新歩道橋1136回

2022年10月30日更新



 懐かしい名前に出っくわした。作曲家榊薫人、売れっ子にはいまひとつだったが、カラオケのスタンダードになった「お父う」を遺していった友人だ。
 《もう3回忌になるかな?》
 ごく親しいつき合いをした相手だが、彼の死は日本作曲家協会会報の消息欄で知った。正確を期した方がいいから協会へ電話をした。
 「亡くなったのは令和2年8月6日です」
 ちょっと間があって、知り合いの事務局嬢の返事の声が明るい。長くレコード大賞の審査委員長をやり、今は制定委員ほかで、いろいろ世話になっている間柄が、声の色に出るのが嬉しい。〝ちょっとの間〟はきっと、いろいろある書類で確認してくれてのものだろう。
 昔、スポーツニッポン新聞社に勤めていたころ、榊はせっせと訪ねて来た。彼の作品を聞けと言い、気に入ったものがあれば、レコード会社の誰かに推薦してくれと言い分は一途だ。アポなしで飛び込んで来て、こちらが会議などで席をはずしていると、いつまででも待った。当時僕は社屋3階のとっかかりに一部屋持っていて、夕刻前後に歌謡界の客が多く出入りしていた。厄介な問題を持ち込んで来る彼らの相談に乗るのも仕事のうち。作品の売り込みの手伝いも、確かにいくつかはしている。
 花京院しのぶの「お父う」と「望郷新相馬」のカップリングは、そういう榊の押しの強さから生まれた。たまたま僕が世田谷の経堂に転居したら、彼はすぐ近所に住んでいたからたまらない。今度は僕のマンションに日参で、室内の植木〝しあわせの樹〟の世話までしはじめる。宮城の出身、集団就職列車で上京、クリーニング屋だか板金屋だかで働いたが、歌手志願の夢が捨て切れず、新宿の流しのボス阿部徳二郎を頼り、流しが下火になったらクラブの弾き語りに転じた―と、僕は彼の半生にくわしくなった。
 閉口したのは彼のメロディーの突拍子もない昂揚で、高音をとめどなく多用するのは、彼の情熱そのものにありそう。「それが余分だ」「何とかこのままで」のやりとりが続いて何年か、たまたま花京院の歌づくりをプロデュースすることになった。元岡晴夫の前座歌手がマネージャーになり、その後キングのマネージメント部門に籍を置いて、初期の大月みやこを担当した島津氏が持ち込んで来た話。島津氏は花京院を〝女三橋美智也〟に育てることを夢とした。榊は三橋命…の信奉者で、高音多用はその影響もある。
 《もし三橋さんがまだ存命で、彼のための曲を書くことになったら、俺ならこういうものを書く…って奴を50曲くらい書いてみちゃどうだ》
 榊と花京院の活路を考えた僕の難題だが、榊は懸命に応えた。「出来た!」「聞いて!」の連日になる。メロ先で確かに50曲近く書いたものから2曲を選んで、例の高音癖を整理する。そこそこの姿形になった曲に、はめ込みの詞を里村龍一に頼み、ビクターの当時制作部長だった朝倉隆を口説いてレコード化にこぎつけた。「望郷新相馬」は新相馬のさわりを曲に入れて、タイトルは決め打ち。渋谷の居酒屋で打ち合わせをしたら、酔った里村が隅田川岸の青テントの話を持ち出し、妙に熱っぽくなった。
 「うん、ホームレスの歌を書くのか。里村龍一が社会派になるということか」
 僕が冗談めかして、里村案の「お父う」が生まれた。
 よくしたもので榊の突拍子もない高音が「お父う」の歌い出しに生きた。花京院も仙台に居すわり、長く地盤づくりの修行をしたから、歌にしっかり背骨が出来ていた。僕の狙いは「カラオケ上級者御用達」である。音域が広い難曲仕立てで、ガンガン歌いたがる歌巧者熟女たちを挑発する。目先のヒットは度外視、榊と花京院の持ち味を生かす。CDは2~3年に1枚と、はなから長期戦の構えだ。その計画通りに榊・花京院コンビは〝望郷シリーズ〟を連作、榊は数少ない民謡調作曲家として、一部に認められた。ホッと一息の僕らは、花岡優平、田尾将実、藤竜之介らと一緒に屋久島旅行で盛り上がったりもした。
 昔話が長くなったが、榊の名前を見つけたのは歌手白雪未弥のシングル「どうだば津軽」で詞はいではくが書いていた。白雪の経歴は高2で「青少年みんよう全国大会」優勝、19才で「お父う」を歌いNHKのど自慢(結城市)チャンピオンになり、平成23年8月、榊に師事とある。そうか、彼女が榊の最期を看取った弟子かと合点が行く。
 《師匠の3回忌に師匠の曲を世に出す。偉いもんだ。榊が元気なら、カップリングの「夢の花舞台」を一緒に踏みたかったろうに…》
 僕は白雪の伸び伸び晴れやかな歌声に、榊の乱暴なピアノの音を思い返していた。