新歩道橋1134回

2022年9月24日更新



 9月14日訃報が届いた。このミュージックリポートを発行するレコード特信出版社の元代表取締役会長齋藤幸雄さんが亡くなった。腎不全のためで92歳。3日のことで7日に家族葬が営まれたと言う。業界のパーティーなどでよく会った温顔を思い出す。ちょっとテレたような笑いを引っ込め、視線をはずして、
 「うん、読んでるよ」
 と、よそを向いたまままた笑顔をつくる。実力者だがシャイな人だった。
 僕のこのコラム「新歩道橋」の連載を引き受けてくれた。もう1100回を超えて、28年以上前からのご縁である。「歩道橋」は、昔々、先輩記者だった岡野弁氏が産経新聞を退社して興した「ミュージック・ラボ」誌でスタートした。レコード業界の動きを数字で可視化するオリコンが創刊され、
 「あちらがデータなら、こちらは理論でいく」
 と岡野氏が対抗、踏ん張った情報誌だった。当時まだスポニチの駆け出し記者だった僕に、署名入りのコラムが任されたのは、
 「理屈っぽい誌面に、多少の楽しさも、な!」
 という岡野氏の狙いがあってのこと。
 そのミュージック・ラボが業界の応援を受けながら、長い使命を終えて廃刊になったあと、
 「あの欄がなくなるのは残念だ。後のことは俺に任せてよ」
 と、齋藤会長との縁を結んでくれたのは、元東芝EMIの市川雅一制作本部長だった。曲がったことが大嫌いで、血の熱いやり手のこの人とは、彼が宣伝部員だったころからの家族ぐるみのつき合い。人柄の良さを「仏の市ちゃん」と呼びならわして、よく安酒を呑んだ。
 市川氏の芸能界ぐらしの振り出しはテアトル系ストリップ劇場の文芸部。楽屋泊まりの新人踊り子が、
 「お兄ちゃん、寒い!」
 と訴えるのを、古毛布を探し出して来て励ましたエピソードを持つ人情家だった。昭和31年に上京、スポニチのアルバイトのボーヤに拾われたころの、僕のささやかな娯楽はストリップ劇場通い。
 「坊や、また来たの、好きねえ」
 などと、大姐御ストリッパーにからかわれながら、無名のころの渥美清や海野かつお、三波伸介、石田瑛二なんてコメディアンのコントに病みつきになっていた。そんなバカ話でも気が合った市ちゃんも、今年4月23日、87歳で逝って家族葬が営まれた。最後まで「新歩道橋」を楽しみにしてくれていたことは、この新聞をずっと届けたテナーオフィスの徳永廣志社長から聞いていた。
 齋藤会長は栃木の人で作曲家船村徹の出身地船生村(当時)の近隣の育ち。
 「あのよ、船さんがだよ…」
 と、たまに会うと昵懇の間柄の話をひょいとした。僕が長く知遇を得て、弟子を自称することまで知っていてのこと。ありがたいことにそんなご縁が、梶浦秀博現社長にまでつながって、もうこちらの方が長くなったか。
 訃報に接した14日は、夏に逆戻りしたような暑い日だった。体調いまいちの雑文屋としては散歩する気にもならず
 「あの欄にこれでも書くかな」
 と、福田こうへいの民謡アルバム「ふるさと便り」を聞いていた。これが「気仙坂」「沢内甚句」「一寸きま」などの岩手ものや「秋田港の唄」「長者の山」などの秋田もの「南部餅つき唄」「南部トンコ節」「黒石じょんから節」などの青森ものと、聞き覚えのまるでない歌ばかり。歌詞カードを見ながら聞いてもよく判らない東北弁で「どこの旦那様、今朝のしばれに何処さ行ぐ、娘子だましの帯買いに…」だの「月の夜でさえ送られました。一人帰さりょか、コリャこの闇に」だとか「山で切る木はいくらもあれどナー、思い切る気はサアサ更にないナー」なんて艶っぽいことを言っている。
 福田はお国訛りそのままの東北民謡に特化。そこへ行くと三橋美智也は訛り抜きで全国の民謡をカバーした。あれはあれで凄いことだったのだ…と思い当たる。そんなところへ思いがけない齋藤会長の件と、ひきづられての市川氏の思い出である。家族葬という〝あいまいな別れ〟に、一瞬、時が止まる心地になる。置いてけぼりをくったようなこの突然の喪失感と、どうつき合い、どうおさまりをつけていけばいいものか?
 そう言えば福田こうへいの担当プロデューサーの古川健仁が
 「民謡は福田の方がプロであの地方のものだから、プロデュースを彼に任せたよ」