新歩道橋752回

2010年11月5日更新



 FAXで訃報が届いた。上原利克氏80才。知らない名前である。「しかし…」と僕はたたらを踏む。以前に世話になった人ではないのか? 年齢からすれば相当なベテランである。スポニチの記者のころ、知り合いながら失念しているケースか? 僕の歌社会ぐらしは昭和38年からで、かれこれ50年近い。その記憶の中の名簿をあれこれ引っくりかえす――。
 亡くなったのは作、編曲家の前田利明だった。
 《本名で知らされたんじゃ、判らないはずだ・・・》
 僕はずいぶん昔の彼の、晴れやかな笑顔を思い出す。一緒に出て来たのは、水前寺清子、山田太郎、一節太郎たちの顔で、みんなかなり若い。そんなセピア色の光景は、地方へ出かけた「クラウン・スターパレード」の楽屋。あれは日本クラウンが設立されて、所属歌手が全国を回った昭和40年前後のことだ。司会の青空星夫・月夫もいた。前田はバンドの指揮者。僕はクラウンに密着、イベントがあればどこへでもついて行った駆け出し記者…。
 前田は作曲家上原げんとの義弟。上原は戦後を代表するヒットメーカーだが、昭和40年、50才で亡くなった。僕はかろうじて間に合ったが、面識を得るに止まった。だから〝げんとさん情報〟は前田を頼る。流し仲間の岡晴夫と曲の売り込みに行って二人とも採用されたこと。「憧れのハワイ航路」ほかで、二人のコンビ作品は大当たりの連続。そのキングからコロムビアへ移籍したのは、美空ひばりの懇望による引き抜きで、石本美由起が同行したこと。最後の弟子の松山まさるは恩師の急死で後ろ盾を失う。のちに五木ひろしとして第一線に浮上するまでの7年間は、歌謡界の孤児だったこと…。
 旅先の公会堂などで、僕は前田になつき続けた。今になっては昔々の歴史上のエピソードだが、40年以上前に聞けば、みな感触が生々しかった。そういう出来事や人間関係の延長線上で、僕が取材するその時期の歌社会は動いていた。いつの時代、どんな社会でもそうだろうが、先人の昔話は、手応え確かな予備知識になる。よく聞き噛みくだくことができれば、それが後輩の知恵になり、必ず仕事のヒントとして生きる。
 本名上原利克が親しかった前田だと判ったのは、訃報の発信者がビッグワールドの堀社長だったせい。以前立ち話で彼から、げんと一家の近況を聞いたことを思い出した。
 「もしや…」
 と電話を入れて、確認がとれる。死因は心筋梗塞、加齢のために近ごろは、あまり外出もしなかったとか。そういえば一緒にやっていたMC音楽センターの全国大会の審査にも、顔を見せなくなって何年か…。
 葬儀は10月22日、落合の最勝寺会館で営まれた。上原げんと歌謡スタヂオと上原家の名が並ぶ。あれからずっとトシちゃんが、げんとさんの教室を維持していたのか…と、そんな感慨が胸に来た。「トシちゃん」は慣れ慣れしかった…という反省もある。僕より6才も年上とは思わせぬ若さの持ち主で、気さくで優しい人だった。
 「みんな、先に行ってしまって…」
 僕の顔を見るなり、また涙がこみ上げたのは、げんと夫人の愛子さん。もう90才を過ぎている人の細い肩を抱いて、
 「だから、先に行ったみんなの分だけ、あなたが元気で居なくっちゃ…」
 と、僕は慰め、励ました。
 平成13年の4月に、上原げんと37回忌偲ぶ会を開いた。前田から相談を受け、言い出しっぺが愛子さんと聞いて「やろう!」と決めた経緯がある。彼女に悔いを残させない配慮があった。
 最勝寺での前田とのお別れ。棺の傍には神戸一郎の顔があった。「銀座九丁目水の上」がげんと作品で、確か昭和33年のヒット。その神戸が愛子夫人をいたわる姿を眺めながら、会場に流れるひばりの「港町十三番地」を聞いた。彼女や岡晴夫、コンビの石本美由起にげんと本人も、みんなあちらに居る。前田利明はそんな大勢の中に、還って行ったことになるのだろうか?
 

週刊ミュージック・リポート