新歩道橋747回

2010年10月1日更新



 「君はこれで、意を尽くしたことになるのか?」
 昔々、新聞記者の先輩から、よくこう聞かれた。記事一つ、書いた記者の思いがあれば、書かれた人の願いもあり、紙面に取り上げる意味合いもある。それやこれやを読む人にきちんと伝えられる扱いをしたか? という意味だ。昭和30年代、どこの社も同じような呼び名だったが、スポーツニッポン新聞社にも整理部というセクションがあった。集まった記事の取捨選択をし、扱いの大小を決め、担当するページにレイアウトして並べる。
 先輩の名は松尾利家さん。スポニチ芸能面の編集責任者だった。その部下に配属された僕は当時25才。アルバイトのボーヤから取り立てられ、校閲を2年やったあとの新天地だ。汗水たらしてやっとこさ、1ページ分をでっち上げ一息つくと、その大刷りを眺めながら、
 「意を尽くしたか?」
 である。1ページに大小とりまぜて20本前後の記事が載る。その一つ一つ、紙面の隅々にまで、そう聞かれても返答に困る。余白が足りなくなって、尻切れトンボにした記事もある。記事それぞれにつけた見出しだって、全部が全部言い切れていはしない――。
 ほろ苦く、そんなことを思い出したのは、9月22日昼、スポニチで開かれた物故社員追悼式でのこと。恒例のこの行事は、会社創立以来に亡くなった幹部や社員の霊に、その年度に亡くなった人々を加えて献花をする。この会社が今日あるのは、先人たちの努力と献身の賜…と、元気な0Bや現役が心を一つにする催しである。その物故者に今年、先輩の松尾さんも加わった。僕より一回り年上だから享年は86。酒仙と呼んでもいいくらいの呑ん兵衛で、あのころのブンヤのご多分にもれず、相当に無茶な暮らしをした半生ではあった。
 《しかし、参ったなあ、あれには…》
 「意を尽くしたか?」は含蓄がありすぎる。そんな問いに「はい!」と胸を張って答えられることなど滅多にあるものではない。だから何事も、中途半端なままで「投げるな!」「諦めるな!」「とことん誠意を!」と、四六時中お尻を叩かれる状態になる。「くそっ!」「これでもか!」「これでどうだ!」と全力投球しても、忸怩たるところは残る。「ああすればよかった」「こうすればよかった」の、悔いの行列が出来あがる。
 僕は昭和38年、28才で文化部へ異動、音楽担当記者になった。だから松尾さんの薫陶よろしきを得たのは5年間だったが、
 「意を尽くしたか?」
 は今日まで、僕の心の中の物差しになった。取材をする。記事を書く。人間関係が広がる。社の内外で、責任もだんだん重くなった。新聞づくりや歌づくり、芝居をやっても「意を尽くしたか?」の自問がついて回る。思うに任せない結果と、己れの未熟に突き当たる。
 「要するに愛だろ!愛!」
 なんて、コマーシャルのフレーズを口走りながら、僕は松尾さんをその後もずっと、時に背後霊、時に守護神みたいに感じ続けている。
 22日の追悼式には、松尾さんの甥と姪が出席した。僕は二人に、先輩の葬儀を欠席したことを詫びた。7月21日のその日、僕は里村龍一や岡千秋と一緒に、北海道・鹿部へ出かけるスケジュールが入っていた。星野哲郎の名代の旅で、星野と親交のある道場登氏の古稀の祝いをやるなど、北の漁師町の行事が幾つか。僕は一夜熟考して、松尾さんの葬儀に花を供え、函館行きの飛行機に乗った。これが松尾さんへ、僕の〝最後の意の尽くし方〟になったのだが、苦笑しながら師は、不肖の弟子を許してくれたかどうか?
 「お時間がある時で結構です。読んで頂いてお話でも伺えたら…」
 追悼式の日、初対面の松尾さんの姪が、おずおずとA4のコピー紙数枚を差し出した。何と彼女は春崎歩というペンネームの作詞家志願だった。
 「拝見しましょう」
 と数編の詞を預かりながら、僕はまた松尾さんのあの声をどこかから聞く心地がした。

週刊ミュージック・リポート