新歩道橋1131回

2022年8月7日更新



 笑うだろうなと思ったが、やっぱり笑っちまった。吉幾三の「と・も・子…」という歌。最初から長めの台詞が、いかにもいかにも…のお話なのだ。
 「買いものに行って来ま~す」と出かけたとも子は、そのまま帰って来ない。おいてけぼりをくった主人公は、彼女のパンティに頬ずりしたり、かぶって歩いたり…。そんな前置きを、吉は東北弁まる出し、いきなりのハイテンションでスタートする。この瞬間湯わかし器ふうエネルギーの突出は、この人の得意技だ。
 とも子は歯のきれいな人嫌い、髪の毛きちんと分けてる人嫌い、オーデコロンつけてる人も嫌いで、どんなに汚くても、心のきれいな人が好きだった。だから主人公は歯もみがかず髪はボサボサ、風呂なんか入ったこともねえ…と彼女に応じた。やむを得ず主人公はとも子探しの旅に出る、盛岡、仙台、福島、山形、秋田。噂で青森まで追ったら、人違いのすごい美人…。
 秋の函館でやっと追いつくが、とも子はいきなり泣いて、子供が出来たと言う。「誰の子?」と聞いても「知らない」と答える。引用とは言え、書けばこうまで長くなるが、吉のセリフ回しはよどみなくスピーディーだから、こちらは、
 「ムフフ…、ウフフ…」
 と切れ間なしに笑うことになる。バカバカしいおハナシを、どうだ! どうだ! と、どんどん攻めて来るのも、この人の芸なのだ。
 それがガラッと変わって、歌に入る。
 〽この歌をあなたに聞かせたかった(中略)間に合わなかった花束のかわりに…
 と、標準語で堂々のバラード、とも子へ届ける遅かったラブ・ソングを、いいメロディーと朗々の歌唱である。実は台詞の最後に仕掛けがあって、主人公の東北弁独白は、とも子の死から3回目の秋で終わっていた。こういうコメディーからシリアスものへの極端なギアチェンジも、この人独特の芸なのだ。
 7月、彼は明治座公演中だった。久しぶりの実演(!)だから、早速見に行くつもりだった。以前、同じ楽屋で生活して、いろいろ教えてもらった先輩役者の安藤一人も出ていて、再会の楽しみもあった。ところが80才を過ぎての〝夏のカクラン〟で体調を崩し、折からコロナ感染数も天井知らず。「年が年なんだから…」と医者と家人からたしなめられると、自粛せざるを得なくなった。
 7月27日、エンゼルスの大谷が21号を打ち、カブスの鈴木も8号を打ったことだし…と、気を取り直して聞いたCDが、50周年記念アルバムⅡ「ギターと吉と~吉幾三」だった。「酒よ」「泣くな男だろう」「別れて北へ」「あんた」「エレジー~哀酒歌~」などを、藤井弘文のギターで歌っていて「と・も・子…」は最後に収まっている。
 歌詞集の表紙をめくると、いきなりモノクロの吉のクローズアップで、仔細ありげな視線を右上へあげている。この素顔ふうと闊達な芸人ふうが、行ったり来たりするのもこの人の芸のうち。だから当方も、
 《そうか、そんな顔から始めるのか》
 と、はなからお楽しみ気分になる。もともと舞台で、自分が書いた台本の芝居なのに、ギャグで突然ひっくり返して、共演の女優を笑いで身をよじらせる手口の持ち主である。どこまでがマジでどこからがギャグなのか、油断がならない。そう言えばあちこちで、出会う都度立ち話などしたが、どれが吉の真顔なのか、よく判っていないことに気づいたりする。
 相変わらず、歌のネタは「酒」と「あんた」だ。男はいつも屋台の酒に過ぎた日々をしのび、思い浮かべる女は〝あんた〟である。この女性がまた思慮分別もなく男に惚れ込み、運の悪さや己の愚かさも引きずったまま生きていく。大てい降っているのは雨、積もっているのは雪でマンネリと言えばマンネリなのだが、そう思わせないところに吉の魅力がある。東北弁の重さが作る歌声の〝圧〟や訛りが作るアクセントの妙、吉の朴訥な作詞作曲法や表現力など、あれこれ思い浮かぶが、何よりもズンと来るのは、主人公たちの思いの一途さだ。男も辛いが女も辛い。そんな業(ごう)をかかえて、社会の隅で生きる人々へ、吉の視線が温い。
 記念アルバム「ピアノと吉と」は3月に出た。「ギターと吉と」は5月発売。3枚めの「あなたの町へ吉と」を9月に出して、4枚め「語り歌」は11月、5枚目の「未来に残す歌」は来年2月に出す予定だと言う。50周年アルバムの5連発で、セット用収納ボックスをプレゼントする案もついている。
 全編本人のプロデュースによる自作自演。これはまたずいぶん根気の要る仕事を始めたものだが、この人はそんな凝り性でもあったのか?
 《マジかよ! 御身御大切に…だなこれは…》
 少しあきれて僕は何かのはずみに見せる吉の、テレ方を思い出す。あの人間臭さが、このベテラン歌手の「かわい気」に通じる強味なのだ。