新歩道橋753回

2010年11月12日更新



 チェウニが「永住権」を得た。韓国から日本へ来て11年めの歌手生活。その間の活動と実績、生活ぶりが認められてのことだろう。4月に品川の入国管理局でその手続きを終えた。11月1日、日本橋劇場で開いた「秋のコンサート2010~えにし~」でそれを報告して、彼女の弾む口調がファンの拍手を浴びた。
 これまでは毎年、就労ビザの更新を続けた。納税証明書や活動計画書など、段ボールで運ぶほどの書類を必要とした。芸能関係の審査は厳しい。それを口実に入国〝その後〟が新聞の社会面をにぎわすモグリが後を断たないせいだ。役所の窓口が、それとこれとを見分けるのは難しい。仕方がないか…とは思いながら彼女とそのスタッフは、時に屈辱的な気分を味わうこともあったろう。
 「最愛のひと」を歌ったあとでチェウニは、
 「チェウニの最愛のひとは、みなさん一人々々です」
 と、日本で歌い続ける決心をていねい語で話し、すかさず、
 「こういう時はァ、拍手をするのよォ」
 と、ためぐちに転じた。「トーキョー・トワイライト」でデビューして丸10年、まだこぶりだが独特の世界を作った彼女のキャラは、このチェウニ語が作った。「それとォ」「だからァ」と語尾をはね上げる韓国ふう抑揚、てにをはが怪しげな片コト言葉えらび、多用するためぐちの親近感…。
 新曲「雪は、バラードのように」まで、チェウニのレパートリーの多くは夏海裕子が作詞、杉本眞人が作曲している。ワイン色に染まる黄昏の街で、ひとりルージュの色を選ぶ娘の孤独感を主にした、平成版都会調歌謡曲。快いリズムに乗る粘着力と艶のある声、それが高音部で切迫すると、漂泊する女心に、すがるような情感が濃いめでいじらしい。この夜の彼女は黒、赤、白、青のドレスを着替えた。ボディラインがあらわな衣装の裾をハイヒールでさばきながら、ステップを踏み、くねるように踊って「聴かせ」て「見せる」18曲。
 木材が温かい造作の小劇場、観客は約500、僕は2階最前列からチェウニを、斜め下に見おろした。真上からのライトの輪の中で、くっきりと黒い髪、時おり挑むように光る眼差し、揺れる胸と腰の曲線、むき出しのとがった肩、くるっとターンをすれば、形のいい肩甲骨、まっすぐな背筋のくぼみ、琥珀色の肌…。
 《やせて、大分いい女になった。フォーマルなドレスにやや野性的な中身ってところか…》
 少女時代に一度来日、チェウニは「どうしたらいいの」を歌った。それに身震いするほど感動したのが起点の僕のチェウニ体験、めっきりオトナになった彼女には、それ相応の感慨が生まれる。
 衣装替えの時のバンド演奏が、思いがけなくグッと演歌調になった。それをチェウニは、
 「私がおなかに居る時に、お母さんが吹き込みをした〝椿むすめ〟という曲…」
 と説明する。母はイ・ミジャ(李美子)という韓国の国民的歌手。チェウニは母を尊敬し誇りにも思っていると言葉を次ぎ、代表曲の一つ「女の一生」を歌った。僕は一瞬ウッと胸が詰まった。
 韓国の美空ひばりと呼ばれる母は、チェウニが幼いころに離婚、あちらの放送界の大物と再婚した。チェウニは母に会えぬままで育ち、歌手になっても双方の間には、眼に見えないバリアが張られていた。やがて父は日本での暮らしを選び、チェウニもこちらで活路を見出そうとする。愛憎入り混じって、胸中にしこるものがあったのだろう。チェウニは当初、母の話に触れることを極端に嫌った。
 しかし、歌手としての得難い才能、声そのものまでが母親ゆずりのはずである。チェウニはいつか、そんな自分の血を認める心境になった。氷解のきっかけは「日本の歌手として10年」の実績と自負かも知れない。チェウニはこういうふうに成長し、脱皮した。来年からの彼女の仕事はきっと〝第二期〟に入ることになるのだろうと、僕は客席でそんなことを考えた。

週刊ミュージック・リポート