新歩道橋740回

2010年8月6日更新



 「もう死んじゃったと言ってちょうだい!」
 石井好子は病床で、秘書にそう言ったという。また入院中と聞いてびっくりした僕が、翌日見舞いに行くと連絡したことへの返事である。
 《相変わらず、ポンポン物を言う。それだけ元気だってことか―》
 僕は首をすくめながら出かけた。半年近くご無沙汰していて、叱られるのも無理はない傷がスネにある。
 子供のころ、夏は湘南の葉山で暮らした。結婚した昭和二十年ごろには、ここで所帯を持った。日影茶屋は物資窮乏のそのころも、何とか店をやっていて、いろいろと思い出がある町なのよ――僕が葉山へ引っ越ししたころ、彼女は目を細めてそんな昔話をしたものだ。
 「だからさ、退院したら葉山で遊びましょ。僕が迎えに来るから。秋には全快祝いと米寿のお祝いをしましょう」
 港区三田の病院で、僕は石井と約束をした。
 「そうね、場所はいつもの帝国ホテルかな。大勢集めて、パーッとやるか…」
 彼女の口調が心持ち弾んだ。呼びたい人たちの顔を思い浮かべる気配もあった。それが7月1日のことだ。
 《そろそろ、名簿の相談でも…》
 と気になりはじめた20日夜、訃報が届いた。17日に亡くなり、近親者でもう葬儀もすませたという――。
 「ああた、見てくれるわよね」
 平成2年の11月下旬、笑顔の石井がズンと胸に応えるようなことを言った。「ああた」は「あなた」で、見ろと言うのは12月10日、パリのオランピア劇場でやるコンサートである。昭和38年の初対面以来、長くその身辺に居た僕に否やはない。スポニチの編集局長になって2年めの雑事は全部放り出した。久々の現場取材、1ページ丸ごと俺の記事で埋めてみせようか!
 ピエール・カルダン、イブ・モンタン、ジャクリーヌ・フランソワ、リーヌ・ルノー、イブ・シモン…。客席の顔ぶれには驚いたが、石井のステージも凄かった。真一文字の気迫と艶冶な立居振舞い、ほとばしる情感と適度の抑制、歌手としての成熟とシャンソンへの初心が交錯する。パリでデビューして40周年、石井はそういうふうにメッカのオランピアで、自分のキャリアに「一流」の決着をつけた。
 晩年には〝第2の石井好子の世界〟を構築する。東京芸大で身につけたベルカント唱法を棚上げ、呼吸法と発声法を一からやり直した。昭和62年に65才で平山美智子氏の教えを受け、以後の研鑽で70代80代の彼女の歌は別人になる。鍛えられた地声が、中低音で人間味を濃くし、高音部で劇的昂揚を熱くした。年を取って全盛期の声を失うのは、歌手たちの誰一人もが避けられない現象。ところが石井は自らの老いを直視、それを越える手法を探し出し、変身、進化する道を選んだ。彼女は稀有の実行力で、ここでもまた、自分流の生き方に決着をつけたことになる。
 石井はシャンパンとおいしいもの好きの、気のおけない熟女だった。家に呼ばれて手料理でもてなされ、僕はいつもすっかりリラックスして上等な時間を味わった。そんな石井は同時に、毎日、足首に砂袋を巻き、ルームランナーの上を走り、シャンソンの歌詞を確認する作業を怠らない人だった。コンサートの前にはまるでボクサーみたいに心身をしぼり込む日々を過ごした。
 すらりとした長身、いつもすっきりと伸びた背筋の石井は、童女みたいな笑顔と、姐御肌の包容力と、豊かな識見を持つ堂々たる日本女性の代表だった。その硬軟両面に接して、僕は甘え、学び、シャンソンと人生についての多くのことを知り、大勢のシャンソン歌手たちと知り合った。石井は僕の雑文屋生活に、大きく太い一本の樹として存在した。
 お別れの会は8月26日、帝国ホテルで開かれるが、僕は今日7月29日の午後、港区高輪の石井の家へ焼香に行くことにした。50年近くも恵まれた知遇への感謝を、その霊前に捧げようと思っている。

週刊ミュージック・リポート