新歩道橋1138回

2022年11月20日更新



 10月27日、中野サンプラザホールで日本クラウンの60周年記念コンサートがあった。知らせてくれた人は「ウスイ」と名乗った。きっと亡くなった作曲家三島大輔の息子だと思う。三島には星野哲郎作詞の隠れた名曲「帰れないんだよ」がある。当時彼は伝説のプロデューサー馬渕玄三氏に命じられて、新潟のキャバレーでピアノを弾いていた。まだペンネームの三島を名乗る以前で、作曲者名は臼井孝次だった。昭和44年ごろのそんな話を後に本人から聞いたが、息子と会ったのはそのころと三島の葬儀の後何回か。
 《創業60周年か。ということは俺のこの世界お出入りも、60周年という勘定になる…》
 伊藤正憲専務を旗頭に、コロムビア脱退組がクラウンを興したのは昭和38年。僕は同じ年の夏にスポーツニッポン新聞の内勤記者から取材部門に異動、39年元旦のクラウン第一回新譜から密着した。前回の東京オリンピックの年だから、ずいぶん昔の話だ。
 いつの時代も似たようなものだが、情報はその業界の大手に集まり、そこを起点に応分の信憑性を持って拡散する。コロムビアはレコード業界の老舗で、脱退したクラウン勢とは敵対する。北島三郎、五月みどりらが移籍するのを止めようと裁判ざたにおよんでおり、
 「新興勢力? ふん、あんな会社すぐ潰れるよ」 と息まいたのが、業界世論ふうに行き交った。そのせいか七社めの新会社を取材する他社の先輩は少ない。
 《潰れるなら、その実態を見てみようか》
 僕がクラウンに日参したのは、そんな向こう見ずの野次馬根性からだったが、相手さんは社をあげて意気軒昂。誰でもいらっしゃいと開放的で、それが新米記者には居心地がよかった。伊藤専務以下幹部の皆さんにもよくして貰えたし、作曲家米山正夫、作詞家星野哲郎を知り、編曲の小杉仁三とは飲み友だちになる。当初クラウンと親しかったプロダクションは新栄プロだけで、西川幸男社長には、
 「僕は新聞記者は嫌いだ」
 とすげなくされたが、やがて、めげずになつけば気持ちは通じる記者の心得通りになった。
 それやこれやで僕は、メーカーは「クラウン育ち」プロダクションは「新栄育ち」を自称する縁に恵まれる。それぞれのビジネスの深い部分や、それを支える独特の美意識や信義、即断即決の潔さ、出る釘を打たずに育てるチームワークの妙などを学んだのだ。
 だからこそ、クラウン歌手総出のイベントには、喜び勇んで出かける返事をした。発足当時の侍たちは、もう誰一人残ってはいまいが、枯れ木も枝のにぎわい、顔を出さねば義理がすたる―と、勢い込んだがしかし、思うに任せなかった。このところ体調いまいちで、足腰の衰えを痛感している。歩幅短めのチョコチョコ歩きは、人に見られたくないし、第一、神奈川の葉山から東京の中野まで、往復出来る自信がない。北島三郎や水前寺清子に、ごぶさたのあいさつもしたい、ひと時代ずつクラウンを支えた中堅、ベテランたちの〝その後〟も知りたい…と、最近はとんと消息も聞かぬ親しかった歌手たちの顔を思い浮かべるに止まった。
 そう言えばこの秋は、節目の周年記念コンサートをやった歌手たちが多かった。中にはわざわざ電話で誘ってくれたスターさんもいたが、残念ながらほとんど不義理をした。コロナ自粛の巣ごもりがまだ続いていて、顔を見ない相手や日々が不思議ではないことに、免じてもらってもいたろうか。
 「昨夜もテレビで見たよ。よく出てるなあ。ま、元気そうで何よりだよ」
 なんて電話をよく貰う。BSテレビの「昭和歌謡曲特番」があちこちにあり、知ったかぶりおじさんの僕の出番は多い。これが例外なくしばしば再放送をしていて、だから相手の二の句は
 「近々一ぱいやろうよ。つもる話もいろいろあるし。大体、年寄りは暇だよな。アハハハ…」
 と、屈託のない誘いになる。
 「そうだな、早めの忘年会もいいし、年が明けてでもいい。そのうちスケジュール合わせをしよう」
 とこちらもそれまでに足腰を鍛え直す算段をする。それにしてもしばらく、酒を飲んでいない。一人酒では浮いた気分にもならず
 《結局俺は酒が好きな訳ではなく、わんさか集まっての酒盛りそのものが好きなんだ》
 と、今さら気がついたりしている。
 来月には下野新聞社から師の七回忌を前に「ロマンの鬼船村徹~私淑五十年~小西良太郎」という本が出る。この夏から秋は結構よく働いたんだ…と自分に言ってみる。僕が長くかかえている成人病の「人間中毒」と「ネオン中毒」は、年明けの復活を目指している。