新歩道橋749回

2010年10月15日更新


 
 久しぶりに廊下とんびをやった。10月1日のグリーンホール相模大野の楽屋。1階に由紀さおり、黛ジュン、石川さゆりが居り、2階に川中美幸、坂本冬美、岩崎宏美、藤原浩、中川晃教が居る。NHKBS2で12月19日に放送する「昭和の歌人たち」三木たかし特集のビデオ撮りだが、なかなかに見応え聞き応えのある顔ぶれ。僕は三木についてのコメント係りとして呼ばれたが、まず楽屋のドア一つずつを叩いては、
 「やあやあ、どうもどうも…」
 になった。
 川中は僕の役者稼業5年を通じての〝座長〟で、三木が亡くなった昨年5月11日、一座は名古屋御園座に居た。僕の宿舎に訃報が届いたのが午前7時すぎ。川中の胸中をおもんばかってその死を丸一日伏せた。ショーの最後にたまたま並んでいた曲が「女泣き砂日本海」「豊後水道」「遣らずの雨」と三木作品。それが歌えなくなる事態を避けたかった。
 「辛かったよね。あれからもう1年半近くにもなるんだ…」
 川中の眼は昨日のことを話すような色になる。
 石川はなぜか、阿久悠、三木、吉岡治と、大事な人が亡くなるごとにその枕辺で、僕と一緒になった。彼女にとっては宝物の作品を沢山書き相談にも乗ってくれた人々だ。
 「これからは誰を頼りに歌っていけばいいの? そんな思いがまだ、ずっと続いている…」
 心を託せる作詞家、作曲家が欲しいのだろう。
 2階の奥の方から「夜桜お七」を素で歌う坂本冬美の声が聞こえる。「ン?」の顔の僕に、鈴木マネジャーが「声ならし。このごろ必ずやるんです」とナゾ解きをした。めいっぱいの大声がしばらく続き、上気した顔で戻って来たのと、
 「お前さ、いつからそんなひたむきな歌手になったの?」
 「これやらないと安心できないのよ。声がガサガサな気がして。年かしらねえ」
 なんてやりとりになる。「夜桜お七」をプロデュース、彼女と一緒にひと山踏んだ仲間意識がある。当初、冒険作過ぎると反対の声ばかりだったのへ、
 「ヒットしなかったら坊主頭になる!」
 と、三木が大見得を切ったものだ。
 岩崎は10代最後の年に「思秋期」をもらった。詞と曲のみずみずしい感傷に、多感な年ごろの涙が止まらなかった思い出を持つ。三木はこの作品と「津軽海峡・冬景色」で、レコ大の作曲賞を受賞した。ピンク・レディーの連作を書いた都倉俊一と1票差の審査結果。三木の内輪の祝宴に現われた都倉が、悪びれずに握手を求めたシーンが、僕の眼には焼きついている。
 僕は三木の追跡取材者として長く、ファンや友人になり、プロデューサーで相談相手、ついには媒酌人まで務めた。彼の父母や兄の葬儀はずっと身辺に居て、最後は本人。その妹の黛だもの、
 「今日はありがとうございます」
 と、法要の親戚あいさつみたいになるのも無理はない。その楽屋には黛の年下の義姉にあたる三木夫人恵理子さんの笑顔もあった。
 司会の由紀は、彼女のデビュー作「夜明けのスキャット」第一報をでかでかと書き、親交が続いて昨年は、彼女の40周年記念コンサートの制作を手伝った。その相棒の宮本隆治は、フリーになる時にその決意と心境を後輩の記者に書かせてスポニチが「NHKから独立!」を第一報とした。最近は三木や吉岡の葬儀など不祝儀の司会を頼むことが多かったせいで、
 「そう言えば、本来業務で一緒になるのは初めてです!」
 と、僕の出番を冷やかされた。
 JASRACが主催するこのイベントの担当が若草恵で三木の弟分。演出の勝田昭はウイニング・ラン勝田社長の息子で、僕がNHKBSの「歌謡最前線」の司会を2年やった時の若い友人である。それやこれやの縁が山盛りだから、三木特集がしみじみといい番組にならぬはずはなかった。

週刊ミュージック・リポート