新歩道橋1144回

2023年3月10日更新



 「花魁」と書けるかな? と思い、やっぱり不安になって辞書をひいた。「おいらん」の表示だが、その思い切り派手な衣装を着た丘みどりが、視線をじっとこちらに投げている。「椿姫咲いた」のジャケット、タイトルもインパクトが強い。
 《ふむ、勢いに乗っての異色作か…》
 と合点しながら、歌詞カードを見て驚いた。作詞林あまり、長く親しいつきあいで、昨年も僕んちへ遊びに来たが、また歌を書いたなんて話は、おくびにも出さなかった。30年ぶりに見るこの人の歌詞。坂本冬美の「夜桜お七」は1994年の発売だから、彼女とプロデューサーの僕が、ばたばた試行錯誤していた日々から、そんな年月が間にはさまっている。
 大がかりな作品である。オペラの「椿姫」を下地にしたせいか、杉山ユカリのアレンジも前奏からいかにもいかにもだ。そこへいきなり、
 〽死にたいなんて思ってた、あの頃がいま、懐かしい…
 と、歌詞が「死」から始まる。愛する男から、ホタルみたいに消えようとする女心が激しい。はやり歌っぽくない金子隆博の曲とともにひとくさりあって、
 〽真っ赤な椿ぽろりん、ぽろりん、うまいさよならなんて、できるかしら…
 のサビから聞き手を乗せて、歌いおさめは案の定、
 〽椿姫、咲いた!
 と、丘の歌が昂って余韻を残す。
 《あまりらしい発想と表現で、やれやれだよ…》
 そう言えば「夜桜お七」を作曲した三木たかしがあの歌の、
 〽いつまで待っても来ぬ人と、死んだ人とは同じこと…
 というフレーズを大いに珍重したものだ。
 留守電に「折り返して!」と吹き込んでおいたら、あまりの返電は最初から笑い声だった。キングのディレクターから依頼があって、7編ほど届けたらしばらくはナシのツブテ。いつ僕に報告したもんか、もしかすると全部没かも…とモヤモヤしているうちに言いそびれ、ある日突然「やるよ」の連絡があって吹き込みになった…というのが経緯らしい。
 「そうですか、聞いて貰えましたか…ふふふ…」
 と、彼女はまだ笑っている。
 「夜桜お七」は、冬美の師匠の猪俣公章が亡くなって、その後の旗ふりも含めた頼まれ仕事だった。まだスポーツニッポン新聞社に在籍中の〝ブンヤ気質〟も手伝って、ああいう企画になった。林あまりはもともと畑ちがいの歌人。それを赤坂の小料理屋「あずさ」あたりに呼び出して、作詞家デビューをそそのかした。企画にそぐわないか? と星野哲郎、阿久悠、なかにし礼、吉岡治ら親交のある作詞家を、消去法で消して、あまりを口説く。異色作には異色の人材が必要…の思い込みで、作曲ははじめから三木、アレンジは若草恵とこれは決め打ち。ところが仕上がりがあんなふうだから「冬美を潰す気か!」と関係筋総スカンの難産になった。
 冬美の新境地に自信を持っていたのは「私、この曲好きよ」とぶれなかった冬美本人と僕ら制作陣。三木など「ヒットしなかったら坊主頭になる」と、記者陣相手に息まいたものだ。それやこれやの大騒ぎの中で僕はあまりに「これが当たれば、作詞依頼がドカドカ来るぞ、その覚悟をしておけよ」と助言した。ところがあの時期のあの作風は、メーカー各社の腕利きたちにも敬遠されてか、その後パッタリで、30年が過ぎてしまったことになる。
 丘みどりは旬の歌手である。歌唱力も十分で歌手になる前の経験もいろいろみんな生きている。バラエティ番組に出ても、妙にやかましい芸人たち相手に五分で応対して、なお彼女らしさを崩さないあたり「利発な美女」の印象が強い。波に乗る勢いというのは凄いもので、それが「椿姫咲いた」の野心作につながったのだろう。
 「歌い手がいいよ。いい時期の丘でよかった。あのころは冬美も旬だったけど、周囲の頭がまだ固過ぎたんだな」
 と、あまり起用の嬉しさの念押しをしたが、それにしても時代は変わるものだとも思う。林あまりは実は歌人以外にも成蹊や武蔵野、多摩美の各大学で講座を持つ教授で、紀伊國屋演劇賞の審査を務める評論家。敬虔なクリスチャンで、教会の日曜教室も絶えず手伝ってかなり忙しい。
 《夜桜お七から椿姫なあ。このドラマチックな展開が今回は引く手あまたにつながるかどうか…》
 僕は〝あまり30年めの冒険〟の行く方をそう注視する。作曲の金子は元米米CLUBの人と聞いて思い出した。「お七」の編曲者若草恵に出した注文は「能を米米でやるイメージで」だった。