプロデュースしての〝身びいき〟もある。長いパリ祭体験で石井好子、高英男、深緑夏代、芝野宏をはじめ、多くの知人、友人歌手を見て来たが、制作にかかわる例は初めて。しかし、彼女の「愛の讃歌」は安心し切って聴けた。一、二カ所小節が回ったのも彼女らしいとニヤニヤしながらだが。
 実はこの人、杉本眞人が作曲、喜多條忠の遺作になった「なぎさ橋から」がヒットの軌道に乗っている。この曲を披露するにはパリ祭のスケールは、打ってつけだったが、
 「石井さんの遺言で、オリジナルは取り上げません」
 と窪田プロデューサーが言うので諦めた。歴史ある催しを宣伝の場にしたくないと石井は考えていたのだろう。しかし、プログラムの秋元の欄にはこの歌が「サビのリフレインが切なく印象的と好評を博している」と明記してあったから、ま、よしとするか。