「〝細部に神宿る〟って言うじゃないか。あれ、本当だと思うな」
演出の丸山博一がひょいとそんなことを言う。
《ン?》
と僕はたたらを踏む。東宝現代劇75人の会の「喜劇・隣人戦争」のけいこ場でのこと。
《これだから、油断も隙もならねえ。こんな含蓄のあるフレーズが、冗談めかして出て来るなんて!》
そう思いながら僕は、台本の隅にそれを書き込む。
役づくりについてだが、役者が与えられた役を、どこまで掘り下げるかが肝要だと言う話。脚本に書かれていること以外を、詳細に考え出して組み立てる。演じる役の生まれや育ち、来し方行く末、生き方考え方などを、履歴書こみ。僕が貰ったのは隅田大造71才、近郊の建て売り住宅6棟の一つに住み、向学心に燃えて小学校の4年生に加わる。若いころ建て具屋をやった名残りで、頭髪は角刈り…。
脚本から読み取れるそんな要素は単なる入り口。そこから入って、人柄やら健康状態やら人間関係の中での位置づけやら…と、思いつくこと全部に思いをめぐらす。嫁と孫娘は登場するが婿は船員で姿は見せない。大体その男は大造の、息子なのか?婿なのか? けいこの合い間に嫁役の下山田ひろのと情報交換をした。驚いたことに彼女は、建て売り6棟の配置と隣接する寺の境内まで書き込んだ地図を作っていた。その右奥に踏切りがあって私鉄が走るらしい。
「ごく些細なことまで、ありったけ考えて、背負い込むといい。舞台に立った時に、それが存在感を作るんだ」
と、丸山は言葉をついだ。他人が見たら馬鹿々々しいことまで、ディテールを積み重ねた役者と手を抜いた役者とは、一目で見分けられるとか。
《おお、怖わッ!》
新聞づくりや歌づくりの経験と睨み合わせれば、思い当たる節もあるから、怠け者の僕は大いに怯えた。
「神様がね、突然降りて来る瞬間があるのよ」
けいこ帰りの横須賀線車中でふっと、歌うような口調になった女優は古川けい。
《また神様だ!》
僕は秘かに居ずまいを正した。
彼女に言わせれば、役づくりには万全を期した。けいこも身を入れてしっかりやった。セリフ一つ一つのニュアンスも、さまざまな要件を勘案してしぼり込んだ。それなのにまだどこかにもやもやと、得体の知れない迷いが残る。しかし、ここでたじろぐ訳にはいかない。迷いや不安をかかえたまま、仕事に邁進する。そんなある日ある時、そのもやもやが突然雲散霧消する。あっ、そうなんだ、それってこういうことなんだ!
「その時はね、全身から鱗がざあ~っと、そげ落ちるみたいな快感があるのよ。私は、あれを感じたい一心で、お芝居をしているのかも知れないわ。じゃ、また明日ね!」
艶然の笑みを残して、彼女は横浜で下車した。
《神様なァ…》
僕はその後、逗子までの約30分、阿久悠や三木たかしを思い出した。阿久は1996年秋に、実働20日で100編の歌謡詞を書いた。いうところの〝書き下ろし歌謡曲〟である。11月14日の深夜から翌朝までに一気に6編を作り「この神がかり的勢いは暗示的ですらある」と日記に書く。
「ペン先に神様が降りて来たようなもんでさ…」
後に阿久は、そう言ってテレ笑いをしたものだ。
三木たかしは最後の傑作になった「凍て鶴」を書いたあと、
「空から音が降って来る。今なら、どんな曲でも書けそうです」
と伝えて来た。その時彼は、神の歌声を聞いたのかも知れない。
さて、僕が出演する東宝現代劇75人の会の「喜劇・隣人戦争」だが、池袋の東京芸術劇場小ホール2で、9月8日から12日まで、5日間7回の公演。その間に果たして僕は、噂の神様に出会えるのだろうか? そんなに甘いものではないことは、ちゃんと判っているつもりではいるのだが…。
